北周、北斉を滅ぼす   2.北斉の滅亡
 
後主逃亡 

 晋陽へ戻った後主は、怯えきって為す術も知らない。甲寅、北斉は大赦を行った。
 後主が朝臣へ善後策を尋ねると、皆は言った。
「賦役を省いて民心を慰め、兵卒を撤収して城を背に死戦するのです。それでこそ、社稷を安んじることができます。」
 しかし、後主はこれを聞かず、安徳王延宗と廣寧王孝行に晋陽を守らせて、自身は北朔州へ逃げようと思った。晋陽が落ちれば、突厥へ逃げ込むのだ。臣下達は皆、これを止めたけれども、後主は従わなかった。
 開府儀同三司賀抜伏恩等宿衛の近臣三十余人が、北周軍へ駆け込んで降伏した。武帝は、各々官位を与えた。
 高阿那肱の指揮する兵力は一万。彼は、これで高璧を守り、他の兵卒は洛女砦を守った。武帝が兵を率いて高璧へ迫ると、高阿那肱はトットと逃げ出した。斉王憲が洛女砦を攻撃して、これを抜く。
 在る軍士が告発した。
「高阿那肱が西軍を招き入れたのです。」
 後主が使者を派遣して真偽を問うと、高阿那肱はでっち上げだと否定した。そして、晋陽まで帰ってきたが、今度は彼の腹心から謀反をたくらんでいると告発された。高阿那肱はこれも否定した。後主は密告者を斬った。
 乙卯、安徳王延宗と廣寧王孝行に募兵させた。安徳王が謁見すると、後主は、北朔州へ逃げることを告げた。安徳王は泣いて諫めたが、後主は聞かない。まず、皇太后と皇太子を、密かに来た朔州へ送り出した。 

  

