劉黒闥
 
 武徳四年(己卯、621年)唐は竇建徳を滅ぼした。
 河北が既に平定し、上は陳君賓を名(「水/名」)州刺史とした。将軍秦武通等へ兵を与えて名州へ駐屯させ、東方の諸州を鎮守させた。また、鄭善果等を慰撫大使として、名州へ行かせて、山東の州県の官吏を選ばせた。
 竇建徳が敗北すると、その諸将の多くは、官庫のものを盗んだり、里へ住んで無法者となって民を苦しめたりした。唐の官吏は法律を適用して彼等を罰したので、建徳の故将達は皆、驚愕して不安になった。
 高雅賢と王小胡の家は名州にあった。家ごと逃げようとしたが官吏に捕まり、雅賢等は亡命して貝州へ逃げ込んだ。ここにおいて、建徳の故将の范願、董康買、曹湛及び雅賢等が集まって相談した。
「王世充は洛陽を以て唐へ降伏したが、その将相大臣の段達・単雄信等は皆、殺されてしまった。我等が長安へ自首しても、必ず殺される。我等は、この十年来、百戦を経て何度も死線を潜ってきた。今更余生を惜しんで事を立てないで済ますのか。それに、夏王が淮安王を捕まえた時には客分として礼遇したのに、唐は夏王を捕まえると殺してしまった。我等は皆、夏王から手厚く遇されていた。今、仇へ報いなければ、天下の士へ顔向けできぬわ!」
 こうして造反を計画し、占ってみると、劉氏を盟主とすれば吉と出た。そこで、みなで章(「水/章」)南へ行き、建徳の故将劉雅を見つけると、陰謀を告げた。すると、劉雅は言った。
「天下はようやく安定したのだ。我は年老いるまで農耕をするつもりだ。もう起兵などまっぴらだ!」
 皆は怒り、また、計画の漏洩も懼れて、遂に劉雅を殺した。
 ところで、故の漢東公劉黒闥も、章南へ住んでいたので、諸将は彼の元へ行って、陰謀を告げた。黒闥は、大喜びでこれに従った。この時、時期的に種まきの直前だったが、黒闥は耕牛を殺してみなと共に飲食して計画を定め、百人の人間をかき集めた。
 甲戌、章南県を襲撃して、これを占拠した。
 この頃、平穏が続いていたので、諸道に設置していた行台尚書省は廃止されていた。朝廷は、黒闥の乱を聞くと、名州へ山東道行台を設置し、魏・冀・定・滄へ総管府を設置した。丁丑、淮安王神通を山東道行台右僕射とする。
 八月、丁酉、劉黒闥が愉(ほんとうは、大里)県を落とした。魏州刺史権威、貝州刺史戴元祥が戦ったが、どちらも敗死した。劉黒闥は、彼等の部下や器械を全て奪った。竇建徳の旧党達も次第に帰順して来て、兵力は二千になった。そこで劉黒闥は章南に祭壇を造って建徳を祭り、挙兵の意を告げて、大将軍と自称した。
 関中の歩騎三千を徴発するよう詔がおり、将軍秦武通と定州総管の藍田の李玄通へ攻撃させた。また、幽州総管李藝にも兵を率いて劉黒闥を攻撃するよう詔が降りた。
 丁未、劉黒闥は歴亭を落とした。屯衞将軍王行敏を捕らえた。これを跪かせようとしたが、できなかったので、遂に殺した。 

 番(「番/里」)陽の崔玄遜は、竇建徳時代の深州刺史だった。劉黒闥が造反するに及んで、玄遜はその党数十人と野にて謀略を巡らせた。
 彼等は車の中へ武装兵を伏せ、枯れ草等で上を覆って、刺史へ訴え事をしに行った。役所の直前で、兵卒が雄叫びを挙げながら枯れ草の中から飛び出して、刺史の裴晞を捕らえ殺した。その首は、黒闥のもとへ運んだ。 

