魯、斉の軍と溪で戦う。

 

(春秋左氏伝)

 魯の桓公の十七年、夏。魯は、斉軍と溪(原字はさんずい偏がない。)で戦った。国境の紛争である。
 この頃、斉の人が、魯の国境内へ入り込んでいたので、辺境の役人がその旨を桓公へ報告した。すると、桓公は言った。
「国境については、よく注意して守り、奇襲を受けないようにせよ。出来るだけの警備をして、事が起きたら戦え。一々報告する必要はない。」

(博議)

 国境問題は、国主の憂えるべき問題ではない。
 すると、ある人間が言った。
「とんでもない。民の死生、国の安危、これらは皆、辺境にかかっている。だから、そこに異変があると聞いたら、どうして憂えずにいられようか!」
 ああ、とんでもない勘違いだ。まさにそれ故にこそ、憂うべきものではないのだ。

 民の死生、国の安危、これらは皆、辺境にかかっている。それなのに、そこに異変があると聞いてから憂えるのなら、異変がない時に行った備えは、一体何の為のものなのか?
 平居暇日から形勢をつまびらかにし、規模を定め、将帥を選び、斥候を放って敵の動向を分明にしているのは、皆、この時の為の用心である。もしも狼煙が挙がって敵の来寇を告げたならば、我が将軍が、その時の為にあらかじめ建てていた作戦で、これに対処する。一体何の憂いがあるのか?
 そう、敵の来寇を聞いて憂うる国主が居たら、彼は、平素何の準備もしていなかったと推察できる。逆に、警報を聞いても全く動じなかったら、平素から万全の準備を整えていた事が窺われるのだ。

 漢代、丙吉が宰相となった。
 ある時、伝令兵が急を告げる印を持っているのを見て、彼の馭者は雲南・代郡に敵が侵入したことを知った。そこで、その馭者は宰相府へ帰ると、丙吉へ言った。
「敵が辺境へ侵入したのは、きっと、その場所の長官に、老齢や病気の者がいたせいです。ですから、今のうちにその実態を確認しては如何でしょうか。」
 丙吉はその提案を善しとし、東曹(人事を司る係)を呼び、人材を確認した。
 すると、その直後に皇帝は三公を召し出して、その土地の長官について下問した。御史中丞は答えられなかったが、丙吉は各人について詳らかに答えられた。
 これによって、丙吉は、「辺境を憂え、職務に忠実な宰相」と賞賛されたのである。

 しかし、私はそんな高い評価を与えない。
 この時、丙吉は宰相となって既に長かった。それなのに、辺境の諸将軍の老壮や能否を漫ろにして顧みなかった。そして、敵が侵入しそうになって、慌ててその人材を確認したのである。ああ、ドロ縄とはこの事、対応が遅いにも程がある!
 雲中から長安まで、どれ程離れているだろうか。虜狄が侵入してから、その報告が長安へ届くまで、一体何日経っていたのか?両軍が相臨めば、一呼吸のうちに勝敗が決する。もしも、老病で職務に耐えられない長官が居たならば、人事考課の詔が降りるより先に、大敗北の報告が届いた筈だ。憂えたとは言っても、何の役にも立たないではないか!

 これと比べると、魯の桓公は言った。
「国境については、よく注意して守り、奇襲を受けないようにせよ。出来るだけの警備をして、事が起きたら戦え。一々報告する必要はない。」
 桓公は多分こう思ったのだ。
「無事の時こそ、備えをしておくべきだ。だが、既に事が起こってしまった。汝がこれを告げ、吾がこれを憂うるとしても、一日二日で何の手配が出来ようか。城壁を築き、兵器や戦車を整え、兵糧を備えるなど、わずか数日で出来ることではないのだ。もし、戦争の準備に不首尾があったとするなら、事ここに至ったのだ、お前は手を拱いて殺されるのを待つしかあるまい。」と。
 ああ、桓公は辺境の長官を、何と峻烈に責めたのだろうか!

