侯景の乱   その2
 
援軍撃退 

 邵陵王綸は、侯景が既に采石を渡ったとの情報を受け取って以来、夜を日に継いで建康へ急行した。ところが、揚子江を渡る時に大風に遭い、人馬の二割が溺死した。(胡三省、曰く。廬循の乱の時、劉裕が風を冒して揚子江を渡た時、風はやんだ。今回、邵陵王綸が揚子江を渡ろうとしたら、風が起こった。これは、天が梁を滅ぼそうとしているのだ。)遂に、歩騎三万で京口へ向かった。従軍したのは、遠寧将軍西豊公大春、新塗公大成、永安侯確、安南侯駿、前の焦州刺史趙伯超、武州刺史蕭弄璋である。
 侯景は、これへ対して、軍を江乗へ派遣した。それを聞いて、趙伯超は邵陵王へ言った。
「もしも黄城大路を経由すれば、賊軍と遭遇してしまう。ここは鍾山を経由して廣莫門を急襲し、賊軍の不意を衝くべきである。そうすれば、城の包囲は必ず解ける。」
 邵陵王は、これに従ったが、夜、道に迷い、二十里も迂回した。
 庚辰の朝方、官軍は将山へ陣取った。侯景は、これを見て大いに驚き、一旦は、略奪した女や珍宝を石頭へ送って舟で逃げようとまでしたが、結局、三道から派兵して邵陵王と戦うことにした。
 この時、山嶺は雪が降り非常に寒かったので、邵陵王は軍を率いて下山し、愛敬寺へ陣取った。侯景は、覆舟山の北へ陣取る。
 乙酉、邵陵王は玄武湖まで進軍し、侯景と対峙したが、まだ戦わなかった。
 暮れになって、侯景は翌日合戦することを申し入れ、邵陵王は許諾した。そこで侯景が軍を退くと、それを遠くから見た安南侯駿は、侯景が逃げ出したと勘違いし、壮士を率いて追撃した。侯景は、軍を返してこれを撃つ。安南侯は敗北し、邵陵王のもとへ逃げ込んだ。
 趙伯超は、この有様を望み見て、兵を引いて逃げた。侯景が、勝ちに乗じてこれを追撃したので、諸軍は皆、壊滅した。
 邵陵王は敗残兵をかき集め、千人程の兵力を確保すると、天保寺へ入った。侯景はこれを追撃し、寺を焼き払う。邵陵王は、朱方へ逃げる。雪や氷を踏んで逃げたので、大勢の兵卒達が、凍傷で足をなくした。
 侯景は、邵陵王軍の輜重を全て奪い、西豊公大春、安前司馬荘丘慧、主師霍俊等を捕らえて帰った。
 丙戌、侯景は奪い取った邵陵王軍の武器や西豊公大春等を城下へ見せつけ、彼等へ言わせた。
「邵陵王も、乱戦の中で戦死したぞ。」
 だが、霍俊だけは言った。
「王は、戦況が不利だったので、京口へ退いただけ。今、体勢を立て直しています。城中は、ただ堅守して、援軍が来るのを待っていてください。」
 賊徒は刀で霍俊の背中を殴りつけたが、霍俊はますます声を強めた。侯景は、その義に感じて赦してやったが、臨賀王が、彼を殺した。 

 この日の晩。番陽王範は、世子の嗣、西豫州刺史裴之高、建安太守趙鳳挙へ兵を与え、援軍として蔡洲へ陣取らせ、上流の諸軍の到着を待たせた。裴之高を督右援軍事とする。
 侯景は、秦淮水南岸の民を全員北岸へ駆り立て、建物は全部焼き払った。これによって大街以西は、まっさらになってしまった。 

 湘東王繹は、世子方等へ一万の兵を与え、建康救援に向かわせた。彼等は、庚子、公安を出発した。
 又、意陵太守王僧弁へ水軍一万を与え、これに兵糧を載せて漢川から出発させた。
 方等は俊才で、騎射が巧く、戦闘のたびに矢石の降り注ぐ前線に立ち、「死節の臣下」と自任していた。 

  

封山侯 

 北徐州刺史封山侯正表は、鍾離を鎮守していた。武帝は、彼も援軍に来るよう命じたが、封山侯は、船や兵糧が集まらないと言い訳して進軍しなかった。
 侯景は、封山侯を南コン州刺史とし、南郡王に封じた。封山侯は、欧陽へ柵を建て、それ以遠から援軍が来ても進軍できないようにした。その上で、一万の兵を率いて「救援に向かう」と吹聴したが、その実、廣陵を襲撃しようと考えていた。そして、廣陵令劉詢へ密かに書を与え、城を焼いて呼応するよう誘った。しかし、劉詢はこれを、南コン州刺史南康王会理へ告げた。
 十二月、会理は、劉詢へ千人の兵力で封山侯を攻撃させた。劉詢は夜襲を掛け、大勝する。封山侯は、鍾離まで逃げ帰った。劉詢は敵の兵糧を奪って会理のもとへ戻り、彼と共に朝廷の救援へ向かった。
 捕捉ながら、翌年正月、封山侯は北徐州ごと東魏へ降伏した。そこで、東魏の徐州刺史高帰彦が、兵を派遣した。
 同月、寿陽の王顕貴が、城ごと東魏へ降伏した。 

