太宗即位
 
 武徳九年(626)七月、秦府護軍秦叔寶を左衞大将軍、程知節を右武衞大将軍、尉遅敬徳を右武候大将軍とした。
 壬辰、高士廉を侍中、房玄齢を中書令、蕭禹を左僕射、長孫無忌を吏部尚書、杜如晦を兵部尚書とした。
 癸巳、宇文士及を中書令、封徳彝を右僕射、以前の天策府兵曹参軍杜淹を御史大夫、中書舎人顔師古、劉林甫を中書侍郎、左衞副率侯君集を左衞将軍、左虞候段志玄を驍衞将軍、副護軍薛萬徹を右領軍将軍、右内副率張公謹を右武候将軍、右監門率長孫安業を右監門将軍、右内副率李客卿を領左右軍将軍とした。
 安業は無忌の兄、客卿は靖の弟である。 

 太子建成、斉王元吉の党類は民間へ散り去った。赦令は何度も出たが、彼等は不安でならず、また、僥倖を求める者は争って密告して褒賞を求めた。
 諫議大夫王珪が太子を諭したので、丙子、太子は令を下した。
「六月四日以前に東宮や斉王と関係のあった者及び十七日以前に李援と関係があった者を告発してはならない。違反した者は罰する。」
 丁酉、諫議大夫魏徴を山東へ派遣して宣慰させ、諸々の意見を聞き取らせた。徴が磁州へ到着すると、州県の役人が、前の太子の千牛の李志安、斉王の護軍の李思行を禁錮して京師へ連行しているのに遭遇した。そこで、徴は言った。
「吾が命令を受けた日、前宮や斉府の左右は全て赦して不問に処すと令が出た。だが、今、思行等が連行されたら、党類は不安になる。しかし、使者を派遣して太子の令を伝えても、誰が信じるだろうか!よし、例え我が身に嫌疑が掛かっても、国慮を放置するわけには行かない。それに、既に国士として遇されたのだ。国士として報いなければならない!」
 遂に、これを皆解き放して逃がしてやった。太子はこれを聞いて、甚だ喜んだ。
 右衞率府鎧参軍唐臨は、地方へ出向して萬泉丞となった。萬泉県では、囚人が十人ばかり牢獄に入れられていた。そんな折、春に雨が降った。臨は、囚人達もこの機会に種まきや耕作をしたいだろうと、彼等を期限付きで釈放してやった。すると、約束の期日に囚人達は皆、牢獄へ戻ってきた。
 臨は、令則の弟の子供である。 

 八月、癸亥、位を太子へ伝えると制が降りた。太子は固辞したが、許さない。
 甲子、東宮の顕徳殿にて、太宗が皇帝位へ即いた。天下へ恩赦が下り、関内及び蒲、丙(「草/丙」)、虞、泰、陜、鼎の六州は二年間、その他の州は一年間、租税を免除する。 

 詔が降りた。
「宮女が多すぎるが、彼女達は一生幽閉されるのでは可哀相だ。宮殿から出て親元へ帰りたい者は、自由に出て行って良い。」 

 丙子、妃の長孫氏を皇后に立てた。
 后は幼い頃から読書を好み、行いは必ず礼法を遵守した。上が秦王になり、太子建成や斉王元吉と対立すると、后は高祖へ良く仕え、妃嬪にも恭順で、皆の取り持ち役となり、内助の功がすばらしかった。正式の中宮となっても、節約を第一にして、服などは支給された物だけしか持たなかった。
 上はこれをとても重んじ、彼女と共に賞罰を議しようとしたが、后は辞退して言った。「『雌鶏が時を告げれば、家が惑うだけ。』と言いますわ。妾は婦人です。どうして政治へ口出しできましょうか!」
 固くこれを問うたが、遂に参与しなかった。 

 八月、突厥が大挙して押し寄せ、京師では戒厳令が布かれたが、太宗皇帝が陣頭にて対峙し、叱咤して追い返した。その経緯は「突厥」に記載する。
 九月、丁未、上は諸衞将卒を率いて顕徳殿にて射撃の練習を行い、彼等を諭して言った。
「戎狄の来寇は、古来からあった。だが、辺境が少し安寧になると、人主は戦争を忘れて逸楽に流れる。だから、戎狄の来寇を防ぐことができないのだ。今、朕はお前達へ池を掘らせたり砦を築かせたりせずに、弓矢の習得に専念させている。無事なときは汝等を師とし、突厥が入寇したら汝等を将とするならば、中国の民も少しは安んじることができよう!」
 ここにおいて、毎日数百人を選んで殿庭にて射撃を教えた。上は自らこれを御覧になり、的中数の多い者へは褒賞として弓、刀、帛などを賜り、将帥は進級させた。大勢の群臣達が、これを諫めて言った。
「律では、陛下の近くで武器を持っているものは絞首刑となっています。今、身分賤しい者達が弦を張った弓を挟んで陛下の側におります。陛下が彼等の間を廻っているときに、もしも酔狂者が馬鹿な真似をしでかしたらどうなりましょう。社稷を軽く扱う行いでございます。」
 韓州刺史封同人は、急用と誤魔化して駅馬を使ってまで上京し、入朝して切に諫めた。しかし、上はすべて聞かずに、言った。
「王は四海を家族同然に見る者だ。この国内は、皆、朕の赤子だ。朕は一々誠意を推して服中に置いている。なんで、宿衞の士へ猜忌を加えられようか!」
 この一件で人々は自ら激励し、数年の間に悉く精鋭になった。
 上は、かつて言った。
「我は若い頃から四方を経略し、どうにか用兵の要点は知った。敵陣を見るごとに、その強弱を知り、常に我が弱い部隊を敵の強い部隊にぶつけ、我の強い部隊を敵の弱い部隊にぶつけるようにしている。敵が、我等の弱味に乗じても、数十百歩前進するのが関の山。だが、我等が敵の弱味に乗じれば、必ず敵の陣後に出て反転し、敵陣を背後から撃つ。そうすれば、潰れ去らない敵はいない。我等は、大半がこの手で勝ってきたのだ。」 

