北斉、建康を侵す
 
侯景の乱始末 

 承聖元年(552年)、ついに、侯景は誅殺された。しかし、この大乱で、梁の辺境の多くが、北斉や西魏へ奪われてしまった。
 四月、侯景の乱の混乱の中、梁の国璽が辛術の手に入った。彼は、それを業へ送った。 

  

北斉の侵略 

 同月、斉帝の命令を受けて、大都督潘楽と郭元建が、五万の兵力で陽平を攻撃し、これを抜いた。
 斉帝は秦郡を包囲するよう、潘楽と郭元建へ命じた。すると、行台尚書の辛術が言った。
「我が朝廷は、湘東王との友好を保っています。陽平は、もともと侯景の領土でしたので、これは取っても構わないでしょう。しかし秦郡は、既に王僧弁が厳超達を派遣して、守らせています。これを奪えば、義がすたれますぞ!」
 しかし、従わなかった。
 陳覇先は、別将徐度へ、秦郡の固守を命じた。
 北斉の軍は七万、短兵急に攻め立てる。王僧弁は、救援として左衛将軍杜則を派遣し、陳覇先は自ら向かった。
 両軍は士林にて合戦し、梁軍が大勝利を収めた。一万余級を斬首し、千余人を捕虜とする。
 郭元建は、敗残兵を纏めて退却した。これへ対して梁軍は、北斉との通好があったので、深追いしなかった。 

  

  

廣陵攻撃 

 北斉の政治は煩雑で、賦税は重かった。だから、江北の民は北斉の支配を喜ばず、梁の支配下へ戻りたがった。そこで、江北の豪傑は、しばしば王僧弁へ出兵を要請したが、王僧弁は、北斉と通好できたばかりだとて、これを却下していた。
 七月、廣陵へ移住していた朱盛とゆう男が、北斉の刺史温仲邑を襲撃しようと、数千人の同志をかき集め、陳覇先へ救援を求めた。
 この時、彼の派遣した使者は、「既に外城を落とした」と伝えた。そこで陳覇先は王僧弁へ相談したが、王僧弁は言った。
「事の真偽は判別しがたい。もしも外城を落としているのなら、速やかに援軍を出すべきだろうが、まだそこまでいってないのなら、進軍しない方がよい。」
 だが、まだ答えが出ないうちに、陳覇先は揚子江を渡った。そこで、王僧弁は武州刺史杜則等を派遣して、陳覇先を助けさせた。
 だが、朱盛の陰謀は、未然に漏洩してしまった。そこで陳覇先等は、進軍して廣陵を包囲した。 

 九月、斉帝は使者を派遣して、王僧弁と陳覇先へ言った。
「廣陵城の包囲を解いてくれ。そうすれば、廣陵と歴陽の二城を必ずお返ししよう。」
 そこで、陳覇先は京口まで退却した。江北の住民は、万余口が陳覇先に従って揚子江を渡った。
 湘東王は、陳覇先を征北大将軍、開府儀同三司、南徐州刺史に任命し、世子の昌を都へ呼び寄せた。やがて、陳昌を散騎常侍とした。 

  

攻防戦 

 二年、九月。斉帝は、合肥にて、郭元建へ二万人の水兵を訓練させた。今にも建康を襲撃せんばかり。亡命してきた湘沢侯退を登庸し、将軍刑景遠と歩大汗薩の大軍を後続とした。
 これを聞いた陳覇先は、元帝へ報告した。元帝は、王僧弁を姑孰へ派遣し、防がせた。
 孰へ到着した王僧弁は、侯真、張彪、裴之横へ、東関に塁を築かせて、北斉軍を待ち受けた。
 閏月、侯真と、郭元建が東関で戦い、北斉軍は大敗した。溺死した兵卒は一万人を数える。湘沢侯退は業へ戻ったので、王僧弁も建康へ戻った。 

 十二月、北斉の宿預の住民東方白額が、城ごと梁へ降伏した。江西の州郡は、皆、これに呼応して起兵した。
 三年、正月。陳覇先が丹徒から揚子江を渡り、北斉の廣陵を包囲した。秦州刺史厳超達は、秦州から進軍して州を包囲した。南豫州刺史侯真と呉郡太守張彪等は、皆、石梁から出陣し、声援した。
 辛丑、真陵太守杜僧明へ三千の兵を与え、東方白額を助けに行かせた。 

 三月、北斉の将軍王球が宿預を攻撃した。杜僧明は、出撃して大勝利を収める。
 王球は彭城へ帰った。 

  

陳覇先退却 

 六月、北斉の歩大汗薩が四万の兵力で州へ攻め込んだ。王僧弁は、厳超達のもとへ侯真と張彪を派遣して、これを拒ませた。しかし、侯真と張彪は、ぐずついて、なかなか進軍しなかった。
 梁の将軍尹令思は、一万余を率いて、于台を襲撃しようと謀った。北斉の冀州刺史段韶は宿預の東方白額を攻撃した。
 こうして、廣陵と州から急を告げてきて、諸将はこれを患った。
 段韶は言った。
「梁氏は動乱の最中。まだ、定まった主がいない。人々は、誰に従うか迷い始めている。こんな時は、強い人間へアッサリとなびくものだ。陳覇先等は、上辺は纏まっているように見えるが、その心は既にバラバラ。諸君、心配ないぞ、機は熟しているのだ!」
 そして、儀同三司敬顕攜等へ宿預を包囲させ、自らは兵を率いて州へ向かい、その途上、于台へ出た。尹令思は、北斉軍が突然出現したので、風を望んで逃げ出した。
 段韶は、更に進軍して厳超達と戦い、これを撃破。そのまま方向を変えて廣陵へ向かった。
 陳覇先は、包囲を解いて逃げ出した。
 杜僧明は丹徒へ帰り、侯真と張彪は秦郡へ帰った。
 六月、段韶は再び宿預へ戻ってきた。弁舌の巧い者を派遣して東方白額を説得したところ、東方白額は城門を開いて、盟約を請うた。しかし段韶は、彼を捕らえて、斬り殺した。 

