西域      高昌
 
 貞観四年(630)十一月、甲寅、高昌王麹文泰が入朝した。唐への臣従を望んでいる西域諸国は、文泰へ使者を派遣して、入貢した。そこで上は、文泰の臣下の厭怛乞(「糸/乞」)干へ迎えに行かせようとしたが、魏徴が諫めた。
「昔、漢の孝武帝は、西域が王子を人質に送るとゆうのを聞かず、都護を設置しました。蛮夷の為に中国を疲弊させない為です。今、天下は平定されたばかり。前に文泰が来た時でさえ、費用がずいぶんと掛かったのです。今、もしも十ヶ国の入貢があれば、その一行は千人を下りません。辺民は耕作を荒らされ、その苦しみに耐えられないでしょう。もしも彼等が通商を求めてきたから辺民と市を開いて交流させるとゆうのなら、よいでしょう。ですが、賓客としてこれを遇するのは、中国の利ではありません。」
 この時、厭怛乞干は既に出立していた。上は、至急命令を下して、これを止めた。 

  

 貞観六年(632) 秋、七月、丙辰。焉耆王突騎支が使者を派遣して入貢した。
 もともと耆は、磧路経由で中国へ来ていたが、隋末にこの通路が塞がってしまい、高昌を経由して中国へ来るようになっていた。突騎支は、従来の磧路を開通させて往来の便を図りたいと請願し、上はこれを許した。
 これによって高昌は耆を恨み、兵を出してこれを襲撃し、大いに掠奪して去った。
 十二年、處月、處密と高昌が、共に焉耆を攻撃して、五城を抜き、男女千五百人を掠め、その盧舎を焼いて去った。 

  

