成李據蜀 

  

 三国時代、張魯が治めていた漢中へ、李氏が移住してきた。魏の武帝(曹操)が漢中を占領すると、李氏は五百余家の住民を率いて魏へ降伏した。この功績により、李氏は将軍となって、略陽へ移住した。 
 この李氏の孫の李特、李庠、李流は武力に秀で、騎射がうまく気っぷの良い親分肌だったので、大勢の人間から慕われた。 

移住
 恵帝元康八年(298年)。略陽・天水の六郡の民は、斉万年の反乱と関中の飢饉に苦しみ、穀物を求めて移住した。この時、漢川へは数万世帯が流入した。途中の道路には重病人や窮乏者が見捨てられたが、李特兄弟は彼等を救済し、これによって人望が高まった。 
 この流民達は、漢中へたどり着くと、「巴、蜀へ入って穀物にありつきたい。」旨、請願したが、朝廷はこれを却下した。そして、侍御史の李必を派遣したが、これは彼等流民達を慰労すると共に、巴・蜀他方へ流入しないよう監視する為だった。 
 しかし、漢中へ入った李必は、流民達から賄賂を貰い、彼等の為に上表した。 
「流民達は十万人余りもおり、漢中一郡では救済できません。蜀は豊かな土地で倉庫には穀物も山積みされております。どうか彼等を蜀へ移住させて下さい。」 
 そこで、朝廷もこれに従い、こうして流民達は蜀への移住が認められた。 
 この時李特は、蜀の入り口である剣閣から蜀の土地を見下ろして、嘆息した。 
「このような土地を持ちながら、劉禅(蜀の後主)は囚われの身となったのか。愚か者めが!」 
 この言葉を聞いた者は、奇異の思いを感じたとゆう。 

趙欽の乱
 時の益州刺史は、趙欽。彼は、賈皇后の姻戚に当だった。ところが、その賈皇后は、旧悪が暴かれ死刑となってしまった。
永康元年(300年)十一月。益州刺史の趙欽を大長秋とし、彼に代わって成都内史の耿騰を益州刺史とするとゆう詔の予告が下った。この予告を受けて趙欽は恐れおののいた。翻って考えれば、晋皇室では陰湿な権力争いが繰り返されている。これは衰退の兆しである。遂に趙欽は、蜀を基盤にして独立しようと考えた。そこで彼は、益州の官庫を解放して流民達へ穀物を振る舞う等、人心掌握に勉めた。 
 李特兄弟には武才があり、その党類は趙欽と同郷の巴西の人間である。そこで、趙欽は李特兄弟をことに厚遇して爪牙となした。李特は趙欽の後ろ盾を恃み、大勢の仲間を集めて盗賊まがいのことをやったので、蜀の人間はこれを苦々しく思った。 
 そこで、耿騰は上表した。 
「流民は剛強剽悍な人間が多く、蜀の人間は惰弱。多くの流民が蜀へ流れ込みましたが、彼等は元の住民を押しのけて、我が物顔でのし歩いく有様。この双方の間で騒動が起こるのは時間の問題と考えます。ですから、この流民達を、元の土地へ返しましょう。でなければ、秦・よう州の禍が、梁・益州まで拡大してしまいます。」 
 趙欽は、これを知って耿騰を憎んだ。 

 そして、詔は正式に下った。益州では、文武千余人の官吏を派遣して、耿騰を迎えた。 
 この頃、成都の政治は少城で、益州の政治は太城で執られていたが、趙欽は太城から立ち去っていなかった。耿騰が益州へ入ろうとすると、功曹の陳恂が言った。 
「今、貴公と趙欽との溝は日々深まっております。入城すれば必ず禍が起こります。今暫く少城に留まって状況を観望しましょう。そして、諸県へは移民と対抗するよう檄文を飛ばし、西夷校尉の陳総が成都へ到着するのを待ちましょう。それでなければ、建為まで退き、江源を渡って非常事態を防ぐのです。」 
 耿騰は従わなかった。 
 この日、耿騰は兵を率いて入州したが、趙欽は兵を派遣して迎撃し、この戦いで耿騰は敗死した。  
郡吏達は皆、逃げ出したが、陳恂だけは後ろ手に縛られた格好で出頭し、耿騰の遺体の回収を願い出た。趙欽は義としてこれを許した。 

