斉の公子商人、俄に国に施す。
 
(東莱博議)                          

「自ら治める(自分自身の努力を頼みとする。)」とゆう学説がある。これは、政治を論じる者は、古今に亘って至論としていた。だが、名は似ていても、実体は違うものがある。だから、深く弁論してみなければならない。
「自ら治める」の説は、次のように言っている。
”木にウロがあるから、風に倒される。堤に穴があるから、水がこれを決壊させる。同様に、国に隙があるから姦人がこれに乗じるのだ。ウロのない木は、風にびくともしないし、穴のない堤は水を土のように見る。そして、隙のない国では、姦人など愚者同然なのだ。
 我がいやしくも自らその国を治める。渾全堅密として、間の入る余地がなければ、老姦巨猾がいたとしても、手を拱き首を縮めて民間へ隠れ住むしかない。何の変事を起こせるだろうか。”
 これが、世俗で言う、いわゆる「自ら治める」の説である。
 だが、彼らは知らないのだ。木と風が擦れあっているからこそ木喰虫が湧かずにすみ、水と土が擦れあっているからこそ、穴があかないのだ。同様に、いやしくも国を持つ者が、ビクビクとして深く閉じ固く守り、姦人との接触を拒むだけでは、政治を執る者も疲れ果ててしまうではないか。
 それに、この学説では、未だに姦人が発生する原因を考察していない。そもそも、慈悲深い天帝が民をこの世へ下してくれたのだ。生まれながらの悪人など、どうしているものか。彼らが姦人になったのは、そう動かす物があったからなのだ。
 匹夫が、腕をブンブン振り回しながら道を歩いている時、彼はまだ盗みをしようとは思っていなかった。だが、しばらく歩くうちに、道ばたに宝物を見つけた。珍貨に目が奪われ、しかも、辺りには持ち主どころか、誰もいない。こうなってしまって、始めて盗もうとゆう気持ちがムクムクと沸き上がってきた。
 この例の場合、まだ宝を見なかった時は盗心がなく、宝を見た後にこれが起こった。それならば、彼が盗みを働いたのは、心がさせたのではなく、宝がさせたのは明白である。 

 斉の公子商人は、主君の舎を殺して国を奪った。これを議論する者は言っている。
「昭公は、子息を育てる時、嫡子と庶子の区別を厳格に行っていなかったので、商人が隙に乗じた。何とゆう姦人だ。」
 そうして、商人を追咎するのである。
 しかし、我はそうは思わない。商人が昭公の隙に乗じたのではない。昭公が、商人の隙を開いたのである。 

 もしも昭公の時に、上は国勢が尊く、下は民志が定まっていたならば、剽悍暴戻な商人と雖も、どうして簒奪などの想いを持てようか。
 ところが、昭公は正妃をいやしみ、叔姫は寵愛されず、世継ぎも軽んじられて子舎は権威がなく、国の権勢は揺れ動いていた。
 ここにおいて、始めて商人に主君を蔑ろにする心が芽生えたのである。そして、彼は俄に施すの計略へ走った。
”俄に施す”と言ったのは、それまで商人は施しをしていなかったのに、簒奪の心が動いてから、俄に施し始めたからである。
 そう、昔は施していなかった。それなのに、今、施している。これは、昔は簒奪の心がなかったのに、今は生まれたという何よりの証拠だ。
 だから、商人は、もとから悪心があったわけではない。昭公が彼へ利益を見せたので、悪心が湧いたのだ。それならば、簒奪弑逆の悪は、商人が生んだのか?それとも昭公が生んだのか?
 古を論じる者は、昭公が姦を生んだことを追咎するべきである。昭公が姦を防ぐように追勧するのは、不適当な話である。
 物がこちらを攻めに来る。だから、こちらはこれを防ぐのだ。我等から乱を生んだのに、これを防ぐなど、道理が通じない。
 木が風を憂えるのは良い。しかし、木に湧いた虫が風を憂えるとゆうのはおかしい。堤が水を憂えるのはよい。しかし、堤に開いた穴が水を憂えるとゆうのはおかしい。自分自身でそれを招いたのならば、これを防ぐことができないのだ。
 自分が姦人を生んだことを思わずに、却って姦人が自分を攻撃したことを咎める。これは、人の欠点だけを見て自分を見ないとゆうことだ。その重点の置き方は正しいのか。
 これ故、「自ら治める」の論が名こそ似ているが実体が違っていると言うのだ。深く考察しなければならない。 

 こういうと、反論する者がいた。
「天下には、大悪人が居る。彼らは、隙のないところに無理矢理隙を作り上げる。だから、人君が隙を作ったことばかりを責めるわけには行かないのだ。」
 だが、私は反論しよう。
 人君は、天下を一つにしている。万物が天下の間に満ちているが、その集散満虚、往来起伏、全て人君の心が顕れたものなのだ。
 後世、天性の悪人が出たならば、それこそ、人君の責任ではないだろう。だが、悪というものは、本性から生まれるのではない。物によって生じるのだ。だから、人君がこれを誘わなかったとしても、彼を誘う物があったとしたなら、結局は、人君が誘ったのと同じ事だ。人君が自ら陥れたのではないとしても、彼を陥れる物があったとしたなら、結局は、人君が陥れたのだ。いったいどんな口実で、その責任から逃れようとするのか。
 だからこそ、言うではないか。
「百姓に過が有れば、それは全て予一人の責任である。」と。

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