六鎮の乱(その一)
 
元乂、国を乱す。 

 梁の武帝の普通元年(520年)、魏では元乂が胡太后を幽閉し、政権は孝明帝の手中へ還った(時に孝明帝は十一才だった。)
 その後、元乂は孝明帝の側に仕え、阿諛追従に励み、孝明帝から寵愛された。やがて元乂は次第に増長し始めた。禁中へ出入りする時には屈強の兵士に前後を固めさせ、千秋門の外で休む時は腹心が周りを取り囲み、謁見を求める士民がいても遙かに顔を仰ぐことしかできない有様だった。
 彼が政権を執った当初は、本性を隠して謙遜な態度を出して政治にも熱心だったが、やがてそれも消え失せた。その態度は驕慢で、酒を嗜み色を好み、賄賂を貪り、人事は感情の赴くまま。自分に逆らう者は、絶対に許さなかった。父親の京兆王継も輪を掛けて貪欲で、彼や妻子へ贈られる賄賂が全てを決定した。だから、地方の牧、守、令、長などは、全て貪汚な人間ばかりとなった。賄賂で地方の長官となった以上、任期中に元を取り更に稼ごうとばかり、民からの収奪にこれ励む。こうして民は困窮し、騒乱を思う人間が野に満ちあふれるようになった。 

  

李祟の奏聞 

 普通四年(523年)、四月。李祟は、柔然の阿那壊可汗討伐に向かった(詳細は、「魏、柔然を討つ(その二)」に記載)。この時、李祟の長史の魏蘭根が李祟へ言った。
「辺境へ諸鎮を設置した当初は、土地が広いのに対して人間が少なすぎたので、貴族の子弟や国の肺腑を徴発して、爪牙としました。いつの間にか、彼等は『府戸』と号し、みんなしてグルになって美味い汁を独占するようになり、民は怨みや憤りで煮えくり返っております。この際、諸鎮を廃止して州を立て、郡県を分置しましょう。そしてこれらの府戸は、悉く庶民とするのです。文武の諸官も全て入れ替えて古き弊害を一新すれば、威厳も恩愛も施されます。もしもこの計画が実行されれば、我が国から北辺の憂いがなくなるでしょう。」
 李祟はこれを奏聞したが、返答はなかった。 

  

破六韓抜陵の造反 

 武衛将軍の于景は、于忠の弟である。彼は、元乂を排除しようと陰謀を巡らせたが露見し、懐荒鎮の鎮将へ左遷されてしまった。
 普通四年、柔然が侵略すると、懐荒鎮の民は食糧を求めたが、于景は官庫を開かない。鎮民は憤懣に耐えきれず、遂に乱を起こした。彼等は于景を捕らえ、殺した。
 それから幾ばくも経たないうちに、沃野鎮の住民破六韓抜陵が民をかき集めて造反し、鎮将を殺した。彼は、「眞王」と改元した。
 諸鎮の民は華人夷人を問わずに響きに応じるように呼応した。破六韓抜陵は兵を率いて南へ進攻した。衛可孤を別働隊として武川鎮を包囲させ、懐朔鎮も攻撃させた。
 懐朔鎮には、賀抜度抜とゆう猛者が居た。彼のみならず、三人の息子、允、勝、岳も、揃って勇者だった。懐朔鎮の鎮将楊鈞は、賀抜度抜を統軍に抜擢し、三人の子息達も軍主として防戦した。 

 五年、三月。孝明帝は臨淮王イクを都督北討諸軍事に任命し、破六韓抜陵の討伐を命じた。 

  

高平鎮の動乱 

 四月、高平鎮の民赫連恩等が造反した。彼等は敕勒(高車)の酋長胡深を推戴して高平王とし、破六韓抜陵に呼応して高平鎮を攻撃した。魏の将軍盧祖遷がこれを撃破、胡深は北へ逃げた。 

  