 趙欽は、更に西夷校尉の陳総へも討伐軍を派遣した。 
 陳総は、江陽まで来た時に、趙欽の造反の企みを知った。主簿の趙模は言った。 
「趙欽と耿騰の対立は、必ず造反まで行き着きます。ここは急いで行軍を。西夷府の兵力で順を助けて逆賊を討つのです。趙欽に呼応する者は出ないでしょう。」 
 だが、ぐずついている間に趙欽の軍がやって来た。  
趙模は陳総に言った。 
「金を惜しまず募兵して防戦するのです。奴等に勝てば益州が手に入りますし、負ければ流れを利用して逃げるだけ。奴らは追いつけないでしょう。」 
「いや、趙欽は耿騰と対立して殺したのだ。私とは何の因縁もない。戦闘まではするまいよ。」 
「奴等は既に決起したのですよ!貴公を殺して威勢を挙げるに決まっています。戦わなければ殺されるだけです!」 
 涙を流して訴えたが、陳総は聞かない。結局、陳総の軍は壊滅した。 
 陳総は草の中を逃げた。趙模は陳総の服を着て戦い、戦死した。しかし、趙欽の兵がその死体をよく見ると陳総ではない。そこで更に陳総を探し求め、遂に見つけだして殺した。 

 趙欽は、大都督・大将軍・益州牧を自称し、幕僚を勝手に任命した。  
李庠は妹婿の李含の他、任回、上官晶、李拳、費他、苻成、隗伯等四千騎を率いてその麾下へ入った。趙欽は、李庠を陽泉亭候に封じ、腹心とした。招き寄せた六郡の壮士は万余人。そして、彼等を李庠に預け、北道(漢中から蜀へ入る道)を封鎖させた。 

 永寧元年(301年)正月。李庠は驍勇で、衆望を集めていた為、趙欽は次第に彼を疎み始めたが、顔には出さなかった。  
すると、長史の杜淑と張粲が趙欽に言った。 
「将軍は決起したばかり。今、李庠は大軍を率いて外にいますが、彼は元々我等の同志ではありませんので、その本心を謀りかねます。あの軍勢で攻め込んでこられる前に、何とか対処しなければなりません。」 
 そうこうするうちに、李庠は趙欽へ皇帝となることを勧めた。そこで杜淑と張粲は、「大逆無道を吹き込んだ」と言い立てて李庠とその家族十余人を処刑した。 
 この時、李特と李流は兵を率いて北道封鎖を続けていたが、趙欽は使者を派遣して彼等を慰撫した。 
「李庠は大逆無道を口にしたので、死罪になるのが当然だ。だが、このような罪科は兄弟には及ばんよ。」 
 そして、李特と李流を督将とした。だが、李特も李流も趙欽を怨み、兵を率いて綿竹へ帰った。 

 このような折り、趙欽の牙門将の許合が巴東監軍の称号を求めた。杜淑と張粲がこれを却下したところ、許合は怒り狂い、趙欽の官邸内だとゆうのにこの二人を斬り殺してしまった。杜淑と張粲の腹心は即座に許合を殺した。杜淑、張粲、許合の三人は、趙欽の腹心である。この事件で、趙欽の勢力は大きく衰えた。 

