呂光、姑藏に據る。(後涼の成立)

 

西域遠征

 晋の武帝の太元七年(382年)。九月、車師前部王と、善善王が、前秦へ入貢した。
 かつての漢は、服従しない西域諸国を討伐し、都護を置いて統治していた。今回入貢した二王は、苻堅にもこれに倣うよう勧めたので、苻堅は西域討伐軍を起こした。
 抜擢したのは、驍騎将軍呂光。彼を使持節、都督西域征討諸軍事に任命し、鉄騎五千を含む総数十万の軍を与えて西域討伐を命じた。
 苻融が諫めて言った。
「西域は遠く、その土地は大半が砂漠です。その民を得ても使役することが出来ませんし、その土地を得ても耕すことが出来ません。漢の武帝の遠征も、それで得たものは消耗した軍費を補えませんでした。今、万里の外へ遠征軍を出されるとの思し召しですが、これは漢氏の過挙を踏襲するに過ぎません。どうか、もう一度考え直されて下さい。」
 苻堅は聞かなかった。
 八年、正月。呂光は長安を出発した。車師前部王彌眞と、善善王休密が郷導である。
 十月、前秦は、泓水で大敗を喫した。

 

西域平定

 十二月、呂光軍は三百里の流砂を踏破した。行き過ぎる諸国は、全て降伏して来たが、クチャ王の帛純だけはこれを拒み、籠城したので、呂光はこれを攻撃した。
 九年七月。クチャは危機に陥った。帛純は獪胡(クチャの西方に居住する遊牧民族。)へ財宝を贈って救援を求めた。獪胡王は、弟の吶龍と侯将の馗に二十余万を与えて派遣した。又、温宿・尉頭等の諸国へ呼びかけた。彼等の派遣した兵は、全て合わせて七十余万。この大軍が、クチャ救援に向かった。
 呂光はこれと城西で戦い、撃破した。帛純は逃げ、三十余国の王侯が降伏した。呂光はクシャ城へ入城した。この都市は、長安を模倣して作られており、住居もかなり立派だった。呂光は、帛純の弟の震を立ててクチャ王とした。
 呂光は寛大な処置で近隣を手懐けたので、遠方の諸国まで、その麾下へ入った。こうして、漢代に服属していた西域諸国は、ほぼ全国が呂光の支配下へ入った。
 八月、呂光が西域を平定したと聞いた苻堅は、彼を都督玉門以西諸軍事、西域校尉とした。ただ、戦乱で通行が途絶えていた為、その官位は、彼の元へは届かなかった。

 

呂光軍の帰還。

 クチャは豊かな土地だったので、呂光はここに定住しようと思ったが、天竺の沙門鳩摩羅什が言った。
「ここは凶亡の土地です。長く留まってはいけません。将軍がこれから東へ進めば、その途中、福運の強い土地がありましょう。」
 呂光は大宴会を開き、その席で将士へ進退を尋ねてみたところ、皆、中国へ帰りたがっていた。
 十年、三月。二万余頭の駱駝に西方の珍宝を山と積み、駿馬万余匹を率いて、呂光は中国へ引き返した。

 

梁煕、呂光を阻む。

 九月、呂光の軍は宜禾まで戻ってきた。前秦の涼州刺史梁煕は、関を閉じて彼の軍を拒もうと思った。高昌太守の楊翰が、梁煕へ言った。
「呂光は、西域を制覇したばかり。兵は強く、士気旺盛。今の中原の騒乱を見れば、必ず野心を持ちます。河西地方は万里の広さで、武装兵十万を養え、自立するには充分ですから。もしも呂光が、砂漠から出てしまえば、もう打つ手はありません。高吾谷口は険阻な要害。まず、ここを確保して、敵の水を奪う。水がなくなれば、どんな強兵も戦えません。もっと遠方の、伊吾関で防いでも良いでしょう。この二カ所なら、敵に張良の知謀があっても、防ぎきることができます。」
 だが、梁煕は聞かなかった。
 美水令の張統が言った。
「今、関中は大乱。首都の存亡さえ、我々には判りません。今、呂光が来ましたが、奴の本心も判りかねます。将軍はどう対処なさるおつもりですか?」
「憂慮して居る。どうして良いやら判らんのだ。」
「呂光の知略は人並み外れております。その部下には望郷の念が高まっており、しかも西域を制覇して勢いに乗っている軍団。まともでは、とても戦えません。ですが、将軍。将軍は代々、秦の大恩を蒙り、忠誠で知られた家柄。今こそ王室に勲功を立てる好機です。
 この地に居られます行唐公洛は、主上の従弟。その勇名は天下に響いております。今、将軍の為に謀りますに、洛殿下を盟主と仰いで衆望を収め、忠義を推して豪族達を取りまとめることです。そうすれば、呂光がやってきても、どうして敵対できましょうか。彼の精鋭を味方に引き入れ、東進して毛興と合流し、王統、楊璧と連合して四州の兵力を以て凶逆を掃討し、帝室を安泰にする。これこそ、斉の桓公や晋の文公にも比肩する功績でございます。」
 しかし、梁煕は聞かず、あまつさえ苻洛を殺した。

