六鎮の乱(その二)
 
 魏のあちこちで賊軍が乱立した。これから以降は、各地域毎に纏めて供述するので、各章毎に時期が多少前後する。 

  

蕭寶寅と崔延伯 

 六年、正月。莫折天生は黒水に陣を布き、気勢を挙げた。朝廷は、岐州刺史崔延伯を征西将軍、西道都督に任命し、五万の兵力を与えて討伐させた。崔延伯は、行台の蕭寶寅と共に、馬嵬に陣を布いた。
 崔延伯は、もともと驍勇だった。蕭寶寅が戦闘を促すと、崔延伯は言った。
「明日の夜明け、賊軍の勇怯を見極めてやろう。」
 そして、精鋭数千を選んで黒水を渡り、陣を布いて莫折天生と対峙した。蕭寶寅は、遙か遠くで後続となった。
 崔延伯は、莫折天生の本陣に突っ込み、威勢を挙げて敵を脅しつけてから退却した。
 莫折天生は、崔延伯の兵力が少ないのを見て、陣営を開くと討って出た。その兵力は、崔延伯軍の十倍はある。崔延伯は水際まで追い詰められ、望み見ている蕭寶寅は顔面蒼白になってしまった。
 この時、崔延伯は自ら殿となったが、敵と戦わないで睨み合い、その間に味方を渡河させた。崔延伯の殿軍が整然としていた為、莫折天生の兵は、敢えて戦おうとしなかった。
 僅かの間に兵卒達が渡り終えると、崔延伯も静かに河を渡った。莫折天生は、部下を率いて退却した。
 蕭寶寅は大喜びで言った。
「崔君の武勇は、関羽や張飛にも劣らない。」
 崔延伯は答えた。
「賊軍は、私の敵ではない。明公はただ安座して、私が敵を破るのを見ていればよい。」
 癸亥、崔延伯は兵を率いて出陣し、蕭寶寅は後続となった。莫折天生が迎撃したが、崔延伯は率先して戦い、敵の前鋒を陥した。将士は勢い込んで進軍し、大勝利を収める。十万からの敵を捕斬し、小隴まで追撃した。
 こうして、岐、ヨウ及び隴東は全て平定された、将士はそのまま留まって戦ったが、莫折天生は隴道を封鎖して守備に徹したので、それ以上進軍できなかった。
 蕭寶寅は、宛川を破り、民を捕らえて奴婢とした。又、美女十人を褒賞として岐州刺史魏蘭根へ与えたが、魏蘭根は辞退して言った。
「この県は、賊徒に攻め立てられて対抗できなかったので、仕方なく屈服したのです。官軍が彼等を解放したら、慰撫しなければなりません。それなのに、残虐な行為を働くのでは、賊軍を助けるようなものではありませんか!」
 そして、彼女達を親元へ帰させた。
 二月、莫折念生は都督の楊鮓に仇池を攻撃させたが、魏子建がこれを撃破した。 

