梁師都
 
  

 義寧元年(617年)、朔方鷹揚郎将の梁師都が、郡丞の唐世宗を殺して郡に據り、大丞相と自称した。彼は、突厥と手を結んだ。
 三月、雕陰、弘化、延安等の諸郡を攻略し、遂に皇帝を名乗った。国号を「梁」と定め、永隆と改元する。突厥の始畢可汗は梁師都へ大度毘伽可汗の称号を与え、狼頭を賜った。(同じ頃、劉武周にも可汗の称号と狼頭を与えている。)
 梁師都は突厥を河南へ引き込み、塩川郡を攻め破った。 

 武徳元年(618年)、煬帝が弑逆された。長安を占拠していた李淵は、簒奪し、唐を建国した。
 九月、李密が滅亡した。 

 二年、正月。李淵は金紫光禄大夫勒孝謨を辺境へ派遣して軍閥を安集させていた。梁師都はこれを捕まえたが、捕まった勒孝謨は、口を極めて梁師都を罵った。梁師都は、勒孝謨を殺した。
 二月、唐は勒孝謨へ武昌県公を追賜し、忠と諡した。 

 八月、梁師都は、突厥と連合して延州へ来寇した。兵力は、数千騎。行軍総管段徳操の兵力は少なかったので、城門を閉じて戦わなかった。
 九月、段徳操は、梁師都軍が疲れてきた頃を見計らい、副総管の梁礼に攻撃を命じた。戦いがたけなわの時、段徳操は軽騎で敵の背後へ回り込み、たくさんの旗や幟を見せつけた。梁師都軍は壊滅して敗走した。
 乙未、梁師都は再び延州へ来寇した。段徳操がこれを撃退し、首級二千余を挙げた。梁師都は、百騎余で逃げ去った。
 この戦功で、段徳操は柱国を拝受し、平原郡公の爵位を賜った。
 鹿州刺史梁礼は、戦死した。  

 三年、五月。梁師都が突厥や稽胡の兵を率いて入寇した。段徳操が、これを攻撃して破り、千余級を斬首した。 

 八月、癸卯、梁師都の石堡留守張挙が千余人を率いて来降した。
 九月、庚午。梁師都の将劉旻が華池ごと来降した。唐は、彼を林州総管に任命した。
 張挙と劉旻が降伏するや、梁師都は大いに懼れ、尚書の陸季覧を突厥へ派遣して處羅可汗を説得した。
「このごろ中原は動乱続きで、数カ国に分裂し、それぞれの勢力が均衡して力が弱まっていました。ですから、皆、北面して突厥へ帰順しているのです。しかし今、定陽可汗(劉武周)は既に亡く、天下は全てが唐の領土になろうとしています。師都は、滅亡を恐れているのではありません。ただ、次は可汗の番かと危惧するのです。ですから、奴等が中華を平定する前に、南進して中原を取るべきです。ちょうど、魏道武(晋、孝武帝紀参照)のように。その時には、師都が道案内となりましょう。」
 處羅は、これに従った。莫賀咄設を原州へ入寇させ、泥歩設と師都を延州へ入寇させ、突利可汗と奚、シュウ(「雨/習」)、契丹、靺鞨を幽州へ入寇させようと謀った。又、竇建徳この軍隊を釜(「水/釜」)口から西進させ、晋・絳にて合流するよう計画した。莫賀咄は處羅の弟の咄必(「草/必」)であり、突利は、始畢の子息の什鉢必(「草/必」)である。
 處羅は、又、并州を取って楊政道をそこに住ませようと思った。多くの群臣が諫めたが、處羅は言った。
「我が父は国を失ったが、隋の援助を頼んで独立できたのだ(隋の開皇十九年)。この恩を忘れてはならない。」
 だが、いざ出陣とゆう時に、卒した。
 義成公主は、處羅の子の奥射が醜くて柔弱だったので、これを廃して莫賀咄設を立てた。頡利可汗と号する。
 乙酉、頡利可汗は使者を派遣して、處羅の喪を告げた。上は、始畢の喪の時と同じ礼で対した 

