北周、北斉を滅ぼす    3.北斉、その後。
 
廣寧王の抗戦 

 斉の廣寧王孝行は滄州へ行き、信都にて任城王と合流した。彼等は斉の復興を謀り、募兵して四万の兵力を得た。北周の武帝は、斉王憲と柱国楊堅に、これを攻撃させた。また、高偉に降伏勧告文を書かせたが、彼等は聞かなかった。
 斉王の軍が趙州までくると、任城王は斥候を二人放って、敵状を探らせたが、二人とも捕まってしまった。斉王憲は、敵の斥候を捕まえたとの報告を受けると、もとの斉の将軍達を集め、彼等の前で斥候達へ言った。
「この戦争の重大さに比べたら、お前達の命などちっぽけなもの。わざわざ殺しても仕方がない。今、逃がしてやるが、その代わり、我の使者になってくれ。」
 そして、任城王へ書を書いた。
「足下の斥候達を捕らえたが、彼等へ、我が軍の実情を具に伝える。それを知れば、足下が戦うのは上策ではないことが判るだろう。守るのも又、下策だ。足下の賢明な判断を期待する。」
 斉王が信都まで来ると、任城王は城南に陣を布いて待ち受けていた。
 任城王麾下の領軍尉相願が出陣を願い出た。任城王が許可すると、尉相願は出撃する振りをして、そのまま投降してしまった。尉相願は任城王の腹心だったので、皆は驚愕した。任城王は、尉相願の妻子を殺した。
 翌日、再び戦った。斉王は任城王を撃破し、三万人を捕殺した。そして、任城王と廣寧王を捕らえる。
 斉王は任城王へ言った。
「何を苦しんで、ここまで戦ったのか!」
 すると、任城王は答えた。
「下官は、神武皇帝の子息だ。兄弟はもともと十五人いたが、今、幸いにも生き延びているのは下官一人。宗社が転覆するときに当たって、陵墓に恥じたくなかったのだ。」
 斉王は、その返答の力強さを嘉し、妻子を帰してやった。また、廣寧王の傷口を自ら洗って治療してやるなど、とても厚く礼遇した。廣寧王は嘆いて言った。
「神武皇帝以来、我が一族で四十を越した者はいない。これは天命か。嗣君はぼんくらで、宰相は頼りない。兵権を手にすることもできず、我が力を発揮することもないままに斧鉞を受けるのは、なんとも恨めしい!」
 斉王憲は、用兵が巧く、謀略も多く、将士の心も掴んでいた。斉の兵卒はその威勢を憚り、名前だけで聞き怖じしていた。戦いに勝っても、斉王憲の軍隊は、暴虐なことを行わなかった。 

  

范陽王の乱 

 武帝は、斉の降将の封輔相を北朔州総管に抜擢した。 

 北朔州は、北斉の重鎮で、士卒は驍勇揃いである。前の長史の趙穆等は、封輔相を捕らえて任城王を迎え入れようと計画して、果たせなかった。そこで、定州刺史范陽王紹義を迎え入れた。范陽王が馬邑へ到着すると、肆州以北の二百八十余城がみな、これに呼応した。
 范陽王と霊州刺史袁洪猛は兵を率いて南進し、ヘイ州を取ろうとした。しかし、彼等が新興へ到着した時には、既に肆州は北周の防備が固まっており、彼等の先鋒の二儀同が北周へ降伏した。
 北周軍は、顕州を攻撃し、刺史の陸瓊を捕らえた。再び攻撃して、諸城を抜く。范陽王は、退却して北朔州を保った。
 北周の東平公神挙が兵を率いて馬邑へ迫る。范陽王は、これと戦って破れ、突厥へ亡命した。
 この時、彼の兵力は、まだ三千は残っていた。しかし、范陽王は言った。
「去る者は追わぬ。故郷へ帰りたければ好きにしろ。」
 すると、大半が逃げ去った。
 突厥の佗鉢可汗は、かねがね言っていた。
「北斉の顕祖は英雄だ。」
 范陽王は顕祖と似ていたので、佗鉢可汗は彼を寵用し、突厥へ亡命していた北斉人を、全員彼の麾下へ入れた。
 北周軍が晋陽を陥落した時、北斉は、開府儀同三司乞奚永安を突厥へ派遣して救援を求めたが、遂に北斉は滅亡してしまった。そこで佗鉢可汗は、乞奚永安を吐谷渾からの使者の下座へ置いた。すると、奚永安は佗鉢可汗へ言った。
「今、北斉は既に滅亡しました。私一人長らえて、何の役に立ちましょうか!それに、北斉には死節の臣下一人いなかったと天下の人々から笑われるのは、何よりも悔しいことです。どうか刀を賜下ください。自殺して、近隣へ知らせましょう。北斉にも死節の臣はいるのです。」
 佗鉢可汗は、その言葉を喜んで、馬七十匹を賜下し、故郷へ帰らせた。 

