侯景の乱   その1
 
この話は、北朝、「侯景の乱(東魏)」の続編です。  

 
 高澄は、梁へ屡々書面を送り通好を求めたが、武帝はなかなか許さなかった。
 高澄は貞陽侯淵明へ言った。
「先王は梁王と十余年に亘って修好していた。梁主は仏教に帰心しており、我等君臣の福を仏へ祈ってくれたものだ。それほど懇意にしていたものが、一朝にしてこのように紛糾してしまった。しかし、これがどうして梁主の本心だろうか。これは、侯景が煽動しているだけだ。だから、使者を遣って説得するべきだ。もし、梁主が旧好を忘れなければ、我も敢えて先王の意向へ逆らったりするものか。そこで、捕虜は全員解放しようと思う。侯景の家族も、同道させよう。」
 淵明は、夏侯僧弁を使者として、梁の武帝のもとへ派遣した。
「渤海王は器量が広く立派な人間ですし、通好を求めています。私もいずれ帰れるでしょう。」
 これを読んだ武帝は、涙を流し、朝臣を集めて会議を開いた。
 すると、朱異や御史中丞張綰を始め、皆は言った。
「外寇が静まれば、民は休息できます。和睦するべきでございます。」
 ただ、司農卿の傅岐ひとり、言った。
「高澄がどうして和睦を求めているのですか?これは絶対離間策です。だから貞陽侯を使者として、侯景の猜疑心を掻き立てようと言うのです。侯景が不安になれば、必ず造反を謀ります。今、もしも通好を許せば、奴の策へはまったも同然です。」
 だが、朱異等は和睦へ固執した。武帝も戦争に疲れていたので、遂に朱異の言葉へ従い、淵明へ書を贈った。
「高将軍の、汝への厚意を知り、朕の憂いは解けた。別の者を派遣し、隣人の睦を敦くするつもりだ。」
 僧弁は帰路へ就いた。途中、寿春を行き過ぎた時、侯景が訪ねてきた。この時、僧弁は、侯景の問いに具に答えた。侯景は、淵明への返書を写し、武帝へ上啓した。
「高氏は、心中に鴆毒を抱いた人間。彼への怨念は北地に充満し、人々は天へ祈るばかりでした。その子息の澄は、父親の悪行を嗣ぎ、簒奪のことばかりを考えております。天はその様な心を憎み、彼を増長させようと、渦陽で勝利を与えたのです。
 高澄の想いに一点の私心もなく、腹心に信頼が置けるのならば、どうして腰を低くしてまで、こうも性急に講和を求めたりするでしょうか?西魏軍が奴等の喉元へ迫り、胡騎がその背後を脅かしているからこそ、甘言と厚い賜で修好を求めているのです。
 臣は聞いております。
『ひとたび敵を野放しにするのは、数世に亘る患である。』と。
 どうして高澄の一豎を惜しんで、億兆の心を棄てられますのか!
 かつて、北魏が強盛を誇っていた頃、陛下は鍾離の役を起こされました。その時でさえも、陛下はこれを討伐して領土を奪取なさったではありませんか。それなのに、敵が弱まったときに、かえって講和を結ぼうとしておられます。既に成就した功績を捨てて、瀕死の虜を見逃してやり、後世へ恨を遺される。愚臣が扼腕するだけでなく、多くの志士が心を痛める所以です。
 昔、伍子胥を呉へ逃がして楚は滅亡の憂き目に会い、陳平が項羽から去って劉氏は勃興しました。臣の才覚は古人に劣るとはいえ、心は往時と同じです。高澄は、仇が敵国に居ることを忌み嫌い、同盟を求め講和を請い、その患を除こうとしているのです。
 もしも、臣が死んで御国の為になるのでしたら、何も申しません。ただ、千載後まで穢されることを恐れるのです。」
 また、侯景は朱異へも書状を書いて、金三百両の賄賂も贈った。しかし、朱異は、その金を受け取りながら、武帝へは何も言わなかった。
 己卯、武帝は、高澄のもとへ弔問の使者を派遣した。
 侯景は、再び上啓した。
「臣と高氏の溝は既に深く、臣は何とかしてこの恥を雪がんものと切歯しております。なのに、今、陛下はふたたび高氏と講和を結ばれる。臣をどうなさるおつもりですか!どうか、戦って皇威を高揚なさってください!」
 すると、武帝は返書を与えた。
「朕と公の大義は、既に定まっている。成功したら納れるのに、失敗したら見捨てるなどとゆう変節が、どうして許されようか!今、高氏は講和を求め、朕もまた、平和を思う。進退の便宜は、国の情勢によって決まるもの。公はゆっくりと骨休めするがよい。無用の心配で思い煩う事はない!」
 侯景は上啓した。
「臣は、今、兵糧を蓄え兵卒をかき集め武器を揃え、後は期日を決めて出陣とゆうところまでこぎ着いております。そうすれば、趙・魏を制圧して見せましょう。しかしながら、戦には名分が必要でございます。ですから、陛下には盟主となって欲しいだけなのです。それなのに、陛下は臣を見捨て、敵と修好なされます。微臣は、高氏の手に掛かってしまうのですか。」
 武帝は再び返事を書いた。
「朕は万乗の主である。たとえ一物へ対してでも、信義を失うわけにはいかぬ!公が、この心を理解したならば、そのような心配はせずにすんだものを。」
 侯景は、なお疑念が晴れず、東魏からの書状をでっちあげ、武帝の元へ送った。その内容は、貞陽侯と侯景の身柄を交換しようとゆうものだった。武帝が許諾しようとすると、舎人の傅岐が言った。
「侯景は、切羽詰まって、我等へ帰順したのです。これを棄てるのは不祥ですぞ。それに、彼は百戦錬磨の強者。どうしてオメオメと捕縛に就きましょうか。」
 だが、謝挙と朱異が言った。
「侯景は、敗北して逃げて来た将軍。そんな奴に何ができますか。」
 武帝はこれに従い、返書を書いた。
「貞陽が到着次第、侯景を引き渡そう。」
 この返書を見て、侯景は左右へ言った。
「呉の老公の薄情さなど、我はとっくに知っていた。」
 王偉は言った。
「このまま座して死を待つか、大事を挙げて死ぬか。ただ、王の決断だけですぞ!」
 これ以来、造反の計画が始まった。城内の民を悉く兵卒として徴収し、田租や商売の税を厳しく取り立て、子女は全て将士へ配った。
(訳者、曰く)
 高澄が講和を求めたのは、梁の武帝と侯景とを猜疑させ、梁領内で侯景に暴れさせようとゆう、狡猾な計略だったと言われている。又、侯景が梟雄で、結局は人の下に甘んじる人間ではなかった、とも言われている。しかし、武帝に侯景を引き渡す気持ちがあったのだ。その心情がどうあれ、結果として武帝は、貞陽侯を助ける為に、侯景を騙して受け入れ、高澄へ引き渡そうとしたのではないか。これで侯景が造反しなければ、全くの馬鹿者である。
 武帝が侯景の亡命を拒否したのなら、非難される謂われはなかった。しかし、受け入れた以上、守らなければならない。義を以て語るならば、武帝が侯景を売ったのである。
 武帝も創成の主君であった頃には、剛勇果断の人間だったに違いない。それが、長い平和にむしばまれたか、それとも老いたのだろうか。何と優柔不断になってしまったことか。

