武陵王の乱
 
発端 

 西陽太守の江安侯円正は、穏和で施しを好んだ。だから、侯景の乱が勃発すると、大勢の人間が彼の元へ逃げ込んできて、一万余りの兵力となった。湘東王は、彼を始末しようと考えた。
 大宝二年(551年)、六月。湘東王は、江安侯円正を平南将軍へ任命した。だが、彼が江陵へやって来ても、謁見もしないで、ただ南平王と痛飲させた。江安侯が酔っぱらうと、これを捕らえ、彼の部下を籠絡して、彼の罪状を告発させた。
 江安侯は、武陵王の次男である。以来、蜀と江陵の間に溝が生じた。 

  

即位 

 十一月、益州長史劉孝勝が、武陵王へ、皇帝と称するよう勧めた。武陵王は許さなかったが、乗輿車服(天子の車服)を造った。 

 武陵王は、武略に秀でていた。蜀に赴任して十七年のうち、南は寧州を開拓し、西は資陵、吐谷渾に通じ、内は農業を奨励して塩鉄の事業も整備し、外は貿易の利益を収めた。だから、財貨は増え、武器は山と積まれ、馬は八千匹も養っていた。
 侯景が台城を陥し、湘東王が討伐軍を起こすと聞いた時、武陵王は僚佐へ言った。
「七官(湘東王は、兄弟順が七番目だった)は文士だ。何ができるか!」
 ある時、内寝柏殿の柱に花が咲いた。武陵王は、これを瑞兆と喜んだ。
 承聖元年(552年)、四月、乙巳、皇帝位へ就き、天正と改元した。子息の圓照を皇太子とし、圓正を西陽王、圓満を意陵王、圓普を宜都王とした。また、巴西・梓潼二郡太守の永豊侯を征西大将軍・益州刺史として、秦郡王に封じた。
 司馬の王僧略と、直兵参軍の徐怦が固く諫めたが、武陵王は聞くかなかった。王僧略は、王僧弁の弟である。
 話は遡るが、台城が包囲された時、徐怦は速やかに救援に向かうよう請うたが、武陵王は行きたくなかったので、心中、徐怦へ含むものがあった。やがて、徐怦が造反すると密告する者が出たので、武陵王は徐怦へ言った。
「今までのよしみだ。諸子へだけは手を出すまい。」
 だが、徐怦は言った。
「我が子息達がたとえ生き延びても、殿下がそのままでは、何の役にも立ちません!」
 武陵王は、徐怦親子を皆殺しにして、市にさらし首とした。
 又、王僧略も殺した。
 永豊侯は、嘆いて言った。
「武陵王は失敗した!善人は国のいしずえなのに、まず、彼等を殺す。これでは滅びない筈がない!」
 武陵王は、宜豊侯の諮議参軍劉番を呼び出した。彼が行きたがらなかったが、使者が八回も往復し、とうとう断りきれずに、武陵王のもとへやって来た。
 武陵王は、劉孝勝を腹心としていたので、劉番は、解放して貰うよう、彼へ何度も頼み込んだ。中記室の韋登が、見るに見かねていった。
「殿下は、そうとう我慢なさっている。足下が、ここに留まらずに帰ってしまえば、どんな禍を蒙るか判らない。それよりも、殿下と共に美名を遺してみようじゃないか。」
 劉番は、顔つきを改めて、言った。
「卿は、我を懐柔する気か?しかし、我は宜豊侯と主従の契りを交わしているのだ。どうして心変わりができようか!それに、殿下は天下へ大義を知らせようとしているとゆうが、結局は単なる野望で終わってしまうぞ。」
 武陵王は、劉番を臣下にできないことを悟り、宜豊侯のもとへ帰してやった。そして、宜豊侯を益州刺史・随郡王に封じ、劉番を、宜豊侯の府長史、蜀郡太守とした。(宜豊侯は、この五月に、西魏へ降伏した。詳細は、「西魏と梁」へ記載) 

  

二人の皇帝 

 八月、武陵王は、挙兵して東進した。永豊侯為を益州刺史に任命して成都を守らせ、子息の宜都王圓粛を副官とした。
 今回、武陵王が決起したのは、太子の圓照の謀略である。
 この時、圓照は巴東を鎮守していたが、湘東王からの使者を捕らえて留め置き、武陵王へ言った。
「『侯景は、まだ平定できない。どうか、すぐに進軍してくれ。』との事でした。風聞では、荊鎮も、既に陥落したとか。」
 武陵王は、これを信じて東進し始めたのだ。 

 十一月、湘東王は即位した。これが元帝である。 

  

