劉武周
 
 馬邑太守王仁恭は、賄賂を貪り、民への救済などてんで考えない男。
 同じ郡に劉武周とゆう男だてがいた。彼は驍勇で、任侠を好んでいた。鷹揚府校尉となったが、もともと土豪だったので王仁恭から親しくされ、親兵を指揮して閣下に駐屯するようになった。
 やがて、劉武周は王仁恭の稚児と密通した。事の露見を恐れ、彼は謀反を考えるようになった。
 義寧元年(617年)、二月。劉武周は宣言した。
「今、百姓は飢えに苦しみ、屍は道端にごろごろ転がっているのに、王府君は官庫を閉じたままで救済してくれない。これでどうして民の父母と言えようか!」
 聴衆は、皆、憤怒した。
 劉武周が病気と言い立てて出仕をやめると、豪傑達がやってきたので、彼は子牛を殺して酒を振る舞い、大言した。
「壮士が横死を待っていて良いのか!倉の中には、粟が腐るほど詰まっているのだ。俺と一緒に奪う者はいないのか?」
 豪傑達は、皆、許諾した。
 己丑、王仁恭が政務を執っていると、劉武周がお目通りを願い、彼に続いて仲間の張萬歳等が突入し、王仁恭を斬った。その首を持ち出して示したが、郡中には何の動揺も起こらなかった。ここにおいて官庫を開いて飢えた民を救済し、境内の属城へ檄文を飛ばすと、彼等は皆、降伏してきた。
 こうして一万余の兵力を得、劉武周は太守と自称し、突厥へ使者を派遣した。
 雁門郡丞の陳孝意と虎賁郎将王智弁が、共に劉武周を攻撃し、桑乾鎮を包囲した。対して劉武周は突厥と連合して反撃し、王智弁を殺した。陳孝意は、雁門へ逃げ帰った。
 三月、劉武周は楼煩郡を攻略し、汾陽宮を落とした。ここで隋の宮人を捕らえたが、それを全て始畢可汗へ贈った。すると始畢可汗は、お返しに馬を賜った。こうして、劉武周はますます強くなり、定襄まで攻め落とした。
 突厥は、劉武周へ定陽可汗の称号を与え、狼頭ケン(「毒/縣」)を賜った。(同じ頃、梁師都にも可汗の称号と狼頭ケンを与えている。)
 劉武周は皇帝を名乗り、妻の沮氏を皇后とした。年号を天興と改元する。衞士の楊伏念を尚書左僕射に、娘婿の苑君璋を内史令とする。
 劉武周は、雁門を攻撃し、これを包囲した。陳孝意は力戦して防ぎ、屡々出撃しては、勝ちを収めた。しかし、外部からの救援は来ない。江都へ急使を派遣したが、返事は来ない。陳孝意は、決死の覚悟を決めて、朝に夕に詔敕庫を伏し拝んで涙を零した。側近達も、皆、感動する。だが、百余日も包囲が続くと、城内の食糧が尽きてしまった。とうとう、校尉の張倫が陳孝意を殺して降伏した。 

 四月、劉武周は突厥の民を率いて黄蛇嶺へ陣取った。兵卒達の志気は極めて盛ん。唐の斉王の李元吉は、車騎将軍張達へ歩兵を率いて防戦するよう命じた。張達は、兵力が少なすぎるので辞退したが、李元吉は強いてこれを派遣した。その軍は、到着と同時に壊滅した。これによって張達は忿恨し、劉武周軍を引き入れて楡次を攻撃させ、これを落とした。
 丙辰、劉武周は并州を包囲した。李元吉が、これを撃退する。
 戊午、唐は太常卿李仲文へ并州救援を命じた。
 丙戊、劉武周は、汾州の平遙県を落とした。 