二鎮陥落 

 衛可孤は、懐朔鎮を攻め続けた。援軍は来ない。楊鈞は、臨淮王イクのもとへ急を告げようと考え、その使者に賀抜勝を選んだ。
 賀抜勝は決死の少年十余騎と共に包囲を突破した。賊の騎兵が追撃して来ると、賀抜勝は言った。
「俺は賀抜破胡だぞ!(破胡は、勝の字)」
 それを聞いて、賊徒達は震え上がり、近づこうとしなかった。
 賀抜勝は雲中で臨淮王と会見し、言った。
「懐朔鎮は包囲され、陥落間近です。それなのに、大王は兵を進めない。もしも懐朔鎮が陥落すれば、武川も危険ですし、賊の気勢は百倍にもなります。そうなれば、たとえ陳平や張良と雖も手の打ちようがありませんぞ。」
 そこで、臨淮王は出陣を許した。賀抜勝は、再び敵中を突破して、懐朔鎮へ戻った。
 楊鈞は、武川の戦況の偵察に、再び賀抜勝を派遣した。だが、賀抜勝が到着した時には、武川鎮はすでに陥落していた。賀抜勝は駆け戻ったが、懐朔鎮も陥落した。賀抜勝親子は、共に衛可孤の捕虜となった。
 五月、臨淮王は、五原にて破六韓抜陵と戦い、敗北した。この敗戦責任で、臨淮王は官爵を剥奪された。
 安北将軍李叔仁も敗北し、賊軍の勢力は益々盛んになっていった。 

  

李祟出動 

 孝明帝は丞相、令、僕、尚書、侍中、黄門を顕陽門へ引き入れて尋ねた。
「今、賊徒共は恒・朔で連合し、金陵へまでも迫っている。(遷都以前の魏の皇帝達は、皆、雲中の金陵に埋葬されていた。)何か方策はあるか?」
 吏武尚書の元修義が言った。
「重臣を派遣して、各鎮の軍団を都督させ、敵を防がせましょう。」
 すると、孝明帝は言った。
「去年、阿那壊可汗が造反した時、李祟へ北征させたが、その時、李祟は鎮を州へ改めるよう上表した。朕は、その請願に従わなかった。だが、このような上表が出たから、鎮の住民達がつけあがり、今日の事態に至ったのである。この責任は、挙げて李祟にある。今更愚痴っても始まらないが、これから先は変えることができる。李祟は極上の家柄(文成皇后の兄李誕の息子)で、英敏な人間だ。彼を派遣したらどうか?」
 僕射の蕭寶寅等は、皆、言った。
「それこそ、衆望に叶います。」
 李祟は言った。
「臣は、六鎮が都から遠く離れており、外敵の患に曝されていることを思い、彼等の心を慰めようと欲しただけです。彼等を叛乱へ導こうと思った訳ではございません!しかしながら、臣下の罪は、死罪にもあたります。陛下、どうかお赦し下さい。
 今、臣を北伐へ派遣なさるとのことですが、これこそ、今までの御恩に報い、過去の過ちを償う好機でございます。しかしながら、臣は既に七十ですし、病も持っております。軍旅には耐えられそうもございません。どうか、別の賢材をお選び下さい。」
 しかし、孝明帝は許さなかった。 

(司馬光、曰く。) 

 李祟の上表は、鎮禍を未然に防ぎ、形に顕れる前に勝利を制するものだった。魏の粛宗(孝明帝)は、これを採用しなかったばかりか、禍が生じても愧謝の言葉さえなく、あまつさえ、全ての罪を彼に押しつけてしまった。彼は不明の主君である。どうして共に謀ることができようか!
 詩に言う。
「耳によい言葉だけを聞き、経典などの立派な言葉へ対しては酔ったように聞き流す。
 良臣を用いようともしないで、かえって我を悖逆の徒と決めつける。」
 これは孝明帝を指した言葉だ。 

 壬申、李祟に使持節、開府儀同三司、北討大都督の称号を与え、撫軍将軍崔暹と鎮軍将軍廣陽王深等をその指揮下へ入れた。廣陽王深は、元嘉の子息である。 

  

火は燃えさかる。 

 六月、破六韓抜陵に触発されて、二夏、タク、涼で群盗が蜂起した。  

 秦州刺史李彦は残虐な人間で、皆から怨まれていた。
 六月、城内で薛珍等が徒党を集めて州門へ突入し、李彦を捕らえ、殺した。賊徒達は、一味の中から莫折大提を推戴し、総帥とした。莫折大提は、秦王と自称した。朝廷は、ヨウ州刺史元志に、これの討伐を命じた。 

