斉人、我が西鄙を侵す。
 
(東莱博議) 

 言葉がここにあり、それだけを観る。それが衆人の”観”である。それに対して、言葉がここにありながらも、別の所までも観る。それこそが君子の”観”である。 

 裁きの庭に、原告と被告が居る。甲は自分の証拠を手に執り、乙も自分の証拠を手に執る。それらを見ると、どちらにも理があるように思え、裁判官の心は揺れ動き、官吏は筆を置き、裁断を下すことができない。
 こうして裁断に迷い続けているうち、偶々昔の証文を見つけ、あるいは道端で会話を聞き、突然曲直が判明することがある。そうすれば、もう裁断に迷わず、偽りの証拠に心を迷わせたりはしない。
 そのような時のことを考えてみよう。
 昔の証文や、道端での会話は、彼が迷うことを前提として、その時迷妄を覚まさせようと考え、予め準備してあったものではない。
 この両者は全く無関係なのに深く結びつき、全くかけ離れていたのに隣り合わせのように近いものがある。
 それは何故か?
 無心の言葉は真実を言い当て、無心の見こそ心を定めさせるからだ。
 これを見れば、言葉の真実を観る時の、一つの技術が体得できる。それは、専念するものを棄てて、傍らから見ることだ。
 だから、堅白を公孫竜に尋ね、清浄を老荘に尋ね、刑名を申韓(申不害、韓非子)へ尋ね、耕稼を陳許(陳相、許行。共に神農の術を学んだ。)へ尋ね、専ら書物の一部分ばかりに捕らわれて他の理屈と対比させようとしない人間は、とても君子とは言えない。そんな連中は、俗儒である。 

 さて、取守の論は、常に儒学者の間で論争の対象となっており、この説が生まれたのが一体いつ頃なのか、殆どの人間は知りもしない。
 史記を紐解けば、叔孫通が「儒学者と共に進取する事は難しいが、守成するには儒学者に任せるしかありません。」と言ったし、陸賈は、「湯王や武王は逆を以て天下を奪ったが、順を以て守った。」と言った。
 これ以来、「逆で取り、順で守る」とゆう学説が天下へ浸淫した。
 後世の人間は、このような説が世間に流布されることを遺憾に思い、その弊害を弁じて強く争ったが、この学説の源までさかのぼって大本を抜き取ることのできた人間はいなかった。これは、その言葉だけに専念し、傍らから見ようとしなかったせいだ。
 秦で盗みを働いた泥棒が、呉で捕まることもある。だから、白黒つけがたい時は、衆人が考察しない場所に心を留めなければならないのだ。 

 斉の懿公が曹を攻撃して、その都へ入った。この時、季文子は、この行動を非として、数十言を連ねて非難した。その内容は一つではなかったが、全て懿公の行動へ対して言ったものである。
 この言葉の中に、次の台詞がある。
「乱(不義な手段)を以て国を取ったなら、礼を奉じて守り抜いても、なお、これを全うできないことを懼れるものだ。」
 これを読んで私は、秦・漢の時代に生まれた取守の説の発祥が、こんなに古い時代のことだったと知るのである。
 季文子の言葉は、もともと、斉が曹を攻撃したことを論じたもので、その中で偶々取守の説へ言及したのだ。ほのめかしただけであって、それを主体として訴えかけたのではない。曖昧な言葉であり、後世に遺すべき立派な言論を成したわけではない。
 全く別のことを論じている中から偶々出た言葉は、取と守の間に区別を設けていなかった。だからこそ、私は判じたのだ。”逆で取り順で守る”とゆう論は、春秋時代に芽生えて、秦・漢時代に氾濫したのだと。
 そこで、叔孫通や陸賈の言葉はひとまず置いておき、季文子の言葉について論じてみよう。 