  

抵抗 

 癸巳、侍中・都官尚書の羊侃が卒し、城中はますます恐れた。
 侯景は、城攻めの道具を沢山造り、闕前にズラリと並べた。大車は、高さが数丈もあり、車が二十個も付いている。
 丁酉、城攻めを再開した。蝦蟇車で土を運んで、壕を埋めて行く。
 壬寅、侯景は火車で、台城の東南楼を焼いた。材官の呉景は知恵の回る男で、組立式の楼を城内に造っていた。火が消えてしまうと、すぐにこれを組立させたので、たちまち新しい楼ができあがった。賊軍は、これを見て神と懼れた。
 ところで侯景は、火を付けた時、その火事に紛れて、城の下の地面を掘らせていた。城が壊れようとした時、呉景はそれに気がつき、城内へ新しい城を造った。この城は湾曲していて、形は月のようだった。そして、火を発する機能があって、敵の攻具を全て焼き払ってしまった。とうとう、賊軍は後退した。
 太子は洗馬元孟恭へ千人の兵を与え、大司馬門から出陣させたが、元孟恭等はそのまま侯景の元へ投降した。
 己酉、侯景の築山が、城楼へ迫って来た。そこで柳津は、地下道を掘って築山の土を掘り崩すよう命じた。これによって外山は崩れ、賊軍は大きな被害を受けた。
 又、城内では飛橋を作り、二つの土山の間に掛けた。侯景の兵卒達は、飛橋が出てくるのを見ると、崩れるように逃げ出した。
 更に、城内では雉の尾で作った松明に火を付けて投げつけ、東山を焼いた。これによって楼柵は壊滅し、賊軍は城下に積み重なって死んだ。
 とうとう賊軍は、築山を棄て、攻具を自ら焼き払ってしまった。
(胡三省、曰く。この城下で死んだ者達が、どうして真の賊徒だろうか。侯景は力づくで民を駆り立てて、城を攻撃させたのである。そして、自分達はその背後から脅しつける。この城を攻めた人々は、退却すれば賊徒達から殺されただろうし、進んだら矢石に殺されたのだ。ああ、城下に積み重なって死んだのは、梁の赤子達ではないのか!)
 材官将軍宋嶷が侯景へ降伏した。そして彼は、玄武湖の水で台城を水攻めにする方法を教えたので、闕前は水浸しとなった。 

  

