元帝の治世
 
遷都 

承聖二年(553年)、八月。武陵王の造反を鎮圧した元帝は、建康へ帰ろうとした。すると、領軍将軍胡僧裕、太府卿黄羅漢、吏部尚書宗懍、御史中丞劉穀が諫めた。
「建業の王気はすでに尽きております。北斉は、揚子江一本を隔てたところまで占領しております。もしも不慮のことが起こりましたら、悔いても及びませんぞ!それに、古老達が伝承しております。『荊州には百の洲がある。天子が生まれる場所だ。』と。今、枝江に洲が生まれ、その数は百を下りません。陛下は飛龍。これはそれに呼応したものでございます。」
 そこで元帝は、朝臣に議論させた。
 黄門侍郎の周弘正と、尚書右僕射の王褒は言った。
「百姓は、輿駕が建康へ入る有様を、まだ見ておりません。ですから、陛下のことを列国の諸王のように思っております。どうか陛下、衆望へ従ってください。」
 この時、会議に参加した人間の中には、荊州の人間が多かったが、彼等は言った。
「周弘正は、東方の人間。ですから、陛下を東の方へ連れて行こうと望んでいるのです。それは、良計ではありませんぞ。」
 すると、周弘正は、言い返した。
「東人が東を勧めるのが良計でないとゆうのなら、お前達西方の人間が西へ連れて行こうとするのが、どうして良計になるのか!」
 それを聞いて、元帝は笑った。
 更に、元帝は、後堂に五百人を集めて尋ねた。
「われは建康へ帰りたいのだが、卿等はどう思うか?」
 すると、だれも口火を開こうとしない。そこで、元帝は言った。
「我に従う者は左袒せよ。」
 すると、過半数が左袒した。
 武昌太守の朱買臣は言った。
「建康は旧都で、先祖の墓陵があります。荊鎮は辺境、王者の居城には適しません。どうか陛下、疑われなさいますな。臣の家は荊州にございます。どうして、陛下を荊州へ移したくないはずがございましょうか?ですが、それは臣の富貴となっても、陛下の富貴にはならないと愚考するのでございます。」
 元帝が術士の杜景豪へ占わせたところ、不吉と出た。彼は、元帝へ言った。
「去ってはなりません。」
 退出した後、知人へ言った。
「遷都したら、鬼賊に抑留されると出ていた。」
 百僚の想いは、建康へ留まっていたし、元帝もその気になっていた。しかし、この時建康は戦乱によって無惨な有様だったが、これへ対して江陵は、全盛を極めていた。結局元帝は、胡僧裕の建議へ従った。 

  

人事 

 八月、王林を衡州刺史とする。
 九月、王僧弁を建康へ召還し、陳覇先は京口へ帰した。
 護軍将軍陸法和を郢州刺史とした。陸法和は、刑罰を用いず、もっぱら沙門の法と西域の幻術を使って、民を教化した。部曲の数千人を、「弟子」と呼んでいた。 

 三年、三月。元帝は、王僧弁を太尉・車騎将軍とした。
 同月、陸法和が司徒と称することを請願した。
 元帝がその真意を疑っていると、王褒が言った。
「陸法和は道術の達人。予知能力が働いたのです。」
 そこで、元帝は陸法和を司徒とした。
 四月、陳覇先を司空とした。 

  

王林 

 ところで、廣州刺史の曲江侯勃は、陳覇先が決起した時、廣州刺史へ推戴したもので、元帝から任命されたわけではなかった。(詳細は、「侯景の乱、その三、(※3)」へ記載。) それで曲江侯は、元帝からどのように処遇されるか不安だったし、元帝も彼を疑っていた。そこで曲江侯は、入朝することを申し出た。
 五月、元帝は王林(「王/林」)を廣州刺史に任命し、曲江侯を晋州刺史とした。王林も部下が盛強で、衆心を得ていたので、元帝はこれを遠方へ追いやったのである。
 王林は、仲の善い友人へ言った。
「私は能もないのに、抜擢されて大官となった。今、天下は平穏ではないのに、私は嶺南へ追いやられてしまう。これでは、どうやって御国の為に尽くせるのか!陛下は私を疑っておられるが、私は分を弁えている。なんで陛下と争おうか!私をヨウ州刺史として武寧を鎮守させてくれれば、必ず国の盾となるのに。」
 だが、その言葉は元帝へ伝わらなかった。 

  

天文 

 散騎郎のユ秀才が上奏した。
「去年の八月から、月が心中星を犯しております。今月は、赤気(低緯度でも見られるオーロラ)が北斗を犯しました。きっと江陵へ大軍が攻め込んできます。どうか、建康へ戻られてください。そうすれば、たとえ西魏が攻めてきても、荊・湘を失うだけで済みましょう。社稷さえ残るなら、再興の道もあります。」
 元帝にも天文の知識があったので、楚が戦乱にまみれることは予測できた。元帝は、嘆息して言った。
「禍福は天の思し召し。これを避けて、何の役に立とうか!」
(胡三省、曰く。天が警告を垂れるのだから、元帝はまだ見捨てられたわけではないのだ。だが、それでも元帝は避難しようとしなかった。元帝が、自ら棄てたのだ。) 

 元帝は、玄談が好きだった。
 八月、龍光殿で老子を講釈した。 

(訳者、曰く)
 遷都に関しては、全ては結果論です。
 私は別に占いを信じませんから、それについては無視します。
 百僚が建康を首都にしたがるのは、望郷の念で、別に国家百年の計を考えたわけではないでしょう。当時の政治状況を考えた時、建康に留まれば、北斉の脅威がありました。しかし、江陵へ遷都したら、西魏から攻略されかねなかった。この時点では、どちらにも一長一短あったのです。
 結果として、元帝は江陵へ遷都した。そして、西魏が進攻してきて、梁は滅亡した。ですが、未来を見ることのできる人間は居ないのです。建康に戻ったら、北斉によって攻め滅ぼされたかも知れません。この時点では遷都がより確実な選択だったかも知れないのです。
 結局元帝は、廃墟となった建康を見捨てたのですが、これでもし梁が再興したら、首都を見捨てた思い切りの良さが評価された事でしょう。梁が滅亡した原因を、安直に遷都に求めてはならないと思います。
 (もちろん、この遷都が原因で滅亡したとゆう可能性もあるのですけれども。) 

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