 さて、李庠を粛清した趙欽は、費遠と蜀郡太守の李必、都護の常俊の三人に一万人を預けて北道の封鎖を続行させた。彼等は綿竹の石亭に駐屯した。これに対して、李特は密かに七千余人の兵を集め、費遠軍へ夜襲をかけ、陣営を焼き払った。費遠軍の兵卒は、八割方が戦死した。 
 李特はそのまま成都めざして進撃した。費遠、李必、及び祭酒の張微は夜間に関を斬って逃げ出し、文武の官吏も蜘蛛の子を散らすように逃げ散った。趙欽は妻と共に小舟に乗って逃げたが、広都にて、従者達から殺された。 
 李特軍は、成都へ入城すると大いに略奪を働いた。そして、その傍らでは洛陽へ使者を派遣して、趙欽の罪状を陳情した。 

羅尚
 趙欽が造反した当初、梁州刺史の羅尚が上書した。 
「趙欽には、人の上に立つ能力がありません。蜀の人間は懐かないでしょうし、敗れ去るのも時間の問題です。」 
 結局、その予測通りに事件は進展した。そこで朝廷は、羅尚を平西将軍に任命し、益州刺史、督牙門将の王敦(東晋で造反することになる王敦とは別人)、蜀郡太守徐倹、広漢太守辛再等七千人を蜀へ派遣した。 
 これを聞いて李特は恐れ、弟の李驤を途中まで出迎えに行かせ、併せて珍しい宝物を羅尚達へ献上させた。  
羅尚は喜び、李驤を騎督に任命した。李特と李流は、綿竹にて豪勢な酒宴を開いて羅尚をもてなした。  
王敦と辛再は羅尚へ言った。 
「李特達は、盗賊稼業が本職だと言います。この機会に処刑しましょう。でないと、必ず後の患いとなります。」 
 しかし、羅尚は聞かなかった。 
 辛再は李特と面識があったので、李特に言った。 
「昔なじみと出会ったときは、不吉。まさしく凶である。」 
 李特は懼れた。 

 同年三月。羅尚は成都へ入った。文山のきょう族が造反したので、羅尚は王敦を差し向けたが、王敦は戦死した。 

 これより前、朝廷は、蜀へ流出した民を召還するよう秦・よう州へ命じ、又、この件を促督させる為、御史の馮該と張昌を派遣していた。だが、李特の兄の李輔が略陽から蜀へやって来て、李特へ言った。 
「中国の混迷は深まる一方。今は帰るべきではない。」 
 李特は頷き、閻式を使者として羅尚の元へ何度も派遣し、秋までの逗留権を求めた。そして、馮該と羅尚に賄賂を贈り、遂に許可された。 
 朝廷では趙欽討伐の功績について議論の結果、李特は宣威将軍、李流は奮武将軍に任命され、両者とも候に封じられた。又、六郡からの流民で、李特に従って趙欽と戦った者にも褒賞が出た。 
 この論功行賞の時、辛再は、趙欽を平定した功績を独占しようと、事実を曲げて上奏したので、多くの人々から怨まれた。 

 羅尚は、官吏を派遣して、流民達の返還について七月までと期限を切った。この頃、流民達の大半は、梁、益で日雇い労務者となっていたが、州刺史や郡太守が強制返還を施行したと知り、愁怨した。しかしながら、何の手だても浮かばない。故郷は洪水で水浸しのまま。穀物は不作で、仕事をやる資本などない。そこで、李特は閻式を再び羅尚のもとへ派遣して、冬まで待って貰うよう頼んだが、辛再と李必が却下した。 
 辛再は、もともと貪欲・暴戻な男だった。今回、彼は流民の首領を殺し、その財貨を奪い取ろうと思い立ち、李必と共に羅尚へ言った。 
「あの流民達は、趙欽が造反した時、その尻馬に乗って略奪を働きました。彼等を収容して、その財産は没収するべきです。」 
 そこで、羅尚は梓潼太守の張演へ文を回し、諸々の関所にて、宝財を捜索するよう指示した。 