援軍集結 

  武帝は、衡州刺史韋粲を散騎常侍として、長沙方面の地方官の調査をやらせていた。この仕事が終わって廬陵まで戻って来た時、彼は侯景の造反を知った。そこで彼は兵を集め、精兵五千を得ると、道を急いで救援に向かった。
 豫章まで到着した時、侯景は既に横江を出たと聞いた。韋粲が内史の劉孝儀と相談すると、劉孝儀は言った。
「もしもそれが真実ならば、必ずや敕が降りる筈。ただの噂を軽々しく信じて妄動するなど、とんでもない!」
 この時、劉孝儀は酒を出したので、韋粲は怒り、杯を叩きつけた。
「賊軍は既に揚子江を渡り、宮闕へ迫っている。水陸共に交通が遮断されたというのに、どうやって連絡できるのだ!たとえ敕がないとしても、安心できぬ!こんな時に、どうして酒が飲めようか!」
 そして、馬を馳せて飛び出した。そのまま出立の準備をしたが、さあ出陣とゆう時、江州刺史当陽公大心の使者がやって来た。そこで、彼は当陽公のもとへ駆けつけて、言った。
「陛下が設置なさった大藩の中で、江州は、建康の一番近くにありますし、殿下の御心も、朝廷を思っておられます。ただ、ここは要衝の地で、それを鎮守する役目がある以上、軽々しく動くことはできません。しかしながら、殿下が動いたと聞けば、賊軍は大いに動揺するはず。ですから、今は、救援へ向かうと宣伝する事が大切です。あとは、副将でも派遣すれば、それで充分でしょう。」
 当陽公も同意し、中兵の柳斤へ二千の兵を与えて韋粲へ随行させた。
 韋粲軍が南洲へ到着すると、外弟の司州刺史も又、一万の兵力を率いて横江へ到着していた。韋粲は、彼等へ兵糧などを分け与える傍ら、私財を投じて戦士を褒賞した。
 西豫州刺史裴之高が、張公洲から船を派遣し、これらの官軍を渡してやった。丙辰の夜、韋粲、柳仲礼および羊鴉仁、宣猛将軍李孝欽、南陵太守陳文徹が合流して新林の王遊苑へ屯営した。
 韋粲は、柳仲礼を大都督に推した。だが、裴之高の方が年上であり、彼は柳仲礼の下位に甘んじることを恥じたので、軍議は幾日も長引いた。
 とうとう、韋粲は皆へ言った。
「今、我等は国難へ赴いた。賊軍を掃討することこそ、我等の悲願。私が柳仲礼を大都督に推したのは、彼が長い間辺境を鎮守していた悍将で、侯景からも憚られており、その士馬は精鋭だからだ。もしも地位で論じるならば、彼は私の下である。年からいっても、私の方が上だ。しかし、社稷の計としては、彼が適任なのだ。今日の情勢では、人の和が何よりも大切だ。心を一つにできなければ、大事は去る。いくら朝廷へ大功ある裴公とはいえ、私情を挟んで大事を阻むなど許されん!今から、奴目を成敗に行こうではないか!」
 そして、裴之高の陣営へ乗り込んで行き、詰った。
「今、狡猾な悪党が天を冒し、陛下に危機が迫っている。臣子は心を一つにして全力を尽くすべき時だ。それなのに、何を勝手なことを言っているのか!豫州がいつまでも異議を唱えるのなら、全軍を挙げてお前を攻撃してやるぞ!」
 裴之高は泣いて陳謝した。こうして、柳仲礼は大都督となった。
 宣城内史の楊白華が、子息の楊雄へ郡兵を与えて派遣した。援軍はぞくぞくと集結し、遂に十余万へ膨れ上がった。彼等は、淮へ沿って柵を築く。これへ対して、侯景も北岸へ柵を築いて対抗した。
 裴之高の弟の裴之横は、水軍一万を率いて張公洲へ屯営していた。侯景は、裴之高の弟、姪、子息、孫を捕らえ、川へ臨んで引き出した。彼等の前には鼎を置き、後ろからは刀鋸で脅しつけている。
「裴公、降伏しなければ、彼等を煮殺すぞ!」
 裴之高は、射撃の巧い人間を選んで我が子を射させた。しかし、二発射て、両方とも外れた。
 侯景は、歩騎一万を率いて後渚にて挑戦した。柳仲礼は出撃したがったが、韋粲は言った。
「もう日が遅く、我等は疲れ切っています。今戦ってはなりません。」
 そこで柳仲礼は防備を厳重にして、出撃しなかった。すると、侯景も退却した。
 丁巳の明け方、会戦に先だって、諸将は各々自分の領分を守ることとなり、韋粲には青塘が割り当てられた。ここは、石頭への通路に当たっており、賊軍が全力を挙げて攻めてくることが必至と思われたので、韋粲は懼れて辞退した。だが、柳仲礼は言った。
「ここは重要な場所だから、兄上でなければダメなのだ。もしも兵力が少ないというのなら、援軍をつけよう。」
 そして、直閣将軍劉叔胤を派遣した。 

 三年、正月。柳仲礼は、新亭から大桁へ移動した。
 韋粲は道に迷い、青塘へ到着した時には夜半を過ぎていた。翌朝になっても、まだ柵が完成しない有様。侯景はこれを望み見ると、速やかに精鋭兵を揃えて韋粲を攻撃した。
 韋粲は、軍主の鄭逸へ迎撃を命じ、劉叔胤へは水軍を率いて後続となるよう命じた。だが、劉叔胤は惰弱な人間で、畏れて進軍しない。遂に、鄭逸は敗北した。
 侯景は勝ちに乗じて韋粲の陣営を攻撃する。韋粲の左右は、彼を避難させようとしたが、韋粲は動かず、子弟を叱咤して力戦した。遂に、子供の尼や三人の弟達、助・警・構、従弟の昴等と共に戦死した。彼の一族は、数百人が戦死する。
 侯景が青塘を攻撃していると聞いた時、柳仲礼は食事中だったが、即座に箸を投げ捨てて武装し、百騎を率いて救援へ赴いた。塘にて侯景と戦い、大勝利を収める。斬った首級は数百。淮水で溺死した賊徒は千余人に及んだ。
 柳仲礼の矛が侯景を捕らえようとしたと時、賊将の支伯仁が背後から柳仲礼の肩を砕いた。柳仲礼は、堪らずに落馬する。すると、賊徒が集まってきて、次々と矛で刺して行く。だが、そこへ騎将の郭山石が救援に駆けつけて来たので、どうにか逃げ出すことができた。柳仲礼は、かなりの重傷だったが、医者の恵存が止血など適宜な処置をした為、どうにか生き延びた。
 以来、侯景は南岸へ向かわず、又、柳仲礼も気力が萎えて、戦おうとしなくなった。
 邵陵王は敗残兵を収容して、東揚州刺史臨城公大連、新金公大成等とともに桁南へ陣を張った。彼も又、柳仲礼を大都督に推した。 

