書経を論ず。
 
「史記、商君伝」を読んだ。
 商鞅は、法令を簡素にし、秦国の風俗を変え、政治についてとやかく口にする庶民数千人を誅殺し、太子の師を入れ墨の刑に処し、太子の守り役を殺した。このような行為の後に、始めて法令が厳格に施行されたのである。けだし、勇気があって決断力があると言わざるを得まい。
 彼は言った。
「その事業を始める時に、世俗の民の言うことなど考慮してはいけない。ただ、良い結果を出して、彼等を豊かにしてやればよいのだ。天下の人々が、各々勝手に自分の知識を述べ、自分の学問に固執し、天子の行為について云々と口にすれば、結局事態は紛糾し、何一つ成し遂げることができないものだ。」 

 だが、書経の三代の項目(堯・舜・禹の頃)を読むと、これとは全く違う。
 堯や舜や禹が、それまでの風俗を矯正しようとした時には、その理由を天下へ告知した。懇切丁寧に説明して厭きることを知らず、天子の御心を天下全ての民に十分理解して貰おうと努力したわけであるし、反論が出れば十分に吟味し、天下の心が一つになった後に、始めて実行に移したのである。その表現にしても、ちっとも難しい事は言わず、まるで庶民が相談して是非を煮詰めているようだ。
 だから、私は愚かにも、始めてこれを読んだ時、疑ったものだ。
「こんな濡滞迂遠なことでは、何一つ決定できないのではないか、」と。
 だが、天下の人々は悦んでこれに従い、成果が出るまで努めて止まない覚悟を示した。
 一旦発布されると、紛々とした異論など、どこからも出ない。これこそが王者である。
 真の王者である堯の時代には、君臣の心が通い合っていた。いつも喜びに満ちあふれ、溝がなかった。朝廷の中では阿吽で心が通じており、まるで朋友のように親しみ合っていた。だから、君臣で是非を論じ合って曲直を求めたというのも、ちっとも不思議なことではないのだ。 

 やがて、湯王や武王が討伐をする頃になると、何故戦わねばならないのかとゆう自らの所見を何度も繰り返し述べて、天下へ明示した。これも又、そうしなければならない理由があった。
 この頃になると、既に天下は発達しており、君臣の間はその地位に格段の開きが顕れた。主君が何か望んだ時に、匹夫匹婦が天下へ唱えた異論が御上の意見と齟齬を来したら、それは民の心を乱して、彼等は法令に頷かないだろう。だが、そんな時、主君は刑罰で脅しつけることができるのだ。天下の誰が敢えて逆らえようか。しかし、そのような時にも、主君は悠々として静かに下を諭し、自分を信じさせた上で、従わせたのである。この王者の心がなければ、一体誰が、不満を持たずに主君へついて行けるだろうか? 

 盤庚が遷都する時、天下の人々は皆、うめき声を上げて鼻を鳴らした。そこで盤庚は言ったのだ。
「盛徳明聖なる先王の時でさえもなお、五回も遷都して今日に至っている。今、古のその行事を継承しなければ、汝等が天から見捨てられてそれを救う術さえなくなることを懼れるのだ。」
 だが、これだけでは民が従うのに不十分ではないかと不安がり、更に続けた。
「汝等が我と心を一つにしなければ、我が先祖の御霊が、我々へ罰を与えるであろう。汝等の祖父や父は、我が先代へ対して告げたのだ。『我等が子孫が、妄に逆らいましたら、どうか誅戮をお与え下さい。』と。」
 ああ、民の頑迷の心を開かせる為にこれを諭すのを当然のことと考え、これ程つまびらかに説いたのである。 

 しかし、商君はこうではない。最終的に民へ便宜を与えされすれば、どんなことにも文句は言わせないと決めつけ、衆人からは意見を求めず、法令を発布する理由については一切天下へ告諭しなかった。にも関わらず、その治世は立派な成果を挙げたのである。
 その実績を見てしまったものだから、後世の人間は、評するようになった。
「三代の政治は優柔不断で、決断が遅い。」、と。
 だが、これは王者と覇者の相違に過ぎない。
 三代の主君達は、民を蔑ろにして欺くことに忍びなかった。だから天下に事件が起これば、これを百官と議論し、彼等の意向を観た。そして、それが採用できないようならば、反復してこれを諭し、その説を推し極めて説得した。主君がこのようであったからこそ、民は主君に親しみ、愛したのである。ああ、これこそ王者と覇者の違いなのだ。