西魏、江陵を侵す(後梁建国)
 
梁王誉

 承聖二年(553年)、十一月。梁の元帝が、王深を使者として、西魏へ派遣した。
 宇文泰には、江陵を侵略する野心があった。梁王誉は、それを聞くと、西魏への献上物をますます重くした。
(梁王は、西魏の尻馬に乗って、河東王の復讐をしようと考えたのだ。) 

  

胎動 

 三年、三月。西魏は、侍中の宇文仁恕を使者として派遣した。丁度その頃、北斉の使者も又、江陵へ来ていた。だが、梁は北斉と戦争中だったので、元帝は北斉の使者とは謁見せず、宇文仁恕へだけ謁見させた。宇文仁恕は、帰国して、これを宇文泰へ伝えた。
 元帝は、国境を従来通りに戻すよう請うたが、その言い方は非常に不遜だった。宇文泰は言った。
「昔から言うではないか。『天が見捨てた者を、誰が復興できるだろうか』と。これこそ、蕭繹(元帝)のことだ!」
 ところで、荊州刺史長孫倹が、しばしば梁攻撃を請願していた。宇文泰は彼を朝廷へ呼び寄せると、その方略を問うた後、鎮へ帰して準備させた。
 馬伯苻が、これを元帝へ密告したが、元帝は信じなかった。 

  

来寇  

 西魏の柱国常山公于謹、中山公宇文護、大将軍楊忠が、五万の兵力で攻めてきた。
 十月、彼等は長安を出発する。
 長孫倹が于謹へ尋ねた。
「蕭繹には、どんな手段がありますか?」
 于謹は言った。
「威風堂々と進軍して兵を集めながら、一気に揚子江を渡って丹楊を攻撃する。これが上策だ。城内の庶民を避難させて城の防備を固め、全国からの援軍を待つ。これが中策だ。民を避難させず、城を恃んで籠城する。これが下策だ。」
「奴はどう出ますか?」
「下策を採るな。」
「どうしてです?」
「蕭氏が江南を保有して、既に数十年経つが、その間、中原(北中国)が東西に別れて戦い合っていたので、奴等は本格的な侵略を受けたことがない。それに、我等は北斉の患があるので、兵力を裂けないと思っている。何にも増して、蕭繹はぐずで無策、猜疑心が強くて決断力がない。愚民どもは慣れ親しんだ住居に恋綿として避難することをいやがる。だから、下策を採ると言うのだ。」 

 癸亥、武寧太守宗均が、西魏の来襲を告げた。そこで、元帝は、公卿を招集して会議を開いた。
 胡僧裕と黄羅漢が言った。
「我が国と西魏は通好しており、何の隙もありません。これはデマです。」
 侍中の王深も言った。
「去年、西魏へ使者に立った時、宇文泰と会見しましたが、彼にはそんな気配は露ほどもありませんでした。西魏が侵略してくる筈がありません。」
 そこで、王深を再び西魏へ派遣することとした。また、元帝は、それまで自ら老子の講釈をしていたが、これを中止して戒厳令を布いた。
 王深は石梵まで行ったが、西魏軍はいない。そこで、黄羅漢へ報告した。
「石梵まで来たが、平和そのもの。あの報告は、児戯にすぎません。」
 それを聞いて元帝は敵襲を疑い、老子の講釈を再開した。ただ、百官は武装してこれを聞いた。 

 
 于謹が樊、登へ到着すると、梁王誉が手勢を率いて合流した。
 辛未、武帝は、建康の王僧弁を呼び寄せ、大都督、荊州刺史に任命し、陳覇先を揚州へ移した。
 王僧弁は、侯真の下へ程霊洗を付けて前軍とし、杜僧明の下へ呉明徹を付けて後軍とし、派兵した。
 甲戌、元帝は、夜、鳳皇台へ登って嘆息した。
「客星が翼・軫へ入った。今回の戦争は、必ず負ける!」
 嬪御は、皆、泣いた。 

 陸法和は、西魏軍の来襲を聞くと、郢州から江陵へ赴いた。すると、元帝は使者を出して言った。
「賊軍など、我等だけで撃破する。お前は郢州を守って、妄りに動くな!」
 陸法和は、郢州へ帰ると、城門を白く塗った。これは、喪を示すものである。そして蓑を着て葦の席に座り(これも喪の作法)、一日経って、蓑を脱いだ。 