 呉明達が海西を包囲した。
 海西の鎮将郎定は固く守る。気を削って矢を造り、それに翦紙で羽を造る。
 包囲戦は三ヶ月にも及んだが、遂に落とせぬまま退却した。 

  

梁の大禍 

 十一月、西魏が梁へ攻め込み、首都の江陵を包囲した。(詳細は、「西魏、江陵を侵す」に記載。)
 北斉帝は、江陵救援の為、清河王岳へ西魏の安州を攻撃させた。だが、清河王が義陽へ着いた時、江陵は陥落していた(紹奉元年(555年))。そこで、彼は臨江まで進軍した。すると、郢州刺史の陸法和等が降伏してきた。ただ、江夏太守の王民は従わなかったので、これを殺した。
 甲午、北斉は、清河王を召還した。儀同三司の慕容儼に、郢州を守備させる。
 王僧弁は、侯真へ郢州を攻撃させた。任約、徐世譜、宜豊侯循等が、これに合流する。 

 辛丑、北斉は、貞陽侯淵明を梁主へ立て、自国の上党王渙へ兵を与えて梁へ護送させた。これを聞いて、徐陵、湛海珍等が、貞明侯のもとへ駆けつけてきた。 

 二月、晋安王が尋陽にて、梁王へ即位した。時に十三歳。王僧弁を中書監、録尚書、驃騎大将軍、都督中外諸軍事とする。陳覇先へ、制西大将軍を加える。侯真を江州刺史、蕭循を太尉、蕭勃を司徒、張彪を郢州刺史とする。
 北斉帝は、建康へ使者を派遣して、王僧弁へ言った。
「嗣主は幼く、国家の大任には耐えられまい。貞陽侯は、武帝の甥。年長でもあるし、金陵をしっかりと保てるだろう。だから、彼を梁主として貴国へお返しするのだ。卿は船を出して主を迎え入れ、心を一つにして良い国を造ってくれ。」
 貞陽侯もまた、王僧弁へ書を遣り、迎えるよう求めた。対して、王僧弁は返書を出した。
「嗣主は、我が国の正統。殿が帰国なさるのでしたら、我らと共に皇帝を推戴し、かつての伊・呂のようになられてください。もしも自ら主になるというのでしたら、ご命令を受けません。」
 甲子、北斉は、陸法和を都督荊・ヨウ等十州諸軍事に任命した。上党王渙は、焦郡にて、勝つ。ここにおいて貞陽侯は再び王僧弁へ書を遣ったが、王僧弁は従わなかった。 

  

貞陽侯即位 

 三月、貞陽侯が東関まで進軍した。散騎常侍裴之横が、これを防ぐ。
 北斉の軍司尉瑾と儀同三司蕭軌が皖城を落とす。すると、晋州刺史蕭恵が州ごと降伏した。
 丙戌、北斉は東関を征服する。裴之横を斬り、数千人を捕虜とした。王僧弁は大いに懼れ、建康から姑孰へ逃げだし、貞陽侯を受け入れることを考え始めた。
 五月、王僧弁は貞陽侯を推戴しようと、彼のもとへ使者を送り、君臣の礼を定めた。又、別の使者を北斉へ派遣した。
 子息の王顕及び、その生母劉氏、甥の王世珍を、人質として貞陽侯へ差し出した。そして、左民尚書の周弘正を歴陽へ派遣して、貞陽侯を迎え入れる。この時、晋安王(元帝の九男)を皇太子とするよう請願したところ、貞陽侯はこれを受諾した。貞陽侯は三千人の衛兵を求めたが、王僧弁は変事が起こることを恐れ、千人にして貰った。
 庚子、法駕を迎え入れる為の龍舟を派遣した。貞陽侯と北斉の上党王渙は江北で盟約を結んだ。
 辛丑、貞陽侯は揚子江を渡り、北斉軍は北へ帰った。王僧弁は、北斉軍が急に方向を変えて攻撃してくる事を疑い、西岸へは近づかなかった。
 癸卯、貞陽侯は建康へ入った。この時貞陽侯は、朱雀門を見て哭した。それを見て、迎え入れる者も哭した。
 丙午、貞陽侯は即位した。天成と改元し、晋安王を皇太子、王僧弁を大司馬、陳覇先を侍中とする。
 呉興太守の杜龕は、王僧弁の婿である。王僧弁は、呉興郡を震州として、杜龕を震州刺史とした。また、その弟の侍中杜僧音を豫章太守とした。 

  

郢州放棄 

 北斉の慕容儼が郢州へ入ったばかりの頃、侯真等が進攻した。だが、慕容儼は防備を固め、侯真は勝てない。慕容儼は、隙を見て出撃し、大勝利を収めた。
 しかし、包囲は解かれない。城中は食糧が尽き、草木の根葉や果ては靴の皮まで煮て食べる羽目になったが、慕容儼は士卒と労苦を共にし、半年間も堅守した。
 貞陽侯が即位すると、侯真へ包囲を解かせた。侯真は豫章へ戻った。
 しかし、揚子江の向こう側の土地を守るのは至難の業だ。北斉は、遂に郢州を梁へ割譲することを決めた。
 六月、慕容儼は北斉へ帰国した。  

 同月、北斉帝は、梁国を藩と称し、自国内の梁の遺民へ帰国することを許した。 

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