 同月、朝廷でクーデターが起こり、元乂は失脚し、胡太后が再び政権を握った。立て役者は高陽王ヨウである。 

 四月、胡深が高平鎮に據り、大将の萬俟醜奴、宿勤明達等へ、ケイ州を攻撃させた。将軍の廬祖遷、伊甕生が迎撃したが、勝てなかった。
 この時、蕭寶寅と崔延伯は、既に莫折天生を撃破していたので、安定にて廬祖遷と合流した。官軍の兵力は、武装兵十二万、鉄馬八千となり、大いに戦意が揚がった。
 萬俟醜奴は、安定の西北七里の場所に陣取った。彼は時々軽騎で挑発したが、結局、大会戦を行わずに撤退した。崔延伯は、もともと勇気を恃むタイプで、しかも戦功を建てたばかりで意気盛んだったので、追撃を提唱し、先頭立って進軍した。この時、大きな盾を造らせた。その内側は鎖で柱にくくりつけ、壮士が背負って移動する。これを「排城」と名付けた。
 まさに戦おうとした時、数百騎の賊徒がやって来て、降伏者の名簿を差し出し、戦闘を止めるよう頼んだ。だが、蕭寶寅と崔延伯がその名簿を閲覧もしないうちに、宿勤明達が兵を率いて東北から攻めてきた。すると、降伏した賊徒達が西から呼応し、官軍は腹背から挟撃されてしまった。崔延伯は乗馬して奮戦したが、支えきれずに陣を退いた。
 賊軍は皆、軽騎で攻め立てる。対して官軍は歩兵も交じっていた。戦いが長引くにつれ官軍は疲弊し、賊徒は遂に排城に攻め入った。
 こうして、崔延伯は大敗した。死傷者は二万人にも及ぶ。蕭寶寅は敗残兵を纏めて安定へ退却した。崔延伯は敗戦を恥じ、兵器を修繕し驍勇の兵卒を募って安定から西進し、賊軍の陣から七里離れたところに陣営を結んだ。
 壬辰、崔延伯は蕭寶寅に無断で出撃し、敵を大いに破る。だが、そこで兵卒達は略奪に走った。その乱れを見た賊軍は引き返してきて攻撃し、崔延伯軍は大敗した。この最中、崔延伯は流れ矢に当たって卒し、万余の兵卒が戦死した。
 まだ大寇は平定していなかったのに驍将を失い、朝野は憂え恐れた。ここに於いて賊勢は益々盛んになった。しかし、太后が地方から戻ってきた群臣へ尋ねると、彼等は媚び諂って答えた。
「賊軍は弱く、平定も間近でしょう。」
 だから、将帥が援軍を求めても、往々にして与えられなかった。 

 天水の住民呂伯度はもともと莫折念生の部下だった。後、顕親に據って莫折念生から自立したが、勝てず、胡深のもとへ逃げ込んだ。胡深は、彼を大都督、秦王とし、士馬を与えて、莫折念生を攻撃させた。呂伯度は、屡々莫折念生軍を撃破したが、再び顕親に據って、胡深に背き魏軍を引き入れた。 

 十月、切羽詰まった莫折念生は、蕭寶寅へ降伏した。蕭寶寅は大都丞の崔士和を、秦州に入らせた。魏は、呂伯度をケイ州刺史に任命し、平秦郡公に封じた。
 ところが、大都督元修義が軍を隴口に留めたまま進軍しなかったので、莫折念生は再び造反し、崔士和を捕らえて殺した。やがて、呂伯度は万俟醜奴に殺され、賊軍は勢いを盛り返し、蕭寶寅は制圧できなくなった。 

 胡深は莫折念生と同盟を結んで、次第に増長して行き、破六韓抜陵を侮るようになった。破六韓抜陵は、臣下の費律を派遣して、胡深を誘い出し、斬り殺した。胡深の民は、万俟醜奴が吸収した。 

  

破六韓抜陵 

 五月、破六韓抜陵が五原にて廣陽王深を包囲した。
 軍主賀抜勝は二百人を募って東門から突撃し、敵の首級百余を挙げた。賊徒は、少し後退した。そこで、廣陽王深は陣を棄てて朔州へ向かったが、賀抜勝は常に殿軍となった。
 ちなみに同月、魏昌武康伯李祟が卒した。 

 雲州刺史費穆は、離散した兵卒をかき集め、四面の敵を拒んでいた。
 この時、北境の州鎮は全て賊徒の手に落ち、雲中城ただ一つが守り抜いていた。道路は封鎖され、援軍は来ない。兵糧も武器も尽き果て、遂に費穆は城を棄て、南へ逃げた。秀容の爾朱栄のもとへ落ち延びる。そして、彼は闕を詣でて謝罪した。詔がおり、これを赦す。 