 五月、梁の武帝は東魏へ使者を派遣して、修好した。
 
造反前夜
 侯景は、寿陽へ来てから、多くの物を求めたが、梁朝廷は、これを概ね拒まなかった。
 ある時、侯景は、王氏か謝氏の娘を娶りたいと請願した。すると、武帝は言った。
「王氏も謝氏も名門だ。朱異や張綰の一族ならば構わないのだが。」
 返事を聞いた侯景は、憾みを含んで言った。
「いつか、お前の娘をものにしてやる!」
 また、ある時は一万匹の錦を求めた。兵士達の袍を作る為である。だが、朱異の横やりで、青布が配布された。
 又、台府から配給される武器が粗悪であるとして、鍛工を求めた。
 武帝が侯景の言葉を採用せずに東魏と和親すると、侯景の上表文は、だんだん悖慢になってきた。又、徐陵等を西魏へ使者として派遣するなど、造反の陰謀はますます甚だしくなった。

 ところで、侯景は、かつて北魏の一族を立てるよう梁朝廷へ請た。この時、朝廷は元貞を選んで東魏へ向かわせた。(詳細は、「侯景の乱、東魏偏」に記載。)以来、元貞は侯景と共にいた。
 太清二年(548年)、八月。元貞は侯景の心意を知ると、屡々朝廷へ戻りたいと請願するようになった。すると、侯景は言った。
「河北では失敗したが、江南ではきっと巧く行く。もうしばらくの辛抱だ。」
 元貞は懼れ、建康へ逃げ帰り、全てを朝廷へ暴露した。武帝は、元貞を始興内史としたが、侯景も詰問しなかった。

