斉、魯、鄭、許へ入る。

(春秋左氏伝)

 さて、三国が連合して許征伐を行ったが、実際には鄭の軍隊だけでケリが付き、許の主君は亡命した。
 この時、斉候は、許の統治を魯公へ任せようとしたが、魯公は辞退した。そこで、斉候はこれを鄭伯へ委ねた。そこで鄭伯は、許の大臣の百里に、許叔(許公の弟)を補佐して許の東部へ住み、許を統治するよう命じた。

(博議)

 禍を共に乗り越えることはむしろ易しい。本当に難しいのは、利益を共有することである。なぜならば、誰もが皆、禍を畏れ利益を欲しがっている。畏れている人間同士が出会えば一致団結して立ち向かうが、欲に目が眩んだ人間ばかりが集まると結局争うことになるからだ。昔から今に至るまで、親友変じて仇敵となり、恩義を忘れて怨みを持ち、盟友同志が相争うことは枚挙に暇がないが、殆どの場合、利益を共有したことがその原因である。何と難しいことだろうか。
 だが、かつて斉、魯、鄭の三ヶ国で許を討伐した時は、その事後処理は感激する程に巧く行った。

 戦闘に於いて、これを制圧したのは鄭の軍隊である。斉や魯の軍隊は手を拱いて見ていただけ。功績を建てたのは鄭だけだから、許を討伐した利益は鄭が独占するのが当然である。
 しかし、戦場では禍を避けて後方に位置し、勝利の後は功績を争って追撃するのが人情である。自分に功績がないことを恥じずに、他人の功績を妬んで邪魔するのが人情である。
 昔、登(正しくは「登/里」)艾と鍾会が協力して蜀を討伐した。そして結局、蜀を滅ぼしたのは登艾の功績である。しかるに鍾会はその功績を妬んで彼を殺した。又、王渾と王濬とで呉を討伐した。呉を滅ぼしたのは王濬である。しかるに王渾はその功績を妬んで彼を弾劾した。
もしも、斉や魯の主君が、鍾会や王渾のような心を持っていたら、この戦勝が、三国に大きな禍を招き寄せたに違いない。

 許は小さいとは言っても古に建国された立派な国である。野原に一羽の兔がいてさえ百人が追う。地面に一金が落ちていてさえ百人で競う。ましてや一国の利益なら尚更である。しかし、鄭はこれを貪らず、全て斉へ譲ろうとした。それを斉の主侯は受け取らず、魯公へ譲った。そして魯公も受け取らず、その義を計り功を推して鄭伯へ譲ったのである。嗚呼、「春秋争奪の世には、謙遜の美徳は欠片もなかった」等とは、誰にも言わせまいぞ。

 許が滅んだ時には、鄭軍がこれを破り、斉と魯がその功績を推した。鄭伯としては、これを受け取るのが当然で、良心に恥じる必要など無い。にもかかわらず、彼は許の祭祀を絶たなかったばかりか、その一県でさえ併合しなかったのだ。これは一体どうしてだろうか?
 多分、鄭伯はこう考えたのだろう。
「確かに、許を撃破したのは我が軍である。だが、斉も魯も出征の労苦を味わったのである。三国が同じように労苦を味わい、我が国だけがその利益を独占する。例え他の二君が文句を言わないとしても、どうして我が心に恥じないでいられるだろうか。」と。
 だからこそ、許君の一族を新たな主君としてその国を統治させたのである。
 斉と魯は功績がなかったのに、他人の功績を妬まなかった。鄭は功績を建てたのに、それに傲らなかった。斉や魯は、無功の時の最高の処置をし、鄭は建功の時の最高の処置をしたと言えよう。
 この心は、どうして戦争の時だけに使えるものだろうか。およそ、人と功績を共にする場合は、大は共に政治を執る時がある。小は財産を共に得る時がある。その時、彼等の行動を手本とすれば、きっと正しい処置ができるだろう。

 すると、ここでこう尋ねた者がいる。

「征許の役で十全の美が全うできたのは、両者が正しく行動した為である。こちらが相手を立てても、相手が益々つけあがることがある。そんな時はどうすれば良いのか?」

 それに対して、私はこう答えよう。

「もしも、斉や魯が功績を推して、結局、鄭が利益を独占したとしてみよう。それでも斉や魯の立派な行いは、ちっとも損なわれていないではないか。こちらは相手へ功績を譲り、結局相手がその利益を独占してしまった。それでも自分自身の廉潔な心は傷つかないのだ。自分は自分の誠実を尽くし、相手の行動は相手に任せればよいのだ。」
 他人と利益を分かち合う時には、このような想いが大切なのだ。

(訳者曰く)

「逆境の友こそ真の友」とゆう諺が、中国にはある。私はこれに疑問を持っていた。
「共に苦しみを分かち合うことはできても、共に喜びを分かち合うことができない。」とは、「春秋左氏伝」の一節ではないか。今を去る二千年前に既にこのような警句を産んだ文化が、どうしてそれを否定するような諺まで持っているのだろうか?
 日本に於いても、源頼朝は、鎌倉幕府が成立した後、多くの功臣を粛正した。この功臣達から見た頼朝は、逆境を共に戦った「真の友」ではなかったか?苦難の時に力を合わせて乗り切った相手と、裕福な時に喜びを分かち合えるとは限らないものだ。

 よく、「都会の人間は冷たい」と言われる。確かに、自分が逆境にあったとき、親身になって助けてくれる人間は、都会よりも田舎に多い。しかし、自分が成功した時に、やっかみもしないで喜んでくれる相手は、むしろ都会人の方である。勿論、苦しいときに助けて貰うのは嬉しいことだ。しかし、同様に、成功した時に自分の事のように喜んでくれる相手がいれば、また嬉しいではないか。
 だから、「一番大事な友人は、何の役にも立たない相手だ。」とゆう格言もある。この友人は、苦しみを分かち合う相手ではなく、喜びを共にする相手である。
今、この言葉を世間知らずの学生へ向かって語れば、大勢の人が笑って頷いてくれる。しかし、辛苦をなめた社会人へ語れば、鼻白む人も多いだろう。だが、友人つき合いとゆうものは、自分が失敗した時の保険に過ぎないのだろうか?

 斉と魯は、討許の戦役で、何もしなかった。彼等が、共に逆境を乗り越えられる相手であるかは判らない。しかし、少なくとも鄭の成功を妬みもしないで賞嘆した。鄭から見れば、立派であり大切な友人と言えるだろう。
 逆境に手を差し延べてくれた相手が、自分の成功を妬まないとは限らない。だから、役に立たない相手も、大事な友人なのだ。

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