 長流参軍の于謹が廣陽王深へ言った。
「今、群盗が蜂起しており、力づくでねじ伏せるのは困難です。臣が、大王の名前で賊徒へ禍福を諭しましょう。そうすれば、離間できるかも知れません。」
 廣陽王深は、これを許可した。
 于謹は、諸国の言葉に精通していたので、単騎で胡の酋長の許へ行き、説得した。これによって、西部高車の酋長也列河は三万戸を率いて廣陽王のもとへ駆けつけ、降伏した。
 廣陽王は兵を率いて折敷嶺まで出迎えようと欲したが、于謹は言った。
「破六韓抜陵の勢力は盛んです。もしも也列河が降伏すると聞けば、必ず兵を率いて襲撃するでしょう。我等は先に要害に據っていなければ、勝つのはおぼつきません。今は、也列河を囮とするべきです。伏兵を設けて待ち受ければ、必ず撃破できます。」
 廣陽王はこれに従った。
 破六韓抜陵は、果たして也列河を襲撃し、その部下を悉く捕虜とした。だが、そこに伏兵が襲ってきたので破六韓抜陵は大敗した。也列河の民は解放された。 

 柔然の頭兵可汗が、破六韓抜陵を大破し、その将孔雀等を斬った。破六韓抜陵は柔然を憚り、南へ移動し、北河を渡った。 

 将軍李叔仁は、破六韓抜陵軍が迫ってきたので、廣陽王へ救援を求めた。廣陽王は、兵を率いてこれへと赴く。すると、賊徒は次々と降伏してきて、その数は合計二十万にも達した。
 廣陽王は行台の元簒と共に上表した。
「どうか恒州の北へ郡県を新設してください。降伏した民をここに住まわせ、財貨を振る舞い、安住させるのです。そうすれば、再び騒乱を起こさないでしょう。」
 朝廷は従わず、降伏した民を冀・定・瀛の三州へ分散させた。
 陽廣王は元簒へ言った。
「こいつら、また造反するぞ。」 

  

柔玄鎮 

 八月、柔玄鎮の民杜洛周が上谷にて造反し、眞王と改元した。近隣の郡県を攻め落とし、高歓、蔡儁、尉景、段栄、彭楽等は彼に従った。杜洛周は、燕州刺史崔乗を包囲する。
 九月、朝廷は幽州刺史常景を行台とし、幽州都督元譚と共に、杜洛周を討伐させた。常景は、常爽の孫である。
 官軍は、廬龍塞から軍都関までの全ての要害に守備兵を配置し、元譚は居庸関を守った。
 さて、高車の酋長斛律金は、当初、懐朔鎮の鎮将楊鈞に仕え、軍主となっていた。彼は匈奴の戦法を身につけており、巻き上がる土煙を見て敵の兵力を推測し、臭いを嗅いで敵軍の遠近を測った。やがて、破六韓抜陵が造反すると、斛律金は民を率いて彼へ帰順した。破六韓抜陵は、斛律金を王とする。だが、彼はやがて破六韓抜陵の失敗を見通し、雲州を詣でて降伏した。だが、中途で杜洛周の軍に敗北し、単身脱出して爾朱栄のもとへ逃げ込んだ。爾朱栄は、彼を別将にした。
 七年、正月。安州の石離、穴城、斛塩の三戍で兵卒が造反し、杜洛周に呼応した。兵力は二万に膨れ上がり、杜洛周は彼等と合流した。
 行台の常景は別将の崔仲哲を差し向けたが、崔仲哲は戦死、元譚軍も壊滅した。魏の朝廷は、別将李居を元譚に代えて都督とした。崔仲哲は崔乗の息子である。
 四月、杜洛周は南下して薊城を襲撃した。常景は、統軍の梁仲礼を派遣して、これを撃破する。都督の李居は、薊城北で杜洛周と戦ったが、敗北した。しかし、常景が民を率いて防戦したので、杜洛周は上谷へ引き返した。
 ちなみに、昨年の八月から杜洛周に包囲されていた燕州刺史崔乗は、五月、部下を率い、城を棄てて定州へ逃げた。
 六月、杜洛周は都督の曹乞眞に薊州で略奪させた。七月、常景は都督于栄にこれを攻撃させた。于栄は大勝利を収め、曹乞眞を斬り、将卒三千余人を殺した。
 杜洛周は民を率いて范陽へ移動しようとしたが、常景と于栄は、これを撃破した。
 十月、常景は杜洛周を破り、賊軍の武川王賀抜文興等を斬り、四百人を捕らえた。
 十一月、杜洛周は范陽を包囲した。すると、民は幽州刺史の王延年と常景を捕らえて杜洛周のもとへ送り、城門を開いて賊軍を迎え入れた。 