 臨賀王正徳は、貪欲で暴虐。至る所で法を犯し、しばしば武帝から罰せられていた。彼はそれを逆恨みし、密かに死士を養い兵糧を蓄えて、国家に一大事が起こることを待ち望むようになり、それはやがて侯景の耳へも入った。
 臨賀王は、一時期北魏へ亡命していたことがあったが、その頃、徐思玉と面識を持っていた。そこで、侯景は徐思玉を使者として、正徳へ書簡を届けた。
「今、天子は高齢で、姦臣は国を乱している。我が先を見るに、滅亡の日は遠くない。大王は、もともと皇帝になる身分だったのに、中途で廃されてしまいました。ですが、未だに四海の民は、大王を慕っているのです。我は不敏ですが、王の為に忠誠を尽くしますぞ!」
 正徳は大いに喜んだ。
「侯公の想いは、我が意を得ている。天が授けてくれたのだ!」
 そして、返書を与えた。
「朝廷の有様は、公の言う通りだ。僕も久しくむそれを思っていた。今、僕が内で事を起こし、公が外で呼応すれば、どうして失敗しようか!好機は逃してはならない。今がその時だ!」
 番陽王範が、侯景の造反を密告した。この時、武帝は辺事を全て朱異へ任せており、動静は皆、彼へ諮問していたが、朱異は、そんな事は絶対にないと言い切った。そこで、武帝は返事を与えた。
「侯景は、切羽詰まって逃げ込んできた。言ってみるなら、赤子が乳房へ吸い付いているようなものだ。その状況で、どうして造反などできるものか!」
 番陽王は、重ねて陳述した。
「早く手を打たないと、禍は民へ及びます。」
 武帝は言った。
「朝廷にも考えがある。汝がそんなに思い煩う必要はない。」

 番陽王は、合肥の兵力で侯景を討伐する事を請願したが、武帝は許さなかった。
 朱異は、番陽王へ使者を派遣して言った。
「王は、朝廷にたった一人の客人をも許されないのか!」
 以来、番陽王の上表は、全て彼が握り潰すようになった。
 また、侯景は、羊鴉仁のもとへも使者を派遣して、共に造反するよう持ちかけたが、羊鴉仁は、その使者を捕らえて朝廷へ突き出した。すると、朱異は言った。
「侯景のもとにいるのは、数百の敗残兵だけ。これで何ができましょうか。」
 使者は、建康の牢獄へぶち込まれたが、すぐに釈放された。侯景は、ますます忌憚がなくなり、上啓した。
「もしも、臣が造反の準備をしておりましたなら、法に照らし合わせて裁いてくださいませ。しかし、ご賢察の通り羊鴉仁の讒言でしたなら、奴を死刑にしてください!」
 侯景は、又、言った。
「高澄は狡猾な奴。なんで信用できましょうか!陛下は、その詭語を納れて連和なさいましたが、臣は、これを密かに笑っております。臣は、殺されて讐敵の門へ投げ込まれるなど、真っ平御免蒙ります。どうか、江西の国境の一部でも、臣へお任せください。もしもそれが叶わないのならば、甲騎を率いて揚子江を遡り、ビン・越へ攻め込む所存。そうなれば、ただ、朝廷が恥をさらすだけではありません。三公が忙殺されてしまいますぞ。」
 武帝は、朱異へ命じて、返書を書かせた。
「たとえば、貧家でさえも、五人や十人の客を養って、彼等を満足させているものだ。それにひきかえ、朕はただ一人の客からさえ、恨み言を言われてしまった。これは、朕の過失である。」
 そして、錦や銭や布などの恩賞を、ますます与えた。
 
造反
 同月戊戌、侯景は、寿陽にて決起した。中領軍朱異、少府卿徐麟、太子右衛率陸験、制局監周石珍等の誅罰を名分とする。彼等は皆、奸佞で驕慢、貪欲。武帝を籠絡して権力を弄んでいたので、時人は皆、彼等を憎んでいた。だから、これに仮託して挙兵したのである。
 司農卿の傅岐は、硬骨漢。かつて、朱異へ言った。
「卿は、国政を預かり、このように栄寵されている。それなのに、日頃耳に入る卿の行いは鄙穢狼藉ばかり。もしも聖主が悟ったなら、どう逃げおおせるつもりか!」
 すると、朱異は言った。
「周囲の人々が讒言していることは、前から知っていた。しかし、我が心に照らして恥じることがなければ、噂話などに心を動かされはせぬのだ!」
 傅岐は、他の人へ言った。
「朱異は死ぬぞ。諂いを恃んで勝手放題を行い、弁舌を弄んで諫を拒む。難を聞きいても懼れず、悪と知っても改めない。天が、彼の鏡を奪ったのだ。なんで長生きできようか!」

 侯景は、西進して馬頭を攻撃した。又、麾下の将軍宋子仙には東進させて、木柵を攻撃させた。彼は、戍主の曹膠等を捕らえた。
 この報告を受けて、武帝は笑った。
「奴に何ができる!我が笞でひっぱたいてやる。」
 そして、敕を降ろした。
「侯景を斬った者は、三千戸公に封じ、徐州刺史とする。」
 甲辰、合州刺史の番陽王範を南道都督、北徐州刺史封山侯正表を北道都督、司州刺史柳仲礼を西道都督、通直散騎常侍裴之高を東道都督とし、侍中開府儀同三司邵陵王綸を持節として全軍を指揮させ、侯景を討伐させた。
 台軍(朝廷軍)が討伐に来たと聞いた侯景は、王偉へ策を問うた。すると、王偉は言った。
「敵は大軍です。邵陵王の軍が来たならば、必ず苦戦してしまいましょう。ですから、淮南を棄てて東進し、軽騎にて建康を直撃するべきです。臨賀王が内で造反し、大王が外から攻撃すれば、天下は定まります。兵は拙速を尊びます。即座に進軍しましょう。」
 癸未、侯景は、外弟の中軍大都督王顕貴を寿陽に留めて守らせ、自身は狩りをすると偽って、寿陽を出発した。人々は、これが建康攻撃軍だとは、誰も気がつかなかった。
 