 九月、淮安王神通は関内の兵を率いて冀州へ進み、李藝と合流した。また、刑(ほんとうは、大里)、洛、相、魏、恒、趙等から合計五万の兵を徴発し、劉黒闥と饒陽城南で戦った。
 官軍の陣営は十余里に連なった。黒闥の兵は少なかったので、兵力を一ヶ所に集中して攻撃した。この時、風雪が起こった。神通は追い風に乗じて矢を放ったが、風向きが逆転し、神通は大敗した。士馬軍資の三分の二を失う。
 李藝は西の隅にいた。高雅賢を攻撃してこれを破り、数里追撃していたが、そこで大軍が不利だと聞いて、退却して藁城を保った。黒闥がこれを攻撃したので、李藝も敗北した。薛萬均、萬徹等が捕らわれたが、髪を切られて釈放された。萬均兄弟は逃げ帰り、藝は兵を率いて幽州へ帰った。
 黒闥の兵勢は、大いに振るった。
 庚寅、劉黒闥が瀛州を落とし、刺史の盧士叡を殺した。観州の人が刺史の雷徳備を捕らえ、城ごと劉黒闥へ降伏した。 

 毛州刺史趙元は、厳格で性急な性格。下の人間は、耐えきれなかった。
 丁卯、州民の董燈明等が造反し、を殺して劉黒闥に応じた。 

 十一月、壬寅、劉黒闥が定州を落とし、総管の李玄通を捕らえた。劉黒闥は、彼の才覚を愛で、大将にしたがったが、玄通は拒否した。そんな中、昔の官吏が酒や肉を玄通へ贈ったので、玄通は言った。
「諸君は、吾が軟禁されているのを哀れみ、酒肉を贈って慰めてくれる。有り難いことだ。諸君の心に甘えて酔わせて貰おう。」
 酒がたけなわになると、看守へ言った。
「吾は剣舞が得意なのだ。吾が刀を貸してくれないか。」
 看守が刀を渡すと、玄通は剣舞を舞い、溜息をついて言った。
「大丈夫が一地方の鎮撫を命じられた。これは御国の御厚恩。それなのに、保全することができなかったのだ。世間様へ対して何の面目が立とうか!」
 そのまま刀を引き寄せて自刺し、腹を潰して死んだ。(原文、「引刀自刺、潰腹而死」。これは、切腹だろうか?中国では「自刎」するのが普通だから、かなり珍しい自殺法だろう。)
 上はこれを聞いて涙を流し、子息の伏護を大将とした。 

 十二月。乙卯、劉黒闥が冀州を落とし、刺史の麹稜を殺した。
 黒闥は、淮安王神通を破った後、趙・魏へ書を廻した。すると、もとの竇建徳の将卒達が争って唐の官吏を殺し、黒闥へ呼応した。
 庚申、右屯衞大将軍義安王孝常へ兵を与えて黒闥を討伐させた。黒闥は数万の兵力で進軍し、宗城へ迫る。黎州総管李世勣は、まず宗城へ屯営したが、すぐに城を棄てて逃げ、名州を確保した。
 甲子、黒闥は世勣等を追撃し、破った。歩卒五千人が戦死し、世勣は体一つで逃げた。
 丙寅、名州の土豪が、城を翻して黒闥へ内応した。そこで黒闥は、城の東南で天へ告げ、竇建徳を祭ってから入城した。
 旬日後、兵を率いて相州を攻撃し、これを抜く。刺史の房晃を捕らえる。右武衞将軍張士貴は、包囲を突破して逃げた。
 黒闥は、南は黎、衞二州を取り、半年の間に竇建徳の旧領を全て回復した。また、突厥へ使者を派遣して連合を求めた。頡利可汗はこれに応じ、俟斤の宋邪那へ胡騎を与えて派遣した。
 己巳、劉黒闥が刑州と趙州を落とした。庚午、魏州を落とす。
 右武衞将軍秦武通、名州刺史陳君賓、永寧令程名振は、皆、河北から長安へ逃げ帰った。 

 丁卯、秦王世民と斉王元吉へ黒闥討伐を命じた。 

 武徳五年(622年)春、正月。劉黒闥は漢東王と自称して天造と改元し、名州を都に定めた。范願を左僕射、董康買を兵部尚書、高雅賢を右領軍とした。また、王jと劉斌を徴召して、それぞれ中書令と中書侍郎にした。竇建徳の頃の文武官は、全てもとの官位へ復帰させる。彼等の法律や行政は全て建徳に倣ったが、戦争の時の勇猛果敢さはそれを上回っていた。
 庚寅、東鹽州治中王才藝が刺史の田華を殺し、城を以て劉黒闥へ応じた。 