 十一月、元帝は津陽門外で盛大に閲兵した。だが、突然北風が吹き荒び大雨が降ったので、軽輦で宮へ帰った。
 癸未、西魏軍は漢水を渡った。于謹は、宇文護と楊忠へ精騎を与えて江津を占領させ、東からの援軍を遮断した。
 甲申、宇文護は武寧で勝利し、宗均を捕らえた。
 この日、元帝は馬に乗って城外を見回り、自ら柵を築く場所を指示した。胡僧裕を城東諸軍事、尚書右僕射とし、張綰を副官とする。王褒を城西諸軍事とし、元景亮を副官とする。王公以下、各々守備箇所を決めた。
 丙戌、太子へ城楼を巡行させ、人夫に木石を運ばせた。
 その夜、西魏軍が黄華へ到着した。ここは、江陵から四十里しか離れていない。
 丁亥、西魏軍は柵の下まで迫った。
 戊子、裴畿、裴機、朱買臣、謝答仁等が門を開いて出撃した。裴機は、魏の儀同三司胡文伐を殺す。裴畿と裴機は、裴之高の子息である。 

 元帝は、王林を湘東刺史に任命し、援軍に来るよう要請した。 

 丁酉、柵の内側から出火した。数千軒の家と、二十五の城楼が焼け落ちた。元帝が焼けた楼閣へ行くと、揚子江を渡って来る西魏軍が見えた。元帝は、四方を見て、嘆息した。
 この夜、遂に元帝は宮外へ留まり、民家へ泊まった。己亥、祇亘寺へ移る。 

 于謹は、長囲を築いた。これによって、中外の音信が途絶した。 

 庚子、信州刺史徐世譜と任約が馬頭へ塁を築き、遙かに声援した。 

 この夜、元帝は城を巡った。この時、元帝はなおも詩を口ずさみ、群臣の中には、それに和する者もいた。元帝は、帛を裂いて、王僧弁への手紙を書いた。
「我は、死にたいのを我慢して、公を待っている。必ずやってこい!」 

 壬寅、元帝は宮へ戻った。
 戊甲、王褒、胡僧裕、朱買臣、謝答仁等が門を開いて出撃したが、全て敗北して戻ってきた。
 元帝は、寺を転々とする。
 朱買臣が剣を持って進み出た。
「遷都を勧めた宗懍と黄羅漢を斬り、天下へ謝罪するべきです!」
 だが、元帝は言った。
「遷都は、朕の意志だ。宗懍と黄羅漢に、何の罪があるか!」
 二人は、退いて衆中へ入っていった。 

  

義臣  

 王林の軍が長沙へ到着した。鎮南府長史の裴政が、間道を通ってまず江陵へ報告へ行こうと申し出た。だが、途中で西魏軍へ捕まってしまった。
 梁王誉は、裴政へ言った。
「我は、武皇帝の孫だ。お前の主君になれぬかな?もしも我の計略に従うなら、子孫まで繁栄するぞ。そうでなければ腰斬だ。」
 すると、裴政はひざまずいた。
「仰せのままに。」
 そこで、梁王は、彼を鎖で縛って、江陵城下まで連れ出した。
「城へ向かって叫ぶのだ。『王僧弁は、台城が包囲されたと聞いて、既に皇帝を名乗ったぞ。王林は孤立、しかも弱体。とても援軍になど来れない、』とな。」
 すると、裴政は、城中へ告げた。
「援軍は大挙してやって来ている。各々方、頑張れ。我は使者の途中で捕まったが、身を捨ててでも、御国の為に働きましたぞ!」
 監視者が、裴政の口を殴りつけた。
 梁王は怒り、裴政を殺そうとしたが、西中郎参軍の蔡大業が言った。
「彼は、民の信望を集めています。これを殺したら、荊州は絶対降伏しません。」
 そこで、裴政を赦した。 

 この時、四方の兵を徴集していたが、まだどこも到着していなかった。 

  

落城 

 甲寅、西魏軍は百道から城を攻め立てた。城中では、戸を背負って盾とする有様。だが、胡僧裕が、石や矢の飛び交う中をものともしないで、昼夜督戦し、将士を励ました。賞罰も明確に行われたので、兵卒達は死戦し、向かう敵をなぎ倒していった。西魏軍は、前進できない。
 しかし、その胡僧裕が、流れ矢に当たって戦死した。内外は、パニックに陥った。
 この機に乗じて魏が総攻撃をかけると、内応者が、西門の柵を開いた。
 元帝と太子、王褒、謝答仁、朱買臣等は、退却して金城へ入った。そして、汝南王大封と晋煕王大園を人質として、于謹へ講和を求めた。汝南王と晋煕王は、共に簡文帝の子息である。 