快進撃
 十月、庚寅、侯景は「合肥を攻撃する」と宣伝しながら、その実、焦州を襲撃した。すると、助防の菫紹先が城門を開けて降伏した。侯景は、刺史の豊城侯泰を捕らえた。
 この、豊城侯泰は、番陽王範の弟である。彼は、まず中書舎人となったが、この時、要人達へ家財を潰すほど賄賂を贈り、序列を飛び越えて焦州刺史に抜擢された人間である。焦州へ赴任すると、丁民を徴発して、腰輿を担がせたり扇で扇がせたり傘を持たせたりした。これを恥じる者が居ると、容赦なく杖刑を加え、多額の金を出すとようやく釈放される。これによって人々は、争乱が起こることを願っていた。侯景がやって来たとき、誰も戦おうとせず、あっけなく敗北したのである。

 庚子、武帝は寧遠将軍王質へ三千の兵を与えて、揚子江沿岸の防備に当たらせた。

 侯景は歴陽太守荘鉄を攻撃した。丁未、荘鉄は降伏し、侯景へ言った。
「この国は、長い間平和になれており、人々は戦争を知りません。ですから、大王が挙兵したと聞き、内外は震駭しております。この機に乗じて速やかに建康を直撃しましょう。そうすれば、兵器に血塗らずして大功を建てられます。もしも朝廷へ時間を与えたら、防備は完全になりますし、人々の心も落ち着きます。そうして老弱の兵の千人でも采石へ派遣されましたなら、大王に百万の精鋭があっても、揚子江を渡ることはできません。」
 そこで侯景は、儀同三司の田英と郭駱に歴陽を守らせ、荘鉄を道案内として兵を率いて江へ臨んだ。江上の鎮や戍は、相継いでこれを朝廷へ報告した。

 武帝は、都官尚書羊侃へ、対策を訊ねた。すると、羊侃は言った。
「二千の兵を急いで采石へ派遣しましょう。そして、邵陵王綸へは寿陽を急襲させるのです。そうすれば、侯景は進軍もできず、退却する巣穴もなくした烏合の衆に成り下がります。自然と瓦解してしまいます。」
 だが、朱異は言った。
「侯景には、揚子江を渡る気など、ありはしません。」
 そこで、これは沙汰止みとなった。
 羊侃は言った。
「これで敗北は決まった!」

 戊申、武帝は、臨賀王正徳を平北将軍、都督京師諸軍事に任命し、丹楊郡に屯営させた。臨賀王は、大船数十艘を派遣し、荻を載せると偽称して、密かに侯景軍を渡してしまった。 渡江するに当たり、侯景は王質の動向が気になり、間諜へ調べさせた。
 少し前のことだが、臨川太守陳斤が上啓した。
采石は重鎮ですのに、王質の水軍は弱く、これでは守りきれないかと懼れます。」
 そこで武帝は、陳斤を雲旗将軍として、王質に代わって采石を守るよう命じた。王質は知丹楊尹に任命された。
 間諜が見に行った時は、既に王質は采石を去っていたが、陳斤はまだ到着していなかった。
 報告を受けて侯景は大いに喜んだ。
「我が事は成ったぞ!」
 己酉、侯景は横江から采石へ渡った。この時、侯景軍には、数百匹の馬と八千の兵卒いなかった。
 この日の夕方、朝廷は始めて戒厳令を布いた。
 侯景は、兵を分けて姑孰を襲撃し、淮南太守文成侯寧を捕らえた。
 南津校尉江子一は水軍千余人を率いて、流れを下って侯景を攻撃しようとしたが、副官の菫桃生が部下を率いて逃げ出した。江子一は、残った兵卒をまとめて、建康へ帰った。
 急を聞きつけた太子は、戎服を着て武帝へ謁見し、方略を請うた。すると、武帝は言った。
「これは汝の仕事だ。なにを問う事があるか!内外の軍事は、全て汝へ委任する。」
 そこで太子は中書省へ行き、軍事を指揮しようとした。だが、物情は騒然としていて、応募する者がいない。
 朝廷は、まだ、臨賀王の真意を知らず、彼を朱雀門へ屯営させた。寧国公大臨を新亭、大府卿韋黯を六門へ屯営させ、宮城を修繕して敵へ備えた。
 同日、侯景は慈湖まで進軍した。建康は鳴動し、通りはごったがえし通行もできない。
 建康の牢獄に繋がれている囚人達を釈放し、揚州刺史宣城王大器を都督城内諸軍事とし、羊侃を軍師として彼の副官とした。又、南浦侯推へ東府を守らせ、西豊公大春に石頭を守らせ、軽車長史謝禧と始興太守元貞に白下を守らせ、韋黯と右衛将軍柳津等に宮城の諸門と朝堂を守らせた。諸寺から銭を徴発して徳陽堂へかき集め、軍費へ充てた。

