斉の懿公
 
(春秋左氏伝) 

 子叔姫が、斉の昭公の妃となって、公子舎を生んだ。だが、子叔姫は、余り寵愛されず、公子舎の基盤も危うかった。
 この頃、公子商人は、俄に私財を投じて国中へ篤く施し、多くの士をかき集めるようになった。私財が底を衝いてからは、役人から官財を借り受けて、施しを続けた。
 魯の文公の十四年(BC615)、五月、昭公が崩御し、舎が襲爵した。
 七月、商人は舎を弑逆した。そして、爵位を同母兄の元へ譲ったが、元は言った。
「お前が長い間望んでいたのだ。私はお前の下へ就こう。それに、お前から怨まれるのは物騒だ。」
 斉の人は、商人を国君と定めた。これが、懿公である。 

 十五年、秋、斉が魯の西鄙を侵した。そこで魯の季文子は、この件を晋へ訴えた。
 冬、晋侯、宋公、衛侯、蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、曹伯が盟約を交わした。これは斉を討伐しようとゆう相談の為である。しかし、斉が晋侯へ賄賂を贈ったため、いい加減にされたので、季文子は魯へ帰国した。
 さて、斉の懿公が魯を攻撃したのは、諸侯には何もできないとたかを括った為だった。斉は、ついでに曹を伐ち、その外城へ入った。これは、曹が魯へ来朝したのを憎んでのことである。
 季文子は言った。
「斉侯の末路は知れた物だ。自分は無礼でいて、他人の礼儀正しいのを咎め立て、なぜ礼儀を行ったかと怒る。礼儀は天に従う心から起こる。いわば天の道だ。自分は天に背いて他人を攻撃する。禍を蒙るに違いない。
 それに、君子は幼い者や目下の者を虐げない。それも天を畏れればこそ。天を軽んじて、どうして幸が保てようか。
 内乱などで国を奪った主君は、礼儀正しくやっていても禍にかかり易いのに、ましてや無礼ばかり働くなら、とても身を保つことなどできないぞ。」 

 ところで、懿侯は、まだ公子だった頃、丙(「丙/里」)蜀(「蜀/欠」)の父親と領土を争って負けた。即位すると、丙蜀の父親の死体を掘り出して、足斬りの刑に処したが、丙蜀は馬車の御者としていた。
 又、閻職の妻を奪っておきながら、閻職を車の相乗り役にした。
 十八年、五月。懿公が申池で遊んでいる時、丙蜀と閻職が喧嘩をし、言い争った。
「人に妻を奪われても怒らないくせに。」
「父親を足斬りにされて恨めないよりましだ。」
 そこで二人は相談し、懿公を殺して死体を草むらへ隠すと、帰宅して祝杯を挙げた後、他国へ亡命した。
 斉の人は、子元を立てた。これが恵公である。 

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