 同月、己酉、上が、長孫無忌等勲臣の爵邑を、面談で定めた。陳叔達へ、殿下にて名を唱えてこれを示すよう命じ、かつ、言った。
「朕が卿等へ叙勲褒賞するのに、まだ洩れたところがあるかも知れない。それは、各自申し出るように。」
 おかげで、諸将は功績を争い、紛々と騒がしくなった。
 淮安王神通が言った。
「臣は関西で挙兵して義旗に真っ先に呼応した。今、房玄齢、杜如晦等はただ文書を弄ぶだけなのに、その位は功臣達の上にいる。納得できないな。」
 上は言った。
「義旗を起こした時、叔父は確かに最初に呼応しましたが、それは自分の禍から逃れるためでもあったのです。竇建徳が山東を占領した時には叔父の軍は全滅しましたし、劉黒闥が余党を集めて再興した時には叔父は尻に帆掛けて逃げました。玄齢等は帳幄の中で謀略を巡らせ坐して社稷を安んじました。論功行賞では、叔父の上に立つのが当然です。叔父は国の至親で、朕も誠に情愛を禁じ得ませんが、私恩を以てみだりに勲臣と同じ賞を与えることはできません!」
 これを聞いて、諸将は互いに語り合った。
「陛下は実に公正だ。淮安王へ対してでさえも贔屓をしなかった。我等も必ず分け前にあずかれるぞ。」
 ついに、皆は悦び服した。
 房玄齢が、かつて言った。
「古くから秦府に仕えていながら官位が昇進しなかった者達が、皆、怨嗟して言い合っています。『我等は側近くに仕えて幾年にもなる。それなのに、今の官位は却って斉府からの新参者達にも劣るではないか!』と。」
 しかし、上は言った。
「王は至公無私だからこそ、天下の心が服従するのだ。朕や卿等が毎日消費している衣食は、皆、諸民から取ったものなのだ。だから、官を設け職を分けて民の為に政務を執るのだ。常に賢才から先に登庸していかなければならない。なんで新旧などで後先を決めて良いものか!新参で賢人と古株で不肖の者が居たなら、なんで新参を棄てて古株を取れようか!賢不肖を論じもしないで怨嗟のみを直言するなど、政治の礼ではないぞ!」
 九月、詔がおり、太子建成を息王に追封し、諡を隠とした。斉王元吉は、刺王とし、それぞれ太子や王の礼で改葬する。葬儀の日、上は宣秋門で非常に哀しげに哭いた。
 魏徴と王珪が、墓所まで陪送することを表請すると、上はこれを許し、宮府の旧僚達は皆、送葬するよう命じた。
 癸亥、皇子中山王承乾を太子に立てた。御年八才。
 庚辰、功臣の実封を定めた。功労によって、それぞれ差がある。 

 初め、蕭禹が封徳彝を上皇へ推薦した。上皇はこれを中書令とした。
 上が即位すると、禹は左僕射、徳彝は右僕射となった。議事の時には、徳彝は屡々禹へ反論した。これによって、二人の間に溝ができた。
 この時、房玄齢、杜如晦が寵用されはじめたが、彼等は徳彝へ加担して禹を疎んじた。禹は平静でいられず、ついに封書を上へ提出し、これを論じた。その指摘した内容は閑散としたものだったので、上は禹へ不快感を持った。やがて、禹が陳叔達と上の前で忿争した。 九月、庚辰、禹と叔達は不敬罪に当たるとして、官職を罷免された。 

 甲申、民部尚書裴矩が上奏した。
「突厥の略奪暴行にあった民へ、一戸当たり絹一匹を給賜いたしましょう。」
 上は言った。
「朕は真実、御下を信頼しているが、いたずらに撫恤の虚名を取ろうとは思わない。戸には大小有るのに、どうして一律の給賜で済まされようか!」
 そこで、戸ごとの人間の数に合わせて給賜することにした。 

