六鎮の乱(その三)
 
各地の動乱 

 大通元年(527年)、正月。東清河郡で山賊が群起した。そこで孝明帝は、斉州長史の房景伯を東清河太守とした。
 ところで、郡民の劉簡虎は、かつて房景伯に無礼を働いたことがあった。今回、彼が太守となったので、劉簡虎は一家総出で逃げ出した。房景伯はこれを追捕したが、処罰せず、却って劉簡虎の子息を西曹掾に抜擢し、山賊達を説得させた。山賊達は、房景伯が旧恨を水に流したのを見て、皆、降伏してきた。
 ここで、房景伯について語ろう。
 房景伯の母親は崔氏。彼女は経典に精通し、明識があった。
 ある時、貝原の夫人が訴え出た。
「私の息子は親不孝者です。」
 房景伯が母へそれを伝えると、崔氏は言った。
「『名を聞くは、顔を見るに如かず』と聞きます。山民は礼儀を知らないもの。どうして深く責めることができましょうか!」
 そこで、その母子を呼び出した。そして、母親は崔氏と共に寝起きさせ、房景伯が普段通り崔氏に仕える有様を、彼女の息子に見せつけた。訴えられた親不孝者は、旬日も経たないうちに従来の行いを後悔し、母と共に帰りたいと願い出た。だが、崔氏は言った。
「顔を見れば慚愧していますが、心底まで懲りてはいませんね。まだまだここに残しなさい。」
 こうして二十日も経つと、親不孝者は額から血が流れ出るほど強く土下座して帰してくれと頼み込み、その母親も泣いて頼んだ。ここに至って、母子を家に帰してやったが、この男は、それ以来、評判の孝行息子に生まれ変わった。 

 七月、陳郡の住民劉獲と鄭弁が西華にて造反し、天授と改元した。彼等は、既に造反して東豫州を包囲していた湛僧智と連合した。
 朝廷は、東豫州刺史曹世表を東南道行台に任命し、彼等を討伐させた。後任の東豫州刺史には、源子恭が任命された。
 この時、賊軍は強く、官軍は敗残兵の寄せ集めに過ぎなかったので、諸将は戦おうとせず、籠城を欲していた。だが、曹世表は背中に腫れ物ができていたにも関わらず輿に乗って出陣し、統軍の是云寶を呼び出して言った。
「湛僧智が敢えて深入りしたのは、東豫州で民望を集めた劉獲と鄭弁が内応すると期待してのことだ。今、劉獲は兵を率いて湛僧智を迎えに来ている。その軍は、ここから八十里の所にいるようだ。不意を衝けば、撃破できる。劉獲が敗北すれば、湛僧智は自ら逃げ出す。」

 そして、選りすぐりの兵と馬を是云寶へ与えた。是云寶は日暮れ時に城を出て、その夜明けに、劉獲を襲撃した。大勝利を収め、徹底的に掃討し、余党を悉く平定した。これを聞いて、湛僧智は逃げ出した。

 さて、僧弁は、もともと源子恭と親しかったので、彼の許へ逃げ込んだ。源子恭は僧弁を匿ったが、曹世表は将吏を集めて源子恭を面責し、僧弁を捕らえて斬った。 

  

親征 

 二月、秦賊が潼関に據った。
 三月、孝明帝は、親征を表明して戒厳令を布いたので、賊徒は逃げ出した。こうして官軍は潼関を回復したので、西討のかわりに北へ親征すると詔が降りた。
 しかし、結局親征は行われなかった。 

  

楽安王の造反 

 葛栄は、長い間信都を包囲していた。三月、朝廷は、金紫光禄大夫の源子邑を北討大都督に任命し、救援に向かわせた。
 七月、相州刺史楽安王鑑と北道都督裴衍へ、信都を救援に向かわせた。
 楽安王鑑は、魏へ降伏してからいろいろなことがあったので、密かに見切りを付けていた。遂に、業(「業/里」)に據って造反し、葛栄へ降伏した。
 八月、朝廷は源子邑、李神軌、裴衍へ、業の攻撃を命じた。
 源子邑が湯陰まで来た時、楽安王鑑の弟の斌之が夜襲を掛けたが、勝てなかった。源子邑は勝ちに乗じて進軍して業を包囲し、遂にこれを抜いた。楽安王鑑を斬って、その首を洛陽へ送る。この功績で、源子邑は拓跋の姓を賜下された。
 朝廷は、源子邑と裴衍へ、葛栄の討伐を命じた。 

  