胡三省、曰く。常景は杜洛周と戦い、屡々勝利を収めていたが、最後には捕らわれてしまった。民は賊軍と親しみ、官人を心から憎んでいたのである。・・・・私(訳者)は思うのだが、常景は本当に赫々たる武勲を立てたのだろうか?敵の王を殺したにしては、捕虜の数はたった四百人だ。案外、負け続きなのに勝利を粉飾しており、遂に力つきただけかも知れない。) 

  

鮮于修礼 

 七年、正月。五原で降伏した民が、廣陽王深を推戴して造反しようと企んだ。廣陽王は恐れ、洛陽へ帰りたいと上請した。そこで朝廷は、左衛将軍楊津を廣陽王の代わりに北道大都督とし、廣陽王を吏部尚書にした。 

 五原で降伏した民は、鮮于修礼を中心にして、北鎮の流民も巻き込み、定州の左城で造反した。魯興と改元し、州城へ進軍する。州兵は拒戦したが、戦況は不利だった。
 楊津は、霊丘まで来た所でこのニュースを聞き、兵を率いて救援に駆けつけて州城へ入城した。
 鮮于修礼軍が城下まで来ると、楊津は討って出ようとした。長史の許被がこれに反対したが、楊津は剣を抜いて討ち掛かろうとしたので、許被は逃げ出した。
 こうして楊津は突撃し、敵の首級数百を挙げた。賊軍は退却し、人々の動揺も少しは落ち着いた。
 やがて詔がおり、楊津は定州刺史兼北道行台となった。揚州刺史の長孫稚を大都督北討諸軍事とし、河間王深(本当は王偏)と共に鮮于修礼を討伐させた。 

 四月、長孫稚が業へ到着した時、詔が降りて、彼の大都督が解任され、河間王深が大都督に任命された。
 長孫稚は上言した。
「かつて、臣は河間王と共に淮南で戦いました。この時、河間王の軍は敗北しましたが、臣の軍は勝ちました。以来、河間王は臣を憾んでおります。今、臣が河間王の節度を受けたなら、きっと巧く行きません。」
 だが、許されなかった。
 呼沱まで進軍した時、長孫稚は戦うにはまだ早いと言ったが、河間王は従わなかった。鮮于修礼が五鹿で長孫稚を襲撃したが、河間王は救援に向かわなかった。長孫稚軍は大敗し、長孫稚も河間王も、共に除名された。 

