後主
 
禍の芽は・・・ 

 太建元年(569年)。博陵王済は、世租の同母弟である。彼は定州刺史に任命された。すると、知人へ言った。
「順序から言えば、次は俺だったはずだ。」
 それを聞いた後主は、刺客を放って殺した。 

(訳者、曰く)
 弟の東平王から惰弱と呼ばれ、側近からは幼いと危惧された皇帝だと思っていたら、あっさりと叔父を殺してしまった。なかなかやるものですねえ。 

  

奸臣を遠ざけろ 

 二月、司空の徐顕秀が太尉となり、尚書令の婁定遠が司空となった。
 和士開は、もともと世租と昵懇の仲で、後宮にも自由に出入りしているうちに、遂には胡后と同衾するようになった。
 世租は崩御に臨んで、和士開に後主を託した。それで後主は、和士開を深く親任した。そうゆうわけで、和士開の権勢は、ますます増大した。
 和士開は、婁定遠、趙彦深、元文遙、開府儀同三司唐邑、領軍棊連猛、高阿那肱、度支尚書胡長粲と共に政治を独断し、人々からは「八貴」と呼ばれた。しかし、和士開の権勢が際だっていたので、彼等は心中和士開を疎んじていた。そしてとうとう、趙郡王叡、馮翊王潤、安徳王延宗と婁定遠、元文遙が、和士開を地方へ出すよう、後主へ請願した。また、胡太后が朝廷の貴人達へ、前殿にて酒を賜った時、趙郡王は和士開の罪状を述べて言った。
「和士開は、先帝を弄んだ臣下、城に住む狐や社に住む鼠の類です。賄賂を貪っては、朝廷を掻き乱しました。臣等は、もう黙っておられません。死を冒してでも告発いたします。」
 すると、胡太后は言った。
「先帝が在りし時、王等はどうしてそれを告発しなかったのですか?そして今日、孤寡を騙そうとゆうのですか?それに、酒の席です。口数が過ぎますぞ!」
 趙郡王等は引き下がったが、憤懣やるかたない有様だった。
 儀同三司安吐根が言った。
「臣は、もともと胡の商人。それがここまでなれましたのは、偏に陛下の御厚恩。ここまでの恩顧を蒙りましたら、どうして命を惜しめましょうか!和士開を朝廷から出さなければ、朝野の動揺は収まりません。」
 太后は言った。
「その件は後日、今日は解散します!」
 趙郡王等は、あるいは冠を地面に叩きつけ、あるいは衣を払って、退出した。
 翌日、趙郡王等は再び雲龍門へ詣で、元文遙へ取次を頼んだ。しかし、彼が三度往復しても、胡太后は聞かなかった。
 左丞相の段韶は、胡長粲に、胡太后の言葉を伝言させた。胡長粲は言った。
「まだもがりの最中なのに、軽率ですぞ。王等、それを思いなさい。」
 それを聞いて、趙郡王等は陳謝して退出した。
 胡長粲が復命すると、胡太后は大いに喜んだ。そして、趙郡王等へ、厚く賜下して、この件をうやむやにしてしまった。
 こんな事が起こったので、胡太后と後主は和士開を呼び出して問うた。すると、和士開は言った。
「先帝陛下は、群臣の仲から臣を特に寵遇してくださったのです。どうして背きましょうか!陛下は未だお若く、深殿におわしましては、なかなか実情に触れることもできませんし、群臣は陛下を欺こう欺こうと徒党を組んでおります。こんな有様で臣を地方へ出すなど、自ら羽翼をもぎ取るようなものです。ですから、趙郡王へ言われて下さい。
『元文遙と和士開は、ともに先帝から後事を託されたのだ。そのうちの一人を止めて一人を追い出すようなことが、どうしてできようか!先帝の葬儀が済んで落ち着いたなら、二人とも州刺史として地方へ出向させよう。』と。そうすれば、彼等も信じ込んで暫くは大人しくなるでしょう。」