  

朱異、卒す。 

 さて、これだけの大乱になると、朝野ともに、その怨みを朱異へ向けるようになった。朱異は憤り余り発病した。
 庚申、卒す。
 故事では、尚書官は死んだ人間へ贈られることはなかったが、武帝は彼の死を非常に悼み、特に尚書左僕射を追贈した。 

  

援軍の内情 

 甲子、湘東王の世子方等や王僧弁の軍が到着した。
 己巳、太子が永福省へ移った。
 同日、高州刺史李遷仕と天門太守樊文皎が一万の兵を率いて城下へやって来た。
 ところで、台城と援軍とは、長い間音信途絶の状態が続いていた。そこで、羊車児とゆう男が、一つの策を献上した。凧を使って、連絡を取るとゆう方法だ。敕をくくりつけた凧へ長い縄を付けて、強風の時に放つ。そして、敕の表には、「これを拾った者が援軍へ届けたならば、銀百両の賞金を与える。」と記しておくのである。この案は採用され、太子自ら太極殿へ出て、凧を揚げた。しかし、その凧を見た賊軍はこれを怪しみ、厭勝(呪術)の一種と思いこんで、矢で射落としてしまった。
 援軍の方では、敵の包囲をかいくぐって城内と連絡を取れる人間を募集した。すると、番陽世子嗣の左右の李朗が自薦した。
 彼はまず、罪を得て逃げ出した振りをして、賊軍へ降伏した。そして、隙を見て城中へ逃げ込んだ。
 援軍が四方から集結していることを知って、城中の志気は高揚した。武帝は、李朗を直閣将軍とし、金を与えて賞した。
 癸未、番陽世子、永安侯、荘鉄、羊鴉仁、柳敬礼、李遷仕、樊文皎等は兵を率いて淮を渡り、東府前柵を攻撃してこれを焼き払った。侯景軍は、退却した。
 官軍は青渓の東に宿営したが、李遷仕と樊文皎は精鋭兵五千を率いて追撃した。敵陣深く進んだが、向かうところ敵なしの状態で、バタバタと敵をなぎ倒して行く。だが、菰首橋の東まで進んだ時、伏兵の宋子仙の襲撃を受け、樊文皎は戦死し、李遷仕は逃げ返った。
 柳仲礼は傲岸な人間で、諸将を陵蔑しており、邵陵王は毎日鞭を執って門までやって来た。これによって、邵陵王と臨城公は、仇敵のように深く憎み合った。又、臨城公は平素から永安侯確とも仲が悪かった。こうして、諸軍は互いに猜忌しあうようになり、戦意などなくなった。
 援軍が到着した当初、建康の士民は幼子の手を引き、老人を背負って、彼等を出迎えたものだった。しかし、援軍の兵卒達は、好き勝手に略奪を行った。これによって士民たちは失望してしまった。賊軍の中には、官軍と内応しようとした人間も居たが、この風聞を聞いてやめてしまった。 

  