 易州に、宋金剛とゆう賊帥がいた。数万の部下を率い、魏刀児と手を結んでいた。魏刀児が竇建徳に滅ぼされると、宋金剛はこれを救ったが、戦いに敗れ、四千の兵を率いて劉武周のもとへ逃げ込んだ。
 劉武周は、彼が戦上手だと聞いていたので、これを得て大喜びで、宋王と呼び、軍事を委ねて家財も半分分けてやった。宋金剛も、深く結びつこうと、妻を追い出して劉武周の妹を娶った。
 ここにおいて宋金剛は、晋陽を占領して天下を争う計略を説いた。劉武周は、宋金剛を西南道大行台として、三万の兵を与えて并州を攻撃させた。
 丁未、劉武周は介州へ進軍して、これを落とした。唐は、左武衞大将軍姜寶、行軍総管李仲文に、これを攻撃させた。
 劉武周の将軍黄子英が、雀鼠谷を往来し、屡々軽騎を率いて挑戦してきた。だが、少し戦うと、負けたふりをして逃げ出す。その様なことが何度か続いたので、姜寶宜と李仲文は全軍で追撃した。すると、伏兵が襲いかかり、唐軍は大敗した。
 姜寶も李仲文も、捕らえられたが、すぐに二人とも逃げ帰った。李淵は、二人へ再び劉武周を攻撃させた。
 李淵が劉武周の入寇を憂えていると、右僕射裴寂が自ら行軍を名乗り出た。そこで、裴寂を晋州道行軍総管に任命し、劉武周を討伐させた。既に現場へ出ている唐軍は、全て彼の指揮下へ入れる。
 七月、宋金剛が浩州へ来寇した。一ヶ月足らずで退却する。
 裴寂が介休まで進むと、宋金剛が城に據って拒んだ。裴寂は度索原に屯営した。陣営では水を汲んで飲んでいたが、宋金剛が水源を絶ったので、裴寂軍の士卒は渇きに苦しんだ。そこで、水を求めて陣営を移動している所を、宋金剛に襲撃され、裴寂軍は大敗した。士卒の大半を失う。裴寂は、一晩中駆け続けて晋州へ逃げた。
 これより先、劉武周は屡々西河を攻撃していた。浩州刺史劉贍がこれを拒んでいたが、李仲文が救援に来て、共に西河を守った。
 裴寂が敗北するに及んで、晋州以北の城鎮は全て落とされたが、ただ西河だけが抵抗した。
 姜寶は、再び宋金剛に捕まった。そこで再び逃亡の計画を練ったので、宋金剛は彼を殺した。
 裴寂は謝罪文を上表した。高祖は慰諭して、河東を鎮撫させた。
 劉武周は并州まで進む。李元吉が司馬の劉徳威へ言った。
「卿は老弱と共に城を守れ。我は強兵を率いて出撃する。」
 そして李元吉は夜に出兵し、妻妾を携えて、州を棄てて長安へ逃げ帰った。
 李元吉が去った後、劉武周軍は城下へ到着した。晋陽の土豪薛深が、城門を開けて劉武周を迎え入れた。
 高祖はこれを聞いて激怒し、礼部尚書の李綱へ言った。
「李元吉は幼少で、まだ文武共に未熟だ。だからこそ竇誕と宇文欠を補佐としたのだ。晋陽には、数万の強兵がおり、食糧は十年間支えられる。我等の基盤の土地を、一日で棄てるとは!逃亡を提唱した首謀者は宇文欠と聞く。これは斬るぞ!」
 李綱は言った。
「王は年少で驕慢な放蕩者。竇誕は、これを一言も諫めずに、その悪行を覆い隠し、士民をこき使って怨みを溜めました。今日の敗北は、竇誕の罪です。宇文欠はきちんと諫めましたが、王が聞き入れなかっただけ。宇文欠は、それらもきちんと上表しました。彼は忠臣です。どうして殺して良いものでしょうか!」
 翌日、高祖は李綱を召し出して後座へ昇らせ、言った。
「公のおかげで、刑罰を乱用せずに済んだ。元吉が自ら不善を為したのだ。あの二人が禁じられるものではない。」
 そして、竇誕も赦した。

