侯景の乱   その4
 
廃立 

 当初、侯景は、梁の兵卒は怯懦だと、軽く見ており、建康を落としたら、梁の奪取は造作なく、そのまま中原へ攻め込めると考えていた。しかし、意外に抵抗が強い。しかも、今回の敗戦で、多くの猛将を失った。そこで、このままでは存亡が危ういと考え、早く帝位へ即こうと欲した。
 すると、王偉が言った。
「古から、簒奪を行うときには、まず、廃立を行いました。これによって示威し、かつ、原王朝の権威を失落させて、衆望を絶つのです。」
 侯景は、これに従った。そこで、前の寿光殿学士謝昊へ詔書を書かせた。
「弟や姪達が、みんなして即位を争っている。(弟は、湘東王や武陵王。姪は、河東王、岳陽王)これは朕の不徳の致すところである。よって、位を豫章王棟へ禅譲する。」
 そして、帝へ迫って署名させた。
 棟は、華容公歓の子息で、昭明太子の孫に当たる。
 大寶二年(551年)八月、戊午、侯景は兵を率いて入殿し、簡文帝を廃して晋安王とし、永福省へ幽閉した。
 廃位が終わると、侯景は、哀太子大器、尋陽王大心、西陽王大鈞を始め、建康にいる王侯二十余人を殺した。
 壬戌、棟が即位した。大赦が降り、天正と改元される。
 太尉の郭元建がこれを聞くや、秦郡から馳せ帰って侯景へ言った。
「主上は先帝の太子ですし、何の過失もありません。なんでこれを廃したのですか!」
「王偉が勧めたのだ。『早く民望を除け』と。我は、天下を安んじようと、これに従ったのだ。」
「我等は天子を擁立しているのに、諸侯は言うままに動かないのです。ましてや理由もなく廃立しては、なおさら、奴等は団結して立ち向かってきますぞ!」
 それを聞いて侯景は、簡文帝を即位させて、棟を皇太孫としようかとも考えたが、王偉は言った。
「廃立は大事件です。どうして何度も改められましょうか!」
 そこで、取りやめた。
 乙丑、侯景は、呉郡の南海王大臨、姑孰の南郡王大連、会稽の安陸王大春、京口の高唐王大壮を殺した。
 太子妃を郭元建へ賜下したところ、郭元建は言った。
「皇太子妃を、人の妾になどして良いはずがありません!」
 そして、謁見さえもせず、使者を出して伝言した。
 丙寅、昭明太子を昭明皇帝、豫章安王を安皇帝と追尊する。
 劉神茂を司空とした。
 王偉は、衆望を絶つ為に、簡文帝を殺すよう侯景へ説き、侯景は簡文帝を殺した。
 簡文帝は、幽閉されて以来、侍る人間が居らず、紙にさえも不自由したので、壁や板障へ詩や文章を書いており、それは数百篇にものぼった。いずれも、甚だ悽愴なものだった。 

 己亥、湘東王は、尚書令の王僧弁を江州刺史、江州刺史の陳覇先を東揚州刺史に任命した。
 簡文帝崩御を知った王僧弁は、簡文帝へ尊号を献上するよう湘東王へ求めたが、湘東王は、これを却下した。(湘東王は、最期まで簡文帝を皇帝と認めなかった。) 

  

  

劉神茂造反 

 十月、侯景が巴丘で敗戦して帰ってきたと聞いて、劉神茂は造反を企てた。呉中の士・大夫はこれをそそのかす。そこで、儀同三司尹思合、劉帰義、王曄、雲靡将軍元頬等と共に東陽へ據り、江陵へ呼応した。
 元頁と別将李占へ建徳と江口を占領させる。張彪は永嘉を攻撃して、勝った。
 新安の住民程霊洗が起兵して郡を占領し、劉神茂へ呼応した。
 こうして、浙江以東は、全て江陵へ加担した。
 湘東王は、程霊洗を焦州刺史、領新安太守に任命した。 

