北周、北斉、交々闘う
 
司馬消難降伏 

 永定元年(557年)、正月。西魏の禅譲を受けて、北周が建国した。
 同月、北斉の南安城主馮顕が、北周へ降伏した。 

 北斉の文宣帝は、即位した後、次第に暴虐になった。そこで北豫州刺史の司馬消難は、自衛しようと、領民を慰撫した。ところで、彼は高祖(高歓)の娘を娶っていたが、夫婦仲が悪かった。
 二年、二月。とうとう、公主が彼を訴えてしまった。司馬消難は懼れ、北周へ降伏した。
 三月、北周は柱国達奚武、大将軍楊忠へ五千の兵を与え、司馬消難を迎えに行かせた。
 彼等は間道から北斉の国境へ入り、五百里進む間に前後散会使者を出したが、司馬消難は返事を返さない。虎牢関を過ぎて三十里ほど進んだ所で、達奚武は罠と勘ぐり引き返そうとしたが、楊忠は言った。
「退却しておめおめ生き延びるくらいなら、前進して戦死してみせる!」
 そして、自分の部隊千人だけで夜陰に乗じて城下へ赴いた。
 城は、四方が絶壁のようにそそり立っており、ただ、拍子木を撃つ音が聞こえるだけだった。達奚武も共に来ていたが、彼はこの有様を見ると、数百人を指揮して帰っていった。しかし、楊忠は残りの人間を押しとどめて動かず、城門が開くのを待って入城し、奚武を呼びにやった。
 北斉の鎮城伏敬遠は、二千の武装兵を率いて東城を拠点とし、狼煙を上げて厳重に警備している。奚武 はこれを憚り、城を棄てようと考え、財物をまとめると、司馬消難及び彼の一族を先に落ち延びさせ、楊忠へ二千の兵を与えて殿とした。
 洛南まで退却して、達奚武軍はようやく鞍を解いて横になった。この時、北斉軍は洛北まで追撃していた。
 楊忠は言った。
「腹一杯食え。賊軍は絶対洛水を渡らない。」
 果たして、その通りだった。楊忠軍は、ゆっくりと退却した。
 達奚武は、感嘆して言った。
「俺は天下の健児と自認していたが、その看板も今日限りか!」
 北周は、司馬消難を小司徒とした。 

  

斛律光と韋孝寛 

 三年、二月。斉の斛律光が、一万騎を率いて周の開府儀同三司曹回公を攻撃し、これを斬った。柏谷城主の薛禹生は城を棄てて逃げる。
 斛律光は文侯鎮を奪取し、砦を造り柵を建てて帰国した。 

 北周の小司徒韋孝寛は、かつて玉璧にて大勲を建てた。
 天嘉二年(561年)、二月。北周は玉璧に勲州を建て、韋孝寛を刺史とした。
 韋孝寛は、恩愛で部下と接して、信義篤い人間。間諜の使い方が巧かった。たとえば、北斉の人間へ賄賂を贈って、上書された書面を全て送らせる、など。だから、北斉の動向は、全て北周へ筒抜けとなったのだ。
 ある時、主帥の許盆が城ごと斉へ降伏しようとした。韋孝寛は、間諜からこれを聞き、許盆の首を斬った。
 離石以南では、しばしば生胡が強奪を行った。彼等は北斉の国境内に住んでいたので、誅討できなかった。韋孝寛は、城を築いてこれらを牽制しようと、河西から人夫十万人を徴発し、開府儀同三司姚岳にこれの監督を命じた。だが、姚岳の兵は少なかったので、恐れてしまって任地へ赴こうとしない。すると、韋孝寛は言った。
「この城は、十日でできる。あそこは晋州から四百里離れているので、工事を始めて奴等が知るのに、三日かかる。晋州で徴兵するのに、三日かかる。謀議を凝らせば、更に二日。それから二日では、とても行軍できない。敵が着く頃には、我等の城は完成している。」
 そして、命令通り城を築かせた。 

  