 

呂光、梁煕を撃破する。

 呂光は、楊翰の謀を聞いて懼れ、進軍を一時停止した。すると、杜進が言った。
「梁煕は文雅の士。軍略など知りませんので、楊翰の謀略を採用しますまい。案じることは要りません。それよりも、奴等が団結する前に、速やかにこれを撃破するべきです。」
 呂光はこれに従った。
 高昌まで進むと、まず、楊翰が郡ごと降伏してきた。
 玉門まで来ると、梁煕は呂光を詰問した。彼が、皇帝の命令も受けずに、勝手に中国へ戻ってきたからである。そして、子息の胤を鷹揚将軍とし、振威将軍姚皓、別駕衛翰に五万の兵を与えて酒泉で呂光軍を防がせた。
 敦煌太守姚静、晋昌太守李純は、郡ごと呂光へ降伏した。
 呂光は、涼州全土へ檄を飛ばした。”この大乱に遭って、梁煕は皇室救援に赴こうともしないばかりか、帰国してきた軍の行く手まで阻む、”と。そして、彭晃、杜進、姜飛を前鋒として胤と戦い、大勝。胤を捕らえた。
 この大勝利で、四山の胡、夷が全て呂光へ帰属した。そして、武威太守の彭済が、梁煕を捕らえて降伏し、呂光は梁煕を斬った。

 

涼州平定。

 呂光は、姑藏へ入り、涼州刺史を自称した。又、杜進を武威太守に任命し、その他の将佐にも、各々職位を授けた。
 涼州の郡県は次々と呂光へ降伏したが、ただ、酒泉太守宋皓と西郡太守宋半だけが、城を固守して降伏しなかった。
 呂光はこれを攻撃し、宋半を捕らえた。
 呂光は宋半へ言った。
「吾は詔を受けて西域を平定した。しかるに、梁煕は吾が帰路を閉ざしたのだ。これは朝廷の罪人である。卿は何故、これに附いたのか?」
「将軍は、西域平定の詔を受けられましたが、涼州を攪乱せよとの詔は受けておられません。梁公に何の罪があって殺されました?半はただ、力が足らず、君父の讐を討てなかっただけ。何で彭済の様な真似ができましょうか!主君が亡べば臣下も死ぬ。それは当然のことです。」
 呂光は、宋半と宋皓を殺した。

 さて、主簿の尉祐は奸佞な男だったが、彭済と共に梁煕を捕らえて差し出したので、呂光はこれを寵信した。そこで、尉祐は、姚皓を初めとする名士十余人を讒言し、呂光はこれを殺したので、涼州の人々は腹を立てた。
 呂光は、尉祐を金城太守に任命した。尉祐は、允吾まで来た時、允吾城を襲撃して造反した。姜飛がこれを撃破した。尉祐は逃げ、興城に據った。

 

張大豫、起兵す。

 話は遡るが、太元八年、前涼の張天錫が南へ逃げた時、秦の長水校尉王穆は、彼の世子の張大豫を匿い、彼と共に河西へ逃げた。そこで禿髪思復健を頼り、禿髪思復健は彼等を魏安へ送った。
 十一年、魏安の住人焦松、斉粛、張済等が、数千人の兵卒を集め、張大豫を盟主として呂光の昌松郡を攻撃し、これを抜いた。太守の王世強を捕らえる。
 呂光は、輔国将軍杜進を派遣して攻撃させたが、杜進は敗北した。張大豫は進軍し、姑藏へ迫った。
 王穆が諫めた。
「呂光軍は兵糧が豊かで城は堅固。その上、兵卒は精鋭。これに逼っても、利はありません。それよりも軍を返して嶺西を席巻しましょう。そこで兵を養い兵糧を備蓄して、始めて呂光と戦えるのです。一朝一夕では、呂光とは戦えません。」
 しかし、張大豫は聞かず、「撫軍将軍・涼州牧」を自称し、鳳凰と改元した。王穆を長史とし、郡県へ檄を飛ばし、王穆を説客として嶺西諸郡を遊説させた。建康太守李隰、祁連都尉厳純等が起兵してこれに応じ、三万の大軍となった。(ここの建康は、涼州の建康。)
 張大豫は楊塢に據った。(楊塢は、姑藏城の西にある。)

 

