陽処父、改蒐し、賈季、陽処父を殺す。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の文公の六年、晋が夷地で春の大猟(狩猟のことと思っていましたが、平凡社版「春秋左氏伝」では、軍隊の大演習とゆう意味に訳してありました。)を行った。この時、二軍を廃し、狐射姑(賈季)を中軍の将とし、趙盾が副将となった。
 この後、陽処父が晋へ帰ってきて、菫にて猟をやりなおしたが、その時の猟では、趙盾が将、狐射姑が副将となっていた。陽処父は、もともと趙衰の部下だった為、息子の趙盾を引き立てたのである。
 又、趙盾を有能と評して言った。
「才能のある人間を引き立てるのは、国家の幸いです。趙盾は高い地位へ就けるべきです!」
 これによって、趙盾は始めて晋国の政権を握ることができた。
 さて、賈季は陽処父の為に将軍の地位を趙盾に奪われたので、陽処父を怨んでいた。晋国内に陽処父の後ろ盾となる人間が居なかったので、同年九月、賈季は続簡伯に、陽処父を殺させた。
 この事件について、春秋経では、「晋では陽処父を殺した。」と書いてある。これは、陽処父が差し出がましく将軍の地位を交代させたので、その専横を憎んでこのように表記したのである。 

 十一月、晋で続簡伯が殺された。すると、賈季は狄へ逃げた。そこで趙盾は、叟駢を使者として、賈季のもとへ、その妻子を送った。
 ところで、叟駢はかつて賈季に恥をかかされたことがある。そこで叟駢の部下は賈季の家族を皆殺しにして仇を雪ごうと言ったが、叟駢は言った。
「それは良くない。古書の中曽説にも言うではないか。『恩に報いるも、仇を雪ぐも、本人だけに止まり、家族へ及ぼしてはいけない。いわゆる忠恕の道とは、これを指して言うか』と。趙盾は、賈季へ対してこれだけ礼を尽くしている。趙盾から信頼されてこの役目を仰せつかったのに、これ幸いと私仇を晴らすなど、とんでも無いことだ。それに、他人の寵愛を頼んで私憤を晴らすなど、勇敢ではない。怨気に走って仇恨を深めるのは賢いやり方ではない。私事を完遂して公事を妨げるのは、国へ対して不忠なことだ。この三つの不義を行えば、これから先、我は何の面目合って趙盾へ仕えられようか。」
 こうして、賈季の家族や私財を一つ洩らさず送り届けた。 

  

(東莱博議) 

 私は、衆人の憎むものである。
 他人の朝廷に立っているのに、私情を以て結託し、私利を以て相交わり、私恩を以て報い合う。そうやって公儀を全く眼中に置かない輩は、人々から憎まれるものである。
 ところで、その「私」が皆から憎まれるのは、皆がそれと知っているからである。そうしてみるならば、最も憎むべきものではない。天下で最も憎むべきものは、私の私、つまり、偽善を交えた私である。
 私心に発しているのに、情を矯めて公を示す。上辺は公を示しながら、本心を隠してこっそり私を行う。私の中に公あり。公の中に私あり。陰険極まって、世の人々はそれを伺い知ることができない。これこそ、いわゆる「私の私」であり、君子が最も憎むものである。 

 陽処父が趙盾へ私し、君命を犯し国法を墜して勝手に菫で狩猟をしたのみならず、賈季の位を奪って趙盾へ与えた。彼は、趙盾へ深く私恩を与えたのである。
 もしも趙盾に公の心があったら、必ず思っただろう。
”命令は、主君から出るべきで、臣下から出てはならない。君命は既に定まっているのに、臣下の専断でこれを変更した。これでは国法がないも同然ではないか。そもそも、財産を掠める者を「盗」と言うが、その財産を受ける者も「盗」と言うのだ。主君の許諾も受けずに勝手に命令する者を「叛」と言うが、その命令を受ける者も「叛」と言うのだ。一時の寵愛を貪って自ら叛を納れて良いものだろうか。”と。
 趙盾が、いやしくもこの義を持って、陽処父の命令を固辞したなら、私は趙盾の真公を信じよう。だが、趙盾は、陽処父の専檀なる命令を安んじて受け、括として正卿の地位に就いた。その上、その利を受けながら私党の名を逃れようと考え、恵みに背き恩を棄てて、陽処父と疎絶した。
 彼は、私利を享受したとゆう誹謗を逃れる為に、自ら公を示したのである。ああ、趙盾の心は、何と陰険なのだろうか。 

 すると、ある者が尋ねた。
「貴公は、『趙盾が陽処父と疎絶して公を示した』と言われたが、一体何を根拠にしてそう言われたのですか?」
 それは明白です。賈季が陽処父を殺したからです。 