 癸戌、侯景は板橋へ進軍した。そこで、徐思玉を派遣して武帝へ謁見したが、これは、実は城中の虚実を観察させるのが目的だった。
 武帝は、徐思玉を召して、問うた。徐思玉は、偽って言った。
「侯景から造反して朝廷へ内応したいのです。」
 武帝が人払いを命じると、舎人の高善宝が言った。
「彼は賊軍から来たのです。その真意も測りがたいのに、どうして陛下と二人きりにできましょうか!」
 すると、傍らに控えていた朱異が言った。
「徐思玉が、どうして刺客だろうか!」
 徐思玉は、侯景の書簡を取り出して、言った。
「朱異等が権力を弄んでいるので、君側の悪を除く為に武装して入朝したのです。」
 朱異は、甚だ慚愧した。
 又、侯景は舎人を派遣して言い分を聞いてくれるように請願していた。そこで武帝は中書舎人の賀季と、主書の郭宝亮を徐思玉と共に板橋まで派遣した。
 侯景は、彼等の持参した敕を北面して拝受した。
 賀季は言った。
「この挙兵の目的は何だ?」
 侯景は言った。
「皇帝になりたいだけだ!」
 王偉が慌てて進み出て、「朱異等が専横を極めているので姦臣を除きたいのだ。」と言ったが、ごまかせるわけがない。既に本音を聞かれてしまったので、賀季を抑留し、郭宝亮だけを宮城へ返した。

 侯景が来たと聞いて、百姓は競って入城し、大混乱となった。軍人達は、武器庫から勝手に武器を取って行く。所司の力では止められない。羊侃の命令で数人が斬られ、ようやく収まった。
 この時、梁が建国してから四十七年。境内は無事で公卿や士大夫は武装兵を見たこともなかったので、賊軍が肉薄すると、ここまでのパニックに陥ったのだ。宿将達は既に亡く、後進の少年達は全て地方へ出ている。都での兵卒の指揮は、全て羊侃へ委ねられた。羊侃は胆力備わっており、太子も深く頼っていた。

 辛亥、侯景は、朱雀桁南まで進軍した。太子は、臨賀王へ宣陽門を守らせ、東宮学士ユ信に朱雀門を守らせ、自身は宮中の文武官三千余人を率いて桁北へ屯営した。
 太子が、大桁を開いて敵の先鋒を挫くようユ信へ命じると、臨賀王が言った。
「桁が開くところを百姓が見れば、絶対肝を潰します。今は、人心を落ち着かせることを考えるべきです。」
 太子は、これに従った。
 直後、侯景軍が進軍してきた。ユ信は部下を率いて桁を開け、大船で出撃しようとした。だが、侯景軍が全員鉄面を付けているのを見ると、たちまち退いて、門の陰に隠れてしまった。ユ信は、そこでサツマイモを食べようとしたが、敵兵が弓を射ると、ユ信が手に持ったサツマイモは、弦音と共に落ちた。ユ信は、軍を棄てて逃げた。
 侯景が秦淮の南岸へ着いた時、遊軍を率いて南塘を守っていた沈子睦は、臨賀王の仲間だった。ユ信が逃げ出して、北岸には他に兵が居なくなったので、彼は桁を閉じて侯景を渡した。
 太子は、王質へ三千の精鋭を与えてユ信の援護へ派遣したが、彼等は領軍府にて賊軍と遭遇した。王質は、陣も布かずに逃げた。
 臨賀王は、手勢を率いて張侯橋へ行き、侯景を迎えた。馬上にて挨拶を交わすと、侯景と共に淮を渡った。
 侯景軍は、皆、青袍を着ていた。臨賀王軍の袍の裏地は碧色。彼等は侯景と合流すると、袍を裏返して羽織った。
 侯景軍は、勝ちに乗じて闕下まで進軍した。城中が騒然となったので、羊侃は、偽って矢文を打ち込んだ。
「邵陵王と西昌王の援軍が、すぐそこまで来ているぞ。」
 これによって、動揺は少し収まった。
 西豊公は、石頭を棄てて京口へ逃げた。喜禧と元貞は白下を棄てて逃げた。津主彭文粲は石頭ごと降伏した。侯景は、儀同三司于子悦を石頭へ派遣して守らせた。
 