 劉武周は、太原に據った。宋金剛に晋州を攻撃させ、これを抜く。右驍衞大将軍劉弘基を捕らえたが、逃げられてしまった。宋金剛は、更に絳州へ迫り、龍門を落とす。
 十月、宋金剛は會州を攻撃して、これを落とした。軍の戦意は甚だ鋭い。
 裴寂は、もともと臆病者で将帥の才覚はなかった。ただ、虞、泰二州の民を城や堡の中へ入れ、蓄えの食糧などを全て焼き払わせただけだった。民は驚き騒ぎ憂え、そして怨んだ。誰もが、盗賊になることを考え始めた。
 夏県の民、呂祟茂は、民をかき集めて魏王と自称し、龍武周へ呼応した。裴寂は、これを討伐したが、敗北する。
 永安王孝基、独孤懐恩、陜州総管于均、内史侍郎唐倹羅に、討伐命令が降った。
 この頃、王行本は、まだ降伏していなかった。彼は劉武周と呼応したので、関中は震え上がった。李淵は、自ら敕を書いた。
「賊勢はこのように凄く、まともには戦えない。大河以東を棄て、謹んで関西のみを守れ。」
 だが、李世民は上表した。
「太原は、我等の基礎で国の根本です。河東は富貴で、京邑には資財があります。もしもこれらを棄ててしまえば、後日悔いても追いつきません。どうか臣へ三万の兵を貸して下さい。必ず劉武周を平定し、汾・晋を取り戻します。」
 そこで李淵は、関中の兵を総動員して李世民へ与え、劉武周を討たせた。
 乙卯、李淵は華陰へ御幸し、長春宮にて、彼等を送った。
 秦王世民は、兵を率いて凍りついた黄河を龍門から渡り、柏壁に屯営して宋金剛と対峙した。
 この頃、大乱続きの事とて、河東の州県の官庫はほとんど空っぽだった。人情は騒然となり、宋金剛は人々をかき集めて城堡へ入れたが、兵糧を徴発しても何も手に入らず、軍中は食料が欠乏した。 ある時、世民は自ら軽騎を率いて敵状を偵察した。部下達を四散させた後、世民は一甲士と共に丘に登って眠った。すると、突然、敵兵が四方から集まってきた。
 李世民達は、最初は敵兵に気がつかなかった。しかし、たまたま鼠を追いかけた蛇が甲士の顔に触れたので、甲士は驚いて飛び起き、危機に気がついて李世民と共に馬に乗った。百歩ほど駆けたところで敵兵が追いついてきたが、李世民が大羽箭で敵の驍将を一人射殺したので、賊兵は退いた。 

 十二月、于均(「竹/均」)は永安王孝基へ、呂祟茂を急攻するよう説いた。独孤懐恩は、まず攻具を造り、その後に進軍するよう請うた。孝基は、独孤懐恩の策に従った。
 呂祟茂は、宋金剛へ救援を求めた。金剛は、麾下の将、善陽の尉遅敬徳と尋相へ兵を与えて夏県へ派遣した。孝基は、前後に敵を受け、大敗した。孝基、懐恩、均、唐倹及び行軍総管劉世譲が捕まった。
 尉遅敬徳は、恭とゆう名前だが、字の方が有名である。
 劉淵は裴寂を入朝させ、敗戦責任を問うて獄吏へ引き渡したが、すぐに釈放し、以前にも増していよいよ寵遇した。
 尉遅敬徳と尋相が會(「水/會」)州へ帰ろうとした時、秦王世民は兵部尚書殷開山と総管秦叔寶等に攻撃させた。両軍は美良川にて戦い、唐軍が大勝利を収め、首級二千を挙げた。尉遅敬徳と尋相は精鋭を率いて、蒲反の王行本を救援に行こうとしたが、世民は自ら歩騎三千を率いて夜半、間道から安邑へ赴き、これを襲撃して大勝利を得た。尉遅敬徳と尋相は、僅かに体一つで逃げ出した。世民は、その部下をことごとく捕らえ、柏壁へ帰った。
 諸将の中には宋金剛との戦闘を請う者も居たが、世民は言った。
「金剛軍は、敵地深く侵入しているし、精兵勇将が悉くここに集まっている。劉武周は太原に據り、宋金剛を防御壁として恃んでいる。だが、奴等の軍には食糧が無く、略奪をして軍資としている。奴等には速戦が有利だ。だから我等は防備を固め鋭気を養って、敵の戦意を挫くのだ。そして別働隊を汾・隰へ派遣して敵の心腹を衝けば、奴等は食糧は尽き打つ手に窮し、自ずから敗走する。今は、その機を待つのだ。速戦するのは宜しくない。」
 永安壮王孝基は、脱走を計画したので、劉武周が殺した。 