 西魏軍が来襲した当初、人々は、王僧弁の子息の王を都督とするよう請願したが、元帝は聞かず、却って王の手勢を奪い、左右十人を与えて殿中を守備させていた。胡僧裕が戦死するに及び、王を都督城中諸軍事へ抜擢した。 

 裴畿、裴機、歴陽公峻は、降伏した。ところが、裴機は胡文伐を殺していた為、于謹はこれを殺し、併せて裴畿も殺した。
 この時、城南は破れたけれども、城北の諸将は、まだ奮戦していた。日が暮れるに及んで、城が落ちたと聞き、彼らは逃散した。
 元帝は東閣竹殿へ入ると、古今の図書十四万巻を焼き捨てさせた。そのまま、自身も火の中へ飛び込もうとしたが、近習達があわてて止めた。又、元帝は宝剣を柱へたたきつけてへし折り、嘆いた。
「文武の道は、今夜、尽きた。」
 そして、御史中丞王孝祀へ、降伏文を書かせた。
 謝答仁と朱買臣が諫めた。
「城中の兵卒は、まだ盛強です。闇に乗じて突撃すれば、敵方は驚き、突破することもできましょう。揚子江さえ渡れば、任約の大軍がおります。」
 だが、元帝はもともと馬術が苦手だった。
「そんなことをしても、失敗する。いたずらに恥の上塗りをするだけだ。」
 それでも謝答仁は、もっと自助するよう乞うた。元帝が王褒へ尋ねると、王褒は言った。
「謝答仁は、もともと侯景の部下。なんで信頼できますか!自分が手柄を立てたいだけ。降伏するのが最上です。」
 謝答仁は言った。
「小城を守れば、敗残兵がやってきます。五千くらいの兵力は、すぐに集まります。」
 元帝は納得し、謝答仁を城中大都督へ任命、彼らが推戴する公主も手配した。だが、そこまで手はずを決めた後、元帝が王褒へ尋ねると、王褒はこれを不可としたので、沙汰やみとなった。謝答仁は、喀血して退出した。
 于謹は、人質として太子を求めた。元帝は、王褒へ、太子を送らせた。ところで、王褒は、書道の大家だった。于謹の子息はそれを知っていたので、王褒へ一筆求めた。すると、王褒は書いた。
「柱国常山公の家奴、王褒」(于謹は、柱国大将軍で、常山公へ封じられていた。)
 この頃、裴政が、門を犯して出てきた。 

 元帝は、羽儀文物を取り外し、白馬素衣で東門を出た。この時、元帝は、剣を抜いて門を斬りつけた。
「蕭世誠も、ここまで落ちぶれたか。」(世誠は、元帝の字)
 西魏の軍士が、馬の轡を執った。白馬寺の北まで来ると、彼らはその駿馬を奪い、代わりに駑馬を与えた。
 于謹の前では、胡人が、元帝を引っ張って拝礼させた。その後、元帝は梁王誉の陣営へ渡された。梁王は、元帝を思う様陵辱した。
 于謹は、長孫倹へ、金城を占領するよう命じた。すると、元帝は長孫倹へ密かに言った。
「金城には黄金百斤が埋めてある。卿へ贈ろう。」
 そこで、長孫倹は、元帝を連れ出した。
 金城への途中、元帝は、梁王から受けた陵辱を語り、言った。
「卿へ、これを聞かせたかっただけだ。天子自ら黄金を埋めたりする筈がないだろう。」
 長孫倹は、元帝を金城へ拘禁した。 

 元帝は、もともと残忍な性格だった。武帝が寛大すぎて綱紀が弛緩していたこともあり、政治はことさら厳格に行っていた。西魏が江陵を包囲した時、場内の牢獄には死刑囚が数千人もいた。そこで役人が、彼らを釈放して戦士として使うよう請願したが、元帝はこれを却下し、全員処刑するよう命じた。ただ、執行される前に、城が陥落した。 

 中書郎の殷不害は、督戦している間に城が陥落し、母親が行方不明となった。折しも雪や霰が降り続き、大勢の人間が凍死して、死体が溝を埋め尽くしていた。彼は、泣きながら母親の屍を探し求めた。あらゆる所を見て回り、溝の中に死体を見かけると、棒でその下まで探った。このようにして七日間、ようやく母親の死体を探し当てた。 