 五月、廣陽王深を大都督に復帰させ、鮮于修礼討伐を命じた。章武王融を左都督、裴衍を右都督とし、共に廣陽王の指揮下に入れた。
 ところで、廣陽王は、かつて城陽王徽の妃と密通していたことがあり、城陽王は彼を怨んでいた。この時、城陽王は尚書令となり、胡太后の信任されていた。今回の出征で、廣陽王は子息を従軍させたので、城陽王は胡太后へ言った。
「廣陽王は愛子と共に兵権を握り、地方へ出ております。これは造反を考えているのかも知れません。」
 そこで、章武王と裴衍へ敕を下し、廣陽王の造反へ備えるよう命じた。章武王裴衍は、この敕を廣陽王へ見せたので、廣陽王は深く恐れ、どんな些細なことでも独断しなくなった。これを知った胡太后が使者を派遣して理由を尋ねたところ、廣陽王は言った。
「城陽王は、臣のことを骨の髄まで憎んでおります。そして、臣は地方へ出ておりますので、城陽王は幾らでも臣を讒言できるのです。城陽王が執政となってから、臣の請願は、殆ど却下されております。城陽王は、ただ臣を害しようとしているばかりではなく、臣に従っている将士にまで手を出しております。臣下の下で勲功を建てた者へは恩賞がなく、罪を犯した者は微罪でも死刑に処せられてしまう。ですから、臣へ従っている者も、皆、恐れているのです。城陽王は、臣を褒める者を仇讐のように見ますし、臣を貶す者は親戚のように手厚く遇します。城陽王は朝廷の中心におり、朝に夕に臣を陥れようとしているのです。臣はどうして安閑としておられましょうか!もしも陛下が城陽王を地方へ出向させられましたなら、臣には内顧の憂がなくなります。そうなれば、必ずや命がけで賊徒と戦い、忠義の限りを尽くして見せましょう。」
 だが、胡太后は聞かなかった。
 城陽王は、中書舎人の鄭儼と結託していた。彼の外見は柔和だったが、内実は狭量で、賞罰は感情の赴くままだった。魏の政治は、これによって乱れた。
 八月、賊帥の元洪業が鮮于修礼を斬って魏へ降伏を請うた。すると、賊党の葛栄が元洪業を殺して自立した。 

  

爾朱栄の台頭 

 七年、二月。西部高車の斛律洛陽が造反し、費也頭牧子と手を結んだ。
 三月、游撃将軍爾朱栄が斛律洛陽を深井で撃破し、費也頭牧子を河西で撃破した。爾朱栄は、安北将軍、都督恒、朔討虜諸軍事となる。 

 僕射の元簒は行台の官職で、恒州を鎮守していた。七月、鮮于阿胡は、朔州の流民を指揮して恒州を攻撃した。平城は陥落し、元簒は冀州へ逃げた。 

 八月、爾朱栄が肆州を通過した。肆州刺史尉慶賓は彼を忌み、城門を閉じて迎え出なかった。爾朱栄は怒って肆州を襲撃し、尉慶賓を捕らえて秀容へ帰った。一族の羽生を肆州刺史にする。この専横を、朝廷は阻止することができなかった。
 さて、賀抜允と、賀抜勝、賀抜岳の兄弟は、元簒に従って恒州に居た。平城が陥落した時、賀抜兄弟は散り散りとなり、賀抜勝は肆州へ賀抜岳は爾朱栄のもとへ逃げ込んでいた。肆州を陥した時、爾朱栄は賀抜勝を手に入れ、大いに喜んだ。
「卿等兄弟を部下にできたのだ。天下平定も容易いぞ!」
 そして、軍中の大事は、彼等と共に謀った。 

  