 十一月、湘東王は、湘州刺史安南侯方矩を中衛将軍として、自分の副官とした。後任の湘州刺史には、南平王恪を任命した。 

 侯景は、趙伯超を東道行台として銭塘へ據らせ、田遷を軍司として富春へ據らせた。又、李慶緒を中軍都督、謝答仁を右廟都督、李遵を左廟都督として、劉神茂を討伐させた。
 十二月、謝答仁と李慶緒は建徳を攻撃し、元頁と李占を捕らえ、建康へ送った。侯景は、彼等の四肢をバラバラにした。すると、一日後に、二人とも死んでいた。
 承聖元年(552年)、二月。侯景は、謝答仁へ、劉神茂攻撃を命じた。
 謝答仁は、東陽へ向かった。程霊洗、張彪等が救援に駆けつけようとしたが、劉神茂は戦功を独占しようとして、これを許さず、自身は下淮へ陣取った。
 ある者が言った。
「賊軍は野戦が上手です。下淮は平地で、四面から攻撃されてしまいます。七里瀬へ陣を布くべきです。そうすれば、敵軍は進めなくなります。」
 しかし、劉神茂は従わなかった。
 もともと、劉神茂の配下には北朝の人間が多く、彼等は劉神茂へうち解けていなかった。別将の王曄と麗通は、共に軍営の外に陣を布いていた。彼等は、謝答仁へ降伏した。すると、劉帰義や尹思谷等は城を棄てて逃げた。
 孤立した劉神茂は、とうとう謝答仁へ降伏した。謝答仁は、彼を建康へ送った。
 侯景は、劉神茂を一寸刻みにして殺した。 

  

  

侯景即位 

 十一月、己卯、侯景へ九錫を加えた。又、漢国へ、丞相以下の百官を設置させた。
 己丑、豫章王棟は、侯景へ禅譲した。
 侯景は、南郊にて皇帝位へ即いた。宮中へ戻ると、太極殿へ登った。彼の一味数万人は、皆、大騒ぎだった。大赦を下し、太始と改元する。豫章王棟は、淮陰王へ封じ、彼の二人の弟達(橋、樛)と共に、鎖に繋いで密室に閉じこめた。
 王偉は、七廟を立てるよう請うと、侯景は聞き返した。
「七廟とは何だ?」
「天子は、七代先の先祖から祀るのです。各々何とゆう名前だったのでしょうか?」
「そんな先の事は知らん。俺が知っているのは、父親の名だけだ。標とゆう。だが、父君は朔州に居る。どうしてここまで来れようか!」
 これを聞いて、皆は、悉く笑った。
 侯景の仲間の一人が、彼の祖父の名前が乙羽周だと知っている者がいた。しかし、それ以前の先祖はまるで判らないので、王偉が名付けた。父親の標は、元皇帝と追尊した。
 侯景が丞相でいる間は、西州へ府を造り、尊卑に関わらず、誰とでも引接した。しかし、皇帝と成るや、 禁中へ閉じこもり、親しい者にしか引接しなくなったので、諸将の多くは怨望した。
 侯景は、もともと子馬に乗って鳥を射るのが好きだったが、王偉はこれを禁じ、軽々しく外出することを許さなかった。侯景は鬱々として楽しまず、言った。
「我は皇帝となったが、これでは死人と同じではないか。」 

  

  