 秦王世民の軍が獲嘉まで進軍した。劉黒闥は相州を棄て、退却して名州を保った。丙申、世民は再び相州を取った。更に肥郷まで進軍し、名水(「水/名」)の上へ陣を布いて敵へ迫った。
  幽州総管李藝は、劉黒闥討伐の為、手勢数万で秦王世民と合流した。 黒闥はこれを聞くと、范願へ兵一万を与えて名州を鎮守させ、自身は兵を率いて藝を拒んだ。
 夜、沙河へ宿を取る。程名振が軍鼓六十を載せ、鼓城の西二里の堤の上からこれを急襲した。城中は皆、震動した。范願は驚懼し、黒闥へ急使を出した。黒闥はすぐに引き返し、その弟の十善と行台張君立へ一万の兵を与えて鼓城の藝を攻撃させた。
 壬子、両軍は徐河で戦った。十善・君立は大敗し、八千の兵を失った。
 名水の住民李去惑が城を占拠して来降した。秦王世民は彭公王君廓へ千五百騎を与えてこれへ派遣し、入城して共に守らせた。
 二月、劉黒闥は兵を率いて名水攻撃に出かけた。癸亥、列人まで進軍する。秦王世民は秦叔寶へ攻撃させ、これを破った。
 己巳、秦王世民が再び刑を取った。
 辛未、井州の住民馮伯譲が城を以て唐へ来降した。
 丙子、李藝が劉黒闥の定、欒、廉、趙の四州を取った。黒闥の尚書劉希道を捕らえ、兵を率いて名州にて秦王世民と合流した。
 劉黒闥は名水を性急に攻め立てた。名水城は、城の周りは全て水で、その広さは五十余歩。黒闥は、城の東北へ二本のトンネルを築き、これを攻めた。
 世民は兵を率いて救援に向かったが、黒闥軍がこれを拒み、進軍できなかった。世民は、王君廓が守りきれないのではないかと懼れ、諸将を集めて軍議を開いた。
 李世勣が言った。
「もしもトンネルが城下へ達したら、絶対守りきれません。」
 行軍総管の炎(「炎/里」)勇公羅士信が君廓と交代して守ろうと申し出た。世民は城南の高台へ登って旗を以て君廓を招いた。君廓は手勢を率いて力戦し、包囲の一角を破って出てきた。士信は左右二百人を率いてその機に乗じて入城し、君廓に代わって固く守った。
 黒闥は、昼夜の別無く攻め立てた。丁度大雪が降って、救援軍は駆けつけることができず、およそ八日経った丁丑の日、城は落ちた。黒闥は、もともと士信の武勇を聞いていたので、何とか彼を手下にしたがったが、士信は言葉も顔色も屈しなかったので、遂にこれを殺した。享年二十。
 辛巳、秦王世民が名水を抜いた。
 三月、世民と李藝が名水の南へ陣営し、兵を分けて水北へも屯営した。黒闥は屡々挑戦したが、世民は守備を固めて応じない。その傍ら、別働隊を出して、敵の糧道を絶った。
 壬辰、黒闥は高雅賢を左僕射にして、軍中で宴会を開いた。李世勣は兵を率いて、その陣へ迫る。雅賢は酔いで気が大きくなっており、単騎で追撃した。世勣の部将潘毛が、これを刺して馬から突き落とした。雅賢の左右が駆けつけてきて助けて帰ったが、陣へ戻る前に卒した。
 甲午、諸将が再び敵陣へ迫った。潘毛は、王小胡に捕らえられた。
 黒闥は、冀・貝・滄・瀛の諸州から兵糧を運んだ。その輜重隊は、水陸から連携しながら進軍する。程名振が千余人で攻撃し、その船を沈め車は焼き払った。
 秦王世民と劉黒闥は、六十日余り対峙した。黒闥は密かに兵を動かして李世勣の陣を攻撃した。生民は兵を率いて彼等の背後を絶ち救援しようとしたが、黒闥に包囲されてしまった。尉遅敬徳は壮士を率いて包囲へ突入した。世民と略陽公道宗は、その機に乗じて脱出できた。道宗は、帝の従子である。
 世民は、黒闥軍の兵糧がそろそろ底を尽きる頃だと計算し、奴等は必ず決戦に来ると考えた。そこで、名水の上流へ堰を築かせ、それを吏へ守らせて言った。
「我が賊と戦うのを待って、これを決壊せよ。」
 丁未、黒闥は歩騎二万を率いて名水を渡り、唐営を抑えつけて陣を布いた。世民は自ら精騎を率いて敵の騎兵を攻撃し、これを破る。勝ちに乗じて、敵の歩兵も揉み潰した。黒闥は衆を率いて決死に戦った。正午から黄昏まで数合戦ったが、黒闥勢は支えきれなかった。王小胡が黒闥へ言った。
「智力尽きました。早くお逃げください。」
 そして黒闥を先に逃がした。
 皆はこれを知らずにまだ戦っていた。すると、吏が堰を切った。たちまち名水の水が押し寄せ、一丈余りの深さになった。黒闥軍は大いに潰れた。一万余の首級を挙げられ、数千人が溺死した。
 黒闥は范願等二百騎で突厥へ亡命。山東は平定した。 