廣陽王の悲劇 

 鮮于修礼の部下を吸収した葛栄は、北進して瀛州へ向かった。廣陽王深は兵を率いてこれを追った。
 白牛邏にて、葛栄は軽騎で章武王融を襲撃し、これを殺した。ここに於いて、葛栄は天子を自称し、国号を斉と定め、廣安と改元した。
 章武王の敗戦を聞いた廣陽王は、進軍を止めて軍を留めた。
 侍中の元晏が胡太后へ言った。
「廣陽王が進軍しないのは、造反を考えているからです。彼の幕僚には智恵者の于謹がおりますので、きっと陛下の忠臣にはなりますまい。」
 胡太后は深く頷き、尚書省の門へ詔を掲げた。
「于謹を連れてきた者には、重い恩賞を与える。」
 これを伝え聞いた于謹は、廣陽王へ言った。
「今、朝廷は女主人が牛耳っており、佞臣の讒言を信用しております。殿下の赤心を明白にしなければ、きっと禍がやってきます。臣は自縛して朝廷へ出向きましょう。そして殿下の至誠を太后へ伝えて参ります。」
 ついに、自ら手配書の下へ行き、言った。
「我こそが于謹である。」
 役人は、これを太后へ伝えた。太后は大怒して目前へ引き出させたが、于謹は廣陽王の至誠を弁じ、軍が留まっている理由も併せて述べた。これによって太后の疑惑は解け、于謹は釈放された。
 廣陽王は、軍を撤収して定州へ赴いた。定州刺史楊津も又、廣楊王が造反すると疑っていた。それを聞いた廣楊王は、州南にある仏寺で軍を止めた。
 二日経って、廣陽王は都督の毛諡等数人を呼び、危難の際には助け合うとゆう盟約を結んだ。毛諡は廣陽王を疑い、楊津へ密告した。
「廣楊王は、造反を謀んでいます。」
 楊津は、毛諡へ廣陽王討伐を命じた。廣陽王は逃げ出したが、毛諡は叫びながら追撃する。廣陽王と彼の側近達は間道から博陵界へ入ったところ、葛栄の遊騎に出会ったので、そのまま葛栄のもとへ逃げ込んだ。
 賊徒は廣陽王を見て大喜びだったが、葛栄は即位したばかりだったので、部下が廣陽王を擁立することを恐れ、遂に彼を殺した。
 廣陽王が賊に降伏して殺されたのを知り、城陽王は彼の妻子を捕らえるように進言した。だが、廣陽王の府佐宋遊道が道理で訴えたので、釈放された。 

  

忠義の犬死 

 大通元年(527年)、魏は、定・相の二州から四郡を分離させて殷州を新設し、北道行台崔楷を刺史とした。崔楷は上表した。
「殷州は設置されたばかりで、兵糧も資財もありません。どうか兵糧を回して下さい。」
 これは裁可されたが、実践されなかった。
 ある者が崔楷へ言った。
「あそこは賊軍が迫っております。ご家族は洛陽へ留め、単身赴任なさると宜しい。」
 すると、崔楷は言った。
「『人の碌を食む者は、その人の為に憂える』と言うではないか。我が単身で赴任したら、将士の心が挫ける。」
 そして、一家を挙げて引っ越した。
 やがて、葛栄が州城へ迫って来た。ある者が、弱小だけでも避難させるよう勧めたので、崔楷は末っ子と娘を送り出したが、すぐに後悔した。
「人々はきっとこう言うぞ。『意志が弱いから、忠義を汚してまで家族を守るのだ。』と。」
 そして、遂に連れ戻した。
 とうとう、賊軍が来襲した。州城にはろくな武器もなかったが、崔楷が将士を慰撫したので、皆、奮起して戦った。
「崔公は、一族百人の命を賭けてここへ来られたのだ。我等一人の命など、なんで惜しんでいられるか!」
 戦争は続き、休む暇もない。兵卒達は、次々と城を枕に討ち死にしていったが、最後まで、誰も背かなかった。
 辛未、城は陥ち、崔楷は捕らえられた。しかし、彼の節義は屈服しなかったので、葛栄は崔楷を殺した。 

胡三省、曰く。藩翰の任務は境内を保ち民を守ることが最上であり、城を全うして敵を撃退するのは次善である。城内で討ち死にして何の役に立とうか!だが、崔楷は家族全員の命もなげうった。その志節は憐れむべきものがある。これは、高位高官の者達に罪があるのだ。) 

  

莫折念生の最期 

 蕭寶寅は出兵してから長い間戦い続きで、将士はスッカリ疲弊しきってしまった。正月、莫折念生は、そこを狙い澄まして襲撃を掛けた。ケイ州にて、蕭寶寅は大敗を喫した。蕭寶寅は、敗残兵一万余をかき集めて逍遙園に屯営した。東秦州刺史潘義淵は賊徒へ降伏した。
 莫折念生は、岐州へ向かって進軍した。すると、城内の住民が刺史の魏蘭根を捕らえて賊徒へ呼応した。
 タク州刺史畢祖暉は戦死し、行台辛深は城を棄てて逃げた。北海王の軍も敗北した。
 賊帥胡引祖は北華州に、叱干麒麟はタク州に據って莫折念生に呼応した。こうして、関中は大混乱に陥った。 