 三年、正月。将軍秦武通が、蒲反の王行本を攻撃した。王行本は、出撃して敗北した。食糧が尽き、救援も途絶えたので、包囲を突破して逃げようとしたが、従う者が居ない。
 戊寅、城門を開いて降伏した。辛巳、上は蒲州へ御幸して、行本を斬った。秦王世民は、軽騎を率いて蒲州へ来て、上へ謁見した。
 宋金剛は、絳州を包囲する。
 癸巳、上は長安へ帰った。 

 二月、劉武周が、派兵して路(「水/路」)へ来寇し、長子と壺関を陥とした。路州刺史郭子武は防ぐことができなかった。上は、将軍河東王行敏へ救援を命じた。
 行敏と子武は反りが合わなかった。するとある者が、子武が造反を計画していると言い立てたので、行敏は子武を斬った。
 乙巳、劉武周が再び路州へ来寇したが、行敏が、これを撃破した。
 甲寅、唐は将軍桑顕和等を夏県へ派遣して、呂祟茂を攻撃させた。 

 三月、乙丑。劉武周が、その将の張萬歳を浩州へ来寇させた。李仲文が、これを撃退した。数千人を捕斬する。
 甲申、行軍副総管張綸が、浩州にて劉武周を敗り、千余人を捕斬する。張綸と李仲文は、兵を率いて石州へ臨んだ。劉季真は懼れ、偽りの降伏をした。
 乙酉、劉季真を石州総管とし、彭山郡公に封じる。
 そうこうしている間に、宋金剛の軍中は兵糧が尽きてしまった。丁未、金剛は敗走し、秦王世民は、これを追撃した。
 世民は、呂州まで尋相を追撃し、大いに破った。勝ちに乗じて更に追撃を掛け、一昼夜に二百余里進んで数十回戦った。
 高壁嶺まで来ると、総管劉弘基が轡を執って諫めた。
「大王は賊を破り、ここまで追撃しました。功績は、もう充分です。深入りしすぎないで、御自愛下さいませ!それに、士卒も飢え疲れています。暫くここに留まり、兵糧が集まるのを待ってから再び進軍しても、決して遅くはありません。」
 すると、世民は言った。
「金剛は、打つ手が無くなって逃げたのだ。士卒達の心も離れている。功績は成し難くて敗れやすく、好機は得難くして失いやすい。この勢いに乗ってこれを執らなければならない。もしもここに留まって、敵方に準備をさせてしまえば、再び攻めることはできない。我は、忠を尽くし国へ殉じる。なんで我が身を顧みれようか!」
 遂に、馬に鞭打って進んだ。将士も、もう、誰も飢えを言わなくなった。
 雀鼠谷まで、金剛を追い詰め、一日に八回戦って全てこれを破り、数万人を捕斬した。
 夜、雀鼠谷の西原に宿営した。世民は、二日間何も食べず、三日間武装を解かなった。軍中には、ただ一匹だけ羊がいた。世民は、将士へ分け与えて食べさせた。
 丙辰、陜州総管于均が、金剛の所から逃げてきた。世民は兵を率いて介休へ赴いた。
 金剛には、まだ二万の兵があった。西門から出て、城を背にして布陣する。世民は総管の李世勣へ攻撃させた。李世勣軍が少し退却すると、賊軍はそれに乗じて進軍したが、世民が精鋭を率いてその背後へ廻って攻撃した。金剛は大敗し、三千の首級を挙げられる。金剛は、軽騎で逃げた。世民は数十里追撃する。
 浩州行軍総管樊伯通、張徳政は堡に據って籠城していた。世民が兜を取って援軍だと示すと、堡中は喜びに泣き崩れた。左右の者が、王が食事もしないで進撃してきたことを告げると、彼等は濁酒と脱粟飯を献上した。