安徳王の抗戦 

 武帝は、斉王憲と介休で合流した。北斉の開府儀同三司韓建業が、城を挙げて降伏した。そこで武帝は、彼を上柱国とし、公爵に封じた。
 その夜、後主は逃げだそうとしたが、諸将が従わなかった。
 周軍は遂に、晋陽まで進軍した。
 後主は再び大赦を下し、隆化と改元する。安徳王を相国、ヘイ州刺史に任命し、山西の兵を全て預け、言った。
「兄上へ全てを与える。我は今から逃げる。」
 安徳王は言った。
「陛下、社稷の為に留まってください。臣は陛下の為に死力を尽くして戦います。必ず勝ちます!」
 穆提婆が言った。
「至尊の心は決まっておる。王は邪魔するのか!」
 後主は、夜、五龍門を斬って晋陽を出た。そして突厥へ逃げ込もうとしたが、従者達は大半が散り散りに逃げた。領軍の梅勝郎が、馬を叩いて諫め、馬首を業へ向けた。
 この時、後主に従っていたのは、高阿那肱等十余騎だけだった。その後、廣寧王や襄城王彦道などが次々とやって来て、数十人になった。
 陸令萓は自殺した。家族は皆、誅殺された。
 穆提婆は北周へ降伏した。すると武帝は、穆提婆を柱国・宜州刺史に任命し、北斉の群臣へ詔で諭した。
「降伏する者には、それぞれに官位や爵位を与える。」
 これによって、北斉の臣下達は続々と降伏してきた。
 かつて高歓が魏の丞相となった時、唐邑を典外兵曹、白建を典騎兵曹に抜擢した。やがて唐邑は録尚書事にまで出世したが、その時の兵権はそのまま遺留されていた。しかし、彼は高阿那肱と仲が悪かったので、後主の時代になって高阿那肱の讒言により、兵権を取り上げられてしまった。以来、唐邑は鬱々としていた。そうゆう訳で、今回後主が都落ちしたが、唐邑は晋陽へ留まった。
 ヘイ州の将士は安徳王へ言った。
「王が天子にならなければ、諸人は死力を尽くしません。」
 安徳王はやむを得ず、即位した。大赦を下し、徳昌と改元する。晋昌王唐邑が宰相となった。斉昌王莫多婁敬顕、右衛大将軍段暢、開府儀同三司韓骨胡等を将帥とする。
 人々はこれを聞くと、招かれもしないのに自発的に集まってくる者が相継いだ。(ただし、北史では正式の皇帝に扱われてはいないので、以後も安徳王と記載する。)
 安徳王は、官庫の財宝や後宮の女性達を将士へ賜下し、内参の十余家の家財を没収した。後主は、これを聞いて近臣へ言った。
「あれならば、ヘイ州を北周へくれてやった方が余程ましだった。」
 左右は皆、言った。
「仰せの通りでございます。」
 安徳王は、士卒を見る度に親しく手を執り、名前を呼んで嗚咽したので、皆は争うように死へ赴いた。女子供でさえ、屋根へ登って石を投げ、敵を防いだ。
 己未、北周の武帝が晋陽へ到着した。庚申、北斉の後主が業へ入城した。
 周軍は、晋陽を包囲している。それはあたかも、晋陽城を黒雲が四方から包み込んだかのようだった。安徳王は、莫多婁敬と韓骨胡に城の南側を守らせ、和阿干子と暢に東側を守らせ、自らは北側の斉王憲と対峙した。安徳王は、もともと肥っており、常々そのスタイルが笑いものにされていたが、この時には矛を取って縦横無尽に飛び回った。
 和阿干子と暢が、北周へ降伏したので、武帝は、遂に東門から突入した。そして、辺りの寺院を焼き払う。すると安徳王は、東門へ駆けつけて周軍を挟撃したので、北周軍は大混乱に陥ち入り、二千人からの死者を出した。
 この時、武帝は左右から敵に挟まれて逃げ道を無くしてしまったが、承御上士の張寿が武帝の乗馬の首を牽き、賀抜伏恩が鞭を振るって敵を払い、ようやく囲みを突破して逃げ出した。北斉軍はその背後から弓を射た。そのうち数発は、武帝へ命中した。
 城東の道は、曲がりくねっている。しかし、賀抜伏恩と降伏した皮子信が道案内し、どうにか逃げおおせることができた。
 安徳王は、”乱戦の中で、北周の武帝は戦死した。”と宣伝して、積み重ねられた死体の中から髭の長い屍を探させたが、見つからなかった。
 この時、北斉軍は既に勝ったものと喜んで、宿舎へ帰って酒盛りを始めた。兵卒達は酔っぱらってしまい、安徳王が号令を掛けても整列できなかった。
 城から脱出した武帝は、ひどく腹ぺこで、もう帰りたいと思ったし、諸将もそれを勧めたが、宇文忻が勃然として進み出て言った。
「陛下は、晋州から、勝ちに乗じてここまで進軍なさいました。今、北斉の偽帝は逃げ出し、関東は鳴動しております。古今未曾有の大戦果です。昨日は城を破りましたが、将士達が敵を軽く見た為に、いささか不利になっただけ。この程度のことで、何を言われますか!そもそも大丈夫は、死中に生を求め、敗北の中から勝利を掴み取るものです。ましてや今、破竹の勢いに乗っておりますのに、何でこれを棄てて逃げ出しますのか!」
 斉王憲と柱国の王誼も、今を逃したらもう好機がないと言い、暢は城内が力尽きていると力説した。そこで武帝は馬を留め、角笛を鳴らして兵卒を集めたので、勢力は忽ち盛り返した。
 明け方になって、再び東門を攻撃する。安徳王は、力尽き、城北へ逃げたが、遂に北周軍に捕まった。武帝は、馬を降りて安徳王の手を執った。すると安徳王は辞退して言った。
「死人の手が至尊の手に触れるなど、畏れ多い。」
 武帝は言った。
「両国の天子は、互いに怨みあっていたわけではありません。ただ、私は民衆のために来たのです。貴公を害しようとは思いません。どうか恐れなさいますな。」
 そして、衣帽を着せて、礼遇した。
 唐邑等も、皆、北周へ降伏した。ただ、莫多婁敬顕のみは、業へ逃げ込んだ。後主は、彼を司徒にした。
 北周は、大赦を下して文武の士を招き寄せた。
 ところで、安徳王が帝位へ即いた時、瀛州刺史の任城王皆へ使者を送って言った。
「至尊が出奔しました。宗廟は大切なので、群公が私へ迫って帝位へ即かせたのです。事態が収束すれば、これは叔父上へお返しいたします。」
 すると、任城王は言った。
「我は人臣だ。なんでこんな事を受け入れられようか!」
 そして、使者を捕まえて業へ送った。 