 北地功曹の毛鴻賓は、賊を引き入れて、渭北を略奪して回った。ヨウ州録事参軍楊カンが、三千の兵力でこれを攻撃した。毛鴻賓は恐れ、自ら申し出た。
「賊軍を討伐しますので、今回の罪を帳消しにして下さい。」
 そして、賊徒と戦い、宿勤烏過仁を捕らえて送ってきた。宿勤烏過仁は、宿勤明達の甥である。 

 ヨウ州刺史楊椿は兵卒を募って七千余人かき集め、防戦した。詔がおり、楊椿に侍中兼尚書右僕射を加えられ、行台、節度関西諸将に任命された。
 莫折念生は、勝ちに乗じてヨウ州へ来寇した。蕭寶寅の麾下に羊カンとゆう部将が居たが、彼は窪地に身を隠して、莫折念生を狙撃した。弦音に応じて莫折念生は射殺され、賊軍は壊滅した。 

  

路思令の上疏 

 右民郎の路思令が、上疏した。
「戦争に勝つか負けるか、それは将帥にかかっております。その人を得れば天下も手に唾して取れますし、その人を失えば畿内までが戦場になってしまいます。ところで、近年の戦闘では、将帥の大半が寵臣や貴人の子孫達です。彼等は、馬に杯を噛ませて粛々と進まなければならない場面でも、気持ちを浮き立たせ腕を振るって力攻めしてしまいます。大敵に臨んだら、たちまちにして怖じ気づき、雄図も鋭気も一朝にして萎えてしまいます。彼等は、屈強の兵卒を陣の後方に集めて自分の護衛に使い、残る老人や虚弱な兵卒に先陣を命じるのです。その上、日頃から怠惰ですので武器は手入れされておりませんし、前進も退却も気分次第。これで勝とうと思っても、絶対無理でございます!
 現場の兵卒は、これを肌で実感しておりますので、戦場へ出る度に、必ず負けると考えています。ですから、兵卒は戦闘にも熱が入らず、すぐに逃げてしまうのですし、将帥は敵を畏れて前進いたしません。
 朝廷は、『官爵を持つ者がまだまだ足りない』と言い、屡々官吏を出世させます。又、褒賞が軽いのではないかと疑い、日々金帛を臣下へ撒き散らします。これによって官庫は底を尽きましたので、民からの収奪へ走り、増税に次ぐ増税。こうして、庶民は賊徒へ走り、賊軍は益々強くなり、我が民は益々やせ細るのです。
 それ、徳は義夫を感動させますし、恩は士に決死の心を持たせます。今、行うべきは、才能で人を抜擢し、賞罰を明確にし、器械を修繕することです。その上で、弁達の士を賊軍に派遣して禍福を以て諭します。それで賊軍が改悛しなければ、その時こそ『順を以て逆を討つ』と言えるのです。そうなれば、賊軍を掃討するなど、鋭利な斧で黴やキノコを斬るようなもの。即座に掃討できますぞ!」
 しかし、無視された。 

(訳者、曰く) 

 路思令の言うことは正論である。信賞必罰、適材適所。それで朝廷をただしてこそ、外敵と戦うことができるのだ。だが、それを実践しないのが、政治の腐敗と言うものである。
 今、多くの大企業が、社内の派閥争いで人事を決めており、正論は通らない。そして企業としての競争力を失い、遂には倒産が明白になっても、なお、トップは派閥のことしか考えないのである。
 これを以て見るならば、この上疏が無視されるのも、さして奇怪とは言えないことだ。