建康奪還 

 承聖元年(552年)、湘東王は、王僧弁へ侯景攻撃を命じた。
 二月、諸軍は尋陽を出発する。その舳艫は、数千里も続いた。
 陳覇先は、武装兵三万を率いて、白茅湾にて王僧弁と合流した。ここで祭壇を築き、血を啜って、共に盟文を読んだ。二人共に、慷慨流涕した。
 癸卯、王僧弁の命令を受けた侯真は南陵・鵲頭の二砦を襲撃し、戦勝した。王僧弁らもここを占領した。丙辰、鵲頭を出発する。
 戊午、侯子鑑が戦鳥へ戻って来たが、遠征軍が余り大軍なのに肝を潰し、淮南へ逃げ帰った。
 王僧弁等が無湖まで進軍すると、侯景の守将張黒は、城を棄てて逃げた。これを聞いて、侯景は甚だ懼れた。そこで、湘東王と王僧弁の罪を赦す旨、詔を降ろしたが、それは皆の失笑を買った。
 侯子鑑は、姑孰へ據って西軍を防いだ。そこで侯景は、史安和へ二千の兵を与え、援軍とした。
 三月、侯景は、自ら孰へ出向くと詔し、侯子鑑のもとへ使者を派遣して言った。
「西軍は、水戦が巧い。これで戦ってはいかん。往年の任約の敗戦を戒めとせよ。しかし、陸上戦ならうち破れる。お前は岸の上へ陣を布き、舟は浦へ入れて、敵を待ち受けろ。」
 そこで侯子鑑は、舟を捨てて岸へ登り、陣営を閉ざした。
 王僧弁等は無湖に十余日ほど軍を留めた。侯景軍は大喜びで言い合った。
「西軍は我等の強さに怖じ気づいたぞ。戦わずして逃げ出すな。」
 そこで侯景は、侯子鑑へ、水戦の準備を命じた。
 丁丑、王僧弁は姑孰へ進軍した。侯子鑑は一万余を率いて洲を渡り、挑戦した。小舟千艘に戦士を乗せる。王僧弁は、小舟を退却させ、大艦のみを、両岸を挟むように留めた。
 これを見た侯子鑑の兵卒達は、西軍が逃げると思って、争うようにこぎ出した。すると、大艦がその退路を遮断し、軍鼓がジャンジャン打ち鳴らされた。
 江中にて合戦が起こり、侯子鑑軍は大敗した。溺死した士卒は、数千人に及んだ。侯子鑑は体一つで逃げ出し、敗残兵を取りまとめて建康へ帰り、東府へ據った。
 王僧弁は、虎臣将軍荘兵慧達へ姑孰を鎮守させ、更に前進した。すると、歴陽戍が降伏してきた。
 侯子鑑の敗北を聞いた侯景は、大いに懼れ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしてベットへ潜り込んだ。
 王僧弁は諸軍を都督して張公洲へ進軍すると、潮に乗って淮水へ入り、禅霊寺前まで進軍した。 侯景は、石津塞主の張賓を呼び出すと、舟や石を使って淮口を塞がせ、淮に沿って城を造らせた。この城は、石頭から朱雀街まで続き、楼が相接していた。
 王僧弁が陳覇先へ計略を問うと、陳覇先は言った。
「昔、柳仲礼が数十万の兵で、水を隔てて陣を布き、韋粲は青渓へ陣を布いた時、彼等は遂に岸を渡らなかった。賊軍は高みに登ってこれを見下ろし、表裏一体となって攻撃したので、我が軍は壊滅してしまった。(太清三年、正月。)だから今回は、まず北岸へ渡って、これを占領しよう。諸将が先陣を切らないのなら、私が渡って柵を建てましょう。」
 こうして、陳覇先が石頭の西の落星山へ柵を築いた。衆軍は、これに八城を連ね、石頭の西北へ出た。
 侯景は、西州の道が絶たれるのを恐れ、自ら侯子鑑等を率いて石頭の東北へ五城を築いた。台城は、王偉へ鎮守させる。