 南秦州に、楊松柏兄弟とゆう豪族が居り、屡々略奪を働いていた。刺史の崔遊は彼等へ使者を出して降伏させ、主簿とした。そして、彼に群テイを招かせたが、その宴会の席で、皆殺しにしてしまった。以来、諸部族は崔遊を憎み、恐れていた。
 李彦が殺されたと聞くと、崔遊は不安になり、逃げだそうとした。しかし、その前に城民の張長命、韓祖香等が崔遊を攻撃して殺した。彼等は、城を挙げて莫折大提に呼応した。
 莫折大提は配下のト胡に高平鎮を襲撃させ、鎮将の赫連略と行台の高元栄を殺した。
 莫折大提が死ぬと、子息の莫折念生が天子と自称し、百官を設置し、天建と改元した。
 七月、朝廷は吏部尚書の元修義を西道行台として、莫折念生を討伐させた。 

 莫折念生は、都督の楊伯年に仇鳩と河池を攻撃させた。東益州刺史魏子建は将軍伊祥に迎撃させ、千余級の首を挙げた。
 ところで、東益州はもともとテイ王楊紹先の国で、城民は全て勇猛果敢だった。しかも、彼等の大半は、二秦で造反した人間の縁者である。だから東益州の将佐は、皆、言った。
「住民から武器を取り上げましょう。」
 すると、魏子建は言った。
「城民は何度も戦争を経験している猛者揃いだ。彼等を慰撫すれば我等の助けとなってくれるし、急に締め付ければ却って腹背の患となってしまう。」
 そして、城民を悉く呼び集めて彼等を慰諭した。城民の中には、父子兄弟が諸郡や外戍の守りに就いている者も居たが、内外よく助け合い、遂に造反する者が出なかった。
 魏子建は、魏蘭根の一族である。 

  

廣陽王深の上言 

 七月、崔暹は李祟の指揮に逆らい、白道にて破六韓抜陵と戦ったが、単騎で逃げ出すほどの大敗を喫した。破六韓抜陵は余勢を駆って李祟を攻撃した。李祟は支えきれず、雲中まで退却し、両軍は睨み合った。
 廣陽王深が上言した。
「我が国が平城を首都としていたのは、北辺を重視していた為です。その頃は皇族や賢人を抜擢して鎮へ派遣し、高門の子弟達を麾下に付けており、彼等は命がけで国境を守っていました。そして我が国も、彼等へは充分報いておりましたし、当時に人々も彼等を仰ぎ見ておりました。
 太和年間、僕射の李沖が権力を振るっていた時、涼州の民へ労役として課していた馬の飼育が免除されました。皇族達は、罪を犯して流されたのでもない限り、鎮へは出向しなくなりました。鎮にて働く子弟達も、給料が出ない上、一生涯働き続けてようやく軍主にしかなれないといった有様となりました。京師に留まった彼等の同族達はもっと高い官位まで栄達しているにもかかわらず、です。ですから、鎮の子弟達は鎮から逃げ出したりするようになったのです。これは、辺域の戎人達が大人しくしていたためでもあります。戦争が無くなった為、彼等の出世の機会がなくなったのです。
 遷都してからは、辺境の任務は益々軽くなりました。何の才能もない人間が、仕方なく鎮将として出向する。彼等は、ただ賄賂をかき集めることだけに熱心でした。辺域の住民は、いつも悔しさに歯がみしていたのです。
 そして、去年。阿那壊可汗が我が国の恩に背いて略奪に走った時、十五万の大軍が追討しましたが、なんの成果も上げずに引き返しました。これを見て、辺境の兵卒達は中国を軽視するようになりました。尚書令の李祟はそれを覚り、鎮を廃止して州とするよう上請しましたが、朝廷は許可しませんでした。
 このような中で領民を虐げていた沃野鎮の鎮主が破六韓抜陵に殺されるや、群盗が一斉に蜂起しました。彼等は徒党を組んで城を攻め土地を掠め、通過する所を次々と夷滅しました。官軍は屡々敗北し、賊軍の威勢は日々盛んになっていったのです。
 今回の討伐軍で、賊軍を一掃することは、できた筈でした。しかし、崔暹が功を焦って単軍で戦い、全滅しました。李祟と臣は何とか軍を立て直しましたが、雲中を保つのが手一杯。将士の戦意は喪失しております。更に考慮しなければなりませんのは、今回の事件は決して西北だけにとどまらないとゆうことです。諸鎮の実情がこのようであれれば、天下全てを推して知ることができますぞ!」
 だが、朝廷からの返答はなかった。
 暹へ対しては、裁判に掛けられることになった。だが、暹は元乂へ美女と田園を賜ったので、罪に落とされなかった。
 八月、東西部の敕勒が、次々と魏へ反旗を翻し、破六韓抜陵の麾下へ入った。ここに至って、孝明帝は始めて李祟や廣陽王の言葉を実感した。
 丙申、孝明帝は詔を下した。
「諸州鎮の軍籍を持つ者は、罪人で落とされた者以外、全て民とせよ。」
 そして、鎮を改めて州とし、懐朔鎮を朔州としたが、やがて雲州と改名した。また、兼黄門侍郎の麗道元を大使として六鎮を慰撫して回るよう命じたが、この時既に六鎮全てが造反しており、麗道元は行くことができなかった。 