  

事後処理  

 十二月、徐世譜と任約は巴陵まで撤退した。
 于謹は、王僧弁を徴召するよう元帝へ迫ったが、元帝は拒んだ。
 ある者が、元帝へ尋ねた。
「どうして書物を焼き捨てられたのですか?」
 すると、元帝は言った。
「万巻の書を読んだが、それでも今日の事態となった。だから焼き捨てたのだ!」
 辛未、元帝は殺された。享年四十七。梁王は、その遺体を蒲席に納め、白茅で束ねて、津陽門外へ埋葬した。廟号は、世祖。
 愍懐太子元良、始安王方略、桂陽王大成なども、一緒に殺した。
 世祖は、読書好きだった。常に左右へ本を朗読させていたし、寝る時も書物を手放さなかった。 

 西魏は、梁王誉を、梁主へ立て、荊州を与え、江陵の東城へ住まわせた。だが、ここは三百里の広さもない。その上、今までのヨウ州を奪ってしまった。西魏は西城へ将兵を置き、「助防」と名付けた。これはあたかも、梁王を警備しているようだったが、その実、梁王を監視するものだった。 

 前の儀同三司王悦を江陵へ留めて、鎮守させた。 

 于謹は、府庫の珍宝や、宋の渾天儀、梁の銅咎(「日/咎」)表、直径四尺の大玉などを接収し、王公以下男女数万人を奴婢として、三軍への褒賞へ充てた。将士達は、彼らを長安へ駆り立てた。途中、足手まといになる幼い者や病弱な者は殺してしまった。
 西魏軍が江陵へ居る時、梁王麾下の将軍尹徳毅が、梁王へ言った。
「西魏の人間は貪婪で残忍。士民を殺したり略奪したりは日常茶飯事。江東の人間は塗炭の苦しみを味わっていますが、中には、殿下のせいでこうなったと言う者もおります。殿下は既に、人の父兄を殺しているのです。皆は殿下を仇と見ています。誰が殿下へ協力して国を造りましょうか!今、西魏の精鋭は全てここにおります。もしも殿下が宴会を開いて于謹らを招き、彼らが酔ったところで伏兵を出して皆殺しとすれば、あとは諸将へ命じて国内各地の魏兵を皆殺しとしてゆくだけです。そうすれば、江陵の百姓は胸をなで下ろし、文武の百官は殿下のもとへ集まります。王僧弁なども、自ら傘下へ馳せ参じるでしょう。そうして揚子江を渡り建康にて即位されましたら、大功を建てられます。古人も言ったではありませんか。『天の与えたるを取らざれば、かえってその咎を受く。』と。どうか殿下、大計遠略を持ち、匹夫の感情などお捨て下さい。」
 すると、梁王は言った。
「卿の策も悪くはない。しかし、西魏は我を厚遇してくれているのだ。背くべき悪行はない。彼らをこちらから裏切れば、誰も我の下へ付くまい。」
 後、宝物を奪われ、住民を奴隷にされ、あまつさえ襄陽まで奪われてしまった。この時になって、梁王は嘆いて言った。
「尹徳毅の言葉を用いておくべきだった!」 

 王僧弁、陳覇先等は、共に江州刺史の晋安王方智(元帝の九男)を推戴した。 

   

西魏の春 

 王褒、王克、劉毅、宗懍、殷不害及び尚書右丞の沈等は、長安へ連行された。宇文泰は、彼らを礼遇した。                     

 宇文泰は、自ら于謹の邸宅へ行き、慰労をこめて宴会を開いた。奴婢千口と梁の宝物を賜下して賞し、常山公の他、新野公へ封じた。于謹は固辞したが、許さなかった。
 于謹は、長い間重任にあったし、功名も既に建てたので、そろそろ隠居したいと考えた。だが、宇文泰は言った。
「まだ北斉が残っている。一人だけ楽をする気か!」 

 西魏は、州刺史益尉遅迥へ督六州を加えた。従来と併せて、尉遅迥は十八州を督し、剣南以南は、全て彼の裁量に任されることになる。尉遅迥は、賞罰を明確にし、威恩をしき、新民を慈しんだので、華夷ともに彼へ懐いた。 