講和 

 臨賀王の記室の顧野王が、侯景討伐軍を起兵した。二月、彼等が兵を率いて到着した。
 台城が包囲された当初、公卿達は兵糧が尽きることを懸念していた。だが、貴賤を問わずに米を供出してくれた為、四十万斗も集まった。また、諸府藏の銭や綿五十万億を取り出し、全て徳陽堂へ保管した。しかしながら、薪や魚・塩などは、備蓄されていなかった。
 ここに至って、尚書省を壊して薪とした。又、食糧も次第に欠乏してきて、やがては馬を殺して食べるようになった。ある者は鎧を煮、又ある者は鼠を薫製にしたり雀を捕らえたりして食べた。軍人は殿省間にて馬を殺し、人肉を混ぜて食べたが、これを食べた者は、必ず病気になった。
 侯景の兵卒達も、又、飢え始めていた。民の者は奪い尽くしていたの、略奪しようにも何も得るものがない。東城には、一年間食べて行けるだけの米があったが、続々集結する官軍によって、そこへの交通は遮断されていた。
 そんな中で、荊州軍が間もなく到着するとの報告が入った。侯景は、非常に気に病んだ。すると、王偉が言った。
「今、台城は容易には落とせません。援軍は日々増えておりますし、我が軍は兵糧が欠乏しております。ここは、偽って講和し、敵の気勢をそぐのが一番です。東城の米を奪えば、一年間は支えられます。そして講和した時、これを石頭へ運び入れるのです。この手順を踏んでいれば、援軍は絶対に動きません。そうして兵士や軍馬へ休息を与え、器械を修繕し、敵が油断した頃を見計らって攻撃すれば、この国を一挙に奪えます。」
 侯景はこれに従い、使者として任約と于子悦を派遣した。
「我等よりもまず、斉へ奪われた寿陽の回復へ全力を注がれてください。」
 台城内は困窮していたので、太子はこれを上奏して許可を求めた。だが、武帝は怒って言った。
「講和するくらいなら、死んだ方がましだ!」
 太子は固く請うた。
「侯景の包囲を受けて既に久しく、援軍は他を頼んで動かない有様です。ここはひとまず講和して、その後で善後策を考えるべきでございます。」
 武帝はしばらく考えてから、答えた。
「汝の判断に任せる。だが、千歳後から笑われるようなことはするでないぞ。」
 遂に、これを許諾した。(胡三省、曰く。太子は、范桃棒の内応を疑ったのに、侯景の講和を疑わなかった。なんと蒙昧なことだ!)
 侯景は、江右の四州割譲と宣城王を人質とすることを条件とし、これが履行された後に江を渡ると持ちかけた。中領軍の傅岐は、固く争って言った。
「賊徒共は、挙兵して台城を包囲したのですぞ。それなのに、今、講和を求めて来たのです。これは援軍の志気を削ぐための計略です。戎狄の心は獣です。信じられません。それに、宣城王は嫡嗣ですぞ。国命はあのお方にかかっているのです。どうして人質になどできましょうか!」
 武帝は、宣城王の弟の石城王大款を侍中とし、侯景のもとへ人質に出した。又、諸軍へ敕を出して進軍しないよう命じた。
 詔を下して曰く。
「戦上手は戦わない。だからこそ、『戈を止める』から、『武』とゆう文字ができたのだ。侯景を、大丞相、都督江西四州諸軍事、豫州牧とし、河南王の爵位は従来通りとする。」
 己亥、西華門外へ祭壇を設け、僕射王克、上甲侯韶、吏部郎蕭差と于子悦、任約、王偉とが壇へ登り、盟約を交わした。次いで、太子譫事柳津が西華門から出、侯景は柵門から出、遙かに相対したところで生贄を殺し、血を啜って盟約を交わした。
 こうして盟約は交わしたが、侯景は包囲を解かず、武器の修繕に余念がなかった。そして、「船がなくて動けない」だの、「台城の援軍が大勢居るので、動けない」などと空々しい言い訳を繰り返していた。
 やがて、侯景は石城王を送り返し、宣城王を人質として渡すよう、求めてきた。
 侯景に退却する意志のないことが太子にも判ってきたが、それでも太子は未練たらしく侯景とのパイプを切らなかった。 

 庚子、先の南コン州刺史南康王会理、先の青・冀州二州刺史湘談侯退、西昌侯正子イクの軍隊が馬卯洲に合流した。総勢三万。侯景は、彼等が白下から上ってくることを慮んばかり、上啓した。
「北軍(馬卯洲は、台城の北にある)を秦淮の南岸まで移動させてください。でなければ、臣が揚子江を渡る時に邪魔になります。」
 そこで太子は、南康王等を江談苑へ移動させた。 