(訳者、曰く。)
この時代の「鎮」とゆうものは、一昔前の植民地のようなものだったのだろうか?いや、これは制度上ではなく、実質的な存在としての話だが。鎮主は、唐初期の節度使のようなものだったのだろうか?勿論、鎮民へは略奪者としてしか接していなかっただろうが。
 当時の実情は、これらの文章の端々から読みとるしかないのでしょう。 

 これまで、洛陽へ引っ越してきた代の人間は、いろいろと差別されて、朝廷で出世することができなかった。六鎮が造反するに及んで、元乂は代の人間を登庸するようになり、そのような詔を出したりして彼等を喜ばせた。
 廷尉の山偉は代の人間だったが、元乂を讃美する文章を書いて、尚書二千石郎に抜擢された。 

  

莫折念生の快進撃 

 八月、魏の員外散騎侍郎の李苗が上書した。
「およそ、兵糧が少なくて兵卒が精鋭だったなら速戦が上策ですし、兵卒も多く兵糧もたっぷりあったら持久戦が有利です。今、隴の賊徒(莫折念生)には兵糧の備蓄はありません。二城に據っておりますが、奴等には徳義がありません。奴等を支えているのは、戦勝によって日々降伏者が出てくる事だけです。もしも遅滞したら、人情は離反し、崩壊を座して待つしかないでしょう。壁を高く塁を深くして持久戦に出れば、王師は完勝いたします。
 近年、天下に泰平が続いたので、兵法に暁通した者がいなくなりました。今の軍隊は、利が有ると見れば我先に駆け出し、逃げる時には味方を顧みません。将には法令がなく、士は教習せず、長久の計を知らずに、ただ敵を軽視する心だけは皆がしっかり持っております。ですから、二秦の賊が強くなりました。それはそのまま三輔が弱くなったとゆう事であり、国の右臂が断ち切られようとしております。どうか大将へ敕を降し、守備を固めて軽々しく戦わないよう命じて下さい。その後、偏将や裨将へ精鋭数千を与えて麦積崖を襲撃させるのです。そうすれば、二秦の群妖は自ら壊滅するでしょう。」
 朝廷は、李苗を統軍とし、別将淳于誕と共に梁、益へ派遣した。
 この軍隊が到着する前に、莫折念生の弟の高陽王天生が隴を攻撃した。都督の元志が彼等と戦ったが、敗北。元志は部下を棄てて東へ逃げ、岐州を保った。
 又、莫折念生の都督竇隻が盤龍郡を攻撃した。魏子建は将軍の竇念祖を派遣してこれを撃破した。 

 魏の西道行台元修義は風邪を病んで軍の指揮が出来なくなった。九月、朝廷は尚書左僕射の斉王蕭寶寅を西道行台大都督として、諸将を率いて莫折念生を討つよう命じた。
 莫折天生は、岐州へ進攻した。十一月、これを落とし、都督の元志及び刺史の裴芬之を捕らえた。そして彼等を莫折念生のもとへ送ったが、莫折念生は彼等を殺した。
 又、ト胡等がケイ州を襲撃し、光禄大夫の薛巒を破った。巒は、薛安都の孫である。
 十二月、莫折念生は涼州を攻撃した。すると、城民の趙天安が刺史を捕らえて、彼等へ呼応した。 

  