 六月。辛亥、劉黒闥が突厥を率いて山東へ来寇した。燕郡王李藝へ、これを迎撃するよう詔が降りる。
 丁卯、劉黒闥が突厥を率いて定州へ来寇した。
 劉黒闥が定州まで進軍した。彼の元の部下の曹湛と董康買は亡命して鮮虞に潜んでいたが、兵をかき集めてこれに応じた。
 甲午、淮南王道玄を河北道行軍総管としてこれを討伐させた。 

 九月、劉黒闥が瀛州を落とし、刺史の馬匡武を殺した。
 鹽州の住民馬君徳が城を以て黒闥へ帰順した。
 高開道が蠡州へ来寇した。
 冬、十月、己酉、斉王元吉へ山東にて劉黒闥を討伐するよう詔が降りる。壬子、元吉を領軍大将軍、并州大総管とする。
 癸丑、貝州刺史許善護が黒闥の弟の十善とユ県にて戦い、善護の軍は全滅した。
 甲寅、右武候将軍桑顕和が晏城にて黒闥を攻撃し、これを破る。
 観州刺史劉會が、城を以て黒闥へ帰順した。 

 十月、乙丑、行軍総管淮陽壮王道玄が劉黒闥と下博で戦い、敗北。道玄は黒闥に殺された。その経緯は、以下の通り。
 道玄は三万の兵を率いていたが、副将の史萬寶と協力できていなかった。萬寶は兵を抱えたまま進軍せず、親しい者へ言った。
「我が奉った手敕には、淮陽は小児だから軍事は全て老夫へ委ねる、と書いてあったのだ。今、王は軽々しく妄進している。もしも共に進んだら、必ず一緒に敗北してとまう。ここは、王を賊の餌にする方が良い。王が敗北すれば、賊は必ず争って前進する。我は陣を固めて待ち受ければ、必ず破れる。」
 こうして道玄は単独で前進して敗北した。
 萬寶は兵を指揮して戦おうとしたが、士卒達に闘志が無く、軍は遂に潰滅した。萬寶は逃げ去った。
 道玄はしばしば秦王世民に従って征伐していた。享年十九。世民は深く惜しみ、人へ言った。
「道玄は、いつも我に従って征伐していた。我が賊陣深く突撃するのを見て、同じように戦いたがっていたのだろう。おかげで、こんな結果になってしまった。」
 そして、道玄の為に涙を零した。
 世民は、起兵以来前後数十回戦ったが、常に士卒に率先して軽騎で深入りしていた。だから、屡々危険な目にあったが、いまだかつて矢や刃で傷ついたことはなかった。
 淮陽王道玄が敗北するや、山東は震駭した。名州総管廬江王爰(「王/爰」)は、城を棄てて西へ逃げた。州県は皆、唐へ背いて黒闥へ帰順した。旬日のうちに、黒闥は元の領土を恢復する。乙亥、黒闥は進軍して名州を占拠した。
 十一月、庚辰、滄州刺史程大買が黒闥に迫られ、城を棄てて逃げた。斉王元吉は、黒闥の兵の強さを畏れ、敢えて進まなかった。
 甲申、太子建成へ兵を率いて黒闥を討つよう詔が降りた。陜東道大行台、山東道行軍元帥、河南・河北諸州は全てその指揮下へ入れ、従軍の便宜を図った。 