木杆可汗 

 始め、北周は突厥の木杆可汗と連合して北斉を攻撃しようと考えた。天嘉四年(563年)、武帝は、可汗の娘を皇后とする為、結納の使者として、御伯大夫楊荐と左武伯王慶を派遣した。
 北斉の人間は、これを聞いて恐れ、彼等もまた突厥と通婚しようと、甚だ厚く賄賂を贈った。木杆可汗は、厚い賄賂に目が眩み、楊荐を捕らえて北斉へ送ろうとした。楊荐はこれを知って、木杆可汗へ言った。
「昔、太祖は可汗と厘国のよしみを敦く結んでおりました。かつて蠕蠕から数千部落が降伏してきた時にも、これを可汗の使者へ引き渡したではありませんか。(紹泰元年のこと。)それが今日は欲に走って恩義に背く。それで、鬼神に恥じないのですか?」
 木杆可汗はしばらく恥じ入ってから、言った。
「君の言うとおりだ。我は決めたぞ。共に東賊を平定し、その後にわが娘を送ろう。」
 楊荐等は、無事に帰国して復命した。 

  

北周、突厥連合軍 

 突厥と通婚した北周は、北斉討伐を決定した。
 さて、兵力を論じた時、公卿は、十万の軍で北斉を攻撃しようと言ったが、柱国の楊忠一人だけは一万騎で充分だと言った。
 十月、戊子、楊忠は一万の軍を率いて出陣した。突厥と共に北道から北斉を攻撃する。又、大将軍達奚武には三万の兵を与え、南道から平陽へ進軍させ、晋陽にて合流する手筈とした。
 楊忠は、北斉の二十余城を抜いた。突厥の、木杆・地頭・歩離の三可汗は十万騎を率いて、彼へ合流した。
 十二月、彼等は三道から恒州へ侵入した。時に、記録的な大雪で南北千余里に亘って、数尺は降り積もった。
 北斉の武成帝は、急いで晋陽へ向かった。平陽は、斛律光が三万の兵力で守った。
 周、突厥連合軍は晋陽へ迫る。武成帝は、敵の強力さに恐れて東へ逃げようとしたが、趙郡王と河間王が、馬を叩いて諫めた。
 河間王は、趙郡王へ兵を委ねるよう請い、武成帝は許諾した。こうして、六軍は、全て趙郡王の指揮下へ入り、ヘイ州刺史段韶を、その副官に命じた。
 五年、正月。武成帝が晋陽の北城へ登ると、北斉軍は整然としていた。
 突厥は、北周の武将達へ言った。
「お前達が、『北斉は乱れている。』と言ったから、我等は出陣してきたのだ。あの軍隊の、どこに隙がある!どこを攻めるつもりか!」
 北周軍は、歩兵を先鋒として、西山のふもと、城から二里ほどのところへ陣を布いた。それを見た北斉の諸将は追撃を願い出たが、段韶が言った。
「なあに、歩兵何ぞ、何もできんよ。それに、今は大雪。戦争を仕掛けるには不利だ。こちらは陣を布いて、敵が攻めてくるのを待っていればよい。我等は鋭気を養い、敵方は疲れ果てる。撃破できることは請け合いだ。」
 北周軍がやってくると、北斉軍は軍鼓を盛大に鳴らしながら、精鋭兵を全軍出陣させた。突厥は驚いて、西山へ逃げ登り、いっかな参戦しない。
 北周軍は、大敗して帰った。突厥は、道々略奪しながら帰った。晋陽から七百里は、人も家畜も根こそぎ奪われた。段韶が追撃を掛けたが、わざと追いつかなかった。
 帰る途中、寒さのために、突厥は多くの馬を凍死させてしまった。 

 一方、平陽まで進軍した達奚武は、まだ楊忠の敗北を知らなかった。そこで、斛律光は書を送って、楊忠の敗北を伝えた。それを読んだ奚武は、退却を始めた。すると、斛律光は追撃し、北周の国境内まで攻め込み、二千の捕虜を捕らえて帰国した。
 斛律光が晋陽へ戻ってみると、武成帝は大喜びで、斛律光の頭を抱きしめて泣いた。任城王カイ等がはしたないと諫めたので、ようやく手放した。 

 ところで、斉の顕租の頃は、北周は、北斉軍が黄河を渡って攻めてくるのではないかと恐れおののき、冬になって黄河が凍り付くと、河の守りを固めたものだった。ところが、世租が即位して奸佞な臣下達が幅を利かせるようになると、北斉の朝政は次第に衰えて行き、逆に北斉が黄河の守りを固めて北周軍の来襲へ備えるようになってしまった。
 斛律光は憂えて言った。
「我が国は、いつでも西を亡ぼそうとしていたものだ。それが今上の天子ときたら、ただ遊びにばかり夢中になっておられるではないか!」
 三月、斛律光が司徒となった。
 五月、趙郡王が録事尚書となる。前の司徒の婁叡は太尉、段竟は太師、任城王を大将軍とする。
 北周では、達奚武が同州刺史となった。 

