趙孟、先蔑に背きて幽公を立てる。
 
(春秋左氏伝) 

  哀公の五年、斉侯が患った。彼は、国恵子と高昭子へ、太子の荼を立てるよう命じて崩御した。
 六年、斉の陳乞は、国恵子や高昭子の味方の振りをしていたが、そうやって二人を油断させておいて、諸大夫を煽動し、一気に暴動を起こして二人を追放した。
 こうして国政を牛耳った陳乞は、亡命していた斉の公子陽生を呼び戻した。
 十月、陳乞は陽生を立てて斉侯とした。すると、鮑子が言った。
「お前は亡きご主人の遺志に背くのか。」
 すると、陳乞は言った。
「斉は今、内患外憂を抱えており、幼君では話にならないのです。」 

(東莱博議) 

 国を挙げての悪事は、「義」で阻止する事がたやすいが、個人の悪事を「義」で防ぐ事は困難である。
 ところで、一国には大勢の人間が居る。これを至衆と称するなら、個人は至寡と言える。つまり、「義」は衆には勝てるが、却って寡には負ける、とゆうことである。どうしてそんな事が起こるのだろうか?
 それは、公と私の違いである。
 悪事には、公の悪事があり、私の悪事がある。その悪事が公の心から出ているのなら、大勢の人間が荷担していても、阻止しやすい。逆に、私利私欲から悪事に走った場合、小人数しか荷担していなくても、阻止しにくいのだ。
 だから、君子が難易を論じる時、その悪事に荷担している人間が多いか少ないかよりも、その悪事が公のものか私のものかを第一に考える。 

 廃立とゆうのは、大悪逆である。晋の臣下達は、大人の主君を擁立したかったので、霊公を棄てて公子ヨウを迎え入れた。斉の陳乞は年長の主君を立てたくて、荼を廃して陽生を召した。
 この二つの悪業は同じである。だが、晋が公子ヨウを迎え入れたのは、朝臣が挙って承知しての事だった。ちょっと考えてみれば、とても阻止できそうもない状況だ。だが、意外や意外、後ろ盾も弱い寡婦が口に大義を唱えただけで、この陰謀は腰砕けになってしまった。
 逆に、陽生の陰謀は、たった一人の人間が巡らせたもの。これを阻止するなど簡単な事のように思える。だが、鮑牧のように権力を持った人間が義を唱えたが、阻止できなかった。
 これではまるで、黄河の氾濫は阻止できたけれども、小川が溢れるのを阻止できなかったようなもの。燎原の炎を薙ぎ払えたけれども、糸の先の炎を消せなかったようなものではないか。
 しかし、それも理由があることなのだ。 

 晋の朝臣達が公子ヨウを迎え入れた。彼等は、れっきとした跡取を棄てて、外から主君を迎え入れたのである。主君の事を、まるで将棋の駒のように見ている。それが大悪であることは、言う間でもない。だが、彼等の心情を見てみると、私利私欲に走っていたわけではないのだ。国を危うくさせようと思っていたわけでもない。ただ、年長の主君を推し戴いて、国を安泰にしようと考えただけなのだ。これは、晋の人間全員が、同じように望んでいる事だった。だから、事跡は悪だが、心情は公だったと言える。だから子ヨウを迎え入れる事も、公明正大に行われた。
 卿士が協議して決めた事は公になっていた。支庶を並べ選ぶのも、公に行われた。使者も秦へ公に派遣された。三軍がズラリと並んで出迎える事も公に行われた。挙国を挙げて悪逆に陥ってはいたが、その心は過ちを悟らずに正しいことと勘違いしていただけで、一言一動、全てが明白簡直で、秋豪でも隠そうとゆう気持ちはサラサラなかった。それは、皆の心の中に、公の心が残っていたとゆう事ではないか。
 一国を挙げてヨウを擁立しようと思い、山を排し海を逆さまにするほどの勢いだったが、一寡婦がこれを覆そうと義を唱えれば、国中の人間が慌てふためき焦り切った。その有様はトゲが刺さったようであり、刀を衝きつけられたようであり、薄氷に伏したようであり、秦の精鋭を懼れずして一寡婦の涙を畏れ、速やかにヨウを棄てて霊公を立てた。その掌を返すこと、なんと速やかだった事か。
 私はこれを見て、公から出た悪逆は、大勢の人間が荷担していても阻止しやすい事を知ったのである。 

 これに対して陳乞が陽生を立てた時はどうだったか?「斉国に憂いがある」と言い、幼君を立ててはならないとお題目を唱え、あたかも晋の朝臣達と同じ態度のように見えたけれども、その真意は、策立の功績を貪り、やがて斉国を簒奪する時の為の資けとすることにあった。
 その心情が私利私欲ならば、その事業も私である。だから、陽生を援立する時は、最初から最後に至るまで、徹頭徹尾私を為した。
 高国のもとへ偽って仕官した者は、陳乞が私的に、陽生の障害となるものを取り除こうとての事だった。馬の遠乗りにかこつけて魯の国境を出たのは、陽生が陳乞の招きに私的に応じたのである。陳乞が陽生を召したのは、全て私的な事である。だから、黄昏の薄暗い時を選んでコッソリと入国させ、人々に混じらせてその足跡も消した。その有様はズイズイ然として、泥棒猫や溝鼠のようだった。
 廃立を専断する事は晋の朝臣達も陳乞も同じだったが、陳乞は人に知られることを恐れ、晋の朝臣達は人に知られることを畏れなかった。この違いは、晋の人間は公を以って自ら処し、陳乞は私を自覚していたからである。だから、鮑牧から至公の義を語られた時も、どこ吹く風と聞き流した。そう、陳乞の心は、既に義など物ともしていなかったのである。だから、百人の人間が彼を感悟させようとしても、ちっとも彼の心に触れなかったに違いない。ましてや、たった一人の鮑牧に何が出来ようか。 

 大体において、公に発した悪業は、その根が浅くて揺るがし易い。だから、一国の勢いとはいえ、弱い一婦人がこれに勝って余りあるのだ。逆に、私利私欲に発した悪業は、その根が深くて抜き難い。だから一夫の画策であっても、強い大丈夫でさえ、これを排するに足らないのだ。
 百抱えの大木も、根が土につかなければ、終朝ならずして倒す事が出来る。一握りの雑草でも、その根が九泉の下まではびこっていたら、千夫が力を尽くしても動かす事が出来ない。だから君子は、万人の公毀を受け入れる事が出来るが、一人の私讐を受けようとは思わない。万人の公過を救う事は出来るが、一人の私匿を救う事は出来ないのだ。