蕭寶寅、造反 

 蕭寶寅が敗北したので、司は死刑を求刑したが、結局、庶民へ貶すよう詔が降った。
 四月、ヨウ州刺史楊椿が病気になり退職を請うたので、蕭寶寅は再び登庸され、都督ヨウ・ケイ等四州諸軍事、征西将軍、ヨウ州刺史、開府儀同三司、西討大都督に任命され、関以西は彼の指揮下へ入った。
 楊椿が郷里へ帰った後、たまたま、息子の楊立が所用で洛陽へ行く事になったので、楊椿は言った。
「当今のヨウ州刺史は、蕭寶寅以上の適任者はいない。しかし、その上に重臣を派遣して、彼の行動を掣肘させるべきである。それなのに、彼へ全てを委ねるとは!これは聖朝百慮の一失だ!それに、蕭寶寅はたかが刺史程度の地位を栄誉とする人間ではない。それなのに、この州を得た時、奴は甚だ喜悦した。その上、奴の賞罰は常のあり方を無視している。これは、心中謀反を企んでいるに違いない。お前は洛陽へ行くのだから、我のこの言葉を陛下や太后や宰輔へ伝え、長史、司馬、防城都督を派遣させよ。関中の安泰は、この三人にかかっている。もしも派遣しなければ、必ずや深憂が生じるに違いない。」
 楊立は、孝明帝と胡太后へこの旨を伝えたが、聞かれなかった。 

 九月、秦州の城民杜粲が、莫折念生の一族を皆殺しにし、州の治政を専断した。
 南秦州の城民辛深も又、州を乗っ取り、蕭寶寅へ降伏した。朝廷は、蕭寶寅を尚書令とし、元の領地を彼へ返還した。
 蕭寶寅がケイ州で敗れた時、ある者は言った。
「洛陽へ帰って、罪を請うべきです。」
 別の者は言った。
「関中に留まって自立するべきです。」
 そして、行台都令史の馮景は言った。
「兵を擁したまま留まっていては、謀反の言いがかりを付けられても、反論できません。」
 蕭寶寅は、従わなかった。しかし、累年従軍して多くの軍費を費やしながら、結局大敗北を喫したのだから、内心不安だった。朝廷も又、彼のことを猜疑した。 

 中尉の麗道元は、もともと厳格な人間と評判だった。
 さて、司州牧の汝南王悦には、丘念とゆう懐刀がいたが、彼は権力を笠に着て横暴専恣にふるまっていた。麗道元は、丘念を捕らえて投獄した。汝南王が胡太后へ泣きついたので、胡太后は丘念を助けようとしたが、麗道元は丘念を殺し、汝南王を告発した。
 この頃、蕭寶寅の謀心が露わになっていた。そこで汝南王は、麗道元を関右大使とするよう上奏した。
 その一件が蕭寶寅の耳に入ると、甚だ懼れた。彼のもとには、長安で育った軽薄な子弟が大勢居たが、彼等は皆、挙兵を勧めた。そこで蕭寶寅が柳楷へ尋ねると、柳楷は答えた。
「大王は、斉の明帝の子息ではありませんか。天下の宿望を担っております。今日の挙兵こそ、衆望に適う業。それに、こんな歌が流行っております。『鸞が十子を生んだが、九個の卵は潰れてしまった。一個だけ潰れず、関中が乱れる。』と。大王が関中を統治すること、なんの疑いがありましょうか!」
 そこで蕭寶寅は、部将の郭子恢を派遣して、麗道元を中途で攻め殺した。そしてその屍を回収し、「白賊(鮮卑の賊徒)に殺された。」と公表した。又、自分の無実も表明して、楊椿親子の讒言と称した。
 蕭寶寅の行台郎中の蘇湛は、病気で自宅療養をしていた。蕭寶寅は、蘇湛を陰謀に加担させようと考え、彼の従兄弟の姜倹を派遣した。
 姜倹は言った。
「梁から亡命してきた元略が、大いに寵を受けているが、彼は実は蕭衍(梁の武帝)の密命を受けた間者なのだ。麗道元が派遣されたのも、もとを辿れば奴の讒言。これでは我等の将来はどうなるか判らない。座して殺されるのも馬鹿げたことではないか。今、保身の為の計略に走ったら、魏の臣下ではいられなくなる。こうなれば、死生も栄辱も卿と共にしたいのだ。」
 聞いて、蘇湛は号泣した。
「なぜ泣くのだ?」
「我が一族が皆殺しにされる。これが泣かずにいられようか!」
 泣き続けた後、姜倹へ言った。
「我が為に、斉王(蕭寶寅)へ伝えてくれ。『王はもともと、懐へ入った窮鳥ではありませんか。魏の朝廷を頼ったところ、朝廷は王へ羽翼を与え、このように栄寵させてくださった。それなのに、忠を尽くし徳に報いることもなく、欲望に流される。無識の言を惑信し、敗残兵で関を守って鼎を問うとは。今、魏の徳は衰えてこそいるが、天命は未だ改まってはいない。それに、王の恩義はまだ民へ行き渡ってはいないのです。敗北のみが予見され、成功の要因は一つもありません。臣は王の為に一族を全滅させることはできません。』
 この返答を聞いても、蕭寶寅は再び使者を派遣した。
「我が死を救えるのは汝だけだ。我が計略を洩らして死地へ追いやってくれるな。」
 蘇湛は答えた。
「およそ大事を謀るには、天下の奇才と共に従事しなければなりません。それなのに、今、長安の博徒達と事を謀っています。どうして成功しましょうか?大王の居城に荊棘が生えることを恐れます。どうか、故郷へ帰らせて下さい。この病気で卒することが、私の望みなのです。」
 蕭寶寅は、もともと蘇湛を重んじていた。どうしても加担させられないと知るや、故郷へ帰してやった。
 甲寅、蕭寶寅は斉帝と自称し、隆緒と改元した。領内へ大赦を出し、百官を置く。 