 さて、李特は流民の為に屡々上書したので、流民達は李特を恃みとし、大勢の流民が彼の元へ集まった。そこで李特は綿竹に陣営を作って流民を収容し、彼等に寛大な処置を執るよう辛再へ求めた。辛再は怒って李特に懸賞首をかけたので、流民達はいよいよ懼れ、ますます李特のもとへ集結した。一月も経たないうちに、その数は一万を越え、李流のもとにも数千人の流民が集まった。 
 李特は、再び閻式に使いを命じた。李特の陣営では、流民達の姿を覆い隠すように衝立を立てている。それを見て、閻式は嘆息した。 
「民の心は爆発寸前。今、強制返還を厳しく行うと、造反が起こりかねない。」 
 しかし、辛再にも李必にも妥協の余地はなかった。 
 閻式が綿竹へ還ろうと、羅尚へ別れの挨拶を述べると、羅尚は言った。 
「私は、今少し寛大な処置を執るつもりだ。君は帰ったら、流民達にそう伝えなさい。」 
 閻式は答えた。 
「明公は奸説に惑い、寛大にするべき理由を見つけきれないのでしょう。しかし、民衆は確かに弱い存在ですが、決して軽んじることはできません。今、あんまり事を急ぎすぎますと、民衆の怒りが爆発します。そうなれば、その禍は多大なものとなるでしょう。」 
「その通りだ。だから、君を騙すような真似はしない。さあ、還ったらちゃんと伝言するのだよ。」 
 綿竹に還ると、閻式は李特へ言った。 
「羅尚はそう言いましたが、あてにはできません。何故?彼には権威がないのです。兵権は辛再と李必が握っています。彼等が武力決起をすれば、羅尚は制圧できません。どうか備えをして下さい。」 
 李特はこれに従った。 

決起
 十月、李特は陣営を二つに分け、李特は北営を、李流は南営を指揮した。彼等は武器を作り練兵をし、厳重な警戒をして敵を待ち受けた。 
 対して、辛再と李必は、共に謀った。 
「羅候は貪欲で、決断力もない。日、一日と日延べするうちに、流民達は準備を着々と整えて居るではないか。李特兄弟は、共に将才がある。このままでは我々は捕虜にされてしまうぞ!奴等の準備が整う前に決行するのだ。羅候の許可など待っておられん。」 
 そして、広漢都尉の曾元、牙門の張顕、劉並等を大将として、三万の軍勢で李特の陣営を襲撃させた。 これを聞いた羅尚は、不承々々追認し、督護の田佐を援軍として派遣した。 
 曾元達が突撃しても、李特は悠然として動かず、敵の半数が突入した頃合いを見計らって伏兵を一気に突撃させた。  
この戦いで官軍は大勢戦死した。田佐・曾元・張顕は戦死。李特はこの三人の首を斬り、羅尚のもとへ送りつけた。 
 羅尚は将軍達へ向かって言った。 
「わしは、ゆっくりと時をかけてでも連中を立ち去らせるつもりだったのに、辛再めが勝手な真似をして、ますます賊徒どもを図に乗らせる結果となってしまった。今更どうせよと言うのだ!」 

 ここにおいて、六郡の流民達は李特を指導者として祭り上げた。彼等は、李特を鎮北大将軍、李流を鎮東大将軍と唱えた。又、彼等の兄の李輔を驃騎将軍、弟の李驤を驍騎将軍として、広漢まで進軍し、辛再を攻撃した。 
 羅尚は、李必、費遠の軍を辛再救援に向かわせたが、彼等は李特を畏れて進軍しなかった。  
辛再は何度も城から出て戦ったが屡々敗れた。そして、遂に城は陥落し、辛再は徳陽まで逃げた。 
 広漢城へ入城した李特は、李超を広漢郡の太守に任命した。そして、ここを拠点にして成都の羅尚攻撃へ向かった。 
 羅尚が書状を送って閻式を諭すと、閻式は返書をよこした。 
「辛再はおべんちゃら、曾元は小賢しい、そして李必は将軍の器ではない。私は以前、節下の為を思って、流民の扱い方を論じました。 
 そもそも、人は故郷を想うもの。旅愁は誰にでもあります!ただ、穀物を求めて避難したばかりの時は生きて行くのが手一杯、しかも故郷は水浸しのままだったので、冬まで待って下さいと頼みましたが、聞き届かれませんでした。進退窮まった流民達は、切羽詰まって造反したのです。 
 私の言葉に従って寛大な処置をすれば何とかなったのは、既に過去のこと。ここに至って何ができましょうか!」 