 太后も後主も、この案に同意し、趙郡王にはそのように伝えた。こうして、和士開はコン州刺史、元文遙は西コン州刺史に任命された。
 葬儀が終わると、趙郡王等は、和士開の出立をせき立てる。太后は、和士開を留めておきたくて、百日の哭の期間が終わるまで出立を延ばそうとしたが、趙郡王等は承知しない。数日の間に、太后は何度も言い訳をした。
 太后のその態度を見て、意向を汲み取った人間が、趙郡王へ言った。
「太后陛下は、既に決意なさっているのです。殿下はどうしてわずか数ヶ月を争われるのですか?」
 すると、趙郡王は言った。
「我は、後事を託された。これは重大な役目だ。今、陛下はまだお若い。どうしてあんな奸人を側へ置いて居れようか!国を護れなければ、死ぬしかない。あんな奴と倶に天は戴けない!」
 遂に、太后へ直談判に行った。太后が酒を勧めると、趙郡王は血相を変えて言った。
「国家の大事を論じているのですぞ!酒など飲めません!」
 そして、言うことだけ言って、サッサと退出した。
 一方和士開は、美女と宝物を持参して、婁定遠を訪問し、言った。
「貴人達は、私を殺そうとしています。どうか、王のお力でお守りください。この通り、手土産も持参いたしましたので。」
 婁定遠は、喜んで言った。
「朝廷へ戻りたいのかね?」
「いいえ、朝廷にいては、いつ殺されるか不安でなりません。地方へ出向になってホッとしています。朝廷へ戻るなどとんでもない。大王のお力で、大きな州の刺史を長く務められることだけが、私の望みです。」
 婁定遠は、その言葉を信じ込んだ。
 門まで送りに出ると、和士会は言った。
「今回地方へ出向しますので、その前に太后陛下と今上陛下へご挨拶だけしたいのです。」
 婁定遠は、これを許可した。
 こうして、和士開は胡太后や後主と謁見できた。その席で、和士開は言った。
「先帝崩御の折、恥ずかしいことに、臣は殉死することもできませんでした。そして今、朝廷の大臣達を見ますに、彼等は陛下のことを廃立するつもりです。臣が朝廷を去った後に大事が起これば、臣はあの世で、どの面下げて先帝へ会えましょうか!」
 そして慟哭した。後主も太后も貰い泣きし、言った。
「なにか手段はないのか?」
「臣が再び朝廷へ入れればよいのです。ほんの数行の詔で事足ります。」
 こうして、新しい詔が降りた。それは、婁定遠へ青州刺史を命じ、趙郡王の不臣の罪を責めるものだった。
 翌日、趙郡王が諫めに行こうとすると、妻子が止めた。しかし、趙郡王は言った。
「社稷のことは重大だ。この国が腐って行くのを座視するくらいなら、あの世で先帝へ仕えるぞ!」
 殿門まで行くと、皆は止めた。
「殿下、行ったら殺されます!」
 だが、趙郡王は言う。
「我は天に背かない。死んでも恨みはない。」
 こうして、後宮へ入り、太后へ謁見した。太后は和士開を朝廷へ置くと言ったが、趙郡王は自説に固執した。
 趙郡王が退出すると、兵卒がやってきて、彼を捕まえた。そして、華林園の雀離仏院へ送られ、殺された。
 趙郡王は、長い間朝廷の重鎮であり、清廉な人間だったので、人々はこれを惜しんだ。
 和士開は、侍中、尚書左僕射に返り咲いた。婁定遠は、和士開から貰った宝物を全て返しただけでなく、新たにたくさんの宝物を賄賂として贈った。 

  