 さて、北地功曹の毛鴻賓は、都督長史毛遐の弟だった。この兄弟はテイやキョウを率いて起兵し、蕭寶寅軍を拒んだ。蕭寶寅は、大将軍の廬祖遷に攻撃させたが、毛遐に殺されてしまった。
 蕭寶寅は、南郊で神を祀っていたが、即位の式典も終わらない内に敗報を受けて、顔色を変えた。そして、隊伍も整えずにあたふたと帰ってしまった。
 姜倹を尚書左丞に任命し、腹心とする。
 この時、周恵達が蕭寶寅の使者として洛陽に在住していた。役人が彼を捕らえようとしたが、周恵達は長安へ逃げ帰った。蕭寶寅は、周恵達を光禄勲とした。
 丹陽王蕭賛は、蕭寶寅の挙兵を聞くや、恐れて逃げ出した。途中で捕まって洛陽へ連行されたが、孝明帝は陰謀に関与していなかったとして慰め、釈放した。
 行台郎の封偉伯は、関中の豪族達と共に挙兵して蕭寶寅を討とうとしたが、事前に事が洩れて殺された。
 朝廷は、尚書僕射の長孫稚を行台として、蕭寶寅討伐を命じた。 

 正平の住民薛鳳賢が造反した。彼の一族の薛修義も又、河東で兵を集めた。彼等は塩池に據り、蒲坂を攻撃して蕭寶寅と呼応した。朝廷は、都督の宗正珍孫に、これを討伐させた。
 十二月、秦州の民駱超が杜粲を殺して魏へ降伏した。 

  

信都陥落 

 葛栄は春から冬まで信都を包囲していた。冀州刺史元孚は将士を励まして拒戦したが、兵糧が尽き、援軍も来ない。
 十一月、遂に信都は陥落した。賊徒は孚を捕らえ、城民を外へ追い出した。追い出された城民達は、七・八割が凍死した。
 孚の兄の元裕は防城都督となっていた。葛栄が将士を集めて戦時裁判をした。すると、孚と元裕は互いに自分の咎を主張し、相手を庇って殺されようとした。その有様を見て都督の潘紹等数百人が土下座して命乞いをしたので、葛栄は言った。
「これらは皆、魏の忠臣義士である。」
 ここにおいて、同じく五百人ほどが殺されずに済んだ。 

 朝廷は、源子邑を冀州刺史として、葛栄討伐を命じた。すると、裴衍が同行を願い出たので、許可された。
 源子邑は上表した。
裴衍が行くのなら、臣は留まります。臣が行くのなら、裴衍は留めて下さい。臣と裴衍が同行すれば、必ず敗北します。」
 しかし、聞かれなかった。
 十二月、官軍は陽平にて、葛栄軍の襲撃を受けた。その兵力は十万。源子邑も裴衍も戦死した。
 冀州が陥落して源子邑が戦死したと聞き、相州は大騒動となった。だが、相州刺史の李神が自若として将士を慰撫し励ましたので、皆は力を合わせた。
 葛栄は余勢をかって相州を攻撃したが、ついに勝てなかった。 

  

定州陥落 

 北道行台楊津が守る定州城は、鮮于修礼と杜洛周の勢力圏の間にあり、両者から攻撃を受けていた。しかし楊津は、兵糧を蓄え器械を造り、機会を掴んで拒戦したので、賊徒は勝てなかった。
 楊津は密かに使者を派遣し、賊党へ鉄券を与えて説得した。すると、楊津へ内応しようとする者が現れ、彼等が楊津へ書を送った。
「賊が城を包囲しているのは、城内の北人と呼応しようと考えているのです。城内の北人を皆殺しにして下さい。さもなければ、後々の患いとなりましょう。」
 楊津は、城内の北人を全員収容したが、一人も殺さなかったので、衆人はその仁慈に感じ入った。
 葛栄が鮮于修礼を倒してその部下を掌握した時、楊津へ使者を送った。
「降伏すれば、司徒にしよう。」
 だが、楊津は使者を斬り殺し、三年に亘って城を固守した。
 杜洛周がこれを包囲した時、魏は救援軍を派遣できなかった。楊津は、子息の楊遁に包囲を突破させ、柔然の頭兵可汗へ救援を求めた。楊遁は日夜涕泣して援軍を請う。とうとう、頭兵可汗は一族の吐豆發へ一万の精騎を与えて派遣した。しかし、廣昌にて賊軍が隘路を塞いでいたので、彼等は引き返した。
 二年、正月。楊津の長史の李裔が賊軍を城内へ引き入れた。賊徒は楊津を捕らえ、煮殺そうとしたが、結局、命だけは助けてやった。
 定州が陥落すると、瀛州刺史元寧も、杜洛周へ降伏した。 