 上が裴矩へ言った。
「上書が多い時は、出入りする時にでも読めるように、壁へ張り付けている。治道を思っているうちに、深夜まで起きていることも屡々だ。公輩は朕のこの想いに沿えるように、それぞれ職務に精励せよ。」
 上は善政を布く事に励むあまり、時々魏徴を寝所まで引き込んで、得失を訊ねた。徴は知っていることは一つも隠さない。上は、皆、喜んで嘉納した。
 上が徴兵のために使者を派遣しようとすると、封徳彝が上奏した。
「中男は十八才未満ですが、体の大きい者は徴発しても宜しいかと思います。」
 上はこれに従った。
 だが、この敕が出ても、魏徴は不可と固執して譲らず、敕が四回出ても署名しなかった。上は怒り、これを呼び出して詰った。
「中男で体が大きいとゆうのは、姦民が徴兵を逃れるために戸籍を誤魔化しているのだ。それを徴発して何の害があるか。卿はなんでここまで固執するのだ!」
 対して、徴は答えた。
「兵は、統制する方法をわきまえることが肝腎なのです。大勢いればよいのではありません。陛下が壮健な者だけを徴発して道を以て操ったならば、天下無敵です。なんで細弱者まで徴発して兵力を水増しする必要がありましょうか!それに、陛下はいつも言われているではありませんか。『我は、誠信で天下へ対する。臣民も全て詐欺を働かないようにしたいものだ。』と。今、即位して時も経たないのに、信義を幾つも失っていますぞ!」
 上は、愕然として言った。
「朕が、どうして信義を失うのか?」
 対して言う、
「陛下が即位された時、下詔なさいました。『国の税金を滞納している者が居ても、全て免除してやろう。』ところがある役人は、秦府国司の税金を滞納している者へ対して、『これは国の税金ではないから該当しない』として、従来通り督促しました。しかし、陛下は秦王から天子へ昇進なさったのです。秦国司のものが国のものでなくて一体何でしょうか!
 また、言われました。『関中の祖と調は二年間免除し、関外は一年給復する』と。そして、後に敕を出されました。『既に税を納入したり、服役した者へ関しては、来年から始めよ。』おかげで役人達は、返還していた祖や調を民から再び徴収しました。これでは百姓は怪しまずにはいられません。今、既に徴発しましたのに、さらに今度は徴兵します。どうして来年から始めると言えるのですか!
 また、陛下と共に天下を治めるのは、太守や宰相であります。通常はその書簡を閲覧するとき、彼等へ業務を委任しておりますのに、徴兵に関してのみ彼等が偽っていると疑われる。これで誠信で治めていると言えましょうか!」
 上は悦んで言った。
「卿が固執しているのを見て、朕は、卿が政治に精通していないのではないかと疑ったのだ。だが、今、卿が論じた国家の大礼は、まことにその精要を尽くしている。それ、号令に信義がなければ、民は何に従って良いか判らない。それでどうして天下が治められようか!朕の過は深いか!」
 そして中男の徴発を中止し、徴へ金を甕一つ賜下した。
 上は、景州録事参軍張玄素の名声を耳にしていた。召し出して政治の道について訊ねたところ、彼は言った。
「隋主は、自分で万機を行い、群臣へ委任しませんでした。群臣は恐懼してただ手先に使われるだけで、敢えて異議を唱える者は居ませんでした。一人の智で天下の務めを決裁しては、仮に得失が半々だとしても、過ちは数多く起こります。それなのに下の者は上へ追従してそれを覆い隠します。これでは滅びずには済みません!
 陛下が、まことに謹んで群臣を選び仕事を分け与えて委任し、陛下自身は心を清くして高みから検分しその結果を見て賞罰を施せば、なんで治まらぬ事がありましょうか!
 また、臣は隋末の乱世を観ましたが、天下を欲して争う者は、たかが十余人に過ぎませんでした。その他の者は故郷を保ち妻子を全うし、帰順するべき有道の君を待っていたのです。それを観て臣は、乱世を好む百姓が少ない事を知ったのです。それでも天下が乱れたのは、人主が彼等を安寧にさせなかったのです。」
 上はその言葉を善として、侍御史へ抜擢した。 

 前の幽州記室中書省張蘊古が大寶箴を作成して献上した。その一節に言う。
「聖人は、溺れるものを救い行き詰まった者を解放する為に、天命を受けるのである。だから、一人で以て天下を治めるのであり、天下で以て一人に奉仕するのではない。」
 また言う、
「居城を壮麗な九重にしたところで、膝を入れるだけの場所にしか居れないのだ。それなのに昏迷で道理を知らない者は楼台や宮室を立派な宝玉で飾り立てる。目の前に八珍のご馳走を並べ立てても、腹に満ちるだけしか食べられない。だが狂乱で考えのない暴君は、酒粕で丘を造り酒で池を満たす。」
 また言う、
「没々と暗いことがあってはならないが、察々と煩わしく細かいアラを探し明哲と誇ってはならない。君主の冠には、その明哲さを覆い隠す為に前後に紐が垂れ下がっているが、形がハッキリと現れる前に物事を見通さなければならない。また、黄色の綿を玉にして冠の両辺にかけて耳を塞いでいるが、人の言語音声が出る前によく聴かなければならない。」
 上はこれを嘉し、束帛を賜下し、大理丞に任命した。 

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