 李特は、兄の李輔、弟の李驤、子息の李始、李蕩、李雄の他、李含、李含の子息の李国と李離、任回、李拳、李拳の弟の李恭、上官晶、任藏、楊褒、上官惇を将軍とし、閻式、李遠を幕僚とした。 
 羅尚はもともと貪欲だったので、蜀の人民から憎まれていた。それに対して李特は、人民へ対して法三章を約束し、占領地では官庫を解放して庶民へ施し、賢人は礼遇して役職を与え、軍隊は粛然として乱暴狼藉を働かなかったので、住民は大いに喜んだ。 
 羅尚は戦う度に連戦連敗。そこで、卑水を利用して砦を築いた。その長城は、延々と続くこと七百里。この堅陣で李特と対峙し、その一方では梁州と、南夷校尉へ救援を求めた。 

 太安元年(302年)、五月。河間王(当時政権を握っていた八王の一人。)は、李特討伐の為に督護の衙博を派遣し、彼は梓潼城へ入城した。又、張微を広漢太守に任命し、徳陽へ陣取らせた。そして、羅尚は張亀を繁城まで出陣させた。 
 これに対して、李特は、息子の李蕩を鎮軍将軍に任命して衙博を襲撃させ、自らは張亀を攻撃してこれを撃破した。李蕩も衙博を破った。梓潼太守は城を棄てて逃げ、巴西丞の毛植が軍をとりまとめて降伏した。李蕩は更に進攻し、敗走した衙博を再び破った。この戦いで、衙博は単身脱出。そして、その部下は大半が降伏した。 
 河間王は、許雄を梁州刺史に任命した。それに対して李特は、大将軍、益州牧、都督梁・益二州諸軍事を僭称した。 

 同年八月。李特は張微を攻撃した。しかし、張微はこれを撃退し、李特の陣営へ逆襲した。その報告を受けて、李蕩が救援に駆けつけた。山道は険阻だったが李蕩は力戦して前進し、遂に張微の軍を破った。 
 この時、李特は気弱になって退却しようと想ったが、李蕩と司馬の王幸が頑として言った。 
「微の軍は破りました。奴等は精も根も尽き果てています。この機に乗じて、一気に奴を捕らえるのです!」 
 そこで李特は再び進撃し、遂に張微を殺した。張微の子息の張存も捕らえたが、父を殺したこともあり、その菩提を弔わせる為釈放してやった。  
李特は、麾下の将塞石に徳陽を守らせた。 

 李驤は比橋に陣を布いた。これに対して羅尚が攻撃をかけたが、屡々敗北した。遂に、李驤は成都まで進攻し、その城門を焼いた。  
羅尚は、選りすぐった精鋭兵一万人で反撃したが、李驤軍は李流軍と合流して迎撃し、これを完膚無きまでに叩きのめした。成都へ生還した羅尚兵は、ほんの一・二割だった。 
 許雄は、何度か李特へ攻撃を仕掛けたが勝てず、李特軍は益々勢いに乗った。 

 この動乱の中、建寧郡では、実力者の李叡と毛先が太守の許俊を追放して李特へ呼応した。同様に、朱提郡でも実力者の李猛が太守を追放して呼応した。各々数万人の人民を擁していた。 
 南夷校尉の李毅は、この二郡を討伐した。 
 まず建寧郡を撃破して毛先を斬った。そこで朱提郡の李猛は降伏したが、その文章が不遜だった為、李毅は李猛を誘い出して殺した。 
 十一月、寧州が設置され、(寧州は、284年に廃止されていたが、今回復活した。)李毅が刺史に任命された。 