 さて、話は遡るが、かつて伊婁謙が北斉へ使者に立った時、彼の参軍の高遵が北斉へ情報を流したので、伊婁謙は晋陽に幽閉された。今回、武帝は晋陽を落とすと、伊婁謙を呼び出して、いたわった。そして、高遵を捕らえ、伊婁謙へ与えて自由に報復するよう言った。すると、伊婁謙は彼を赦すよう請うた。
 武帝は言った。
「それなら、せめて皆の前で唾を吐き掛けて、辱めてやったらどうだ。」
「高遵の罪は、そんなものではありません。」
 武帝は、笑って赦してやった。伊婁謙は、高遵を従前通りに遇した。
(司馬光、曰く。)
 功績があれば賞し、罪があれば誅する。これが人君の仕事である。
 高遵は異国へ使者となり、国家機密を漏洩した。これは、叛臣である。それなのに、北周の武帝は殺戮を行わず、伊婁謙へ賜下し、私怨を晴らさせようとした。これは政刑を失っている!
 さて、伊婁謙の身になって論じるなら、高遵の賜下を辞退して受けなかったのなら、役人へ引き渡して刑法に則って裁かせるべきである。それなのに、彼を赦すように請うて立派な人間であるとゆう評判を貪った。彼の取った行動は、そりゃ、美しいかも知れない。しかし、公義ではない。 
 いみじくも、孔子は言ったではないか。「徳を以て怨みに報いるのなら、徳へ対しては何で報いればよいのか。」と。 

  

  

後主の対応 

 北斉の後主は、大金を提示して勇者を募ったが、しかし、遂に褒賞を出さなかった。廣寧王が請うた。
「幽州道の兵を率いて土門関へ来るよう、任城王へ命じ、ヘイ州へ救援に来ると宣伝しましょう。そして独孤永業には洛州道の兵を率いて潼関へ入らせ、長安を攻撃すると宣伝するのです。臣は京畿の兵を率いて釜口へ出、軍鼓を鳴らして迎撃します。敵は、南北から反撃されたと聞けば、自然に逃げ出すでしょう。」
 又、宮殿の珍宝を将士へ賜下するよう請うた。後主は不機嫌になった。
 斛律孝卿は、後主へ将士を慰労するよう請い、言った。
「激励の言葉を掛けた上で、慷慨して涙を零せば、きっと人々は心を掻き立てられます。」
 そこで後主は将士の前へ出たが、言うべき言葉を忘れてしまい、遂に大笑いしてしまった。近習達も笑った。将士は皆怒り、戦意は完全になくなった。
 ここに至って、官職が乱発された。大丞相以下太宰、三師、大司馬、大将軍、三公等の官職は三人四人へ与えられ、数え切れないほどの貴人が生まれた。 

 朔州行台僕射高萬が、兵を率いて太后や太子の護衛をして、土門から業へ戻ってきた。この時、宦官儀同三司の苟子溢が寵愛を恃んで暴虐に振る舞っていた。高萬は、彼を捕らえて斬ろうとしたが、太后が命乞いをしたので、どうにか釈放された。
 ある人が、高萬へ言った。
「苟子溢等は、いつも太后の側にいるのだから、その口先三寸で、どんな禍福が巻き起こるか判らない。後患を考慮しなかったのか?」
 すると、高萬は言った。
「北周は、ヘイ州まで攻め込んでいるし、貴人達は逃げ出して降伏した。それもこれも、こいつらが朝廷を掻き乱したせいだ。もしも奴等を斬れるなら、翌日誅殺されても恨みはないぞ!」
 高萬は、高岳の子息である。 