 二月、葛栄は杜洛周を攻撃してこれを殺し、彼の部下を併合した。
 三月、葛栄は滄州を落とした。刺史の薛慶之は捕われ、民の八割方が死んだ。 

  

蕭寶寅の没落 

 蕭寶寅は、馮寅を包囲したが、落とせないでいるうちに長孫稚の軍が恒農までやって来た。
 行台左丞の楊カンが、長孫稚へ言った。
「昔、曹操が潼関の韓遂・馬超と対峙した時、彼等の才覚は曹操には遠く及びませんでした。しかし、その勝敗がなかなかつかなかったのは、彼等が要害に據っていたからです。今、賊徒の守備は固く、曹操が生き返ったとても、容易には落とせますまい。ここはまず、北進して蒲反を取り、黄河を渡って西進し、敵の腹心へ入るべきです。兵を死地へ置けば、華州の包囲は戦わずして解け、潼関の守備兵も後顧を恐れて逃げ出します。支節が既に解ければ、長安は座して取れるでしょう。もしも愚計を採用していただけるのなら、殿の為に先陣を承りましょう。」
 すると、長孫稚は言った。
「子の計略は素晴らしい。しかし、今、薛修義が河東を包囲し、薛鳳賢は安邑に據っているので、宗正珍孫は虞坂を守ったまま進軍できないでいる。どうやって進軍するつもりか?」
「宗正珍孫は匹夫野人。運良く将軍になりましたが、元来彼は人から使われる人間で、人を使う裁量はありません。ですから、彼が進軍できない事は、賊軍が強力である証拠にはなりません。
 河東の要は蒲反です。ここいらの人間は、大半が郡東の出身。薛修義は士民を駆り立てて郡西を攻撃していますが、士民の家族は皆、元の村に残っております。官軍が来たと聞けば、彼等は家族を心配し、戦意も萎えて自ら潰れます。」
 そこで、長孫稚は、子息の長孫子彦と楊カンへ騎兵を与えて北進させた。
 彼等は石金壁に據り、ここで楊カンは宣伝した。
「ここにて歩兵の到着を待ち、更に民の動向も観る。」
 そして、降伏した者は故郷の村へ帰してやったが、その時、彼等へ伝えた。
「官軍が来たら、狼煙を三回挙げる。そしたら、お前達も狼煙を挙げてこれに答えよ。狼煙を挙げない村は、賊の一味と見なし、殲滅して行くぞ。」
 この話は、たちまち村々へ伝わった。いざ、官軍が来て狼煙を挙げると、降伏していない村でも、偽って狼煙を挙げた。おかげで、僅かの間に狼煙は数百里に亘って挙がっていった。城を包囲していた賊徒は恐怖に駆られて離散した。薛修義もまた逃げだしたが、やがて薛鳳賢と共に降伏してきた。
 丙子、長孫稚は潼関を破り、河東へ入った。
 この時、塩池の塩税を撤廃するとゆう詔が出たので、長孫稚は上表した。
「塩池は、天賦の財貨。塩池は京畿にも近く、大事な金藏、宝は守るべきです。今、四方で動乱が起こり、府藏は枯渇しております。冀州や定州は戦乱続きで常調の絹を徴収することができません。ですから入用の時は備蓄から出しますので、官庫から取り出す事はあっても入る事はありません。塩税を絹に換算すれば、年間で三十万匹の収入に匹敵します。これは、冀州と定州から徴収される調の絹に相当します。今、もしもこれを撤廃するのは、京畿の二州を失うに等しい打撃です。
 臣は先程、朝廷の旨に逆らい、潼関を討つ前に河東を攻撃しましたが、これは長安よりも蒲反を大事と見たのではありません。塩池を失えば、三軍の兵糧が欠乏することを恐れたのです。天が魏を助け賜うなら、このような政策は中途で頓挫するでしょう。
 昔、漢の高祖は泰平の時で兵糧が欠乏していないにも関わらず、なお、塩官を設置して、その職務を庇護しました。これは民と利益を争ったのではありません。この利益が動乱を生み出すことを、未然に防いだのです。ましてや今は国用が不足しております。租も調も賊徒に奪われ、朝廷には入りません。どうか、塩税は従来通り徴収し、更に後の時代を待たれて下さい。」
 蕭寶寅は部将の侯終徳に毛遐を攻撃させた。だが、郭子恢等が屡々魏軍に敗北しているうちに侯終徳は将来を見限り、軍を返して蕭寶寅を攻撃した。
 侯終徳軍が白門まで来て、蕭寶寅は始めて侯終徳の寝返りを覚った。蕭寶寅はこれと戦ったが破れ、一族や衛兵百余騎を率いて後門から脱出し、万俟醜奴のもとへ逃げ込んだ。
 万俟醜奴は、蕭寶寅を太傅にした。
 二月、朝廷は長孫稚を車騎大将軍、開府儀同三司、ヨウ州刺史、尚書僕射、西道行台とした。 