台城の攻防
 壬子、侯景は、台城の前で閲兵し、城中へ矢文を打ち込んだ。
「朱異等は朝権を弄んで、好き勝手を行っています。臣は、奴等に陥れられたもの。奴等を屠戮したいだけです。もしも陛下が朱異等を誅殺なさいますなら、臣はこのまま北へ帰りましょう。」
 武帝は太子へ問うた。
「これは事実か?」
「その通りです。」
 だが、武帝が朱異等を誅殺しようとすると、太子は言った。
「賊軍は、朱異等の専横を名目にしているだけです。彼等を誅殺しても、今日の危急を救うことはできず、後世の物笑いとなるだけです。賊軍を平定してから彼等を誅殺しても、遅くはありません。」
 そこで、誅殺を思い留まった。
 侯景は、すでに城を包囲し、一斉に攻撃した。軍鼓の音は、耳をつんざき地を震わせた。 賊軍は、大司馬、東・西華の諸門へ火を放った。官軍は、羊侃の指揮で下水をかける。太子は、銀の鞍を掲げて、戦士への褒賞とした。すると、直閣将軍朱思が数人の戦士を率いて城を乗り越えて外へ出て水をかけたので、しばらくすると火も消えた。
 賊軍は、長柄の斧を持ち出して、東掖門をぶっ叩いた。門は壊れそうになったが、羊侃は門に穴を穿って、そこから槊を突き出して、敵兵を二人まで刺し殺した。これを見た賊軍は、退却した。
 侯景は、公車府に據り、臨賀王は左衛府に據り、侯景の仲間の宋子仙は東宮に據り、范桃棒は、同泰寺に據った。侯景は、東宮の宮女数百人を略奪すると、軍士へ分け与えた。東宮は台城へ近いので、侯景の部下達は、ひめがきへ登って城内へ矢を射込んだ。
 夜になると、侯景は、東宮へ酒を置き、宴会を始めた。太子は、人を派遣して、これを焼き払った。台殿へかき集められていた図書等は、全て灰燼に帰してしまった。侯景は、この炎を逆利用して、士林館、太府寺まで延焼させた。
 癸丑、侯景は、数百体の木驢を作って、城を攻めた。官軍は、城上から石を投げてこれを壊した。そこで、侯景は木驢を作り直した。改良された木櫓は、項が尖っている。この新型の木驢は衝撃に強く、石を投げ落としても壊れなかった。そこで羊侃は、雉尾の形をした松明を作り、これに油などを注いで火を付け、それを使って、敵の木驢を全て焼き払った。
 又、侯景は、登城楼を造った。その高さは、十余丈。これに登って、城中へ矢を射降ろそうとゆうのだ。だが、その登城楼を見て、羊侃は言った。
「あの楼は高すぎて不安定だ。下に車が付いているが、あんなものを動かしたら、すぐに倒れてしまうぞ。」
 果たして、これを城壁へ向かって動かすと、倒れてしまった。
 こうして、侯景の攻撃は巧く行かないままに、士卒の死傷者ばかりが増えて行く。そこで侯景は、包囲を厳重にして内外を途絶し、朱異等の誅殺を求めるようになった。
 城内では、派手に懸賞が掛けられていた。
「侯景の首を獲った者へは、侯景の地位と、銭一億、布絹各々万匹を与える。」
 朱異と張綰は、出撃させようと考えて羊侃へ相談したが、羊侃は言った。
「いけません。出撃する人間が少なければ、敵を破ることはできません。しかし多ければ、戦況が不利になれば、門が狭く橋が小さい為、必ず大敗してしまいます。」
 しかし、朱異等は従わず、千余人に出撃させた。だが、彼等は戦いもしないうちに逃げだし、先を争って橋へ向かい、大半が溺死した。
 羊侃の子息の羊族(「族/鳥」)は、侯景に捕らわれていた。侯景が、彼を城下まで連行すると、羊侃は言った。
「我が一族全てを陛下へ捧げても、なお、今までの恩に報いることはできぬのだ。ましてや息子一人など。さっさと殺せ!」
 数日して、侯景は再び羊族を引き出した。すると、羊侃は、羊族へ言った。
「お前はとっくに死んだと思っていたのに、まだ生きていたのか!」
 そして、弓を引き絞って、彼を射た。侯景は、その忠義を愛で、羊族を殺さなかった。

 荘鉄は、侯景が敗北するのではないかと懼れ、”母親を迎えに行く”と言い訳して、左右数十人と共に歴陽へ向かった。それに先立ち、田英と郭駱へ書状を送った。
「侯王は、既に台軍に殺されてしまった。それで国家は、我を鎮へ返してくれたのだ。」
 郭駱等は大いに懼れて城を棄てて寿陽へ逃げた。しかし荘鉄は、歴陽を守ろうとはせず、母親を連れて尋陽へ逃げた。

 十一月、太極殿の前で、白馬を生贄にして蚩尤を祀った。(蚩尤も又、古の天子で、戦争を好んだ。だから、彼を祭って福祥を求めたのである。)
 臨賀王正徳は、儀賢堂にて、帝位へ即いた。下詔して言う、
「普通以来、姦邪の臣下達が政治を乱し、上は長い間病床へつかれ、まさしく、社稷の危機だった。そこで、河南王景が、朕をもり立てたのである。今、大赦を下し、正平と改元する。」
 世子の見理を皇太子に立て、侯景を丞相とする。又、寺院が持っている宝物は、全て徴収して軍費とした。