 だが、更に考えるべき事がある。
 桓公が辺境の長官へ成果を求めたのは、当然である。だが、桓公は、辺境の長官がどんな人間か知らなかった。
 成果を挙げるように責め立てたのは順当だった。彼は賢者と言えるだろう。しかし、ただ責任を負わせるだけで、現状について尋ねなかったのだ。これでは賢者とは言えない。私が同じ立場にいたなら、それから先に醸される禍を恐れるものを。

 昔、呉起に西河を与えれば、魏から秦の憂いが消えた。李廣に北平を与えれば、漢から匈奴の憂いが消えた。羊古(「示/古」)に襄陽を与えれば、晋から呉の憂いが消えた。
 この数公は、ただ単に、辺境の警備で君父を煩わさなかっただけではない。その主君達も又、彼等になら全権を委ねきって枕を高くできたのだ。
 この数公でもないのに、全てを安心して委ねきってしまえば、例えば北門の鍵を預かった者が、勝手に敵を導き入れるようなことをやりかねないではないか。これも又、主君が常に戒めなければならないことである。

(訳者、曰く)

 宋の仁宗皇帝の御代。北には遼、西には夏が建国していた。
 貌川の嘉勒棟戡は、遼帝の娘婿だった。そこで、遼は貌川と連携して西夏を挟撃したが、西夏主の諒祥は、数度に亘ってこれを撃退した。そして、この報復に、諒祥は戡攻撃の軍を起こした。
 西夏は大軍を結集して古胃州へ屯営した。すると、宋へ帰順していた辺境の酋長達が、自分達を攻撃するのだと恐れ、宋の知秦州張方平へ救援を求めた。
 張方平は恐れ、楼櫓を増築して城の警備を固め、近隣へ急を伝えて軍兵を集めた上、京畿の兵を動員するよう上奏した。すると、枢密院の張昇が言った。
「昔、臣は秦州に居りました。その間、夏が来寇するとゆう噂が乱れ飛んだことが十指では数え切れないほどございましたが、その全てがデマでした。今、事の真偽も定かでないうちに京畿の軍まで徴発しようとしていますが、これは徒に不安を煽り立てるだけ。良策ではありません。今しばらく様子を観て下さい。」
 仁宗皇帝は、その提案に従った。
 果たして、数日後、張方平から報告があった。
諒祥は、戡攻撃の為、西へ去りました。」
 この戦いで、諒祥は戡に撃退され、古胃州に砦を築いて去った。
 諫官の司馬光は、張方平が怯懦軽挙であると弾劾し、懲罰するよう請うたが、宰相の曾公亮は言った。
「我が軍は国境を出なかったのに、何で軽挙と言うのか?それに、こちらに軍備があったからこそ、来寇されなかったのではないか。軍備を整えて敵襲がなかった時に『軽挙』と称して罰するのでは、これ以後、辺境の臣下は軍備を行わなくなってしまうではないか。」
 だが、司馬光は三度に亘って張方平の弾劾文を上奏し、遂に方平は左遷された。

 以上は、「続・資治通鑑」(巻六十、仁宗嘉裕七年(1062))の記述である。
 これを読んだ時、奇異な想いがしたものだ。
 張方平の態度が褒められたものではないにしろ、曾公亮の言葉には筋が通っている。それを何度も弾劾した司馬光が頑迷固陋に思え、結局それに従った以上、以後の国防が不安になったものだ。曾公亮の予言のように、これ以後国境の守りが弱体化するのではないか?と。
 だが、後に司馬光の上奏文が手に入り、三つの弾劾文も、その全文を読むことが出来た。
 以下に、その二度目の弾劾文を掲載する。