 辛丑、邵陵王を司空、番陽王範を征北将軍、柳仲礼を侍中、尚書右僕射とする。侯景は、于子悦、任約、傅子折を皆、儀同三司とし、夏侯番を豫州刺史、菫紹先を東徐州刺史、徐思玉を北徐州刺史、王偉を散騎常侍とした。すると武帝は、王偉を侍中にしてやった。
 乙卯、侯景は上啓した。
「歴陽をいただきましたが、高澄は既に寿陽と鍾離を侵略しており、臣の身の置き所がありません。どうか、しばらくの間廣陵と焦州を貸して下さい。臣が寿陽を攻略しましたら、朝廷へ返却いたします。」
 又言う。
「援軍は、既に揚子江の南岸まで来ております。彼等を京口から渡河させてください。」
 太子は、二つとも受諾した。
 庚戌、侯景は更に上啓した。 
「永安侯確と直閣趙威方が、柵を隔てて詰っております。『たとえ陛下がお前と盟約を結んでも、我等はお前達を撃破してやる。』と。どうか彼等を召集して、我等の退路を開けてください。」
 そこで、武帝は吏部尚書の張綰を派遣し、永安侯を召集した。
 辛亥、永安侯を廣州刺史に、趙威方を于台太守に任命した。永安侯は、何度も固辞して入朝を拒んだが、武帝は許さなかった。そこで永安侯は、まず趙威方を入朝させ、自身は南へ向かおうとしたが、邵陵王が、永安侯へ泣いて言った。
「台城が包囲されて、もうずいぶん長い。聖上は憂危し、臣子達は火事場にでもいるかのように焦っている。だからこそ、賊徒共と盟約を結んででも奴等を領土へ返らせ、善後策を考えているのだ。朝命は既に決まったのに、どうして違反できようか!」
 この時、台使の周石珍と東宮主書の左法生が邵陵王のもとに滞在していた。永安侯は、彼等へ言った。
「侯景は、退却する退却すると口先では言っておりますが、その実、ちっとも包囲を解きません。奴の本心は明白です。今、僕を召還して城へ入れても、何の役に立ちますか!」
 すると、周石珍は言った。
「敕は、既にこのように降りている。逆らってはならぬぞ!」
 しかし、永安侯の決心は固かったので、遂に邵陵王は大怒して趙伯超へ言った。
「焦州、奴を斬り殺し、その首を持ち去れ!」
 趙伯超は、刀を抜いて永安侯迫った。
「我は君を知っているが、この刀は知らないのだ。」
 永安侯は涙を零して入城した。 

 この頃、湘東王は郢州の武城へ、河東王は青草湖へ、信州刺史桂陽王慥は西侠口へ進軍していたが、「四方からの援軍を待つ」と言い訳して、それ以上進まなかった。
 中記室参軍蕭賁は硬骨漢。これに不満を持っていた。ある時、湘東王と双六をしていたが、双六に仮託して、王へ言った。
「殿下は都を気に留めておられないのですね。」
 湘東王は、深く根に持った。
 やがて詔が降りた時、湘東王はこれ幸いと撤収しようとしたが、蕭賁は言った。
「侯景は、人臣の身でありながら挙兵して朝廷へ弓引きました。大王は十万の兵を持ちながら、賊徒と相まみえずして退却なさるのか!」
 湘東王は喜ばない。やがて、他事に仮託して、蕭賁を殺した。 

 武帝は菜食主義だったが、台城の包囲が続き野菜が尽きてしまったので、とうとう鶏卵を食べた。武帝は自ら料理し、すすり泣いた。 

  

盟約破棄 

 侯景は、東府の米を石頭へ運び終わった。
 その頃、湘東王等の軍隊は既に退却しており、朝廷への援軍は数こそ多いが統一がとれていないことが暴露されてしまった。それに気がついた王偉は、侯景へ言った。
「王は人臣の身でありながら朝廷へ弓引き、宮闕を包囲して妃殿下を逼辱し宗廟を穢したのです。これでどうして容認されましょうか!盟約に背いて勝ちを収めたためしなど、過去にはごまんとありますぞ。どうかこの好機を逃しなさいますな。」
 臨賀王も言った。
「大功が目の前にあるのに、どうして棄てるのか!」
 侯景は、遂に、武帝の失徳を十箇条羅列し、上表した。
「臣は直諫いたのに、陛下は真実を聞くことを厭がって上辺を取り繕い、数多く現れた妖怪を瑞兆と誤魔化した。聖典を粉飾して前儒を排斥するのは、王莽の悪行だ。鉄で貨幣を造り、物価を高騰させてしまった。これは公孫述の悪行だ。やたらと官位を乱発したのは、更始帝や趙王倫(八王の一人)の悪行だ。民をこき使って寺院をやたらと建築したのは姚興の悪行だ。親族から簒奪したのは石虎の悪行だ。」
 又、言う。
「建康の宮殿は贅を尽くしている。陛下は、主書のように身分の低いものと共に万機を決裁し、政治は賄賂で動く。権豪や衆僧は栄華を極めている。皇太子は珠玉を好み、酒食に溺れるばかり。話す言葉の内容は軽薄で、口にする賦は淫乱なものばかり。邵陵王の兵は残虐で、湘東王の兵は貪欲。南康王や定襄王など、冠を被った猿ではないか。彼等は皇室の一員で、官職から言えば藩塀の重任を担っている。にも関わらず、臣が台城を包囲して百日が経ったとゆうのに、誰が勤皇の働きをしたのか!こんな無様なことは、未だかってなかったぞ。
 昔、イク拳が挙兵して王を諫めたので、楚王の行状はようやく改まったのだ。今日の挙兵では、誰を罰するおつもりか!どうか陛下、大きく戒め、讒言の徒を追放して忠義の臣を納れられよ。臣へ再び挙兵させますな。陛下も籠城の屈辱を二度繰り返されますな。そうであれば、万姓の幸いですぞ!」
 武帝は、これを読んで激怒した。
 三月、武帝太極殿の前に祭壇を造り、侯景の背信を天地の神へ報告し、狼煙を上げ軍鼓を鳴らした。 