李特敗死
 大安二年、正月。李特は密かに江を渡り、羅尚を攻撃した。卑水の羅尚軍は逃げ出した。蜀郡太守の徐倹は降伏。こうして、李特は少城へ入城した。彼等は城内で馬を徴発して軍馬にしたが、それ以外の略奪は行わなかった。境内に大赦を交付し、年号を建初と改元した。(ここに至って、李特は独自の年号を使用したのである。) 
 羅尚は太城を確保していたが、李特のもとへ使者を派遣して、講和を求めた。 
 蜀の民は、あちこちで自衛団を組織したが、彼等は概ね李特に好意的で、あちこちから呼応の申し込みがあった。これに対して李特は兵糧を送って応援した。そうして、李特の陣営で兵糧が不足してきたので、彼は六郡の流民達を各自衛団へ派遣して寄宿させた。 
 李流が李特へ言った。 
「諸々の自衛団達は懐いてきたばかりで、それ程確固たる忠誠を誓って居るとも思えません。各自衛団からしかるべき人間の子弟を人質に取り、不慮の事態に備えましょう。」 
 李特の司馬の上官惇は上書した。 
「彼等を受け入れるとゆうのは、敵を懐へ取り込むようなもの。軽々しく承諾してはいけません。」 
 前将軍の李雄も同様のことを言ったので、遂に、李特は怒りを発した。 
「大事は既に定まったのだ。次は民を慰撫することを考えなければならない。彼等を猜疑してわざわざ敵に追いやるような真似ができるか!」 
 朝廷は、荊州刺史の宗岱と建平太守孫阜に水軍三万を与え、羅尚救援に派遣した。宗岱は孫阜を先鋒として徳陽へ進撃させた。これに対して李特は、李蕩と蜀郡太守の李黄を派遣し、徳陽太守の任蔵と協力して防がせた。 
 宗岱、孫阜軍は勢い盛んで、多くの自衛団は動揺し、二心を持った。そこで、益州曹従事の任叡は羅尚に言った。 
「李特は兵糧と兵卒を各地に分散させました。これは滅亡の道です。ここは各地の自衛団達と密約を交わして一斉蜂起させ、内外揃って攻撃すれば、必ず撃破できます!」 
 そこで、羅尚は任叡に宣旨を与えて各自衛団を回らせ、二月十日を期して一斉に李特を攻撃するよう指示した。 
 更に、任叡は李特の陣営へ出向いて降伏と偽った。すると、李特が羅尚城中の実状を問うたので、任叡は言った。 
「兵糧は尽きかけております。財貨や絹は未だあるのですが。」 
 任叡が家族を連れてきたいと求めると李特は許可したので、任叡はまんまと逃げ帰ってこれらのことを羅尚へ報告した。 
 二月、羅尚は李特の陣へ大攻撃をかけた。各地の自衛団もこれに呼応したので、李特の軍は大敗した。李特、李輔、李遠は斬罪。その屍は焼かれ、首は洛陽へ届けられた。流民達は大いに懼れた。 

窮地脱出
 李蕩と李雄は敗残兵をとりまとめて赤祖(綿竹の東)まで退却した。李流は大将軍、大都督、益州牧を自称して東営を守り、李蕩と李雄には北営を守らせた。 
 孫阜は徳陽を撃破し、塞石を捕らえた。任藏は陪陵まで退却した。 
 三月、羅尚は督護の何沖と常深を李流攻撃に派遣した。又、陪陵の薬紳とゆう男が決起して李流を攻撃した。 
 李流は李驤と共に薬紳の防御をしたので、何沖は、その虚を衝いて北営を攻撃した。北営には苻成と隗伯がいたが、彼等は何沖へ内通して反旗を翻した。 
 李蕩の母親の羅氏は、防具を身につけ、自ら防戦に出た。隗伯は彼女の目を斬りつけたが、羅氏は挫けなかった。と、そこへ、常深と薬紳を撃破した李流軍が駆けつけて来て、何沖と戦い、撃破した。 
 裏切り者の苻成と隗伯は手勢の部下を率いて羅尚のもとへ逃げ込み、李流は勝ちに乗じて成都まで逆攻めに攻めた。羅尚は、再び城門を閉め、籠城に転じた。 
 なお、この戦いで李蕩は戦死した。 