呂光、張大豫を斬る。

 四月、張大豫は、楊塢から姑藏城の西まで進軍した。王穆と、禿髪思復健の息子の渓于へ三万の兵を与えて、城南へ屯営させた。呂光は出撃してこれを大破し、渓于を斬り、二万の首級を挙げた。
 九月、苻堅崩御の報が、呂光のもとへ届いた。呂光は、軍を挙げて喪に服し、文昭皇帝と諡した。十月、大赦を下し、大安と改元する。
 十一月、張大豫が西郡から臨兆へ入った。民五千余戸を略奪し、倶城へ據った。
 十二月、呂光は、「使持節、侍中、中外大都督、督隴右・河西諸軍事、大将軍、涼州牧、酒泉公」を自称する。
 十二年、七月。呂光は、彭晃と徐火を率いて、臨兆の張大豫を攻撃し、これを撃破した。張大豫は廣武へ逃げ、王穆は建康へ逃げた。
 八月、廣武の武人が、張大豫を捕えて姑藏へ引き渡した。呂光は、これを斬った。王穆は酒泉を襲撃してここを占領。「大将軍・涼州牧」と自称する。

 

三つの造反軍

 十二月、呂光の西平太守康寧が、匈奴王と自称し、湟河太守を殺して造反した。張掖太守の彭晃も造反し、康寧や王穆と同盟した。
 呂光が、彭晃を親征しようとすると、諸将は言った。
「今、康寧は南に居り、隙を窺って動こうとしております。もし、彭晃・王穆のけりが付かないうちに康寧が襲来しますと、我が国は大乱に陥りますぞ。」
「その通り。しかし、もしも我が行かなければ、座して敵を待つことになる。もし、あの三敵が呼応して東西から攻めてきたら、城外は全て敵の手に取られてしまい、大事は終わる。今、彭晃は造反したばかり。康寧や王穆との同盟条件さえ整ってはおるまい。今農地に素早く動いて各個撃破するのだ。」
 そうして、呂光は三万の兵を率て張掖へ駆けつけ、僅か二旬のうちに城を落とし、彭晃を誅殺した。

 

王穆の最期

 さて、王穆は起兵当初、敦煌の名士郭禹のもとへ使者を派遣して彼を招聘した。すると、郭禹は嘆いて言った。
「既に民は同意した。どうして彼等を見捨てられようか!」
 そして、同郡の索胡と共に起兵して王穆と呼応し、粟三万石を王穆へ送った。王穆は郭禹を太府左長史に、索胡を敦煌太守に任命した。
 後、王穆は讒言を信じ、兵を率いて索胡を攻撃した。郭禹が諫めたが、聞かない。郭禹は城を出ると慟哭すると、城を向いて言った。
「もう、お前を見ることもできない。」
 そして、人との交わりを断ち、絶食して死んだ。
 これを聞いて、呂光は言った。
「二虜が攻撃し合っている。これは滅ぼす好機だ。我等は戦ったばかりで疲れているが、そんなことを言ってこの機会を逃してはならん。」
 そして、二万の兵を率いて酒泉を攻撃し、これを占領した。
 呂光は涼興まで進んだ。王穆は兵を率いて引き返そうとしたが、呂光軍と遭遇する前に兵卒達が散り散りに逃げた。結局、王穆は単騎で逃げたが、部下の郭文から殺されて、その首は呂光の許へ献上された。

 

粛清

 呂光が涼州を平定できたのは、杜進の功績が大きかった。そこで呂光は杜進を武威太守に任命し、他のどの幕僚よりも寵遇した。
 呂光の甥の石聡が関中から涼州へやって来た。この時、呂光は尋ねた。
「中州では、我の評判はどんなだ?」
 すると、石聡は答えた。
「ただ杜進の噂ばかり。舅のことは話にも登りません。」
 以来、呂光は杜進を忌んだ。
 十三年、三月。呂光は杜進を殺した。

 呂光が群僚と宴会を開いた。そのうち、政治の話題になったところ、参軍の段業が言った。
「明公は、法律の適用が厳酷過ぎます。」
 すると、呂光は言った。
「呉起が楚を強国にし、商鞅が秦を興したのは、恩愛ではない。厳刑によってだ。」
「ですが、呉起は殺され、商鞅は一族根絶やしになりました。それは残酷の報いです。それに、明公は建国の大業を為されるのですから、堯、舜を手本とするべきです。呉起や商鞅の統治を、どうして民が望みましょうか!」
 呂光は、居住まいを正して感謝した。

 

後涼建国

 十三年、呂光は三河王と自称し、大赦を下す。麟嘉と改元して百官を置いた。
 十九年。呂光は息子の覆を「都督玉門以西諸軍事、西域大都護」に任命し、高昌を鎮守させた。彼には、大臣の子弟達を大勢随従させた。
 二十一年。呂光は皇帝を潜称し、国号を「大涼」と号した。大赦を下し、龍飛と改元する。世子の紹を皇太子とし、子弟二十人を公候へ封じた。王詳を尚書左僕射とし、段業等五人を尚書とする。

 呂光は、禿髪烏孤のもとへ使者を派遣し、彼を「征南大将軍、益州牧、左賢王」に任命した。(禿髪烏孤は、後、南涼を建国する人間である。)
 禿髪烏孤は、使者へ言った。
「呂王の諸子は貪淫、三人の甥は暴虐。民はみんな怨んでおる。民衆の心を無視して不義の爵位を受けるなど、とんでもない!帝王の事は、我が自ら行う!」
 そして、使者を追い返した。