 臣はかつて、秦鳳路経略使張方平が怯懦軽挙であると上言し、良将を選んで交代させますよう乞いましたが、朝廷は、採用して下さいませんでした。
「将は成敗の機、安危の本。無能な者には任せられない。」と、臣は聞いております。
 今、張方平は軽挙妄動し、その影に怯えて天下の笑い物となってしまいました。その不才の跡はこのように歴然としておりますのに、朝廷はなお、それを覆い隠し、一つとして詰問しておりません。戎狄がこれを聞けば、良き幸いとばかり、我が国に攻め込むのではないか?かの国の吏士達は、我が国を軽侮するのではないか?それを臣は恐れているのです。これでは、張方平一個人を惜しんで、秦隴を軽々しく棄てるようなものです。
 凡そ、将軍の能力とゆうものは、その能否の判断を付けるのが難しいのです。既に無能なことが判りながら、役職を元のままにしておく。臣は愚かにも、その深い意図が読みとれません。
 ある人は言います。
「方平は怯えきって失敗したが、結果としては過剰に防御したに過ぎない。もしもこれを罰したならば、今後、辺臣達は、敵の来寇を聞いても防備をしなくなってしまう。」と。
 しかし、臣はそうは思いません。
 いわゆる防備とゆうものは、平居無事の折にその将佐を選び、兵卒を鍛え、堅固な城壁を築き、兵器を鋭利に研ぎ澄まし、間諜や斥候を放って敵の動向に精知することです。朝夕の間、常に敵襲のような想いを無くさないことです。このようにすれば、猛禽のような敵も、どうして国境を侵せましょうか。万一侵したとしても、安座して撃退することができます。何でこのように狼狽しましょうか!
 方平が秦鳳に居る間、ただ毎日を傲慢に送るばかりで、下情には曉通せず、屋敷からは一歩も出ないで、皆は「こんな男なら、いくらでも欺ける」と噂していたと聞きます。ましてや敵国の実状など、方平がどうして知りましょうか!
 こうゆう次第ですから、一旦虚報が入っただけで慌てふためいてしまったのです。挙げ句の果ては諸郡を驚かせ、上は朝廷まで動かしました。これを罰せずにいるのなら、典刑は何の為にあるのでしょうか?
 臣がこのように上奏して止まないのも、方平が何の軍備もしなかったことを責めているのです。彼が軍備を行ったことを責めているのではありません。
 どうか、朝廷では臣の言葉を察し、方平の罪を明らかにし、遠方へ飛ばして下さい。それによって、辺臣達の戒めとするのです。彼等が軍備に精を出しますように。傲慢怠惰に暮らしたら、方平のような憂き目に遭うと恐れますように。
 謹しみて、具に状奏いたしました。伏して勅旨をうけたまわります。

 この論旨は、東莱博議の上述の文と同一である。そして、曾公亮の論と比べてみても、こちらの方が筋が通っている。ここに至って、張方平の左遷にも得心がいった。
 ただ、当時の辺臣達はどう思ったのだろうか?「続・資治通鑑」では、上述のように記載されている。司馬光の上奏文はどうして記載されなかったのだろうか?
 曾公亮の言葉も正論である。深く考えずに端から経緯だけを眺めれば、軍備を整えて懲罰を受けたとしか思われない。だから、懲罰を恐れる人間は、絶対に軍備をしなくなる。
 しかし、司馬光の真意はもとっ深い。そう、深すぎる。ましてや、その上奏文を削除されたなら、この結果から、誰がその真意を納得できようか!
 仁宗皇帝がこの上奏文に納得して張方平を左遷したのなら、その理由を明確に告知しなければならなかった筈だ。そうでなければ、誤解されてしまうだろう。だが、朝廷が各辺臣へ明確な告知を行ったのならば、どうしてそれが歴史書から削除されてしまったのだろうか?
 現実に、過去から何かを悟ろうとゆう想いでこの書を読めば、仁宗皇帝のこの懲罰は、単なる反面教師にしかならない。しかし、そもそも「続・資治通鑑」は、そのような想いで読むことを意図して書かれた書物なのだ。
 多分、この上奏文は、朝廷にしまわれ、多くの朝臣達は読まなかったのだろう。でなければ、いやしくも「続・資治通鑑」と名乗る書物が削除する筈がない。だが、もしも告知されなかったのならば、凡俗の徒が、これだけの結果から、どうやってあれだけの深い想いを汲み取れるだろうか?
 結局、司馬光の、ひいてはそれを踏まえた仁宗皇帝の心意は伝わらず、この人事は一罰百戒の実がなかったばかりか、却って弊害さえ生まれたものと推測できる。辺境の将帥達は、防備に力を込めることを懼れるようになった事だろう。
 東莱博議にせよ、司馬光の上奏文にせよ、彼等の見識は深い。見識が深いだけに、これを明確に告知しなければ、凡人はその真意を理解し得ない。
 仁宗皇帝が、これらの上奏文を採ったのは、さすが明哲を称されるだけのことはある。しかし、自分一人が納得するだけで、その真意を広く伝えようとしなければ、却って、愚者よりも始末に負えない結果となってしまうこともありえるのだ。