  

不忠不孝 

 さて、包囲された当初には、台城には十万の男女と二万の武装兵がいた。だが、包囲されて時が経つと、人々は栄耀失調で体はむくみ喘息をおこし、八割方が死んでしまい、城壁で警備をする者も、四千人足らずの、それも半病人ばかりとなっいた。死体は路に満ちて埋めることもできず、腐った汁は溝を満たした。だから、人々はなおも外からの援軍を待ち望んでいた。
 だが、その援軍の都督柳仲礼は、連日妓妾に囲まれて、飲めや歌えのドンチャン騒ぎに明け暮れていた。諸将は日々戦闘を請うたが、柳仲礼は許さなかった。
 安南侯は邵陵王へ言った。
「台城には危機が迫っているのに、都督は救援に向かわない。ここで愚図ついて時を移し、もしも万一の事になったなら、殿下は世間様へ顔向けできませんぞ!今、全軍を三つに分け、賊の不意を衝いて攻撃すれば、必ず勝てます。」
 だが、邵陵王は従わなかった。
 柳津は、城へ登って柳仲礼へ言った。
「汝の君父が危難にあるのに、力を尽くさない。百世の後まで、君は罵られるのだぞ!」
 しかし、柳仲礼は、全く気にしなかった。
 武帝が柳津へ策を問うと、柳津は言った。
「一族には邵陵王がおり、臣下には柳仲礼がいる。共に劣らぬ不忠不幸。これでどうやって賊徒を平定なさいますのか!」 

 戊午、南康王と羊鴉仁、趙伯超が東府城北まで進軍し、夜半になったら湖を渡ろうと約束した。だが、翌暁になっても、羊鴉仁が到着しない。まごついているうちに侯景軍はこれを悟り、官軍の陣立が整う前に、宋子仙等が襲撃してきた。すると、趙伯超がそそくさと逃げ出した。こうして南康王の軍は大敗し、戦死者と溺死者は併せて五千人にも及んだ。
 侯景は、その首を闕下へ並べて城中へ示した。 

  