 李特、李蕩と続けざまの戦死。しかも敵には宗岱と孫阜の援軍があり、李流は甚だ懼れた。李含は降伏を勧め、李流もこれに同意した。李驤と李雄は頑として拒み、様々に諫言したが、李流は聞かなかった。 
 五月、李流は子息の李世と、李含の子の李胡を人質として孫阜軍へ差し出した。 
 この時、李胡の兄の李離は梓潼太守となっていた。彼はこの話を聞くや慌てて駆けつけて諫めようとしたが、間に合わなかった。 
 退出した李離は、李雄と共に孫阜襲撃を企てた。 
 李雄は言った。 
「今こそ攻撃の時。だが、二翁は聞くまいな。どうする?」 
「脅迫すればよい!」 
 李雄は大いに喜んだ。  
そこで、二人は流民達へ言った。 
「我等は、既に蜀の民へ対して乱暴狼藉を働いた。降伏しても、なます切りにされるだけだぞ。ここは力を合わせ、孫阜を襲撃して王侯の道を取るしかない!」 
 流民達は、彼等に従った。  
とうとう、李雄は李離と共に孫阜を襲撃し、大いにこれを破った。 
 折りもおり、宗岱が執江にて卒したので、荊軍は退却した。 
 李流は深く慚愧した。又、この一件で李雄の才覚を高く評価したこともあり、以後、軍事の全てを彼に委ねた。 

 六月、李雄は文山太守の陳図を殺し、卑城を占領した。 

 七月、李流は卑城へ移動した。ところが、蜀の民は自衛団を作って険阻な砦に籠もっているか、寧州か荊州へ避難した者ばかりで、城邑は全て空っぽ。夕暮れ時になっても炊煙一本どこからも挙がらない有様だった。李流軍は略奪する者もなく、兵卒は飢えに苦しみ始めた。 
 さて、陪陵の民が千世帯余り、范長生とゆう男をリーダーとして、青城山へ避難していた。平西参軍の徐拳は、この陪陵生まれの人間だが、彼は文山太守を救援する為、この范長生と手を結んで李流を討伐するよう羅尚へ献策していた。しかし、羅尚がこの策を却下した為、徐拳は怒り、逆に李流のもとへ降伏した。李流は徐拳を安西将軍とした。徐拳は范長生を説得して李流軍へ兵糧を供給させたので、李流軍は再び勢いを盛り返した。 

李雄継承
 九月、李流は重病となり、諸将へ言った。 
「李驍は仁にして聡明、きっと大事を成し遂げられるだろう。しかし、李雄の英武は、殆ど天才的なものだ。これからは、李雄を主君と仰げ。」 
 李流が死んだので、人々は李雄を推して大都督、大将軍、益州牧、治卑城へ祭り上げた。 
 李雄は、朴泰を羅尚のもとへ派遣し、卑城攻撃をそそのかさせた。朴泰が、卑城で内応するとゆう内容だ。羅尚はウマウマ引っかかり、隗伯に卑城を攻撃させた。 
 朴泰は火を放って合図すると約束し、城の外へ長い梯子を掛けて置いた。李驤は、道の途中に伏兵として隠れた。 
 城内で火が挙がると、隗伯の兵卒は争って梯子へ飛びついた。そこをすかさず李驤が襲い、大いに敵を破った。 
 李驤軍はそのまま敵を追撃し、夜半には少城城下へ着いた。そこで万歳の言葉と共に、兵卒達は口々に言った。 
「卑城を攻略したぞ!」 
 騙された城兵が城門を開けた為、李驤軍は易々と少城内へ攻め込んだ。羅尚はこれに気がつき、退却して太城へ籠もった。隗伯は傷が激しく、生け捕りにされたが、李雄はこれを赦して殺さなかった。 
 李驤は更に建為を攻撃し、太守の龍恢を捕らえ、殺した。これによって、羅尚は糧道を絶たれた。 