 高昌王の麹文泰は西域の朝貢を邪魔していた。伊吾は、最初は西突厥に臣従していたが、やがて唐の属国となった。すると、文泰と西突厥がこれを攻撃した。上は、書を下してきつく責め、その大臣阿史那矩を徴発したが、文泰はこれを遣らず、長史の麹雍を派遣して謝罪した。
 頡利が亡ぶと、突厥に住んでいた中国人の中には高昌へ逃げ込む者も居た。そこで、文泰へ、彼等を帰国させるよう詔したが、文泰はこれを隠して遣らなかった。また、西突厥と共に焉耆を撃破した。焉耆は、これを唐へ訴えた。
 十三年、上は、虞部郎中李道裕へ詰問状を与えて派遣した。かつ、その使者へ言った。
「高昌は数年来朝貢しておらず、藩臣としての礼がない。設置した官吏の呼び名も、皆、天朝に準じている。城を築いて溝を掘っていると言うが、まるで戦争の準備をしているようではないか。我が使者が高昌へ着くと、文泰は言った。『鷹は天に飛び、雉は蒿に伏す。猫は堂に遊び、鼠は穴に暮らす。おのおのその所を得ているのだ。なんで自活できぬのか!』また、薛延陀のもとへ使者を派遣して言った。『既に可汗となったのだから、天子と同列だ。なんでその使者を拝礼するのか!』人へ仕えて無礼。また、隣国との友好を壊す。悪を為して誅さなければ、何を以て善を勧めるのか!明年、挙兵して汝を撃つ。」
 三月、薛延陀可汗が使者を派遣して、上言した。
「この奴は、受けた御恩へ報いたく存じます。我が兵を挙げ、道案内として高昌を撃たせてください。」
 上は民部尚書唐倹と右領軍大将軍執失思力を薛延陀へ派遣して絵を描いた帛を賜下し、共に進攻を謀った。
 だがその反面、上はなおも高昌王文泰が悔い改めることを冀っていた。
 十一月、ふたたび璽書を下して禍福を説き、入朝を求めたが、文泰は遂に病気と称して来なかった。十二月、壬申、交河行軍大総管、吏部尚書侯君集、副総管兼左屯衞大将軍薛萬均等へ兵を与えて、これを攻撃させた。
 高昌王文泰は、唐軍が攻めてくると聞いた時、国人へ言った。
「唐は、我が国から七千里離れており、途中、砂漠が二千里も広がっている。その土地には水も草もなく、寒風は刀のようで熱風は焼けるようだ。なんで大軍を動かせようか!かつて我が入朝した時、秦、隴の北は城邑も寂れており、その国力は往年の隋の比ではない。今、我等を討伐に来ようにも、大軍を動かせば兵糧が不足するし、三万以下なら我等が撃破できる。我等は逸を以て労を待ち、坐して敵の弊を収めよう。もしも城下に陣を布かれても、二十日と経たずに食糧が尽きて、必ず退却する。それを追撃すれば、擒にできるぞ。何で憂えるに足りようか!」
 しかし、十四年、唐軍が磧口まで進軍してきたと聞くと、憂懼して為す術を知らず、発病して卒した。子の智盛が立つ。
 唐軍は柳谷まで進んだ。諜者は、文泰の葬儀の刻日を調べた。この時には、国人は葬儀場へ集まる。諸将は、そこを襲撃しようと請うたが、侯君集は言った。
「いけない。天子は、高昌が無礼だから我へ討伐させたのだ。今、敵が墓に集まっているところを襲撃するなど、相手の罪を詰問する軍隊のすることではない。」
 ここにおいて、戦鼓を討ち鳴らしながら田城まで進軍した。ここで敵方を諭したが、降らない。そこで朝になってから攻撃し、午後に及んで克った。男女七千口を捕らえる。
 中郎将辛寮(「?/寮」)児を前鋒とし、夜、その都城へ迫らせた。高昌は迎撃したが敗北。唐の大軍が続々と城下へ到着した。
 智盛は、君集へ文書を送った。
「天子へ罪を得たのは、先王でございます。天罰を加えようにも、既に死んでおります。智盛は即位したばかり、どうかご賢察の上、お憐れみください。」
 君集は返事を送った。
「過を悔い改めるとゆうのなら、手を束ねて軍門へ降れ。」
 智盛は、なおも出てこなかった。
 君集は濠を埋めさせて、これを攻める。石が雨のように降り注ぎ、城中の人々は皆、家の中に縮こまった。また、君集は巣車を造った。これは高さ十丈で、その上に登れば城中を俯瞰できた。道行く人で飛び来る石に当たった者は、皆、これを唱えた。(ちょっと、意味不明。「之」が何を指すのか?一文欠落しているのかも知れない。)
 ところで、文泰は西突厥の可汗と軍事同盟を結んでいた。そこで可汗は、麾下の葉護を可汗浮図城へ駐屯させ、文泰の声援としていた。ところが君集が進軍してくると、可汗は懼れ、西へ千余里も逃げた。葉護は城ごと降伏した。
 智盛は打つ手に窮し、癸酉、開門して降伏した。
 君集は兵を分散して各地を攻略し、二十二の城を落とした。その民は八千四十六戸、一万七千七百人。占領した土地は、東西八百里、南北五百里だった。
 上が、高昌を州県にしようとすると、魏徴が諫めた。