 三月、孝明帝が崩御した。爾朱栄が、胡太后と彼女が擁立した皇帝を打破し、孝荘帝を即位させた。 

 七月、万俟醜奴が天子と自称し、百官を設置した。この頃、ペルシャが魏へ獅子を贈ろうと使者を派遣したが、万俟醜奴はその使者を抑留し、神獣と改元した。 

  

剣よりも棒 

 六月、葛栄軍は兵糧が欠乏した。そこで、麾下の任褒に、沁水で略奪をさせた。朝廷は、元天穆を大都督東北道諸軍事に任命し、部下に宗正珍孫等をつけてこれを討伐させた。
 さきの幽州平北府主簿の刑杲が、流民十万を率いて、青州で造反し、「漢王」と自称した。朝廷は、征東将軍李叔仁を車騎大将軍、儀同三司として、討伐に向かわせた。
 辛亥、孝荘帝が詔を出した。
「朕は自ら六戎を率いて燕、代の掃討へ向かう。」
 そして、大将軍爾朱栄を左軍に、上党王天穆を前軍に、司徒楊椿を右軍に、司空穆紹を後軍に任命した。葛栄は、相州の北まで退却した。
 八月、葛栄は兵を率いて業を包囲した。兵力は、号して百万。遊兵は汲を通過し、至る所で略奪を行っていた。爾朱栄は、これの討伐を願い出た。
 九月、爾朱栄は養子の肆州刺史天光を呼び、彼を晋陽へ留めて、言った。
「我が心が判るのはお前だけ。他の者は、我の権勢に媚びているだけだ。」
 そして、自ら七千の精鋭を率いたが、全ての兵卒へ、乗馬の他に添え馬を与えた。全速で前進し、侯景を先鋒にした。
 葛栄は、造反してから積年河北を横行していた。それに対して、今回の爾朱栄の兵力は余りに少なすぎたので、皆は必ず敗北するだろうと言い合っていた。
 これを聞いた葛栄は、大喜びで皆へ言った。
「多寡の知れた敵だ。皆、長縄を持て。全員縛り上げるのだ。」
 そして、業以北に数十里に亘って陣を布き、前進した。
 爾朱栄は、密かに山谷へ入って奇兵とした。この時、督将以上を三人一組にして、一ヶ所に数百騎を配置した。そして、各々へ軍鼓を鳴らさせ塵を上げさせた。敵に兵力を測らせない為である。又、騎馬戦では剣よりも棒の方が有効なので、軍士に棒を携行させて厳命した。
「戦闘になったら、敵を斬るな。棒で殴り倒せ。」
 戦士達は、奮い立った。
 爾朱栄は、自ら敵の後方へ出て、前後から挟撃し、大勝利を収めた。葛栄を捕らえ、残りの賊徒は悉く降伏した。
 賊徒は大勢である。降伏した賊徒をもしも分割したら、彼等は疑い恐れるだろう。そうして、再び造反するかも知れない。そこで、爾朱栄は彼等を好きなようにさせた。親戚同志が一ヶ所に集まるのも、故郷へ戻るも、ここへ留まるも、当人達の意志に任せたのである。賊徒達は大いに喜び、数十万の兵卒達は、たちまち四散した。
 彼等が遠くへ行ってしまってから、始めて各々の地方へ為政者を送り込んだ。才能のある人間は抜擢し、器量に従って官職を与えた。降伏した人々は安堵し、その適宜かつ迅速な処置に心服した。
 葛栄は、檻車へ入れて洛陽へ送った。こうして、冀・定・滄・瀛・殷の五州は悉く平定した。
 この時、上党王天穆の軍は、まだ朝歌の南にいた。穆紹、楊椿の軍はまだ出発さえしていなかった。それなのに、当の葛栄が既に滅亡してしまったので、彼等の出陣は中止となった。
 さて、鮮于修礼の麾下に、宇文肱という男が居た。彼は鮮于修礼に従って定州を攻撃し、唐河にて戦死した。彼の子息の宇文泰も鮮于修礼の軍中にいたが、鮮于修礼が死ぬと、葛栄に従った。今回、葛栄は滅亡したが、爾朱栄が宇文泰の才覚を愛で、統軍とした。
 乙亥、魏は大赦を下し、永安と改元した。
 辛巳、爾朱栄が大丞相、都督河北畿外諸軍事となった。又、彼の子息の爾朱文殊と爾朱文暢も王へ進爵した。爾朱栄の世子の爾朱菩提は驃騎大将軍、開府儀同三司となった。
 楊椿は太保しなり、城陽王徽は司徒となった。
 十月、葛栄は洛陽にて処刑された。 