 侯景は、闕前に陣を布き、二千の兵を差し向けて東府を攻撃した。しかし、南浦侯推がよく防戦し、三日しても落とせない。そこで、侯景自身が出向いて、東府を攻撃した。矢や石は、雨のように降り注ぐ。
 ところが、宣城王の防閣の許伯衆が、侯景の兵卒達を密かに城へ引き入れ、遂に東府は陥落した。侯景は、南浦侯及び城中の戦士三千人を殺した。その屍は杜姥宅へ積み重ね、城中へ向かって言った。
「早く降伏しないとこうなるぞ!」
侯景は言った。
「陛下は既に崩御なさっているのだぞ!」
 城中の兵卒達には、これを信じる者も多かった。そこで、太子は武帝へ巡回するよう請願した。壬戌、武帝が大司馬門へ御幸すると、皆は軍鼓を鳴らして涙を零し、兵卒達の動揺も少しは収まった。

 江子一が敗北して戻って来た時、武帝は彼を叱責した。すると、江子一は拝謝して言った。
「臣の一身は、御国の物。いつも、命をなげうてないことを恐れていました。しかし今回は、士卒達が皆。臣を棄てて逃げていったのでございます。臣一人で、どうして賊を撃つことができましょうか!もしも賊軍がここまで来ましたら、臣は命を捨てて、今回の罪を贖いましょう。」
 乙亥、江子一と、その弟の尚書左丞江子四、東宮主帥江子五は、百余人を率いて承明門から出撃した。
 江子一は、賊の陣営へなぐり込んだ。賊兵は、その真意が掴めず妄動しない。
 江子一は言った。
「賊徒共、怖じけついたか!」
 しばらくして、賊の騎兵が飛び出し、彼を挟撃した。江子一は槊を執って賊兵と戦ったが、従者は一人として続かない。遂に、賊兵に肩を刺されて戦死した。
 江子四と江子五は、共に語った。
「兄上と共に出撃したのに、どうして我等だけオメオメと返れようか!」
 共に兜を脱いで突撃し、戦死した。

 当初、建康を攻撃する時、侯景は一日で落とせると豪語し、号令は整然厳粛で、士卒達も略奪など行わなかった。しかし、何度攻撃しても勝てないでいると、士卒達の心は次第にバラバラになっていった。侯景は恐れた。
”このままでは、官軍が四集すると、一気に瓦解しかねない。”
 又、石頭で確保した兵糧も底を尽き始めた。そこでとうとう、兵卒達の志気を高める為、又、兵糧確保の為に、略奪を許可した。こうして賊徒達は、民から米や金帛子女を略奪するようになった。これによって、米一升は七、八万銭にまで高騰し、人々は互いに食い合い、建康の民の五・六割が餓死してしまった。
 乙丑、侯景は城東と城西へ築山を造ろうと、士民を徴発し、脅しつけて働かせた。相手の貴賤を問わず、殴る鞭打つのし放題。病弱だったり疲れ果てたりで働けなくなった者は、即座に殺して築山の材料としたので、民の慟哭の声は大地をも揺るがした。それでも民は、逃げ隠れできず、旬日の合田に数万人が徴発された。
 城中でも、これに対抗して築山を築く。太子も、宣城王も、率先して土を運んだ。山の上には四丈の楼閣を築く。そして、決死隊二千人を募って武装させた。彼等を「僧騰客」と名付け、二山へ分配し、昼夜の区別なく防戦させる。
 だが、やがて大雨が降ると、城中の築山が崩れてしまった。賊軍は、これに乗じて城内へ雪崩込む。官軍は、これを防ぐことができなかった。
 そこで羊侃は、兵卒達へ松明を投げさせた。松明は積み重なって賊徒の行く手を遮断する。そして賊徒達が止めを食らっている間に、内側へ城を築いたので、賊軍はそれ以上進軍できなかった。
 侯景は、降伏してきた奴隷を募り、彼等を全員良民とした。その中に、朱異の奴隷がいた。侯景は、彼を儀同三司とし、朱異の家財を全て彼へ与えた。その奴隷は、良馬に乗り、錦の袍を羽織って、城下へ来ると朱異を詰った。
「お前のもとで五十年働いたが、ようやく中領軍になっただけ。今、侯景へ寝返ったら、たちまち儀同三司に出世したぞ。」
 すると、それからわずか三日の間に、数千人の奴隷達が侯景の元へ駆けつけてきた。侯景は、彼等を厚く慰撫して軍へ配したので、人々は恩を感じ、命を捨てることを誓った。
 荊州刺史の湘東王繹は、台城が包囲されていると聞くと戒厳令を布き、檄文を飛ばした。これに応じて、湘州刺史河東王誉、ヨウ州刺史岳陽王言、江州刺史当陽公大心、郢州刺史南平王恪等が、兵を発して救援に向かった。
 己巳、湘東王は、司馬の呉曄と天門太守樊文皎へ兵を与えて出陣させた。
 