東魏の侵略 

 二年。武陵王決起の報を受けた元帝は、方士へ武陵王の姿を描かせた。そして、自らそれへ釘を打ち込んだ。また、侯景を処刑したことも、武陵王へ伝えた。
 元帝は甚だ懼れ、西魏へ書を渡した。
「子糾は、我が兄弟だ。我が手を下すには忍びない。どうか君の手で討伐してください。」
 すると、宇文泰は言った。
「蜀を奪って梁を制覇するのは、この一挙にこそある。」
 西魏の諸将は、その困難さを訴えたが、大将軍尉遅迥だけが、必ず勝てると言い張った。彼は、宇文泰の甥である。
 宇文泰が方略を問うと、尉遅迥は言った。
「蜀は、中国から百年余り隔絶しております。彼等は、その険阻な地形を恃み、我等から攻撃されることを考えておりません。その油断につけ込み、鉄騎で急襲すれば、必ず勝てます。」
 そこで宇文泰は、尉遅迥の麾下へ開府儀同三司原珍等六軍をつけ、一万二千の兵力で蜀を攻撃させた。 

  

本拠地をなくして 

 武陵王は、巴郡にて、西魏の来寇を知った。そこで、前の梁州刺史焦淹を引き返させた。
 ところで、楊乾運が梁州刺史になりたかったのに、潼州刺史に任命さていれた。楊法深は黎州刺史を望んだが、沙州刺史となった。それで、二人とも不満だった。
 今回、楊乾運の甥の楊略が、楊乾運へ説いた。
「今、侯景が平定されたばかりです。皆で力を合わせて国を保ち民を寧んじるべき時なのに、かえって兄弟で矛を交わす。これは、滅亡の道です。朽ちた木に彫刻はできませんし、腐った社会は救えない。ここは、梁を見限って西魏へ乗り換えるべきです。そうすれば、功名二つながら全うできます。」
 楊乾運は同意し、楊略へ二千人を与えて、剣閣を鎮守させた。また、婿の楽廣には、安州を鎮守させ、楊法深等とともに、西魏へ内通させた。宇文泰は、楊乾運へ密かに鉄券を与え、驃騎大将軍・開府儀同三司・梁州刺史を約束した。
 尉遅迥は、開府儀同三司侯呂陵始を前軍として、剣閣へ到着した。楊略は、楽廣のもとまで退却し、城を翻して侯呂陵始を迎え入れた。こうして侯呂陵始は安州へ據った。
 甲戌、尉遅迥が進軍してくると、楊乾運も城ごと降伏した。尉遅迥は、一隊を分けてそこを守らせ、本隊を率いて成都を襲撃した。
 この時、成都の守備兵力は、一万人にも足りず、倉庫は空っぽの有様だったが、永豊侯が城門を閉じてしっかり守った。尉遅迥は、城を包囲した。
 焦淹は、江州刺史景欣と幽州刺史趙抜邑を成都救援に向かわせたが、彼等は原珍に撃破された。 

戦闘開始 

 武陵王は、巴東にて、侯景が平定されたことを聞き、進軍を悔やんだ。そこで太子圓照を呼び出して責め、続けて言った。
「侯景は平定したが、江陵は、まだ我等へ服従していない。」
 武陵王は、既に皇帝を潜称していたので、人の下に立つわけには行かず、そのまま東進しようとした。しかし、兵卒達は日夜故郷を想って帰りたがっていた。
 江州刺史王開業が、「今回は引き返して大本を固め、その後に次の手を打つべきだ」と建議したところ、諸将は皆、賛同した。しかし、圓照と劉孝勝は、堅く否定した。
 武陵王は、圓照らに従い、衆人へ宣言した。
「敢えて諫める者は、殺す!」
 西陵へ到着する頃は、軍勢は甚だ盛ん。船団が川を覆い尽くすほどだった。これへ対して、護軍の陸法和は峡口の両岸へ二城を築き、石を運んで川を埋め、鉄の鎖を張り渡して流れを分断した。
 元帝は、任約を牢獄から出して、晋安王の司馬とし、陸法和の副官として武陵王を防ぐよう命じた。この時、元帝は言った。
「汝の罪は重いのに、殺さずにおいた。それは、今日の為だ!」
 そして、禁軍の兵を与え、廬陵王の娘を娶せて、下向させた。 

  

 六月、武陵王は両城を築き、鉄鎖を断ち切って、陸法和を攻撃した。陸法和からの急使が、相継いで都へ駆けつける。武陵王は、今度は謝答仁を釈放して歩兵校尉とし、兵を与えて陸法和の麾下へ付けた。
 この頃、湘州で陸納が造反しており、王僧弁の軍はそちらへかかりっきりだった。だが、陸法和からの危急の報告が相継ぐので、遂に武陵王は陸納を赦した。
王林(「王/林」)が使者となって説得し、陸納も降伏に同意した。武陵王は、王林へ官爵を与えて、峡口の援軍として派遣した。 