 丙寅、北周の武帝は、北斉宮中の珍宝や二千人の宮女を将士へ賜下した。功績を建てた者へは、それに見合った官爵を与える。
 武帝が、高延宗へ業を攻撃する方策を尋ねると、彼は答えた。
「それは、亡国の臣下などに判ることではありません。」
 しかし、強いて尋ねると、言った。
「もしも任城王が業を守るのなら、手の打ちようを知りません。しかし、後主自身が守るのなら、刃に血を塗らずして陥落できます。」
 癸酉、北周軍は業へ進軍した。斉王憲を先鋒として、上柱国陳王純をヘイ州総管とする。 

 後主は、高官達を朱雀門へ召集し、美酒佳肴を振る舞って、防御策を尋ねた。だが、それぞれ違うことを言い、後主はどれに従って良いのか判らない。
 この時、人々は恐惶を来しており、闘争心など無くなっていた。朝な夕なに降伏する者が続出した。
 高萬は言った。
「降伏している者は、そのほとんどが貴人で、兵卒達はまだ心を残しております。ですから、五品以上の官人の家族を三台へ監禁し、彼等を脅して戦わせましょう。『もしも負けたら、台を焼き払う。』と。そうすれば奴等は、妻子愛しさに必死で戦います。それに、我が軍は敗走続きですから、敵は我等を軽く見ています。ここで城を枕に決戦すれば、必ず勝てます。」
 しかし、後主はこの案を採用できなかった。 

  

譲位 

 占い師が、雲気を見て、言った。
「主君が変わります。」
 そこで後主は、皇太子へ位を譲ることにした。
 九年、北斉の太子恒が即位。まだ八歳だった。彼は、後世”幼主”と呼ばれている。承光と改元し、大赦を下す。後主は太上皇帝となる。(ただし、便宜上、以後も”後主”と表記します。)廣寧王が、太宰となる。
 司徒の莫多婁敬顕と領軍大将軍尉相願が、造反を企てた。千秋門へ兵を伏せ、高阿那肱を斬って廣寧王を立てようとゆうもの。しかし、高阿那肱が別の道を通って入朝したので、果たせなかった。
 廣寧王は、北周軍を防ごうと、高阿那肱等へ言った。
「朝廷が反撃の軍を出さないのは、この廣寧王の造反を恐れてのことか?廣寧王がもしも周帝を撃破したら、そのまま長安を攻め落としてやる。なんで造反などしようか。この危急の事態に、つまらない邪推などするな!」
 しかし、高阿那肱と韓長鸞廣寧王の造反を恐れて、彼を滄州刺史として下向させた。
 尉相願は、佩刀を抜くと、柱へ叩きつけて、嘆じた。
「大事は去った。また、何をか言わんや!」 

  

業、陥落 

 後主は、長楽王尉世弁へ千騎を与えて、偵察に行かせた。彼が釜口を出て高丘へ登り西を望めば、遙か彼方で多くの鳥が飛んでいた。長楽王は、これを西軍の旗幟と思いこみ、逃げ帰った。この時彼は、紫陌橋まで後をも見ないで駈け続けたとゆう。
 ここにおよんで、黄門侍郎顔之推、中書侍郎薛道衡、侍中陳徳信等が、後主へ河南へ行って募兵するよう勧めた。
「もしも再び黄河を越えることができなかったなら、そのまま陳へ亡命すればよいのです。」
 後主は、これに従った。
 丁丑、後主は済州へ御幸した。癸未、幼主も業から東へ向かった。
 己丑、北周軍が紫陌橋まで進軍した。
 壬辰、北周軍は業城下へ進んだ。癸巳、北周軍は業を包囲して西門を焼いた。北斉軍が出撃したが、北周軍は、これを撃破した。
 後主は武衛大将軍慕容三蔵に業宮を守らせていた。北周軍が業へ入城すると、北斉の王公達は、相継いで降伏してきた。そんな中、慕容三蔵は最後まで抗戦した。北周の武帝は、彼を引き出して謁見すると、儀同大将軍に任命した。慕容三蔵は、慕容紹宗の子息である。
 領軍大将軍鮮于世栄は、捕らえられたけれども、最後まで屈服しなかった。武帝は、これを殺した。
 また、武帝は莫多婁敬顕を引き出すと、言った。
「おまえには、死罪に値する悪行が三つある。晋陽から業へ逃げ出した時、妾を連れてきたが、母親は見捨てた。これは不孝だ。上辺は偽朝(北斉)の為に尽くしながら、その実、朕へ内通していた。これは不忠だ。二股掛けは、不信だ。そんな性根の奴を、殺さないで何としようか!」
 遂に、これを斬った。
 後主へ対しては、将軍尉遅勤へ追撃させた。
 甲午、武帝は業へ入城した。 