  

通商条約 

 話は遡るが、北周の太祖が賀抜岳に従って関中へ入った時、宇文護を晋陽から呼び寄せた。宇文護は、母親の閻氏や宇文泰の妹を晋陽へ留めたまま、関中へ行った。北斉の人間は、残された女性達を中山宮へ入れた。
 やがて、宇文護が権勢を握ると、北斉へ使者を派遣して、彼女達を求めたが、その消息は知れなかった。
 天嘉五年、六月。北斉の使者が玉壁へやって来て、通商を求めた。宇文護は、母や伯母に会いたくて、使者を玉壁まで派遣し、それを条件に通商を認めた。北斉の使者は、大いに悦んだ。
 勲州刺史韋孝寛が、捕らえていた北斉の人間を釈放し、彼等へ文を託して、北周も通商を望んでいることを、北斉へ伝えた。 

 八月、北周は楊忠を突厥へ派遣して、北斉攻撃の同盟を結んだ。突厥は、北斉の幽州を襲撃し、略奪した。北斉は、段韶へ防戦させた。 

 さて、この頃北周は、晋陽攻撃に頓挫したばかりだった。そこで彼等は、再び挙兵しようと、突厥と語らっていた。北斉の武成帝は、これを聞いて震え上がり、閻氏を北周へ帰してやることと、通商とを認めた。それに先だって、まず宇文泰の妹を帰してやった。
 宇文氏は北周へ帰ると、宇文護へ、閻氏からの手紙を渡した。
「吾は幸運にも、北斉皇帝の大恩を蒙り、お前の元へ帰れます。
 禽獣も草木も、母子は寄り添って生きているのに、吾はお前と離れて暮らしていた。何か悪いことでもしたのかえ!それが今、お前と再び会えるなど、何と幸せなことでしょう!この悲喜は、まるで死人が生き返ったようです。
 この世のものが全て手に入ったとて、母子が離ればなれなら、それが何になりますか!お前が王公を極め、山海のように富を積んだとて、考えてもご覧、たった一人の老母と千里も離れて暮らしており、危篤になっても一目さえも会えなかったのだよ。お前と同居できなければ、寒い時にお前の衣を羽織れない。餓えた時に、お前の食事を食べれない。お前が栄華を極めても、吾にとって何の役に立ちましょう!」
 宇文護は、書を読んで泣き崩れた。
 武成帝が、閻氏を北周へ帰してやろうとすると、段韶が使者を立てて伝えた。
「北周は叛服常無い国。信用できません。宇文護は、そこの宰相とはいえ、実質的には国主です。その彼が、母親を恋しがって気弱になっています。ここは、あっさり帰してやってはいけません。まず、和親を結び、その成果がしっかりと挙がってから帰してやるべきです。」
 しかし、武成帝は聞かず、閻氏を北周へ帰してやった。
 閻氏が帰ってくると、北周は国を挙げて慶び、大赦を下した。 

  

名分無き侵略 

 突厥は、幽州から帰ってくると塞北へ屯営し、諸部の兵を結集すると共に、北周へ使者を立て、前回のように連合して北斉を攻めるよう要請した。
 閏月、突厥は再び幽州へ侵略した。
 宇文護は、母親が帰ってきたばかりなので、北斉を攻撃したくなかった。しかし、それでは突厥との約束に背くことになり、辺境でどんな患いが起こるか判らない。そこでやむを得ず、全国から二十万の兵を徴集した。
 十月、北周の武帝は、朝庭にて、宇文護へ斧鉞を授けた。
 宇文護は、潼関まで行くと、柱国の尉遅迥へ精鋭兵十万を与えて前鋒として、洛陽へ向かわせた。大将軍権景宣は山南の兵を率いて懸瓠へ向かう。 