 賈季が敢えて陽処父を殺したのは、晋国内に陽処父の援けとなる人間が居なかったからだ。陽処父に強力な後ろ盾が居たら、賈季は、どうしてこれを殺そうと考えただろうか。
 晋国の権力は趙盾が握り、趙盾の権力は陽処父から与えられた。だから、趙盾が陽処父の援護をすれば、これ以上強い後ろ盾はない。それなのに、賈季が陽処父には援護がないと思ったのだから、趙盾は位を得た後、陽処父を行きずりの人間のように扱って、利害は相関せず、患難は相救わなかったに違いない。だからこそ、賈季は陽処父に援護がないと知ったのである。
 趙盾は陽処父を援けなかった。だが、陽処父の恩に背いてはならないことを、彼がどうして知らなかっただろうか。それなのに感情を矯めて公を示したのである。それは、私党を組んだとゆう嫌疑を解くことに汲々として、他人を顧みる余裕がなかった為である。
 だが、その公を示す中に、機を匿して私を行おうとしていた。賈季が陽処父を殺した後、趙盾はその罪状を全て続簡伯へ押しつけた。そして、そこで事件を終わらせて、賈季を追求しようとはしなかった。それは、賈季が陽処父を殺した原因が、”自分が私利を享受したことへ不平不満を持っていた”せいだったからだ。つまり、陽処父は、自分の為に死んだのだ。
 陽処父は趙盾の為に死んだ。そこで趙盾が陽処父の復讐の為に賈季を誅殺すれば、それこそ私党を組んだとゆう嫌疑が勃然として沸き起こってしまう。だから、出奔した賈季を宥め、彼の妻子を送って好意を示したのである。ああ、公を装った彼の行動は、密かに私の機を匿して悟らせない為のものだったのだ。 

 ところが、彼の行動は、もっと陰険だった。彼は賈季のもとへ妻子を送ったが、その使者として叟駢を選んだのである。この叟駢は賈季の讐だった。讐に妻子を送らせる。その本心は、叟駢に妻子を皆殺しにさせて、我が遺憾を晴らそうと思ったに他ならない。
 もしも、本心から善意で妻子を送り届けようというのなら、他の誰であろうとその役割を果たせたはずではないか。晋には大勢の人間が居るとゆうのに、何故、よりにもよって叟駢を選んだのか。その一事に、趙盾の真情がほとばしっている。
 もしも叟駢が、彼の下僕の言葉に従って賈季の妻子を殺したならば、賈氏を保全した恩は趙盾が独占し、賈氏を滅ぼした悪業は、全て叟駢が被る事となる。外に公儀を示し、内では私恩を復す。その心映え、陰険の極みである。
 叟駢は、趙盾の本心を悟らなかった。それどころか、「趙盾は賈季へ礼を尽くす。」と言い、憤怒を抑え遺憾を釈き、これを護って国境を出た。その行為は善だが、それは趙盾の本意ではなかったと私は思っている。 

 蜀が滅んだ時、衛灌(正しくは、王偏)はその功績を独占する為に登(「登/里」)艾を殺そうと思った。田続が登艾を憾んでいたのを知ると、衛灌は、登艾救出の為に田続を派遣したが、その時に言った。
「かつての恨みを晴らせるぞ。」と。
 田続は、果たして登艾を殺し、「間に合わずに救出できなかった。」と復命した。
 衛灌は、仇敵に登艾を救出させ、趙盾は仇敵に賈季の妻子を護送させた。その下心は同じだった。だが、衛灌は下心の隠し方は甘かったので、田続はそれと悟って登艾を殺した。趙盾は下心を胸の奥深くしまっていたので叟駢はそれと悟らずに賈季の妻子を殺さなかった。賈氏を全うしたのは叟駢の美だが、趙盾の本意ではなかったのだ。 

 趙盾はこれに悪を示したが、叟駢は誤って善と捕らえてしまった。趙盾はこれに邪を示したが、叟駢は誤って正と捕らえてしまった。人々がいつもこのように誤るのなら、誤りとゆうのも又素晴らしいものだ。
 悪機でも善が感じられる。邪機からも正が感じられる。これは、悪の中には常に善が在り、邪の中には常に正が在るからなのだ。善が悪の中にあるのなら、天下に本物の悪はない。邪の中に正があるのなら、天下に本物の邪はない。この言葉、この理、何と微妙なものではないか。 

  

(訳者、曰) 

 昔、山岡壮八先生が著された「徳川家康」を読んだ。その中で、石田三成が関ヶ原で破れて捕らわれるシーンがある。徳川家康は、三成を怨んでいる臣下へ、その身柄を預けた。そこで、三成は大いに慌てた。
”豊臣の為に戦った人間として処刑されるのなら望むところだが、つまらない私憤で殺されるのは本意ではない。”
 だが、彼を預かった男は、私憤を晴らそうとはしなかった。
「我が君は、私を信じて、その身柄を預けてくれたのだ。」と。
 これは歴史的な事実だろうか。私はこの頃の歴史には精通していないし、手元には資料もない。だが、山岡先生が、根拠もなしに歴史を捏造するようなことはなさらないだろう。ただ、解釈に手を加えているだけだと思う。
 検証もしないでこのように言うのは手抜きの上に不遜ではあるが、もしや家康は、件の臣下が私憤を晴らすことを望んで、彼に三成の身柄を預けたのではないだろうか。「愚直な三河武士が、家康の奸佞な心に気がつかず、忠義一筋を思って三成を害さなかった」とゆうのは、如何にもありそうなことだ。