新帝の新奸臣 

 後主はまだ若かったので、お世辞の巧い人間を取り巻きにしてしまった。武衞将軍高阿那肱は、もともと媚び諂いで世租や和士開から親しまれた人間。世租は、彼を皇太子の側近とした。以来、彼は後主から寵遇され、淮陰王に封じられた。
 宮婢の陸令萓は、もともと夫が謀反人とゆうことで、息子の穆提婆共々後宮の奴隷とされた女性だった。だが、後主がおむつをしていた頃から保養していた。彼女はお世辞が巧く、胡太后から可愛がられたので、後宮では絶対的な権力を振るった。和士開も高阿那肱も、彼女の養子となったほどである。後主は彼女を女侍中とした。
 陸令萓は、息子の穆提婆を後主の側近とした。彼は朝夕後主に狎れ親しみ、遂には開府儀同三司、武衞大将軍へ出世した。このような例は、枚挙に暇がない。
 後主は、租延を懐かしく思い出した。その頃租延は海州へ流されていたが、彼は使者を立てて書状を送った。
「趙彦深は険悪な人間。霍光や伊尹のように、皇帝を傀儡として専制しようとしています。どうか、早めに知謀の士を登庸し、災いを未然に防いでください。」
 和士開も又、租延の知謀は認めており、軍師として迎え入れたかったので、古い恨みを棄てて、使者と一緒になって上奏した。
「襄、宣、昭の三帝の子孫達は、皆、帝位へ即くことが出来ませんでした。今、至尊が帝位へ即けましたのは、租延の力です。功績を建てた人間には、報いなければなりません。租延は節義に薄いとはいえ、その機略は大したもの。それに、彼は既に盲なのです。警戒する必要はありません。」
 後主はこれに従い、朝廷へ呼び戻し、秘書監とし、開府儀同三司を加えた。
 和士開は、尚書令の隴東王胡長仁が驕慢放埒だと讒言し、斉州刺史として出向させた。胡長仁は怨み、刺客を雇って和士開を殺そうとしたが、発覚。和士開と租延は、胡長仁を任地で殺した。 

  

人事 

 十一月、斛律光が太傅となった。馮翊王潤が太保、琅邪王儼が大司馬である。
 十二月、蘭陵王長恭が尚書令となった。中書監魏収が左僕射となる。
 二年、正月、婁叡が卒した。 

  

琅邪王の変 

 和士開の権勢は、日毎盛んになって行く。朝臣の中でも恥を知らぬ者は彼の仮子になったりした。
 ある時、和士開は重病になった。すると、一人の朝士が、黄龍湯を持ってきた。糞を瓶に入れて密閉し、長い間経つと汁ができる。これが黄龍湯で、その色はどす黒く、味は凄く苦い。だが、病気には劇的に効き、瀕死の病人も屡々生き返るとゆう。
 和士開は、黄龍湯のことを知っていたので、つい、飲むのを躊躇してしまった。すると、朝士は言った。
「のみやすいですよ。どうかお疑いにならないで。何なら、私が試して見せましょう。」
 そう言って、黄龍湯をゴクゴクと飲んだ。和士開は、その心に感じて、無理してこれを服用し、ついに病気は平癒した。
(黄龍湯への説明は、たぶんこれで良いと思います。陶弘景の注釈です。しかし、糞から薬ができるとゆうのは、本当なのだろうか?)
 三年、二月。蘭陵王が太尉となり、趙彦深が司空、吏部尚書の馮子宗が右僕射となった。
 馮子宗は、もともと和士開へ媚びへつらっていた人間だが、親戚が太后になってからは、彼女を後ろ盾として好き勝手にやり始めた。以来、和士開との間に隙が生まれた。 