 ところで、宇文泰は、ユ秀才を得てから、彼を非常に厚遇していた。そのユ秀才は、私財をはたいて、奴婢へ落ちた知人達を購入していた。宇文泰が、その理由を尋ねると、ユ秀才は言った。
「占領した国の賢人を礼遇するのが古の道だと聞いております。今、江陵が転覆しました。その主君には、確かに罪があります。しかし、百姓に何の咎があって、全員奴隷とならなければならないのでしょうか!しかし、私とてこの国ではよそ者。差し出がましいことは言えません。ですから、私財を投じて哀れな人々を購っているのです。」
 宇文泰は言った。
「我の過だ!天下の人望を失うところだった!」
 そうして法令を出し、奴婢となっていた梁の捕虜数千人が解放された。 

  

後梁成立  

 紹泰元年(555年)梁王が、江陵にて即位した。大定と改元する。昭明太子を追尊して昭明皇帝とする。廟号は高宗。妃の蔡氏を昭明皇后とする。(この政権は、後世、後梁と呼ばれる。以後、ここでも後梁と称する。)
 妻の王氏を皇后に立て、子の帰(「山/帰」)を皇太子とする。
 西魏へ対しては臣と称し、彼らの正朔を奉じた。
 諮議参軍の蔡大寶を侍中・尚書令として、外兵参軍の王操を五兵尚書とした。
 蔡大寶は、厳整で知謀があり、政治に精通し、文辞が巧かった。後梁帝は全幅の信頼を置き、彼を諸葛孔明に喩えた。王操への信頼も、これへ次ぐ。
 邵陵王綸を、追尊して太宰とし、壮武と諡する。河東王は丞相とし、武桓と諡する。莫勇を武州刺史、魏永寿を巴州刺史とする。 

  

王林抗戦  

 邵陵太守劉芬が、兵を率いて江陵救援に来た。しかし、三百里灘にて、部曲の宋文徹が劉芬を殺し、軍を率いて邵陵へ戻った。 

 湘州刺史王林は、兵を率いて援軍に駆けつけていた。蒸城にて江陵の陥落を聞き、元帝の為に哀を発した。
 別将侯平へ水軍を与えて、後梁を攻撃させる。王林は長沙へ留まって、州郡へ檄を飛ばした。長沙王韶や上游の諸将は、全て王林を盟主へ推した。 

 二月、侯平が、後梁の巴、武二州を攻撃した。もとの劉芬の主帥趙朗が、宋文徹を殺す。こうして、邵陵は、王林の勢力範囲へ入った。
 三月、宇文泰は、王克と沈烱を、再び江南へ派遣した。
 五月、侯平が後梁の莫勇と魏永寿を捕らえた。 八月、王林が蒸城から長沙へ帰った。
 十一月、王林は西魏を侵略した。西魏の大将軍豆廬寧が、これを防ぐ。
 十二月、交州刺史劉元偃が、数千人の部下を率いて王林のもとへ駆けつけた。 

 太平元年(556年)、後梁主は公安の侯平を襲撃した。侯平と長沙王韶は、兵を率いて長沙まで撤退した。
 王林は、侯平へ巴州を鎮守させた。
 侯平は、しばしば後梁軍を撃破した。しかし、そのうちにだんだん増長してきて、王林の指揮へ従わなくなった。
 五月、侯平は巴州助防呂旬を殺してその兵卒を奪い、江州へ逃げた。侯真は、これと義兄弟となった。
 これによって、王林の勢力は、ますます衰えた。
 王林は、北斉へ使者を派遣して、貢物を献上した。又、江陵が陥落した時、王林の妻子が西魏へ捕まっていた。王林は、西魏へも貢物を献上し、妻子を求めた。更に、梁へ対しても臣と称する。 

 七月、西魏の宇文泰が、王林へ使者を派遣した。王林も、返礼の使者を派遣する。その席で、元帝と愍懐太子の棺の返還を請願したところ、宇文泰は許諾した。
 八月、西魏は王林を大将軍、長沙郡公とする。 

 十一月、豊城公泰が北斉へ亡命した。北斉は、彼を永州刺史に任命した。
 梁では、王林を司空へ任命して、朝廷へ呼び寄せたが、王林は、辞退して、参内しなかった。麾下の将潘純陀を郢州へ留めて治めさせ、自身は長沙へ戻った。
 西魏は、彼の妻子を返還した。
 永定元年(557年)、正月。梁は、王林を司空・驃騎大将軍とした 

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