  

余党鎮圧 

 征虜将軍韓子煕が刑杲を招諭した。刑杲は、偽って降伏したが、再び造反した。李叔仁が刑杲を攻撃したが、戦況不利で撤退した。 

 十二月、葛栄の残党韓楼が幽州にて造反し、北方が被害を被った。
 爾朱栄は、撫軍将軍賀抜勝を大都督として、中山へ派遣した。韓楼は、賀抜勝の威名を畏れ、南へは向かわなくなった。
 中大通元年(529年)、正月。于暉麾下の都督彭楽が二千余騎を率いて韓楼のもとへ逃げ込んだ。 

 三月、上党王天穆へ、刑杲討伐の詔が降った。費穆が前鋒大都督に任命される。
 上党王が刑杲を攻撃しようとした矢先、梁へ亡命していた北海王の入寇が噂された。そこで、朝廷で文武官を集めて協議すると、皆は言った。
「刑杲の方が、強大です。まず、こちらを攻撃しましょう。」
 すると、行台尚書の薛叔が言った。
「刑杲は兵力こそ多いのですが、鼠や犬のような連中で、遠大な野望はありません。それに対して北海王は帝室の一員で、大義を口にしております。放置しておくと、どのようになるか判りません。まず、こちらから攻撃しましょう。」
 しかし、諸将の大半は刑杲を先に攻撃したがっており、北海王の兵力が少ないので朝廷もこれを歯牙にもかけていなかった。そこで先に刑杲を攻撃して斉を平定し、その後軍を返して北海王を討伐するよう上党王へ命じた。
 こうして、上党王は兵を率いて東へ向かった。
 北海王と陳慶之は、敵の虚に乗じて進軍し、栄城を抜き、梁国まで進んだ。(これらの戦役については、「元入洛」にて詳述する。)
 四月、上党王と爾朱兆が刑杲を撃破し、刑杲は降伏した。刑杲は、洛陽へ護送され、斬られた。なお、爾朱兆は爾朱栄の義子である。 

 九月、大都督侯淵が、爾朱栄の命令で、薊にて韓楼を攻撃した。この時、侯淵の兵力は少なく、騎兵に至っては、わずか七百騎しかいなかった。ある者がそれを指摘したところ、爾朱栄は言った。
「侯淵には、臨機応変の才覚がある。それが彼の長所だ。もしも彼に大軍を与えたら、その長所が活かせない。少数を率いるからこそ、必ずや敵を撃破してくれる。」
 侯淵は、器械を揃え、堂々と宣伝しながら進軍した。
 薊へ百里と迫ったところで、賊帥の陳周が一万の兵を率いて攻撃してきた。侯淵は、隠れてこれをやり過ごし、背後から襲撃した。大勝利を収め、五千余人を捕らえる。だが、その捕虜を、全て釈放してやった。
 すると、左右が諫めた。
「大勢の賊卒を捕らえたのに、なんで釈放してやるのですか?」
 対して、侯淵は言った。
「我が軍は兵力が少ない。力攻めでは勝てぬ。だから、奇策を用いて敵を離間して勝ちを制するのだ。」
 そして、侯淵は、夜を徹して進軍し、明け方には薊城の城門を叩いた。すると韓楼は、釈放されて戻ってきた兵卒達は、実は侯淵へ内応していたのではないかと畏れ、城を棄てて逃げた。侯淵は、これを追いかけて捕らえた。こうして、幽州は平定した。
 侯淵は、平州刺史に抜擢され、范陽の鎮守を命じられた。
 話は前後するが、朝廷は征東将軍劉霊助に尚書左僕射を兼任させ、幽州の流民の慰労を命じた。彼は流民を率いて北進し、侯淵と共に韓楼を滅ぼした。劉霊助は行幽州事、加車騎将軍となり、幽・平・営・安四州行台となった。 

  