 乙酉、侯景は、湘東王の世子方諸と前の平東将軍杜幼安を殺した。
 丙戌、謝答仁が、捕らえた劉神茂を建康へ送ってきた。
 丁亥、王僧弁は招堤寺の北へ進軍する。侯景は、万余の兵と鉄騎八百を率いて西州の西へ陣を布く。
 陳覇先は言った。
「我等は大軍、賊軍は小勢。この兵力を分配して、強で弱を制しよう。一ヶ所に集中させて戦死するなど、馬鹿げたことだ!」
 そして、諸将を分散させた。
 侯景は、将軍王僧志の陣を攻撃した。王僧志は、少し退却する。すると陳覇先は、将軍徐度を差し向けた。徐度が、弩二千で横合いから攻撃したので、侯景軍は退却した。
 陳覇先は、王林、杜龕等と共に、鉄騎に乗って追撃し、王僧弁は大軍で後続となった。
 石頭城を守るのは、侯景の儀同三司盧暉略。彼は、城門を開いて降伏した。王僧弁は入城し、これを占領する。
 侯景と陳覇先は、死戦していた。侯景は百余騎を率い、矛を捨てて刀を執り突撃したが、陳覇先軍は動じない。ついに侯景軍は大敗し、西明門(建康外城の西の中門)へ追い込まれた。
 闕下へ逃げ込んだ侯景は、敢えて入台せずに王偉を呼び出して、詰問した。
「お前の言うとおり皇帝になったから、こんな羽目に陥ったのだ!」
 王偉は返答できなかった。しかし、侯景が逃げようとすると、王偉は言った。
「宮中の衛士を集めれば、あと一戦はできます。ここを捨てて、どこが安全でしょうか!」
 だが、侯景は言った。
「我は昔賀抜勝を敗り、葛栄を破り、我が威名は、河・朔へ轟き、揚子江を渡っては、台城を平らげた。柳仲礼を降すなど、掌を返すようなものだったぞ。それなのに、この有様。今日のことは、天が我を滅ぼすのだ!」
 そうして、石闕を見上げて、嘆息した。
 侯景は、江東で生まれた二人の子供を皮袋の中に入れて鞍の後ろへ掛けると、房世貴等百余騎と共に東へ逃げた。呉の謝答仁のもとへ逃げ込もうと考えたのだ。
 侯子鑑、王偉、陳慶等は、朱方へ逃げた。
 王僧弁は、裴之横と杜龕を杜姥宅へ屯営させ、杜則を台城へ入城させた。
 王僧弁は、兵卒達を厳しく監視していなかった為、彼等は好き勝手に略奪を行った。裸に剥かれた男女が、石頭から東城まで連なり、号泣の声は道に溢れた。この夜、兵卒が放火し、太極殿や東西堂、宝器、羽儀、輦輅等が、残らず燃え去ってしまった。
 戊子、王僧弁の命令で、侯真が侯景を追撃した。その兵力は、精鋭五千。
 王克や元羅等は台内の旧臣を率いて、道まで王僧弁を出迎えた。王僧弁は、王克羅をいたわって、言った。
「夷狄の君へ仕えるのは、断腸の想いだっただろうな。」
 王克は、返答できなかった。
 王僧弁は尋ねた。
「玉璽は、どこにある?」
 王克は、ややあって答えた。
「趙平原(侯景の侍中の趙思賢)が持ち去りました。」
「王氏といえば、百代続いた卿族。だが、その権威も一朝で失洛したな。」
 ついで、王僧弁は梓宮にて太宗を迎えて朝堂へ登り、百官を指揮して礼通りに哭の儀式を行った。
 己丑、王僧弁は湘東王のもとへ使者を送り、建康へ入るよう勧めた。すると、湘東王は言った。
「仮に、淮海の長鯨(侯景のこと)の首を取ったとしても、襄陽の短狐(岳陽王)が残っている。占領後の政策については、卿が主宰せよ。」
 庚寅、南コン州刺史郭元建、秦郡戍主郭正買、陽平戍主魯伯和、行南徐州事郭子仲羅が、城ごと降伏してきた。 