 十一月、宇文護は弘農まで進んだ。尉遅迥は洛陽を包囲する。斉公憲、達奚武、ケイ州刺史王雄等は亡山へ布陣した。
 北周の楊剽は、邵州刺史となって二十余年、屡々斉と戦ったが、負け知らずだった。そこで、北斉軍を軽く見るようになった。今回の出陣でも、単独で敵地深く進み、警戒もしない。北斉の婁叡がこれを攻撃し、大勝利を収めた。楊剽は、北斉へ降伏した。
 大将軍権景宣は、懸瓠を包囲する。十二月、北斉の豫州道行台・豫州刺史太原王士良、永州刺史蕭世怡等が、城ごと降伏した。権景宣は、開府の郭彦へ豫州を守らせ、謝徹に永州を守らせる。太原王と蕭世怡及び降伏した千人の兵卒達は、長安へ送る。
 尉遅迥は、土山を造り、地下道を掘って洛陽を攻撃したが、一ヶ月経っても城は落ちない。宇文護は、援軍が来れないように河陽の路を遮断してから全軍で洛陽を攻撃しようと諸将へ命じた。しかし、諸将は援軍など来るわけがないと主張して、ただ斥候を出すに止めた。 

 斉は、蘭陵王長恭、大将軍斛律光へ洛陽救援を命じたが、北周軍の強さを憚り、なかなか進軍しない。武成帝は、段韶を呼び出して、言った。
「洛陽が危急だ。今、卿を派遣したいのだが、突厥も北にいる。どうすれば良い?」
「北虜の侵略は、皮膚病のようなもの。しかし、西の進軍は腹心の病です。どうか、南へ行かせてください。」
「うん。朕もそう思っていた。」
 そこで、段韶へ精騎一千を与えて、晋陽を出発させた。
 丁巳、武成帝もまた、晋陽から洛陽へ赴いた。
 段韶が洛陽へ到着すると、麾下の三百騎を率い、諸将と共に北亡の坂へ登って北周軍の形勢を見た。太和谷で北周軍と遭遇した。そこで段韶は、諸営へ触れ回って騎士をかき集め、陣を布いて敵を待ち受けた。段韶が左軍、蘭陵王が中軍、斛律光が右軍である。
 北周軍は、突然の敵の出現に泡を食っていた。段韶は、遙かに北周軍へ向かって言った。
「汝、宇文護よ。母親を帰して貰ったら、途端に来寇か?何のつもりだ!」
 北周軍は言い返した。
「天下が我等を派遣したのだ。つべこべ言うな!」
「天は善を賞し、悪を罰するぞ。お前らを殺そうと、ここへ送り込んだのだ!」
 北周軍は、歩兵を先頭に、坂を上って攻撃した。段韶は、戦いつつ退き、敵を誘き寄せる。そして、北周軍が疲れた頃合いを見計らい、一気に反撃した。北周軍は瓦解する。
 蘭陵王は、五百騎を率いて周軍へ突入し、金庸城城下まで進んだ。だが、金庸城では、蘭陵王だと判る人間が居なかった。そこで蘭陵王は、兜を取って素顔を曝し、自ら弩を執って味方を救出した。 

 洛陽城下にいた周軍は、陣を放置したまま、包囲を解いて逃げた。亡山から穀水へ至る三十里には、うち捨てられた軍資器械がズラリと並んでいた。ただ、斉公憲、奚武、王雄が殿を務めて、追撃してくる北周軍と戦った。
 王雄は、馬を馳せて斛律光の陣へ突撃した。斛律光が退くと、王雄は追う。斛律光の左右は皆逃げ去って、ただ、一人の奴と一矢を残すのみとなった。王雄が矛を繰り出しても、丈余及ばない。斛律光の矢は、王雄の額に命中した。王雄は、馬を抱えて走り、自軍の陣へ駆け込んでから卒した。
 王雄が死んだので、軍中の者は、ますます恐れた。だが、斉公憲が盾を持って激励したので、動揺も少しは静まった。
 夜になって、双方共に兵を退いた。斉公憲は、夜明けを待って更に戦おうとしたが、奚武は言った。
「洛陽軍は崩壊し、人々は動揺している。今のうちに逃げ帰らなければ、明日になれば逃げることさえできなくなります。私は長い間戦ってきたので、形勢の見方を知っているが、公はまだ若く、そんな経験は積んでいない。」
 そこで、彼等も退却した。
 権景宣もまた、豫州を棄てて逃げた。 

 丁卯、武成帝が洛陽へ入った。段韶を太宰、斛律光を太尉、蘭陵王長恭を尚書令とする。
 宇文護には、もともと将略がなく、しかも今回の出兵は彼の本意でもなかった。だから失敗したのだ。 

