梁、滅ぶ。
 
(春秋左氏伝) 

 梁伯は土木工事が好きで、たびたび築城しては、そこへ住み着かずに新しい城を築かせる有様だった。それで民が労役に疲れ果てると、梁伯は言った。
「夷狄が襲って来るぞ。」
「秦が来襲するぞ。」
 と。
 すると、民は怖じ気づいて、逃げ出した。その隙を衝いて、秦が本当に来襲し、手に唾して梁を滅ぼしてしまった。 

  

(東莱博議) 

  

 治世を見るよりも、乱世を見るほうが勉強になる。美しいものよりも、醜いものを見る方が勉強になる。そして、それらを見て、断言できる事がある。それは、古来からどんなに蹂躙残賊されても滅ぼす事の出来ない、天理の真在である。
 聖人たる唐虞の朝廷に登る者は、目を挙げて見る物、全てが立派な政治ばかりだった。孔子の講義に陪席する者が耳にするのは、全て立派な言葉ばかりだった。縦横交錯する物、この理でないものは無く、左顧右眄、邪悪なる物のひとかけらも無い。このような状況でなら、人の心が純真無垢なままであり、真善美全てを揃えたとしても、単に環境がそうさせたとしか思えない。どうして天理が真在すると判断できようか。
 逆に、乱世に居り悪人に会って、目に入るものは全て横逆、聞くものは全て佞淫、このような場合、いわゆる天理は殲滅してかけらも残っていないように思える。だが、その横逆佞淫の中にも、天理は所々で発現し、時にその一斑を見せる。それでこそ、天理が真在すると断定できるのである。 

「我が生まれて来てこのようなことをしている。それこそが、天命ではないか。」
 これは、紂が租伊の諫言を拒んだ言葉である。
 人は皆、これが託辞(言い訳)だと判る。それは、託は託だ。だが、「天」の一言が、どうして紂王の口から出たのか。
「人の道など、全てがそれではないか。」
 これは盗跖が、部下へ対していった言葉である。人は皆、これが託辞だと判る。それは、託は託だ。だが、「道」の一言が、どうして盗跖の口から出たのか。
 紂の行いは、天とは程遠いのに、その口から「天」の言葉が出、盗跖の行いは、道とは程遠いのに、その口から「道」の言葉が出る。ああ、これだからこそ、この理が滅ぼす事が出来ないと知られるのだ。
 善く理を見ることの出来る人間は、この託辞の中にも理を観るのである。 

 梁伯は土木工事に耽溺し、理由もなしに民をこき使って、結局国を滅ぼした。これを議論する人々は、皆、言う。
「諸外国が来襲すると言って、民を酷使した。そして、その結果、国を滅ぼしたのである。これこそが梁伯の罪である。」
 それは、まさしくその通りだ。だが、吾ひとり、その罪の中に天理があることを知った。
 人は皆、民を欺いたことを指して、梁伯の詐心と言う。だが、吾は、これを梁伯の良心と言おう。
 世間で良心を論じる者は、「良心とは仁である。」と言い、或いは「義である。」と言い、「礼である。」と言い、「智である」と言い、「信である」と言う。だが、未だかって、「良心とは詐である。」と言う者はいない。今、私は詐に「良心」と名付けた。これは勿論、理由があることなのだ。
 正しく言うなら、詐は良心ではない。だが、詐らせた原因が、良心なのだ。
 梁伯が工事を起こしたが、梁伯自身はその行いを正しいと思っていたのだろうか?それとも、正しくないと思っていたのだろうか?
 もしも正しいと思っていたのなら、何もわざわざ「それ、夷狄が狙っているぞ」等といって民を騙す必要はなかった筈だ。「秦が攻めて来るぞ」などと民を騙す必要はなかった筈だ。
 自らの心を顧みて不安になり、これは正しい行いではないと感じたからこそ、民が労役に従わないことを恐れた。だから、外敵を誇張して、民を脅したのである。
 築城を好んでやまなかったのは、私心である。それが正しくないと感じて不安になったのは、正しい心である。
 詐はもとより良心ではない。だが、心を不安にさせた想いは良心ではないか。
 私はこれを以て、天理はいつも人の心の中にあってしゅゆも離れないことが判ったのだ。梁伯の欲望は盛んに燃え上がっていたのに、その心の中には「それではいけない。」とゆう想いが起こった。その想いは、一体誰が導き、誰が生んだのだろうか。 

 ああ、梁伯の一念の不安は、これ、過ちを改める門だった。これが、礼へ至る基礎だった。これが堯・舜・禹・文・武へ至る路だった。聖人は、その善端を迎えてこれを推し、これを広めた。そしてこれを大きくすれば、黄河のように広がり、誰もこれを防げなくなったに違いない。
 だが、梁伯は、せっかく不安が生まれたのに、これに詐を継いでしまった。それはまるで、雪や霜を落として芽生え始めた草を挫き、鷹や隼を群らせて未だ飛ぶこともできない雛鳥を撃つようなものだ。一つの良心が、どうして勝てるだろうか。
 生まれると同時に生じるもの。これを良心と言う。これを消そうとしても、うち消すことができず、これに背いても、遠く離れることはできない。無道の人間でも、その心は、一日のうちに何度でも生まれるのだ。
 この心が起こって、これを継ぐことができれば君子となり、継ぐことができなければ小人となる。推し広めることができるか否かで、君子と小人が別れるのだ。