兵を論ず

 

(史実)

 隠公五年、鄭が衛を攻撃した。衛は、燕国を率いて鄭を伐った。
 鄭は、祭足、原繁、洩駕の三軍を敵の前に布陣した。その一方、曼伯、子元へ制国の軍を統率させ、密かに敵の後方へ回らせた。
 燕国は前方の三軍に気を取られて制の動きに注意していなかったので、二公子は制の軍を率いて燕を攻撃し、これを撃退した。

 隠公九年、鄭と戎が戦った。
 この時、子突が鄭の荘公へ言った。
「威勢は良いが度胸のない人間を先陣として、戦ったらすぐに逃げさせましょう。我が君は三段構えに兵を伏せてお待ち下さい。
 戎は軽率で統制されておらず、貪欲で団結心がありません。勝ち戦には功を譲らず、負け戦には友を救わない質ですから、先鋒が勝ったと見れば必ずや競って進み、伏兵が現れたと見れば必ずや我先に逃げるでしょう。そうなっても後続の者は救けません。そうなれば、あとは我等の為すがままです。」
 この策が採用され、鄭は戎を大いに破った。

 この他、類似のことは多数在り。くだくだしいので省略する。
 なお、宋の襄公については、「宋の襄公、諸侯を合わさんと欲す」参照。

 

(東莱博議)

 兵法は君子の得意技で、小人が苦手とするものである。これは必然の理なのに、世の中の人間は、誰もこれを知らない。
 その証拠に、私がかつてそう言った時、兵法上手の人間が勃然として反論した。
「君子は、どうして君子と呼ばれるのか?」
 私は答えた。
「誠実だからこそ、である。」
「それでは、小人はどうして小人と呼ばれるのか?」
「詐りが多いからだ。」
「そうだろうが。だからこそ、兵法は小人の得意技で、君子が苦手とするものなのだ。なぜなら、万物は皆、詐りを賤しむが、戦争の時だけは詐術を尊ぶのだから。
 君臣が互いに欺き合えば、国が危ない。親子で欺き合えば、家庭が崩壊する。兄弟で欺き合えば親からも見放され、朋友が欺き合えばつき合いは薄くなるし、商売人が欺けば客から見放される。しかし、戦争の時だけはそうではない。敵を小さく欺けば小勝を得、大きく欺けば大勝する。小人は詐術に巧みである。だから、これを戦争に活用すれば成功するし、詐術の苦手な君子は戦争も又苦手なのだ。
 曼伯からこの方、多くの戦争で、多くの人間が勝ちを収めてきた。その経緯は様々だが、皆、相手を欺けたのが、その勝因となったのだ。もしも彼等が君子長者の道を標榜して詐術を行わなければ、どうして大功を建てられただろうか。
 だから、儒家の小人は、兵家の君子である。兵家の君子は儒家の小人である。あの区々たる忠義信誠の輩なんぞが、どうして孫呉の門を称せようか。」
 だが、私は言い返した。
「吾は理を言ったのだ。それに対して、君は過去の事実を上げて反論した。だが、その事実を、私の理の論証としよう。私は益々確信を深めた。君子でなければ戦争などできないのだ。春秋の諸子が一日の功を収めることができたのは他でもない、ただ単に、小人と小人が戦ったからに過ぎないのである。もし彼等が本当の君子と戦ったならば、鄭楚秦晋十余国の軍隊を一つに集めて、曼伯子突等十余人の知謀を兼ね備えた将軍に指揮させたとて、私は談笑のうちに撃破して見せるぞ。」と。
 別に私は、自分の才能を誇ろうと大言壮語しているのではない。物の理として、当然そうなってしまうのだ。
 大体、曼伯や子突が戦った燕や戎が君子だろうか?小人の極みではないか。だからこそ、彼等の策に陥ったのだ。それ故、私は、小人が小人と戦ったと言ったのだ。

 君子とは誠実な人間である。だから、君子が軍を動かせば、その誠を全てに於いて溢れさせる。
 誠実な人間は軽率ではない。敵が誘い出そうとしても、どうしてそんな誘いに乗ろうか。
 誠実な人間は貪欲ではない。敵が餌で釣ろうとしても、どうして釣り出せようか。
 誠実な人間は乱れない。敵がこれを乱そうとしても、どうして乱せようか。
 その誠実さで部下を慰撫すれば、部下は誰も疑わない。反間工作でも惑わされない。
 誠実に防御に勤しめば、部下は誰も怠らない。奇襲でも誤らせることができない。
 あの小人達の勝因は、敵の軽率さにつけ込むか、貪欲につけ込むか、騒々しさにつけ込むか、猜疑心につけ込むか、怠惰につけ込むか。だが、一つの誠を確立させれば、五患は全て除かれる。犀も角を振り立てる隙がなく、兵もその刀を投じる所がなく、曼伯子突の輩も詐術を使いようがない。

 いや、どうしてただ曼伯子突の輩ばかりだろうか。たとえ古来から有名な兵法者を召集し、その智恵を集めて百を越える詐術を弄そうとも、君子はこれに対して、ただ一つで対峙する。謀略が千を越えようとも、君子はただ一つでこれを待つ。万の詐術に対しても、たった一つで撃退できる。
 敵の詐術は、万を越えてもまだ足らぬ。我の誠は、たった一つで余りあり。敵は常に労し、我は常に逸す。敵は常に動き、我は常に静止する。動がどうして天下常勝の道だろうか!
 だからこそ、天下によく兵を用いる者は君子しか居ないのである。

 善く兵を用いる者は、もとより君子しか居ない。しかし、史書を閲するに、古より建国の功労者には、入れ墨者や盗賊が相望んでいる。それに対して宋襄、陳余などの連中は、その仁義のせいで天下の物笑いとなっている。これはどうゆう訳だろうか?
 答えましょう。

 そもそも、小人の術を尽くすから、小人の名に恥じないのである。それなら、君子の道を尽くす人間のみが、君子の名に恥じないことになる。
 世の、いわゆる小人達は、小人の術を極め、まさにその名に恥じない人間ばかりだ。だが、世の、いわゆる君子とゆう連中は、その道を体得しても居ないのに、君子の名を僭称する人間ばかりである。
 偽君子のくせに真の小人と対峙し、一日の誠を恃んで、百年の詐術を破ろうとする。これでどうして敗れずに済もうか!

 斧を挙げて木を伐った。そして木を切り倒せなかった時、「斧が鈍っていた。」と言うのなら、正しい。しかし、斧では木を伐り倒すことができない。」と言うのは間違っている。水を注いで火にかけても、消火できなかった時、「水か少なかった。」と言うのは正しい。しかし、「水では火を消せない。」と言うのは間違っている。
 どうして宋襄の輩などを挙げて、君子が戦争下手だなどと疑えようか。