  

  

帝位を狙って 

 王僧弁が江陵を出発する時、湘東王へ尋ねていた。
「賊軍を平定した後、帝位へ就くとしたら、何を名分とするのでしょうか?」
 湘東王は言った。
「帝徳のうち、最も大切なのは、武徳である。」
 すると、王僧弁は言った。
「賊軍討伐は、臣の職務。しかし、成済(魏の高貴郷公を弑逆した人間)の仕事は、別の者へやらせてください。」
 そこで湘東王は、宣猛将軍朱買臣へ、密命を下していた。
 侯景が敗北するに及んで、太宗は既に殺されていた。
 豫章王棟と二人の弟は密室から逃げ出すことができた。道で杜則に出会って、鎖を取り去って貰うと、二人の弟達は喜んで言った。
「今日、ようやく横死を免れた。」
 だが、豫章王は言った。
「禍は福の依る所。福は禍の伏す所。その変化は知り難い。我はまだ、懼れているのだ。」
 やがて、朱買臣は彼等を舟遊びへ招待して、酒を浴びるほど呑ませ、寝込んだ所を川へ沈めた。 

  

  

敗残軍 

 王僧弁は、郭元建等の降伏を受理した時、陳覇先へ兵を率いて廣陵へ向かわる傍ら、安慰の使者も派遣していた。
 侯子鑑は、廣陵まで逃げて来ると、郭元建等へ言った。
「我等は、梁の仇敵なのだ。どの面下げて梁主へ会うつもりか!それよりも、北へ降伏するべきだ。そして、故郷へ帰ろう。」
 そこで、皆は北斉へ降伏した。
 陳覇先が欧陽へ到着した時、北斉の行台辛術は、既に廣陵を占領していた。
 そこで王僧弁は、京口を鎮守するよう、陳覇先へ命じた。

 王偉と侯子鑑らは行方を見失っていたが、直涜戍主の黄公喜が捕らえ、建康へ送って来た。
 王僧弁は詰問した。
「卿は賊の宰相ではないか。それなのに死節を尽くさずに、はいずり回って生き延びるのか?」
 すると、王偉は言った。
「興廃は天命だ。昔、漢帝(侯景)が我の言うことに従っていれば、明公がどうして今日の殊勲を建てられたのか!」
(侯景が台城を陥した時、降伏して来た王僧弁を、侯景は意陵へ追放した。)
 尚書左丞の虞歩は、かつて王偉から辱められた事があったので、王偉の顔へ唾を吐き掛けた。
 王偉は言った。
「君は書を読まないな。共に語るに足りない。」
 虞歩は、恥じ入って退出した。
 四月、乙巳、蜀の武陵王が皇帝を潜称した。 

  

  

侯景の最期 

 壬辰、侯景は晋陵にて、田遷が残していった兵卒を手に入れた。そこで民を駆り立て、呉郡まで強制連行した。
 謝答仁は、富陽まで戻って来たところで、侯景の敗走を聞いた。そこで、一万人を率いて北へ出ようとしたが、趙伯超が銭塘に據って、これを拒んだ。
 侯景は、嘉興まで進んだところで、趙伯超の造反を聞き、呉まで退いた。
 己酉、侯真は侯景を松江まで追撃した。
 侯景には、まだ二百艘の舟と、数千人の兵卒が居た。しかし、侯真は進撃してこれを破り、田遷、房世貴、蔡寿楽、王伯醜、彭雋等を捕らえた。
 侯真は、彭雋の腹をさいて、腸を引きずり出した。しかし、それでも彭雋が死ななかったので、自らこれを殺した。
 侯景は、腹心数十人と単舟で逃げた。そして二人の子供を川へ突き落とし、海へ逃げた。侯真は、副将の焦僧度へ追撃させた。
 ところで、侯景は羊侃の娘を妾としており、彼女の兄の羊昆を庫直都督として、甚だ厚遇していた。
 羊昆は、侯景と共に東へ逃げていたが、同じく侯景が寵用していた王元礼、謝威蒙と共に、密かに侯景を図ろうと考えた。謝威蒙は、謝答仁の弟である。
 海へ出た侯景は、蒙山へ向かっていた。己卯、侯景が昼寝をしている間に、羊昆は船頭を脅しつけ、舟を京口へ向けさせた。
 湖豆洲まで来て、侯景は目が覚めて大いに驚いた。
 岸上の人間へ尋ねたところ、「郭元建は、まだ廣陵に居る」との返事だったので、侯景は喜んで廣陵へ行こうとしたが、羊昆は船頭を叱りつけて、京口へ向かわせた。そして、侯景へ言った。
「我が王は、多くの才覚を持ちながら、今はこのような有様。もはやこれまでです。この上は王の頭を取って富貴を得ようと愚考いたします。」
 侯景が返答する前に、白刃が振り下ろされた。侯景は水へ飛び込もうとしたが、羊昆の刀が阻む。侯景は舟の中へ逃げ込み、刀を抜くと、船底へ穴を開けて入水しようとしたが、羊昆が矛で刺し殺した。
 尚書右僕射の索超世は別の舟へ居た。そこで羊昆は、侯景の命令と偽って呼び寄せて捕らえた。南徐州刺史徐嗣徽が索超世を殺し、塩漬けにして侯景の腹中へ入れ、建康へ送った。
 王僧弁は、侯景の首を江陵へ送った。残りは謝威蒙へ、北斉へ持って行かせた。侯景の屍が市に曝されると、士民は争ってこれを食べ、骨まで食べ尽くされた。
 北斉に、侯景の五人の子息が捕らえられていたが、北斉の世宗は、長男の顔を剥いで煮殺し、残りの四人は、密室に放り込んだ。やがて顕宗が即位した後、夢見が悪かったとて、四人とも煮殺した。
 趙伯超、謝答仁等は、皆、侯真へ降伏した。侯真は、彼等を、田遷と共に建康へ送った。王僧弁は、房世貴を市で斬り、王偉、呂季略、周石珍、厳檀、趙伯超、伏知命を江陵へ送った。
 丁巳、湘東王は戒厳令を解いた。
 乙丑、簡文帝を荘陵へ葬った。廟号は太宗。
 侯景は、逃げ出す時に、国璽を持ち出しており、侍中の趙思賢へ渡して、言った。
「もしも我が死んだら、揚子江へ沈めてくれ。呉の小僧っ子へ渡してはならない。」
 しかし、趙思賢は、逃亡の最中に盗賊に襲われ、従者が国璽を草むらへ捨てていった。後、それを知った郭子建が拾い上げ、北斉の辛術へ渡した。辛術は、これを業へ送った。 