 尉遅敬徳は、敗残兵を集めて介休を守った。世民は、任城王道宗と宇文士及を派遣して、説得させた。尉遅徳と尋相は、介休と永安を挙げて降伏した。
 世民は、敬徳を得て非常に喜び、右一府統軍として、彼の手勢八千をそのまま指揮させ、他の陣営と混在させた。屈突通は、変事が起こることを危惧して何度も進言したが、世民は聞かなかった。
 劉武周は、金剛が負けたと聞いて大いに懼れ、并州を棄てて突厥へ逃げた。金剛は、その余衆を集めて再び戦おうとしたが、将兵達は誰も戦いたがらなかった。しかたなく、彼も百騎を率いて突厥へ逃げた。
 世民が晋陽へ到着すると、武周の僕射楊伏念が城ごと降伏してきた。唐倹は、府庫へ封をして、世民を待った。こうして、武周の所領は、全て唐の版図へ入った。
 それからすぐに、金剛は上谷へ逃げ込もうと計画したが、突厥は追いかけて捕まえ、腰斬にした。
 嵐州総管の劉六児は、宋金剛に従って介休へ入ったが、秦王世民が捕らえて、斬った。その兄の季真は石州を棄てて劉武周の将の馬邑の高満政のもとへ逃げ込んだが、満政は彼を斬った。
 劉武周が南寇した時、彼の内史令苑君が諫めて言った。
「唐主は、一州の兵力で長安へ進攻し、向かうところ敵もないまま、これを取りました。これは人間わざではありません。天が授けたのです。それに、晋陽以南は道路は険しく狭く、深入りしたら後続がなかなか続けません。もしも進戦して不利になれば、どうやって帰還するのですか!北は突厥と連和し、南は唐朝と結び、この土地だけで南面して孤と称するのが一番です。そうすれば、長く栄えましょう。」
 武周は聞かず、君を留めて朔州を守らせた。
 敗北するに及んで、武周は泣いて君へ言った。
「君の言葉を用いなかったばっかりに、こうなってしまった。」
 しばらくして、武周は馬邑へ帰ろうと謀ったが、事前にばれた。突厥は、これを殺した。
 突厥は、君章を大行台として劉武周の残党を統率させ、郁射設へ兵を監督させて鎮守を助けさせた。
 李淵は、并州平定と聞いて、大いに悦んだ。
 壬戌、群臣と宴会を開いて繪帛を賜下する。各自御府へ入って好きなだけ持って行かせるとゆう大盤振舞だ。唐倹は官職を復旧し、更に并州道安撫大使も兼任させる。また、没収した独孤懐恩の田宅資財も、全て彼へ賜下した。
 世民は、李仲文を并州へ留めて、鎮守させた。劉武周はしばしば兵を出して来寇したが、仲文はこれを全て撃破し、城や堡を百余所も下した。そこで、詔して仲文を検校并州総管とした。   

 初め、尉遅敬徳は兵を率いて呂祟茂を助けて夏県を守っていた。上は、密かに使者を派遣して、祟茂の罪を赦し夏州刺史に任命して、敬徳を殺させようと謀った。しかし、事前に洩れ、敬徳は祟茂を殺した。
 敬徳が去った後、祟茂の余党達は再び夏県に據って拒守した。秦王世民は晋州から軍を率いてやってきて夏県を攻撃した。
 壬午、これを屠る。
 辛卯、秦王世民が、長安へ到着した。 

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