 和士開や穆提婆が専横を極めているので、琅邪王儼(後主の弟、かつての東平王儼)は心中激憤していた。それを気配で察知して、和士開と穆提婆は言い合った。
「琅邪王の目つきは異常だ。奴の眼光に射られると、覚えず冷汗をかいてしまう。天子から睨まれた時でさえ、これ程ではなかったぞ。」
 それで二人して琅邪王を忌み嫌い、とうとう北宮(業の北にある城)へ追い出した。以来琅邪王は、五日に一度しか朝廷へは出られず、太后へ謁見することもできなくなった。
 しかし和士開等に、まだ不安が残った。北城には武器庫があるのだ。そこで彼等は琅邪王を地方へ追い出して兵権を奪ってしまおうと考えた。
 治書侍御史王子宜、開府儀同三司高舎洛、中常侍劉辟彊が、琅邪王へ言った。
「殿下が左遷されるのは、和士開のせいです。どうして北城を出て、地方へ行ってしまうのですか。」
 琅邪王は、侍中の馮子宗へ言った。
「和士開の専横は酷い。奴を殺そうと思うが、どうかな。」
 馮子宗は、後主を廃して琅邪王を即位させようと思っていたので、これを勧めた。
 六月、琅邪王は、王子宜へ和士開を弾劾させた。馮子宗は、その文書を他の諸々の文書に混ぜて後主へ提出した。後主は、他のものへ紛れてうっかり盲判を押してしまう。琅邪王は、領軍の庫狄伏連をたぶらかして言った。
「勅書を賜った。和士開を捕らえよ。」
 庫狄伏連は、馮子宗へ言った。
「この件は、もう陛下へ一度審議して貰ったらどうでしょうか。」
 しかし、馮子宗は答えた。
「敕は降りたのだ。何でもう一度上奏する必要があるのか。」
 庫狄伏連は信じ込み、京畿の兵を徴集し、神虎門外へ伏せた。
 七月、和士開がいつものように早朝に出仕すると、庫狄伏連が、その手を執って言った。
「一大事です。」
 王子宜が箱を渡して言った。
「敕が下りました。台へ行かれてください。」
 そして、軍士達が和士開を護送した。
 琅邪王は、都督の馮永洛を台へ派遣し、和士開を斬った。
 琅邪王は、もともと和士開だけを殺すつもりだったが、一味が琅邪王へ迫った。
「ここまで来たら、やめられません。」
 遂に琅邪王は京畿の軍士三千人を千秋門へ集結させた。
 後主は劉桃枝へ禁兵八十人を与え、琅邪王を連行するよう命じた。劉桃枝が千秋門へ行くと、琅邪王は逆に彼を捕まえて斬ろうとしたので、禁兵は逃げ出した。
 後主は、今度は馮子宗へ琅邪王連行を命じた。すると、琅邪王は辞退して言った。
「和士開の悪行は万死に値します。その上奴は、陛下を廃立し太后を尼にしようと謀っていたのです。ですから臣は詔をでっち上げて誅殺いたしました。陛下が臣を殺されると言われるのなら、臣は罪を避けようとは思いません。しかし、もしも臣を赦していただけるのでしたら、使者として乳母を派遣してください。」
 乳母とは、陸令萓の事である。琅邪王は、彼女を誘い出して殺そうと考えたのだ。陸令萓は、後主の背後で太刀持ちをしていた。この話を聞いて、戦慄する。
 後主は又、韓長鸞へ琅邪王の連行を命じた。琅邪王がついて行こうとすると、劉辟彊が衣を挽いて言った。
「穆提婆母子を殺さなければ、入宮してはなりません。」
 すると、そこへ廣寧王孝行と安徳王延宗がやって来て、言った。
「どうして入宮しないのだ?」
 劉辟彊は答えた。
「兵力が少ないのだ。」
 それを聞いた安徳王は、兵卒を顧みて言った。
「孝昭帝が楊音を殺した時は、たった八十人だったぞ。今は数千人いるのに、なにが少ない?」
 後主は、泣いて太后へ言った。
「縁があったら又会えましょうが、縁がなければこれっきりです。」
 そして、急いで斛律光を呼び、琅邪王の連行を命じた。
 斛律光は、琅邪王が和士開を殺したと聞いて、大笑いして言った。
「さすが、皇帝のご子息は、やることが違う!」
 そして、後主へ謁見した。後主は宿衛四百を武装させていた。それを見て、斛律光は言った。
「小人が兵を弄んでも、すぐに心が乱れて、使いこなせません。諺にも言います。『奴隷は、主人の顔を見るだけで、心が死ぬ、』と。陛下が自ら千秋門へ行かれれば、琅邪王は動けますまい。」
 後主は、これに従った。
 斛律光は、まず、先触れを遣って、琅邪王へ伝えた。
「陛下が来られるぞ。」
 琅邪王の兵卒は、驚愕して逃げ散った。
 後主が遙か馬上から琅邪王を呼んだが、琅邪王は直立しただけで進まない。すると、斛律光が言った。
「天子の弟が、たかが一匹夫を殺しただけだ。何を気にするのか!」
 そして、その手を執って強引に引っ張って行くと、後主へ請願した。
「琅邪王は、未だ年少です。軽挙もその若さ故。大人になれば、自然と修まります。どうか、寛大なご処置を。」
 後主は、琅邪王の帯びていた刀を抜き放ち、さも斬り殺すような素振りだったが、しばらくして、王を赦した。
 庫狄伏連、高舎洛、王子宜、劉辟彊等は、体をバラバラにされた上、さらし者となった。
 後主は、琅邪王の王府に仕える文武の官吏を皆殺しにしようとしたが、斛律光は言った。
「彼等は皆、功績を建てた者や貴族達の子弟です。彼等を全員誅殺したら、人々は不安がります。」
 趙彦深も又、彼等を庇ったので、皆、死一等を減じた。
 太后が琅邪王を責めると、王は言った。
「馮子宗から教わったのです。」
 太后は怒り、馮子宗を弓の弦で絞め殺させた。
 これ以来、太后は琅邪王を常に宮中へ寝起きさせ、食事は、まず太后が口をつけてから、琅邪王へ回った。毒殺されることを恐れたのである。 