 劉黒闥は、兵を擁して南下した。すると、相州以北の州県は、全てこれに帰属した。ただ、魏州総管田留安だけは、兵を指揮してこれを拒んだ。黒闥はこれを攻撃したが、落ちない。そこで兵を率いて南の元城を攻撃し、これを落とすと再び魏州へ戻ってきて攻撃した。 

 十二月、戊午、劉黒闥は恒州を落とし、刺史の王公政を殺した。
 癸亥、幽州大総管李藝が、廉、定二州を恢復した。
 甲子、田留安が劉黒闥を撃って、これを破り、その辛(「草/辛」)州刺史孟柱を捕らえた。六千人の将卒が降伏する。
 この時、山東の豪傑達は、長史を殺して黒闥へ応じる者が多かったので、上下互いに猜疑して人心は益々離怨していた。だが、留安のみは、吏民を疑わなかった。進言する者がいれば親疎を問わずにすぐに伏内へ入れた。
 彼は、いつも吏民へ言っていた。
「我と汝等は、共に国のために賊を防いでいるのだ。心を一つにして協力しなければならない。順を棄てて逆に従いたい者は、我が首を斬って、去れ。」
 だから、吏民は共に戒めあっていた。
「田公は至誠を推して我等へ接してくれる。だから我等は死力を尽くして報いなければ。決して背いてはならないぞ。」
 さて、苑竹林とゆう男が居た。彼はもともと黒闥の党類で、密かに異心を抱いていた。留安はこれを知ったが、暴き立てずに近習へ取り立て、吏事を委ねた。竹林は感激して、遂に心を入れ替えて留安へ仕えた。
 留安は、功績を認められて道国公へ進爵した。
 乙丑、并州刺史成仁重が范願を撃ち、これを破る。 

 劉黒闥は魏州を攻めたが、まだ落とせないうちに太子建成と斉王元吉の大軍が昌楽へ到着した。黒闥は兵を率いてこれを拒んだが、陣を布くだけで戦いにはならなかった。
 魏徴が太子へ言った。
「前に黒闥を破った時、我が方から寝返っていた将帥は皆殺しにして、妻子は捕らえました。ですから、今回斉王が来ましたので、その党与の罪を赦すとゆう詔書があっても、誰も信じないのです。今、捕らえていた妻子達を解き放ち、慰諭して敵方へ遣れば、座視していても敵が離散してくれますぞ!」
 太子はこれに従った。
 黒闥は食糧が尽き、部下も大勢逃げ出した。中には、隊長を縛り上げて降伏する者も居た。黒闥は、城中の兵が出撃して大軍と表裏から攻めて来ることを恐れ、遂に、夜、逃げた。館陶へ到着すると、永済橋がまだ完成していなかったので、渡ることができなかった。
 壬申、太子と斉王の大軍が追いついた。黒闥は、王小胡へ、背水の陣を布かせた。だが、橋が完成したのを見ると、すぐに橋を渡って西へ向かったので、軍は潰滅し、大勢の兵卒が武装解除して降伏してきた。
 大軍は橋を渡って黒闥を追う。だが、千余騎が渡ったところで、橋が壊れてしまった。こうして、黒闥は数百騎と共に逃れることができた。
 六年、春、正月、己卯。劉黒闥の饒州刺史諸葛徳威が黒闥を捕らえ、城を挙げて降伏した。
 この時、太子は騎将劉弘基へ黒闥を追撃させていた。黒闥は官軍に追われて、休むこともできずに奔走して饒陽へ到着した。従う者は、わずか百人余りで、とても餓えていた。徳威は出迎え、黒闥へ入城するよう請うた。黒闥は断ったが、徳威が涕泣して固く請うたので、黒闥はこれに従った。城の傍らの市中にて憩わせ、徳威は食事を振る舞った。だが、その食事を食べ終わらない内に徳威は兵を指揮してこれを捕らえたのである。そして徳威は、黒闥の身柄を太子へ送った。太子は黒闥を、弟の十善と共に名州にて斬った。
 黒闥は、刑に臨んで嘆いて言った。
「我は家にいれば粗末ながらも生きて入れたのに、高雅賢等に誘惑されて、こんな羽目になってしまった!」 

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