 奪取と守成は、一つの道である。濁流を源としている川が途中から澄んでしまったり、臭草を根として葉が香草葉となったり、と、そんな話は、古来から聞いたことがない。
 それがいつの間にか、奪取と守成は全く別の方法で達成するべきだと二つの道に分かれてしまった。これは春秋時代に別れたのだろうか。
 これについて、季文子の言葉の中にヒントが隠されている。
 例えば、代々百年間に亘って礼儀正しさを守り続けてきた家系があったとしよう。そんな家ならば、不幸にして礼儀を破ろうとする子弟が生まれたとしても、彼は必ず躊躇してしまう。幼い頃から教えられ習ってきたものだから、半ば破り、半ば遵守し、決して一足飛びに全てを壊してしまうことなどできないものだ。この時、彼の心は、まだ礼法から遠く離れてはいない。心中になお、畏れる心が残っているからだ。
 さて、堯・舜・禹・湯・文・武以来、君主達は取る時にも礼儀を以てし、守る時にも礼儀を以てし、未だかつてシュユも礼から離れなかった。前聖や後聖は、甚だ厳格に礼法を守ってきた。
 春秋列国の時代になると、隙が芽生え始めた。先程の喩えでの、最初の放蕩息子だ。だから季文子の言葉は、なお憚っているように聞こえる。
 彼はまず言った。
「乱を以て取り、礼を以て守る。」と。
 しかしながら、これに続けて言った。
「なお終わりを良くしないことを懼れる」と。
 始めの言葉はこれを開き、次の言葉でこれを閉じる。一語はこれを招き、一語はこれを追い払う。始めの言葉を出してしまった後、これを繕うのに汲々としている。これは、「乱を以て取り、礼を以て守る」とゆう言葉では、彼の心がいたたまれなかったとゆう証ではないか。
 やがて、更に時が経つと、この論は広く普及してしまった。そして隋・唐の時代になると、いわゆる「逆で奪い、順で守る」とゆう言葉が一般化する。これは往々にして文書に出てくるが、これを記す者は、安然としてチットモ疑っていない。果ては、この言葉の出典を、誤って六経に託す者まで現れる始末。なにをかいわんや、である。
 これこそが、私は季文子の言葉を持ってきて、攻守の論が春秋時代に生まれたと立証した理由である。 

 唐の太宗皇帝は、まさにこの論を拠り所として、自らの手で二兄を殺しながら恥じる色もなく朝廷へ臨んだ。
 ただ、”貞観の治”は、今までかつて類を見ない程、良く治まった時代だった。だから、尚更この言葉に重みが出てきて、遂に世俗の人々は、攻守の論が真実であると、信じ込んでしまったのだ。
 だが、考えてみよう。
 他人の箱を開き、袋を探って物を盗み、それを大切に使って財産を成した。そんな人間へ対して、「財産を守ることが巧かった。」と評するならば、これは正しい。しかし、「彼は強い想いで過ちを改めた。」と評したら、これは間違っている。
 盗賊は、盗んだ物を棄ててこそ、始めて盗賊の呼称から解き放たれるのだ。同様に、逆取するものは奪ったものを棄ててこそ、始めて「逆」の呼称から解き放たれるのだ。盗んだ物をその身に纏いながら、どうして「順守」などと言えるのか!
 我はここを以て、取と守が二道ではないと判るのだ。 

(訳者、曰く) 

 ドラえもんは、世界的に流行っているが、”あれのアニメや漫画を見て、たこあげだのお年玉だのの、日本の正月の行事を知った”とゆう外人が多いと聞く。
 ドラえもんは、日本の風俗を紹介する為の作品ではない。作家は、読者の共感を得る為の小道具として、ごく日常的な風俗を描いているだけだ。しかし、それ故に、今の日本のこども達の生活や感性を覗き見るには、論文や紹介文より以上に正確に感じ取れるのだ。
 今、外人の生活を知ろうと思ったならば、今かかれている現代社会を舞台とした小説や漫画や映画などを使い、その中の細かい、それこそ作者が意図せずに小道具として登場させているような描写から探る事が、一番確実なやり方だ。
 ある時、私の妻が言った。
「外国では、女性がパーティーへ出る時は、夫でも友達でも、とにかくエスコートしてくれる男性が必要なの。」と。
 聞けば、外国の連続ドラマ(確か、ビバリーヒルズシリーズだったと記憶している。)に頻繁に出てくるシーンから確信したという。そのようにして探り当てた事ならば、その習慣については信憑性が非常に高いと思ったものだった。
 そう考えるならば、これは過去を再現させるテクニックとしても大いに有効である。
 昔、中国文学の大家といわれた吉川幸次郎先生は、自ら「水滸伝」を翻訳され、その中の描写から、宋代の庶民の生活を類推されていたと聞くが、これはその実例である。
 数百年もすぎると、実際にそれを見てきた人間は一人もいなくなる。偉そうに書かれている論文などでは、主観が入りすぎていて役に立たない。しかし、通俗小説等の中で、登場人物が何の気なしにポロッと口から出した言葉の端々を、落ち穂拾いでもするように一つ一つ拾い集めて組み立ててゆけば、当時の社会がかなり正確に再現できることだろう。

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