外交
 朱異は、侯景へ書を遣って、禍福を説いた。侯景は、返書を書くと共に、これを城中の士民へ告知した。
「梁は、近来権倖が幅を利かせ、民から略奪しては私腹を肥やしている。そうではないと思う者が居たら、試みに観てみよ。今日、国家の池苑や王公の第邸、僧尼の寺塔がどれ程贅を尽くしているか。高官達は、姫妾を百人も囲い、奴僕を数千人従え、耕しもせず機織りもしないで、錦衣玉食しているではないか。百姓から奪わなければ、どうしてこのような事ができようか!僕は、権佞を誅殺する為にここまで来たのだ。決して、社稷を傾ける為に来たのではない。
 今、城中では、四方から援軍が来ていると言うが、我の見るところ、王侯も諸将も保身だけしか考えない連中ばかりだ。命がけで我と勝負を競う男など、いるものか!天険の揚子江には、曹操や曹丕でさえも泣かされたものだが、我は葦の舟で渡ったのだ。天も人も我を助け賜ったからこそ、このような奇跡が起こったのだぞ!さあ、各々熟慮して、幸福の道を求めよ!」
 侯景は、東魏帝へ書を奉った。
「臣が寿陽を進取したのは、ここにてしばらく憩う為でした。しかし、蕭衍(武帝)は己の行く末を予感したのか、臣の軍が入国する前に、自ら帝位を降りて同泰寺へ帰心しました。
 先月の二十九日、臣はここ建康へ到着しました。江海はまだ収まっておりませんが、戦争はどうにか終結し、故郷を懐かしく思い出す余裕も生まれました。いずれは、馬の轡をズラリと並べて、陛下のご尊顔を拝謁いたしたいものでございます。
 臣の母や弟は、既に誅されていたとの流言が飛び回っておりましたが、近頃の明敕にて、始めて健在であると知りました。これこそ、陛下の寛大なる仁慈の御心と、大将軍の御恩。臣の如き弱劣の徒は、どうやってこれに報いればよいのか、その術さえ知らない有様でございます!
 今一度、伏して陛下の御慈悲にお縋り申し上げます。どうか、臣の母や弟、妻子を、我が元へ解放してくださいませ。」
 
内応失敗
 陳斤は、侯景へ捕らわれてしまった。侯景は、彼と痛飲し、手勢を集めて部下となるよう言ったが、陳斤はこれを拒絶した。そこで侯景は、陳斤を、儀同三司范桃棒のもとで軟禁した。すると陳斤は、范桃棒を説得した。
「共に手勢を率い、王偉、宋子仙を襲撃して殺害し、陛下の元へ降伏しようではないか。」
 范桃棒は、これに従い、夜半、陳斤を密かに城中へ派遣した。
 武帝は大いに喜び、陳斤へ銀券を賜下して言った。
「乱が平定したら、汝を河南王へ封じよう。」
 太子が、詐ではないかと恐れて躊躇すると、武帝は怒って言った。
「降伏を受け入れるのは、戦争の常道。何を猜疑するのか!」
 太子は、公卿を召集して協議した。すると、朱異と張傅が言った。
「范桃棒の降伏は、絶対本心です。范桃棒が降伏すれば、侯景は必ず驚きます。その機に乗じて攻撃すれば、賊軍を大破できますぞ。」
 太子は言った。
「吾は、堅城を守って、外からの救援を待っているのだ。援軍さえ来れば、賊軍など恐れるに足りない。これこそ、万全の策だ。今、城門を開いて范桃棒を入れるとゆうが、奴の心がどうやって知れようか!万が一策だったなら、悔いても及ばない。社稷とは重大なもの。もっと慎重に調べてからでないと判断できない。」
「殿下が、もしも社稷を大切だとお思いでしたら、范桃棒を納れてください。そうでなければ、もう臣の手に負えません。」
 しかし、遂に太子は決断できなかった。
 范桃棒は、再び陳斤へ言わせた。
「今、五百人の兵を率いております。城門まで来ましたら、皆、兜を取りますので、門を開いて受け入れてください。これが巧く行けば、侯景を擒にできます。」
 太子は、その計画が懇切だったために、ますます猜疑を深めた。朱異は肘を撫でて言った。
「この機を失えば、社稷は滅ぶ!」
 だが、范桃棒は部下の密告にあい、侯景に殺されてしまった。陳斤は、これを知らず、戻ってきたところを捕まってしまった。侯景は、この事件を逆利用し、裏切りに見せかけて突撃しようと考え、陳斤へ、矢文を書いて城中へ射込むよう命じたが、陳斤は、頑としてこれを拒んだ。遂に、侯景は陳斤を殺した。

 侯景は、蕭見理と儀同三司廬暉略へ東府を守らせていた。蕭見理は凶暴陰険な人間で、盗賊達と手を組んで大桁にて略奪を行ったが、その最中、流れ矢に当たって死んだ。