 北斉の国子博士熊安生は、五経に精通していた。彼は、武帝が業へ入城したと聞くと、童僕達へ門の前を掃き清めさせた。一人が訳を聞くと、言った。
「武帝は儒教を尊んでいると聞く。必ず我へ会いに来る。」
 果たして、武帝自ら熊安生の屋敷へやって来た。熊安生は拝礼しようとしたが、武帝は許さず、その手を執って、共に坐った。そして、膨大な恩賞を与える。
 北斉の中書侍郎李徳林のもとへは、使者を派遣して、言った。
「北斉を平定した最大の収穫は、お前を得た事だ。」
 次に、武帝は内史の宇文昴に北斉朝廷の風俗政教や人物の善悪を検分させた。 

  

北斉滅亡 

 乙未、後主は黄河を渡って済州へ入った。
 同日、幼主は帝位を大丞相任城王へ禅譲した。上皇(後主)を尊んで無上皇とし、幼主は宋国天王とする。斉の危急の際に、国号を「宋」(別の本では「宗」となっている。)と改めたのだ。侍中の斛律孝卿へ、禅譲文と国璽を瀛州へ運ぶよう命じたが、斛律孝卿は業へ駆け込んだ。 

 北斉の洛州刺史独孤永業のもとには、まだ三万人の武装兵がいた。彼は晋州の陥落を聞くと、出撃を要請したが、待てど暮らせど返事が来ない。彼は憤慨した。そのうちにヘイ州陥落の報が入ったので、子息の斛律須達を派遣して、北周へ降伏した。武帝は、独孤永業を上柱国として、応公に封じた。 

 後主は、胡太后を済州へ留め、高阿那肱へ済州関の守備を命じた。そして自分は、穆后、馮淑妃、幼主、韓長鸞等数十人と青州へ逃げた。その傍ら、内参の田鵬鸞へ北周軍の偵察を命じたが、彼は北周軍に捕まってしまった。北周軍が、後主の在処を尋ねると、田鵬鸞は答えた。
「北周と戦うため、今頃は国境付近へ到着している頃だ。」
 北周軍は信じずに、拷問を加えた。しかし田鵬鸞は、四肢を折られる度にいよいよ声色を激しくするばかり。結局田鵬鸞は、四肢を折られて死んだ。
 後主は青州から陳へ亡命しようと思っていた。一方、高阿那肱は、後主を殺さないとゆう条件で北周軍と内通した。彼は北周軍を密かに招き寄せると共に、後主へ屡々連絡した。「北周軍は、まだ遠くにいます。黄河にかかっていた橋も、既に焼き払ってしまいました。」
 後主は、それを聞いて安心し、青州にゆっくりと留まった。
 北周軍が済州関へ到着すると、高阿那肱は即座に降伏した。北周軍は、そのまま青州へ疾風のように進軍した。後主は金を鞍に繋いで、后・妃・幼主等十数騎で南へ逃げたが、途中、とうとう尉遅勤に捕まった。尉遅勤は彼等を、胡太后と共に業へ送った。
 後主を捕まえると、武帝は詔を降ろした。
「斛律光や崔李舒等は諡を追賜して、改葬する。彼等の子孫も、各々縁故登庸するように。没収されていた土地財産も全て返す。」
 また、斛律光を名指しで指して言った。
「この人がいれば、どうして朕が業へ入ることができただろうか。」
 辛丑、詔した。
「斉の山東、南園、三台は、全て撤毀するように。その折、瓦や木などの諸物は全て民へ賜下する。山園の田は、各々もとの持ち主へ戻す。」 

 二月、武帝は斉の太極殿にて将士へ恩賞を賜った。
 丁未、高偉(後主のこと。既に囚われの身となったので、「斉主」ではなく、本名で記載された。)が業へ護送された。武帝は階段を下り、賓客の礼で彼を遇した。 

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