台城陥落 

 侯景は、于子悦を再び派遣して、講和を求めた。そこで、武帝は御史中丞沈浚を侯景の元へ派遣した。だが、侯景には退却する気など欠片もなく、沈浚へ言った。
「今は暑い盛りだ。軍を動かすことはできない。しばらく都へ逗留させて欲しい。」
 沈浚は激怒して、これを責めた。すると侯景は刀を抜いて叱咤した。だが、沈浚は言った。
「恩に背き義を忘れ、盟約を破棄する。これでは天地から棄てられるぞ。沈浚はすでに五十年生きた。死に場所を得ることばかりを考えているのだ。刀など懼れん!」
 そして、サッサと立ち去った。侯景は、彼を忠直として、捨て置いた。
 ここにおいて侯景は、玄武湖を決壊させ、その水を台城へ濯ぎ、昼夜を分かたず百道から総攻撃を掛けた。
 邵陵世子堅は太陽門に屯営していたが、終日酒を飲むばかりで、兵卒達を慰撫しない。だから、彼の書佐の菫員と熊曇朗は、彼を恨んでいた。
 丁卯の夜半から暁にかけて、菫員と熊曇朗は城の西北楼から侯景軍を引き入れた。永安侯は力戦したが、防ぎきれない。そこで、武帝の元へ急いで駆けつけた。
「城は既に落ちました。」
 武帝は安臥したまま動かずに言った。
「なお一戦できるか?」
「無理です。」
 武帝は嘆いて言った。
「我が得た物を、我が手で失った。また何を恨もうか!」
 そして、永安侯へ言った。
「汝は速やかに去り、汝の父へ伝えよ。『二宮のことは念頭に置くな』と。」
 そして、使者を派遣して在外の諸軍を慰労した。
 やがて、侯景は王偉を派遣した。王偉が文徳殿へ入ると、武帝は御簾を引き上げさせ、王偉を招き入れる。王偉は侯景の言葉を伝えた。
「陛下は姦佞から良いように操られていたのです。今、我等は兵を率いて入朝し、陛下を驚かせてしまいました。やがて闕へ参上して罪を待ちましょう。」
 武帝は問うた。
「侯景はどこに居る?早く来るが良い。」
 侯景は、五百人の武装兵に守られたまま、太極東堂にて武帝へ謁見した。
 武帝は顔色も変えずに問うた。
「卿の長い間の戦闘、ご苦労であった。」
 侯景は、顔を挙げることさえできず、顔面に汗をびっしょりとかいていた。
 武帝は更に言った。
「卿は異境の人間なのに、なんで、敢えてここまでやって来たのか?卿の妻子は、まだ北に居るだろうのに。」
 侯景が答えられなかったので、任約が代わって答えた。
「臣景の妻子は、皆、高氏に殺されました。そして、体一つで陛下の元へ帰順したのです。」
「初めて江を渡った時、何人の部下が居た?」
 すると、侯景が答えた。
「千人です。」
「台城を包囲した時は?」
「十万です。」
「今は何人居る?」
「この国中が私のものです。」
 武帝は首を項垂れて黙り込んだ。
 次に、侯景は永福省にて太子と謁見した。太子にも、懼れる色はなかった。侍衛は皆驚いて逃げ散っていたが、中庶子の徐擒と通事舎人の殷不害だけが、太子の側に侍っていた。
 徐擒が侯景へ言った。
「侯王、それが卿の礼儀ですか!」
 侯景は、慌てて拝礼した。
 侯景は、退出した後、彼の廂公の王僧貴へ言った。
「我はいつも鞍に跨って戦陣に臨み、矢や刃が交わる中に居ても恐ろしいと思ったことなどなかった。しかし、今、蕭公を見て、始めて犯しがたい天威が在ることを知った!もう、二度と謁見したくない。」
 ここにおいて、両宮の侍衛を全て撤廃し、乗輿や服御や宮人達を全て略奪した。朝士や王侯は全て永福省へ送る。王偉には武徳門を守らせ、于子悦は太極東堂に屯営させた。
 詔を矯めて大赦を下し、自分自身へ都督中外諸軍事、録尚書事を与えた。
 建康の士民は、四方へ逃げ出した。そんな中で、太子洗馬の蕭允は、京口まで逃げたところで踏みとどまり、言った。
「死生が運命ならば、逃げてどうなろうか!禍とゆうものは、全て利を求める心から生まれるのだ。いやしくも利を求めなければ、禍などどうして生まれようか!」
 己巳、侯景は石城公大款を派遣し、詔を以て援軍へ武装解除を命じた。そこで柳仲礼は、諸将を集めて軍議を開いた。すると、邵陵王が言った。
「全て将軍へお任せします。」
 しかし、そう言われても柳仲礼は王を熟視するばかりで答えなかった。
 裴之高と王僧弁が言った。
「宮闕滅亡の危機に際し、将軍は百万の大軍を擁しております。決戦するべき時です。何を言うことがありますか!」
 だが、柳仲礼は、遂に一言も発言しないまま。とうとう、諸軍は各々散って行った。
 南コン州刺史臨成公大連、湘東世子方等、番陽世子嗣、北コン州刺史湘談侯退、呉郡太守袁君正、晋陵太守陸経等は、各々本鎮へ戻った。
 邵陵王は会稽へ逃げた。
 柳仲礼と、その弟の柳敬礼、羊鴉仁、王僧弁、趙伯超は、陣営を開いて降伏した。軍士達は、一人残らず嘆憤した。
 柳仲礼等は、入城すると、まず侯景に挨拶し、その後、武帝へ謁見した。しかし、遂に武帝とは一言も喋らなかった。
 柳仲礼が、父親の柳津と会うと、柳津は慟哭した。
「お前は、我が子ではない!なんでオメオメ顔を見せたか!」
 湘東王繹は二十万石の兵糧を整え、全威将軍の王林へ運ばせていた。だが、姑孰まで来たところで台城陥落を知ったので、全ての米を江へ沈めて還った。
 侯景は、台城内の全ての屍を集めて焼き払った。重病で虫の息の者も集めて、焼いた。
 庚午、諸軍は全て任地へ戻るよう詔が降りた。侯景は、羊鴉仁と柳敬礼を都へ留め、柳仲礼は司州へ、王僧弁は意陵へ帰した。後、侯景は羊鴉仁を五兵尚書とするが、それでも羊鴉仁は出奔した。その際、金を持っていた為、彼は盗賊に殺されてしまった。
 当初、侯景は臨賀王と約束していた。
「台城が陥落したら、二宮は殺す。」と。
 やがて開城の時、臨賀王は武装兵を率いて入城しようとしたが、侯景がそれに先んじて諸門を守ったので、入城できなかった。
 更に侯景は、臨賀王を侍中・大司馬とし、百官も全て旧職へ復帰させた。
 秦郡、陽平、于台の三軍が、侯景へ降伏した。侯景は、陽平を北滄州、秦郡を西コン州と改称した。
 これまで京口は西昌侯淵藻が鎮守していたが、侯景は、儀同三司蕭邑を南徐州刺史として京口を守るよう命じ、淵藻と交代させた。
 又、徐相へ晋陵の陸経を攻撃させた。陸経は降伏した。