 八月、段韶が卒した。 

  

琅邪王の最期 

 九月、租延は、陸令宣を説得して、趙彦深をコン州刺史として追い出した。後主は、租延を侍中とする。
 陸令宣は、後主へ言った。
「琅邪王の聡明と雄武は当今無敵だと噂されています。それに、王の顔を見ますに、人の臣下に甘んじていられる様な人間には見えません。先だっての事件以来、心配でならないのです。」
 後主の寵臣の何洪珍も、琅邪王を殺すように請願した。それでも後主は決めかねたので、租延へ尋ねた。すると、祖恵那は言った。
「周公は管叔を殺し、魯の季友は慶父を殺しました。」
 そこで後主は、琅邪王を晋陽へ連れて行き、捕らえようとした。だが、捕らえてくるよう命じられた右衛大将軍趙元侃は言った。
「臣は昔、先帝へ仕えておりました。その折り、先帝が琅邪王を可愛がって居られたのを目の当たりに見ています。今、たとえ殺されようとも、こればっかりはご勘弁願います。」
 後主は、趙元侃を豫州刺史に左遷した。
 庚午、後主は太后へ言った。
「明日の早朝、仁威(琅邪王の字)と共に、狩りに出とうございます。」
 四つの太鼓が鳴ると、後主は琅邪王を召し出した。琅邪王が疑っていると、陸令宣が言った。
「兄上がお呼びです。何をグズグズ為されているのですか!」
 琅邪王が出て行くと、永巷にて、劉桃枝が彼を捕らえた。琅邪王は言った。
「どうか兄上へ会わせてくれ。」
 しかし、劉桃枝はその口を塞ぎ、殺した。享年十四。
 報告を受けて、太后は慟哭した。 

  

  

胡太后 

 胡太后は男好きで、多くの僧を呼び寄せては遊んでいた。特に、沙門の曇献は大のお気に入りだった。後主はその噂を聞いていたが、信じなかった。
 ある時、後主は太后の屋敷で二人の尼を見かけた。喜んで呼び寄せたところ、二人とも男だった。ここにおいて、曇献のことも暴露され、皆、誅殺された。 

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