 ここに於いて、北斉の行台、州、鎮では、東ヨウ州行台傅伏と営州刺史高寶寧のみが抗戦するだけで、それ以外は全て北周へ降伏した。その領土は、五十州、百六十二郡、三百八十県、戸数は三百三万二千五百だった。
 高寶寧は、勇気も軍略も持ち合わせた将軍で、長い間和龍を鎮守しており夷人も漢人も彼に心服していた。
 乙卯、北周の武帝は、業を出発して西へ戻った。 

傅伏降伏 

北周が尉相貴を捕まえると、東ヨウ州行台傅伏へ降伏を呼びかけさせたが、傅伏は従わなかった。北斉の人々は、傅伏を行台右僕射とした。
 やがて北周がヘイ州を落とすと、今度は韋孝寛へ説得を命じ、傅伏の子息を大将軍に任命したが、傅伏は受けず、韋孝寛へ言った。
「君へ仕えた以上、例え死んでも二股は掛けぬ。我が子は、臣となっては忠を尽くすことができず、子としては孝を尽くすことができなかった。そんな男は、即座に首を刎ねて天下への戒めとしてくれ!」
 武帝は業から帰る途中、晋州まで来ると、高阿那肱等百余人を汾観へ派遣して傅伏を召還した。すると、傅伏は出陣し、汾水を挟んでこれと対峙して言った。
「至尊は、今、どこへおられる?」
 高阿那肱は言った。
「既に捕らわれた。」
 傅伏は天を仰いで慟哭し、部下を率いて城へ戻った。そして、聴事の前で北面して哀号し、その後に降伏した。
 武帝は、彼と謁見して言った。
「どうして、サッサと投降しなかったのだ?」
 すると、傅伏は涙を零して言った。
「臣は、三代続いた斉の臣下です。代々斉の碌を食みながら、国難に臨んで死ぬことさえできませんでした。天地へ対して恥じ入るばかりでございます。」
 すると、武帝は彼の手を執った。
「臣下はこうあるべきだ。」
 そして、食べていた羊の肋骨を傅伏へ与えて、言った。
「俗に『骨肉』と言うが、比較するならば、骨は親しく肉は疎い。卿は骨と言えよう。」
 武帝は、傅伏を宿衛へ入れ、上儀同大将軍とした。
 後、武帝は傅伏へ尋ねた。
「かつて、朕が河陰を攻撃した時、卿が援軍に来たが、その時の功績で、どんな褒賞を貰ったのか?」
「永賞卿となりました。」
 すると、高緯へ言った。
「傅伏がいたから、河陰を攻略できなかったのだ。その戦功への褒賞が、たったその程度だったのか。」 

  

凌辱 

 四月、武帝は長安へ戻った。この時、高緯を前へ置き、北斉の王公をその後ろへ並べ、更に後方へ車輿、旗幟、器物を並べて凱旋した。高緯は温公へ封じ、北斉の諸王三十余人も全て爵位に封じられた。 

 武帝は、北斉の君臣と酒を飲むとき、温公へ舞いを舞うよう強制した。高延宗は、それを見るにつけ悲しくてならず、屡々毒を飲んで自殺しようとしたが、家人が皆、必死になって止めたので、果たせなかった。
 十月、温公高緯と宣州刺史穆提婆が謀反を企んだとして、宗族まで含めて皆殺しとした。人々は皆、事実無根だとわめき散らしたが、高延宗だけは、黙って死んでいった。
 ただ、高緯の弟の仁英と仁雅は痴呆だったので命を助け、蜀へ流した。それ以外の親族は、皆、殺されるか、西の果てへ流されて野垂れ死んだ。
 北斉の皇后や妃は、貧しさの余り、生きるために春をひさぐ女性までいた。
 同月、陳が、北周へ北伐を敢行した。 