  

  

乱の終焉 

 五月、侯景の首が江陵へ到着した。それは三日間市へ曝された後、煮て漆を塗られ、武器庫へしまわれた。
 王僧弁が、司徒、鎮衛将軍となり、長寧公へ封じられた。陳覇先は、征虜将軍、開府儀同三司として、長城県侯へ封じられた。
 王偉、呂季略、周石珍、厳亶等は、市で誅殺された。趙伯超、伏知命は、牢獄で餓死させた。謝答仁は、太宗へ対して礼を失わなかったので、特に宥められた。彼等以外の者は、全て無罪と公表した。
 ところで、王偉は、牢獄で五百言の詩を作り、湘東王へ献上した。その時、湘東王は、彼の文才を愛で、彼を赦そうと思った。すると、嫉者が、湘東王へ言った。
「王偉が、昔日造った檄文は素晴らしい文章でした。」
 そこで湘東王は、その檄文を求めて読んでみた。すると、次の一文があった。
「項羽は重瞳なのに、なお、烏江で敗北した。ましてや湘東王は片目だ。何で勝つことができようか!(重瞳は、一つの目に二つの瞳があるとゆう異相。項羽は重瞳だったと伝えられている。湘東王は、眇だった。)」
 湘東王は激怒して、王偉の舌を釘で柱へ打ち付け、腹を裂き、肉を塩漬けにして殺した。 

 この頃、斉帝が使者を派遣してきたので、湘東王は、斉と西魏へ使者を派遣し、侯景を平定したことを告げた。
 六月、斉帝は、使者を派遣し、侯景平定を祝賀した。 

 公卿や藩鎮は、湘東王へ即位を勧めていた。
 十一月、湘東王は、江陵にて即位した。これが、元帝である。王太子の方矩を皇太子に立てる。
 侯景の乱で、州郡の大半は西魏や北斉へ奪われていた。武寧以北は岳陽王が、蜀には武陵王が、嶺南には蕭勃が割拠しており、詔が有効な範囲は千里四方に過ぎず、領民も三万戸に満足りなかった。 

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