 雲州総管郭子和は、突厥や梁師都と連合を結んだが、提携した後、師都の寧朔城を攻撃して、これに勝った。また、突厥間の不調和を聞くと、これを上へ報告しようと使者を放ったが、その使者は突厥へ捕まってしまった。
 そんなこんなで處羅可汗は激怒して、彼の弟の子升を捕らえた。
 郭子和は孤立してしまって危険を感じ、その民を率いて南へ移住することを請うた。唐の朝廷はこれを許可し、延州の故城へ移住するよう詔が降りた。 

 五年、二月、庚辰。延州道行軍総管段徳操が梁師都の石堡城を攻撃した。梁師都が自ら兵を率いて救援に向かったが、徳操はこれと戦い大いに破る。師都は十六騎で逃げ去った。
 上は徳操軍を増員し、勝ちに乗じて夏州へ進攻させた。徳操は、その東城に勝つ。師都は、数百人で西城を保った。
 突厥が救援に来たので、徳操へ引き返すよう詔が降りた。 /P>

 六年、正月。唐が劉黒闥を滅ぼした。
 三月、庚子、梁師都の将賀遂と索同が、所領十二州を以て来降した。
 四月、乙丑、唐の鹿(「鹿/里」)州道行軍総管段徳操が梁師都を攻撃した。夏州まで進軍し、その民や家畜を捕らえて帰った。
 六月、壬戌、梁師都が突厥を率いて匡州へ来寇した。
 七年、七月丁丑。梁師都の行台白伏願が来降した。 

 九年、三月壬寅、梁師都が辺域へ来寇した。静難鎮を陥す。 

 五月、戊子、虔州胡の成郎等が長史を殺し、唐へ造反して梁師都へ帰属した。都督劉旻が追って、これを斬った。 

 初め、稽胡の酋長劉企(本当は止ではなく、山)成が衆を率いて梁師都へ降伏してきたが、師都は讒言を信じて、これを殺した。この事件によって、師都を疑い懼れた酋長達が大勢唐へ来降した。
 師都は、勢力がますます弱体化したので、突厥へ入朝して画策し、唐への入寇を勧めた。こうして頡利、突利の二可汗が連合して十余万の兵を率いてケイ州へ来寇した。彼等は武功まで進軍する。
 八月、京師では、戒厳令が布かれた。 

 貞観二年(628年)、丙申、契丹の酋長が部落を率いて来降した。頡利は使者を派遣し、梁師都と契丹を交換するよう請うた。すると、上は使者へ言った。
「契丹と突厥は、異民族だ。今、彼等が彼等から帰順してきたのに、なんでこれを引っ張って行くのか!師都は中国の人間で、我が土地を盗み、我が民へ暴虐を振るう。突厥が後ろ盾となって庇うのなら、我が討伐軍を起こした時に救援に来るがよい。彼は、釜の中の魚に過ぎん。何で我のものではないというのか!持ってもいないものと降伏した民とを、どうして交換できるものか。」
 これより前、上は突厥の政治が乱れているのを知り、梁師都を庇いきれないと見て、師都へ書を遣って諭したのだが、師都は従わなかった。そこで上は、夏州都督長史劉旻、司馬劉蘭成へこれを図るよう命じた。
 旻等は、屡々軽騎を出して梁の稔りを蹂躙し、反間を放って君臣を離間した。おかげで梁の国威は次第に衰弱し、唐へ降伏する者が相継いだ。梁の名将の李正寶等は、師都を捕らえようと謀ったが、計画が事前に漏洩したので、唐へ亡命した。これ以来、上下は益々猜疑しあうようになった。

 旻等は、梁を滅ぼす好機と見て、上へ出兵を請うた。上は右衞大将軍柴紹、殿中少監薛萬均を派遣し、これを撃たせた。また、旻等へは朔方の東城へ據って梁を威嚇させた。
 師都は、突厥の兵を率いて城下へやって来た。劉蘭成は旗を伏せ、鼓を倒して戦わない。しかし、宵になって師都が逃げようとすると、これを追撃して、破った。
 突厥が大軍を出して梁師都を救援に来たが、柴紹は朔方の数十里手前で突厥郡と遭遇し、奮撃して大いに破り、遂に朔方を包囲した。突厥は敢えて救援に向かわず、城中は食糧が尽きた。
 壬寅、師都の従父弟の洛仁が、師都を殺して城ごと降伏した。その土地を、夏州とする。 

  

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