  

 武陵王は、将軍侯叡へ七千の兵を与えて、城を築かせ、陸法和と対峙させていた。
 元帝は、武陵王が蜀へ帰って割拠することを許可した。しかし、武陵王は従わず、格下の人間を相手にするような返書を与えた。
 陸納の乱は、既に平定している。湘東の諸軍は、次々と西上していった。ここに及んで、元帝は、再び武陵王へ書を与えた。
「我には、一日の長がある。侯景の乱を平定した功績もあり、これを以て推すに、帝位に即くのも当然である。それでも使者を派遣して、返事を待つ。これが最後通牒だ。兄弟は、体や心を分け合った仲。兄は肥え、弟は順に従って痩せる。そうやって、長く慈しみ合うことができるのだ。」
 武陵王は、戦争続きで、戦況も不利だった。その上、西魏の侵入で成都も危うい。それこれで憂いが満ち、為す術も知らなかった。そこで、度支尚書の楽奉業を使者として江陵へ派遣し、前回の条件を呑むことを伝えた。
 ところが楽奉業は、武陵王が敗北すると見切りを付け、元帝へ言った。
「蜀軍は兵糧が欠乏し、大勢の兵卒が死んでおります。放っておけば自滅します。」
 そこで元帝は、講和を却下した。
 武陵王は、一万斤の黄金と五万斤の銀、そして多量の綾錦を持っており、戦争のたびにそれらを将士へ見せびらかしていたが、褒賞に使ったことがなかった。寧州刺史陳智祖は、それをばらまいて決死隊を募るよう請うたが、武陵王は聴かなかった。陳智祖は、慟哭して死んだ。以来、請願する者が出ても面会さえしなくなったので、将卒の心も武陵王から離れていった。
 七月、巴東の民苻昇が峡口城主の公孫晄を斬り、王林へ降伏した。謝答仁と任約は、進軍して侯叡を攻撃し、これを破って三塁を抜く。ここにおいて、両岸の十四城が降伏した。 武陵王は、退却することもできず、流れに従って東進した。遊撃将軍樊猛が、これを追撃する。武陵王軍は大敗し、八千人が溺死した。樊猛は、これを包囲した。
 元帝は、樊猛へ、密使を送って言った。

「武陵王を生還させたら、失敗だぞ。」
 樊猛は、兵を率いて武陵王へ迫った。武陵王は、樊猛へ金の入った袋を投げつけて言った。
「この金で、卿を雇おう。俺を送ってくれたら大出世だぞ。」
 樊猛は肯らず、武陵王と、彼の幼子の圓満を斬った。
 陸法和は、太子圓照と兄弟三人を捕らえて、江陵へ送った。
 元帝は、武陵王を皇族の戸籍から除き、饕餮氏の姓を賜った。
 劉孝勝は牢獄へ下したが、やがて釈放した。そして、彼を使者として、江安侯圓正へ伝えた。
「西軍は敗北し、汝の父親も生死不明だ。」
 それは、圓正へ自害させようと思ってのことだった。しかし、圓正は号泣して圓照を非難するばかり。その様子を聞いた元帝は、圓正が自殺しないと悟り、彼を牢獄へぶち込んだ。
 圓正は、牢獄にて圓照へ言った。
「兄上は、どうして我が骨肉を乱し、このような残酷な仕打ちに会わせたのですか!」
 対して、圓照は、ただ、「計略が拙かった。」と答えるばかりだった。
 元帝は、彼等へ食事を出さなかった。彼等は自分の肱を囓る有様。十三日目に死んだ。
 乙未、王僧弁は江陵へ戻った。そこで元帝は、諸軍を元の場所へ戻した。 

  

 尉遅迥の成都包囲は、五十日に及んだ。
 永豊侯はしばしば出戦したが、全て敗北。遂に降伏を願い出た。西魏の諸将は許さなかったが、尉遅迥は言った。
「降伏した者を受け入れなければ、これから降伏する者が居なくなるぞ。」
 こうして、降伏を受け入れた。
 八月、永豊侯と宜都王圓粛が降伏した。尉遅迥は、彼等を礼遇し、吏民には平常通り仕事をさせた。ただ、官庫の中身と奴隷達だけは接収し、部下への恩賞へ当てた。西魏の軍は、それ以外の略奪を行わなかった。
 西魏は、永豊侯と宜都王を開府儀同三司とし、尉遅迥を大都督、益・潼等十二州諸軍事、益州刺史に任命した。 

元へ戻る