  

  

李徳林 

 武帝は、李徳林を内史上士に抜擢し、以後、詔や格、式の作成及び旧北斉人の登庸などを全て任せた。
 ある時、武帝はくつろいだ有様で群臣へ言った。
「我はいつも李徳林の名前を聞いていた。そして実際に北斉で作られた詔や檄文を読んでみて、彼こそは天上人だとおもったのだ。今日、その彼を使うことができるとは。」
 すると、神武公乙豆陵毅が言った。
「『麒麟や鳳凰は、王者が現れた瑞兆だ。彼等は力ずくで持ってこれるのではない。徳に感応して顕れるのだから。』と、臣は聞いております。しかし、麒麟や鳳凰は、喩えこれを入手できても、何の役にも立ちません。李徳林に至っては、瑞兆の上に有益なのです。」
 武帝は爆笑した。
「まったく、卿の言うとおりだ。」 

  

占領地政策 

 昔、魏が西涼を滅ぼした時、その住民を全て隷戸とした。やがて、北斉が後を継いだが、彼等は隷戸を雑役として使役した。
 今回、北周が北斉を滅ぼすや、北周の武帝は寛恵を施そうと、彼等を全て解放した。ここにおいて、隷戸がなくなった。
 十一月、武帝は詔を降した。
「永煕三年(宇文泰が関西へ入った年)以来、東土や江陵の民で略奪されて奴隷となった者は、全て解放して良民とする。」
 又、言う。
「後宮には、ただ妃二人と世婦三人、御妻三人を残し、それ以外は全て解放する。」
 武帝は倹約家で、寝具も布製、後宮も十余人に過ぎず、行軍の度に先頭に立っていた。将士は恩愛で慰撫し、明察果断。法律は厳峻に適応した。だから将士は彼を畏れながらも、彼の為ならば喜んで命を捨てた。 

  

高紹義の抗戦 

 十二月、高寶寧が、黄龍にて高紹義を推戴した。高紹義は皇帝を潜称し、武平と改元する。
 突厥の佗鉢可汗が挙兵してこれを援護した。 

 十年二月、焦王が卒する。
 六月、北周の武帝が病死した。即位した宣帝は、斉王憲を殺害した。 

 高紹義は、武王の崩御を聞いて天の助けと喜んだ。幽州では住民の廬昌期が范陽にて決起して、高紹義を迎え入れた。高紹義は、突厥の兵を率いて范陽へ駆けつけた。
 北周は、東平公神挙を討伐に向かわせた。
 この頃、幽州総管は出兵していた。そこで高紹義は、留守に乗じて薊を襲撃した。神挙は、大将軍宇文恩へ四千の兵を与えて救援に向かわせたが、敗北。その半数は、高紹義に殺された。
 しかしながら、神挙の本隊は范陽を陥し、廬昌期を捕らえた。高紹義は、それを聞いて突厥へ引き返した。
 高寶寧も数万騎を率いて范陽へ向かっていたが、廬昌期の敗北を聞いて和龍へ引き返した。
 十一月、突厥が北周の辺域を荒らし回った。
 十一年、二月。佗鉢可汗が北周へ講和を求めた。北周の宣帝は趙王招の娘を千金公主として、佗鉢可汗へ娶せると共に、高紹義の引き渡しを要求した。佗鉢可汗は、これを断った。
 五月、突厥はヘイ州を襲撃した。六月、北周は山東の民を徴発して長城を修復させた。
 十二年、突厥は北周へ入貢し、千金公主を迎えた。
 この時、周は宣帝が崩御し、楊堅が幼帝の後見役として簒奪の準備をしていた頃だった。
 楊堅は、千金公主を突厥へ送ると共に使者を派遣して多額の賄賂を贈り説得もして、高紹義を求めた。佗鉢可汗は、遂に高紹義を捕らえ、北周へ送った。
 高紹義は、長安へ送られたが、やがて蜀へ流された。結局彼は、蜀で病死した。 
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