 六年、二月。北周は家臣を突厥へ派遣して、可汗の娘を迎え入れた。
 五月、突厥は北斉へ使者を派遣した。これによって、突厥と北斉が始めて和親した。 

  

宜陽の戦い  

 光大二年(568年)、北斉が北周へ和睦を求めた。そこで北周は軍司馬陸程を北斉へ派遣した。
 九月、北斉は斛斯文略を答礼の使者とした。 

 太建元年(569年)、八月。賊が、北周の孔城の城主を殺し、その領土ごと北斉へ降った。
 十一月、北斉の武成帝が崩御した。後を後主が継いだ。 

 十二月、北周の斉公憲が、北斉の宜陽を包囲して、糧道を絶った。
 二年、正月。北斉の太傅斛律光が三万の兵力で宜陽救援に向かった。しばしば北周軍を破り、統関・豊化の二城を築き、帰る。
 北周軍は追撃をかけたが、斛律光は迎撃し、再び撃破した。北周の開府儀同三司宇文英、梁景興を捕らえる。
 二月、斛律光は右丞相、ヘイ州刺史となった。
 宜陽の戦いは、長引いた。
 北周の勲州刺史韋孝寛は部下へ言った。
「宜陽など、たかが一城。取ろうが取られようが、大した違いはないのに、両国で争っている。こんな所よりも重要なのは、汾北だ。もしも汾北を確保されたら、我等は撤退するしかない。敵にも知謀の士はいる筈だ。今のうちに華谷と長秋に築城しておかなければならない。」
 そして、地形図を添えて具申書を書いた。だが、晋公護は、使者へ言った。
「汾北へ築城しても、誰がこれを守るのだ。」
 ついに、これは却下された。
 北斉の斛律光は、果たして晋州道へ出て、華谷と龍門に築城した。
 十二月、斛律光は定陽まで進み、南汾城を築いた。周軍は、宜陽の包囲を解いて汾北救援に向かった。
 三年、斛律光は西境へ十三の城を築いた。これによって領土は五百里広がった。
 又、汾北にて韋孝寛軍と戦い、撃破。北周の斉公憲は諸将を指揮して東軍を拒んだ。
 三月、斉公憲は龍門から黄河を渡った。斛律光は、華谷まで退却。斉公憲は新城を五つ落とした。
 北斉軍は、段韶と蘭陵王長恭が援軍に駆けつけてきて北周軍を防ぎ、柏谷城を攻撃して、これを抜いて帰った。
 四月、北周の陳公純が宜陽等九城を奪取した。斛律光が、五万の兵で駆けつける。 

 五月、北周の中外府参軍郭栄が、姚襄城の南と定陽城の西へ築城した。共に晋公護の命令である。 

 北斉の段韶が北周を攻撃し、これを撃破。
 六月、段韶は定陽城を包囲、攻撃した。しかし、北周の汾州刺史楊敷が固く守ったので、なかなか落ちない。
 段韶は短兵急に攻め立て、外城を潰した。
 この時、段韶は病に伏していた。彼は蘭陵王へ言った。
「この城は、三面を水に囲まれて、こちらには逃げ道がない。道は、ただ東南にあるだけだ。賊兵は、必ずここから逃げ出す。卿は精鋭を率いて待ち伏せし、奴等を必ず捕らえてくれ。」
 そこで蘭陵王は、千人を伏兵とした。
 城中では、兵糧が尽きた。斉公憲が援軍に駆けつけていたが、段韶を憚り、敢えて前進しなかった。ついに、楊敷は部下を率い城を棄てて逃げた。しかし、その部下は殆ど蘭陵王に捕まってしまった。
 北斉は、汾州と姚襄城を奪取した。ただ、郭栄が築いた城だけは、北周が確保した。  

 斛律光は、建安等四つの砦を落とし、千余人の敵兵を捕虜として凱旋した。
 彼の軍が業へ到着しないうちに、北斉の後主は敕令を出して、兵卒を解散させるよう命じた。だが斛律光は功績を建てた者を慰労していなかったので、承服できなかった。そこで、その旨を文書にして使者へ持たせ、そのまま行軍した。斛律光は、兵卒達を紫陽の近くへ留めて、後主からの返答を待った。
 後主は、大軍が迫ってくるのを聞き、心中穏やかではなかった。そこで、即座に斛律光と謁見し、兵卒達の慰労もすぐに済ませ、解散を命じた。 

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