万俟醜奴鎮圧 

 同月、万俟醜奴が東秦州を攻撃して、これを抜いた。刺史の高子朗を殺す。
 二年、正月。万俟醜奴が関中で暴れ回った。爾朱栄は、武衛将軍賀抜岳に討伐を命じた。賀抜岳は、兄の賀抜勝へ私的に言った。
「万俟醜奴は強敵だ。これを攻撃して勝てなければ、有罪となる。しかし、もしも勝っても、嫉妬から讒言が生まれてしまう。」
 すると、賀抜勝は言った。
「爾朱氏の一人を大将にして貰い、その補佐を執るとゆう形に持ち込めばよい。」
 そして、賀抜岳の為に、爾朱栄に頼み込んだ。爾朱栄は悦び、爾朱天光を使持節、都督二ヨウ二岐諸軍事、驃騎大将軍、ヨウ州刺史として、賀抜岳は左大都督となった。又、征西将軍侯莫陳悦を右大都督とし、この両名を爾朱天光の副官とした。
 爾朱天光が出発した時は、ただ千騎を率いるだけだった。しかし、洛陽から西進するごとに兵や馬が補給された。
 この頃、蜀賊は天赤を占拠していたので、官軍の補給路が断たれていた。侍中の楊カンが先行して慰諭してが、賊徒は猜疑して降伏しない。官軍が潼関まで進んだ所で、爾朱天光は留まった。すると、賀抜岳が言った。
「蜀賊など、鼠のような連中。公が、そんな相手に遅疑したら、大敵に遭遇した時、どうやって戦われるのですか!」
 すると、爾朱天光は言った。
「今日の事は、全て卿へ委ねる。」
そこで、賀抜岳は蜀賊と戦い、撃破した。馬二千匹を捕獲し、壮建の士卒が大勢麾下へ入った。また、民から税の代わりに馬を徴発し、一万余匹を得た。
 だが、兵卒が少なかったので、爾朱天光は、まだ進発しなかった。爾朱栄は怒り、騎兵参軍の劉貴を派遣して、軍中にて爾朱天光を叱責した。百回の杖打の後、二千の兵卒を追加した。
 三月、万俟醜奴は自ら兵を率いて岐州を包囲した。麾下の大行台尉遅菩薩と僕射の万俟侏へ渭水を渡河させた。爾朱天光は、賀抜岳へ千騎を与えて救援に向かわせた。
 尉遅菩薩は二万の兵力で渭北に陣取った。賀抜岳は、軽騎数十を率いて川を挟んで尉遅菩薩と語った。賀抜岳が魏の国威を声高に宣伝すると、尉遅菩薩は省事を伝令に出した。すると、賀抜岳は怒って言った。
「我は尉遅菩薩と話しているのだ。お前は一体何様か!」
 言葉と共に弓を放ち、省事を射殺した。
 翌日、今度は百騎を率いてやって来て、再び川を挟んで賊徒と語った。宣伝合戦が終わると、賀抜岳は東へ進んだ。しばらく行くと浅瀬があり、馬でも渡れそうだった。すると賀抜岳は、馬を急かせて駆け出した。それを見た賊徒達は、賊軍が河を渡って攻撃してくることを恐れて賀抜岳が逃げ出したと思い、軽騎が飛び出して河を渡り始めた。だが、その場所には賀抜岳が伏兵を置いていたのだ。敵兵が河を半ば渡ったところで、伏兵がドッと攻め立て、賊軍は敗走した。
 賀抜岳は命じた。
「馬を下りた賊徒は殺してはならぬ!」
 それを聞いた賊達は、悉く馬を放ちやった。それに乗じて官軍は賊徒を捕まえる。三千人の賊徒が捕まり、馬も全て捕獲し、遂に尉遅菩薩まで捕らえた。そのまま渭水を渡ると、残されていた歩兵達が降伏してきた。その数は万余。ついでに、賊軍の輜重も全て収奪した。
 尉遅軍の全滅を聞いた万俟醜奴は、岐州を棄てて安定へ逃げた。爾朱天光はヨウから進軍し、岐州にて賀抜岳と合流した。
 四月、爾朱天光は軍を留め、馬を放牧させて、宣言した。
「今は暑い盛りだ。こんな時節に行軍はできない。秋の涼しくなるのを待って、進軍することにしよう。」
 万俟醜奴はこれを信じ、部下を散会させて細川にて農耕を行わせた。そして、大尉の侯伏侯元進に、柵を作らせた。その他、千人程度で小さな柵を作る者は大勢居た。
 賊軍が散会したことを見定めた爾朱天光は、夜半、疾風のように進撃した。夜明けには侯伏侯元進の柵を包囲し、これを抜く。この時捕らえた賊徒は全員釈放した。これが噂になると、諸柵は皆、降伏した。
 爾朱天光は夜を日に継いで進軍し、安定城下へ進んだ、すると、賊のケイ州刺史侯幾長貴が城を開けて降伏した。
 万俟醜奴は、平亭を棄てて逃げ、高平へ逃げ込もうとした。爾朱天光は賀抜岳に追撃を命じた。賀抜岳は、平涼にて賊軍に追いついた。そして、賊軍が陣立てをする前に、侯莫陳祟が単騎で賊中へ乱入して万俟醜奴を生け捕りにした。侯莫陳祟がそれを宣言すると、賊軍は総崩れとなった。
 爾朱天光は、高平まで進軍した。すると、城中では蕭寶寅を捕らえて降伏してきた。
 関中が平定されたので、魏は大赦を下した。洛陽へ連行された万俟醜奴と蕭寶寅は、町中で三日間さらし者となり、士女が集まって見物した。
 丹陽王蕭賛が、蕭寶寅の命乞いをした。吏部尚書の李神儁と、黄門侍郎の高路穆は、もともと蕭寶寅と仲が善く、彼を左右にしたかったので、孝荘帝へ言った。
「蕭寶寅が造反したのは、先代の話です。」
 やがて、王道習が洛陽へ戻って来たので、孝荘帝は尋ねた。
「外ではどんな噂が流れている?」
 すると、王道習は言った。
「蕭寶寅は、李尚書や高黄門と仲がよいので、命は助かるだろうと噂されています。ただ、蕭寶寅が造反したのは、確かに先代の時ですが、彼が謀反人万俟醜奴の太傅となっていたのは、陛下の御代ではありませんか?賊徒の大臣を誅殺しなければ、法が立ちません!」
 そこで、孝荘帝は蕭寶寅と万俟醜奴を殺した。 