 閏十二月、李雄は羅尚へますます猛攻を加えた。城内には食糧が不足していたので、羅尚は牙門の張羅を城へ留め、自身は川伝いに東へ逃げた。張羅は開門して降伏した。 
 李雄が成都へ入城すると、兵卒達は飢えに苦しんでいた。そこで、彼等へ妻県の食糧を与えた。それでも足りず、兵卒達は野を掘って芋を食べた。 
 梁州刺史の許雄は、討伐の軍を起こさなかった咎を問われ、罰せられた。 

 永興元年(304年)正月、羅尚は江陽まで落ち延び、そこで報告書を上表した。すると詔が降り、羅尚へ巴東、巴郡、陪陵の統率権が与えられ、これらの兵糧で軍を運営するよう命じられた。(この三郡は、本来梁州の指揮下にあったが、今回羅尚に統率権が与えられた。) 
 羅尚は別駕の李興を鎮南将軍劉弘のもとへ派遣して、兵糧を求めた。 
 そこからは道が遠く、荊州とて兵糧が乏しい。そこで劉弘の参謀は零陵の米五千斗を与えたがったが、劉弘は言った。 
「天下は一つ。我々が出そうが別の郡が出そうが、同じ事だ。それに、我々が兵糧を出せば、西方の騒動を羅尚が引き受けてくれるのだぞ。」 
 そして、三万斗の兵糧を送ったので、羅尚は軍を立て直すことができた。  
李興はそのまま劉弘のもとへ留まり参軍となることを希望したが、劉弘は許さなかった。又、劉弘は治中の何松を巴東へ駐屯させ、羅尚の後詰めとした。 
 この時、荊州へ流れ込んだ流民達は十余万戸。彼等の多くは貧しさの余り盗賊になったので、劉弘は彼等に田畑と種籾を与えた。又、彼等の中で才能のあるものは抜擢したので、荊州の流民達は落ち着いた。 

李雄即位
 さて、李雄を援助した范長生は、蜀では名望高く、大勢の人々から尊敬されていたので、彼を主君として迎え入れ、自分はこれに臣従しようと考えたが、范長生はこれを断った。又、諸将も李雄の即位を強く望んだ。 
 十月、李雄は成都王を名乗った。大赦し、建興と改元。晋の法律を破棄し、七章の法律を制定した。叔父の李驤を太傅、兄の李始を太保とした。以下、与えた官職は、李離が太尉、李雲が司徒、李黄が司空、李国が太宰、閻式が尚書令、楊褒が僕射である。母親の羅氏を王太后とし、父親の李特へは、成都景王の称号を追封した。 
 李国と李離は知恵が回ったので、李雄は事が起こる度に彼等に相談した。しかし、李国も李離も、いよいよ謹厳に李雄に仕えた。 

 羅尚は本拠地を巴郡へ移した。そして兵を出して蜀中を略奪して回らせ、李驤の妻と子の李寿を捕らえた。 

 光煕元年(306年)、三月。范長生が成都城へ訪れた。成都王雄は門まで出迎え、彼を丞相へ任命した。そして、彼を尊んで「范賢」と呼んだ。 

 六月、成都王雄は、皇帝位へ即いた。大赦を下し、改元して晏平とする。国号は「大成」。父の李特を尊んで景皇帝とおくり名した。廟号は始祖。王太后を尊んで、皇太后とした。范長生は天地太師と為し、彼の村は租税免除とした。諸将が恩恵を求めて互いに争うようになったので、尚書令の魔式は、漢や晋の故事に則って百官の制度を立てるよう上奏し、裁可された