「陛下が即位した当初、文泰は夫婦揃って来朝しました。その後、少し驕慢になったので、王誅をこれに加えたのです。その罪は文泰一人に留めるべきです。その百姓は宣撫し、社稷は存続させ、その子を立てましょう。そうすれば、我が国の威徳はかの地を覆い、四夷は皆、悦んで服従するでしょう。今、もしもその土地を我が領土とすれば、常に千騎を派遣して鎮守しなければなりません。数年に一度交代させるとしても、その往来で三、四割が死ぬでしょうし、兵卒達へは衣資を与えて親戚から引き離すのです。十年も経てば隴右は疲れ切ってしまいます。結局陛下は、高昌の粟や帛で中国を助けることが出来ず、いわゆる”有用を散じて無用に仕える”とゆうことになってしまいます。臣は、その利点を見つけません。」
 上は従わず、九月、その地を西州とし、可汗浮図城を庭州とし、各々属縣を置いた。
 乙卯、交河城に安西都護府を設置し、兵を留めてこれを鎮守した。
 君集は高昌王智盛とその群臣豪傑を捕虜として、帰った。
 ここにおいて唐の版図は、東は海を極め、西は焉耆へ至り、南は林邑を尽くし、北は砂漠へ面した。これを皆、州県となし、東西凡そ九千五百十里、南北一万九百十八里。
 侯君集が高昌を討伐した時、焉耆へ使者を派遣して共闘を持ちかけ、焉耆はこれに喜んで従った。高昌が破れるに及んで、焉耆王は軍門を詣で、君集に謁見し、高昌から三城を奪われていたことを語った。君集はこれを上奏し、併せて掠められていた焉耆の民を全て帰してやった。
 十二月、丁酉。侯君集が、観徳殿にて捕虜を献上した。そして儀礼通りの宴会が三日続いた。智盛を左武衞将軍、金城郡公とする。
 上は、入手した高昌の楽工を太常の管理下へ置き、それまで九部だった楽を十部にした。
 君集が高昌を破った時、その珍宝を私的に取り上げた。将士はこれを知り、争って掠奪に走る。君集は、止めることができなかった。これが役人から弾劾され、君集を牢獄へ繋ぐよう詔が降りた。すると、中書侍郎岑文本が上疏した。その大意は、
「高昌が昏迷なので、陛下は君集等へこれを討つよう命じられました。そして彼等は凱旋したのに、旬日も経たないうちに罪人となったのです。君集の自業自得とはいえ、海内の人々が、陛下のことを、過ばかり罰して功績を無視すると思うのではないかと懼れます。臣は、『将に出陣を命じれば、敵に勝つことが第一であり、いやしくも敵に勝ったならば貪婪でも賞しなければならない。敗北したなら清廉でも誅さなければならない。』と聞きます。ですから漢の李廣利、陳湯や晋の王濬、隋の韓擒虎は、皆、罪を譴責されながらも、主君達は彼等の功績を以て封賞したのです。これらの事実から、将帥の臣は廉慎な者は少なく、貪婪な者が多い事が判ります。ですか黄石公の軍勢にも『智者を使い、勇者を使い、貪婪な者を使い、愚者を使う。故に智者はその功績を建てることを楽しみ、勇者は志を行うことを好み、貪婪な者は利益へ駆けつけ、愚者は死の危険に気づかない。』とあります。どうかお願いいたします。彼の微労を録し、大過を忘れ、君集を朝列へ重く昇らせ、次の戦役に備えてください。そうすれば、清貞の臣は鼓舞されなくても、なお貪愚の将を得ることが出来ます。これは、陛下が法を曲げたとはいえ、その徳はますます顕われるとゆうことです。君集等は宥められたとは言え、その過ちは益々宣伝されるのですから。」
 上は、これを釈放した。
 また、節萬均が高昌の婦女と私通したと告発する者がいた。萬均がこれを否認したので、高昌の婦女を大理へ連れ出して、萬均と対決させた。魏徴は、諫めて言った。
「臣は、『主君は臣下を礼を以て使い、臣下は主君へ忠を以て仕える。』と聞いております。今、大将軍と亡国の婦女と寝所での私事で対決させようとしていますが、これが事実でも彼女の得る物は軽く、虚偽ならば萬均は大きなものを失います。昔、秦の穆公は馬泥棒へ酒を振る舞い、楚の荘王は美人へ悪戯した罪を赦しました。ましてや陛下の道は堯、舜のように高いのに、なんで穆公や荘王へも劣ることをやられますのか!」
 上は、急遽、萬均を赦した。
 侯君集の馬が、寄生虫に病んでいた時、行軍総管趙元棍が自らその膿を指で触れて臭いを嗅いだ。刺史は、これを諂いと弾劾したので、括州刺史へ左遷された。
 高昌が平定すると、諸将は皆、恩賞を受けたが、行軍総管阿史那社爾は敕旨がなかったので、恩賞に預からなかった。やがて別の敕が降り恩賞を受けたが、ただ老弱や負傷者を取っただけだった。上は彼の廉慎を嘉し、高昌で得た宝刀と雑綏千段を下賜した。 

  

 十六年、七月癸酉、涼州都督郭孝恪を行安西都護、西州刺史とした。
 高昌の旧民と鎮軍の兵卒及び流刑者が西州に雑居している。孝恪は真心を尽くして彼等を慰撫したので、なんとかその歓心を得ることができた。 

  

 麹氏は高昌を建国し、九代百三十四年で滅んだ。 

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