夏州の動乱 

 十月、高車の酋長胡深が、麾下の将宿勤明達にタク、夏、北華の三州を襲撃させた。魏の朝廷は、北海王へ諸将を与えて討伐させた。北海王は、北海王詳の子息である。 

 同月、朔方の胡が造反し、夏州刺史源子擁を包囲した。城中は食糧が尽き、馬の皮を似て食べるところまで逼迫したが、城民は二心を懐かなかった。源子擁は、自ら食糧をかき集めに出ようと考え、その間、子息の源延伯に統萬を守らせることにした。すると、将佐が、皆、言った。
「今、四方が離反しており、食糧が来るアテはありません。親子共々逃げるべです。」
 すると、源子擁は泣いて言った。
「我は代々、御国の御恩を蒙った。この城に命を賭けるべきだ。ただ、食糧がなければ守ることはできない。だから、東夏州へ出向き、数ヶ月分の食糧を求めようと考えた。もし、幸いにして入手できたなら、この城は必ず保てる。」
 そして、老人兵やひ弱な兵を率いて、東夏州へ旅だった。源延伯と将佐は、涙を流して見送った。
 源子擁は、数日行軍した所で、胡帥の曹阿各抜の襲撃を受け、捕まってしまった。この時、源子擁は密かに使者を出して、「城を固守するべし」とゆう敕を伝えた。城内の人間は憂え、恐れたが、源延伯は言った。
「我が父の吉凶は、まだ判らない。我等はただ、敕を奉じてこの城を固守するだけだ。私の事情で公の責務を棄ててはいけない。諸君もどうか、この想いを持ってくれ。」
 衆人は、彼の義に感じ、奮い立った。
 源子擁は捕らわれたけれども、胡人は彼を大切に扱った。そこで源子擁は、曹阿各抜へ利害を説き、降伏を勧めた。曹阿各抜が卒すると、弟の曹桑生が、部下を率いて源子擁へ降伏した。
 こうして、源子擁は旅を続け、遂に、行台の北海王に会った。ここで、源子擁は諸賊を鎮圧できることを具体的に語った。北海王は納得し、源子擁へ兵卒を与えて先鋒とした。
 この頃、東夏州の大部分が造反しており、源子擁は戦いながら進んだ。三ヶ月の間におよそ数十回戦い、遂に東夏州を平定した。そして、回復した土地から租税の粟を徴収できたので、統萬も二夏も保全することができた。
 源子擁は、源懐の子息である。
 朝廷は、黄門侍郎楊立(日/立)と北海王へタク州の救援を命じた。彼等が進軍すると、賊徒はタク州の包囲を解いて退却した。 

  

李叔仁 

 蜀賊の張映龍と姜神達がヨウ州を攻撃した。ヨウ州刺史元修義は救援を求めた。その逼迫した有様は、一日に九人の使者が相継いで駆け込んでくる程だった。しかし、都督の李叔仁は動かなかった。すると、李立が言った。
「長安は、関中の基本です。もしも長安が陥落したら、大軍が自ずから崩壊します。ここに留まって何になるのですか?」
 そして、李叔仁と共にヨウ州を救援に向かい、姜神達を斬った。残る賊徒は逃げ出した。 

  

廣陽王深 

 廣陽王深が上言した。
「今、六鎮は悉く造反し、高車の二部(高車は、東西の二部に分裂していた)も彼等と同盟しました。疲れ切った兵卒でこれを攻撃しても、勝つことはできません。ここは、精鋭兵を厳選して恒州の諸々の要衝を守り、長期戦に出るべきです。」
 そして、李祟と共に平城まで退却した。
 李祟は諸将へ言った。
「雲中は、白道の要衝で、賊軍の喉元である。もしもこの土地を奪われたら、ヘイ、肆州は危ない。だれか一人をここに留めておきたいが、誰が適任か?」
 すると、諸将は費穆を推挙した。そこで、李祟は費穆を朔州刺史とするよう請うた。
 ところで、李祟は、国子学士の祖宝を長史としていたが、廣陽王深が上奏した。
「祖宝は、挙げた首級を水増しし、軍資を横流ししています。」
 それで、祖宝は罷免され、李祟も又、官爵を剥奪された。以来、廣陽王深が軍政を独占することとなった。 

  

諸国の状況 

 賀抜度抜親子は、武川の宇文肱と共に郷里の豪傑を合し、衛可孤を襲撃し、これを殺した。賀抜度抜は、次いで高車と戦ったが、戦死した。宇文肱は、逸豆帰の玄孫で宇文泰の父親である。 

 高平鎮の民がト胡を攻撃して殺し、共に胡深を迎え入れた。
 汾州の諸胡が造反した。朝廷は章武王融を大都督として、討伐を命じた。 

 魏子建は、南秦の諸テイを招諭し続けていた。彼等は徐々に帰順し始め、十二月になると、六郡十二戍を回復し、韓祖香を斬った。
 孝明帝は、魏子建を刺史のまま、尚書・行台を兼任させた。これによって、梁・巴・二秦・二益の諸州は、彼の節度を受けることとなった。