  

乱の終焉 

 万俟醜奴が敗亡すると、ケイ・タクから霊州へ至るまで、賊の余党は次々と降伏してきた。ただ、賊の行台の万俟道洛だけは、六千人余りの部下を率いて山中へ逃げ込み降伏しなかった。
 この頃、高平は日照りが続き、馬へ与える草も欠乏したので、爾朱天光は城の東五十里まで後退し、都督の長孫邪利へ二百人を与えて原州の政治を執らせた。
 六月、万俟道洛は城内の民と密かに通謀し、長孫邪利を襲撃して、部下共々皆殺しとした。爾朱天光が諸郡を率いて駆けつけると、万俟道洛は討って出たが、敗北し、部下を率いて西方の牽屯山へ逃げた。
 爾朱天光は、長孫邪利が殺されたのに、万俟道洛を殺すことができなかった。これを聞いた爾朱栄は、爾朱天光のもとへ使者を派遣して、杖百討ちとした。又、爾朱天光の撫軍将軍とヨウ州刺史の地位は剥奪され、爵位も侯爵へ貶された。
 爾朱天光は、万俟道洛を追撃した。万俟道洛は、隴へ逃げ、略陽賊帥の王慶雲へ帰順した。万俟道洛は驍勇絶倫だったので、彼を部下にした王慶雲は、「我が事成れり」と大喜びし、水洛城にて皇帝を潜称した。百官を置き、万俟道洛を大将軍に任命する。
 七月、爾朱天光は隴へ進軍した。王慶雲と万俟道洛は城を出て戦った。この戦いで、爾朱天光の放った矢が万俟道洛の肱に当った。爾朱天光は、東城を抜いた。
 賊徒達は西城へ逃げこんだ。この城には水がなかったので、皆は渇きに苦しんだ。こうして降伏する賊徒も多かった。そして、その降伏者が官軍へ言った。
「王慶雲と万俟道洛は逃げ出そうとしています。」
 爾朱天光は、再び逃げ出されることを恐れ、使者を派遣して早く降伏するよう王慶雲ほ招諭し、言った。
「もしも決断できなければ、城中の主立った者と、よく協議することだ。明朝は役に答えを出しなさい。」
 王慶雲等は、これを承諾した。そうすれば官軍の警戒が緩むだろうから、今夜の間に逃げ出そうと考えたのだ。
 対して、爾朱天光は部下へ命じた。
「奴等は、水を欲しがっている。彼等が川の水を自由に飲めるように、少し陣を退きなさい。」
 賊徒達は大いに悦び、逃走しようとする兵卒はいなくなってしまった。
 又、爾朱天光は多くの木槍を造らせ、これを夜道に仕掛けて置いた。そして、兵も伏せたが、彼等に花輪や梯子を持たせて置いた。
 その夜、果たして王慶雲と万俟道洛は城から逃げ出したが、仕掛けられた槍で馬が傷つき、狼狽しているところを飛び出した兵卒達に捕まえられてしまった。その他の者は、降伏してきた。
 爾朱天光は、降伏してきた賊徒達を穴埋めにした。一万七千人が殺されたとゆう。
 ここに於いて、三秦、河、渭、瓜、涼、ゼン州は全て降伏した。
 賊軍を平定した爾朱天光は、略陽へ屯営した。彼の官職は恢復され、侍中・儀同三司が加えられた。賀抜岳はケイ州刺史となり、侯莫陳悦は渭州刺史となった。 

 秦州の城民と、南秦州の城民が、各々の刺史を殺そうと謀った。二人はそれを覚り、爾朱天光のもとへ逃げ込んだ。爾朱天光は、兵を派遣して、二州を平定した。
 歩兵校尉の宇文泰が、賀抜勝に従って関中で戦っていた。今回の功績で、彼は行原州事となる。この頃、関、隴の民は疲弊しきっていたので、宇文泰は恩と信義で彼等を慰撫したので、民は悦んで言った。
「もっと早く宇文泰に遇っていれば、我等は造反など起こさなかったものを!」/font>