張九齢と李林甫  (開元末期)
 
 吏部侍郎李林甫は柔佞で狡猾、悪智恵が働く人間。宦官や妃嬪の家と深く結託し、上の動静を窺って全て知り尽くしていた。だから、奏上文も対話も全てつぼを得ており、上はこれを悦んだ。
 この頃、武惠妃への寵愛は後宮を傾けており、子息の壽王清は他の太子よりも断然愛され、太子への愛情が次第に薄くなっていった。そこで林甫は、“壽王の保護に全力を尽くさせて下さい、”と、宦官を介して惠妃へ申し入れた。惠妃はこれを徳として、ひそかに内側から助けたので、林甫は黄門侍郎に抜擢された。
 開元二十二(734)年六月戊子、裴耀卿を侍中、張九齢を中書令、林甫を礼部尚書、同中書門下三品とした。 

 上が苑中にて麦を播いた。太子以下を率いて彼等へは草を刈らせて言った。
「これは宗廟へそなえるものだから、敢えて自ら行うのだ。それに、お前達へ労働の厳しさを教えたいのだ。」
 また、侍臣達へあまねく下賜して言った。
「人を派遣して農作業を見させても、実際のことは判らない。だから、自ら種を播いてこれを観るのだ。」 

 薛王業が病気になった。上はこれを憂え、容貌はやつれ髪はぼさぼさになるほどだった。七月己巳、卒する。惠宣太子と諡する。 

 上は、裴耀卿を江淮、河南転運使として、河口へ輸場を設置した。
 八月壬寅、輸場の東へ河陰倉、西へ柏崖倉、三門の東へ集津倉、西へ鹽倉を設置する。三門は険阻な地形なので、これを回避する為、輸送の為の運河を十八里掘った。
 従来は、江・淮の米を東都の含嘉倉まで舟で運び、それから車へ載せ変えて三百里陸運して陜まで運んでおり、これだと二斗の米で十銭の輸送料がかかっていた。耀卿は江・淮の舟を全て河陰倉へ運び、そこから河を舟運して含嘉倉や太原倉へ運び、太原倉から渭水へ入って関中へ輸送した。三年の間に米七百万斗を運び、車銭三十万緡を節約させた。
 ある者が、浮かせた銭を献上するよう耀卿へ説くと、耀卿は言った。
「これは公家が節約して得た利益だ。これで寵愛を買い取って良いものか!」
 そして、これを全て市場へ流通させるよう上奏した。 

 二十三年正月乙亥、上が田を耕す。九回耕した。公卿以下は終日耕す。天下へ恩赦を下し、三日間の大宴会を催す。
 上は五鳳楼へ御幸し、宴席へ臨む。観る者は騒ぎまくり、音楽が奏でられない有様。警備兵の白い棒は雨のようだったが、人々の騒ぎを阻むことはできなかった。上はこれを患った。すると、高力士が上奏した。
「河南丞の厳安之は厳格な人間で、人々から畏れられています。彼に止めさせましょう。」
 上は、これに従った。
 安之が到着すると、板で地面へグルグルと線を引き、言った。
「これを越える者は殺す!」
 こうして、三日で宴会は終わった。人々はその線を指さして互いに戒めとし、敢えて犯す者はいなかった。
 この時、都から三百里以内の刺史、県令は各々麾下の楽団を楼下へ集め、音楽を競わせるよう命じた。懐州刺史は車に楽工数百人を載せたが、彼等は皆、綺麗な刺繍をした着物を着ており、車を引っ張る牛には虎や豹や犀や象の扮装をさせていた。魯山令元徳秀は、ただ数人の楽工を派遣して「于為(「草/為」)」を歌わせただけだった。
 上は言った。
「懐州の民は、塗炭の苦しみを味わっている!」
 即座に、刺史を散官へ降格した。
 徳秀は清廉で質朴な性格。士・大夫は皆、その高潔に心服していた。 

 前年、幽州節度使張守珪が契丹を破っていた。
 二月、守珪が東都を詣でて戦勝を告げた。右羽林大将軍、兼御史大夫を賜下する。詳細は、「契丹」に記載する。 

 開元十九年、サイ州都督の張審素が収賄したと、ある人が告発した。そこで検分の為、監察御史楊汪を派遣した。すると、総管董元禮が七百人の兵を率いて汪を包囲し、告発者を殺して汪へ言った。
「審素の事を善く上奏したら生かしてやるが、そうでなければ死ぬぞ。」
 だが、救援の兵が到着し、これを攻撃して斬った。汪は、審素が謀反したと上奏した。
 二十二年十二月、審素は斬罪となり、その家は官に没収された。
 後、楊汪は萬頃と変名した。審素の二人の子息皇(「王/皇」)と秀(「王/秀」)は連座で嶺表へ流されたが、逃げ出し、復讐を謀った。
 二十三年三月丁卯、都城にて自身の手で萬頃を殺し、斧へ告発文を繋ぎ止めて父親の冤罪を言い立てた。更に江外へ赴いて萬頃と共に父親を陥れた者を殺そうとしたが、水にて役人に捕まった。
 これについて協議させたところ、議者の多くは”二子の父親は罪もないのに殺されたし、年端もいかないのに孝烈にも父の復讐をできたものだ。”と言って、お慈悲を請うた。張九齢もまた、彼等を殺したくなかった。裴耀卿と李林甫は、そのようなことをしたら国法が壊れると言った。上も同意して張九齢へ言った。
「孝子の心情は、義として命を捨てているものだ。それに、殺人者を赦すとゆう前例を造ってはならない。」
 そして敕を下した。
「国家が法を設けたのは、殺人をやめさせる為だ。各々が子としての志を伸べようとしたとても、全ての人に孝の心があるのだ!互いに復讐をしあうようになっては、どこで終わるか!咎 が士を作ってから、法は必ず施行された。たとえ曾参でも、人を殺したら恕されない。宜しく河南府にて杖殺させよ。」
 士民は兄弟を憐れんで、彼等の為に哀悼文を作り道へ立てた。市民は募金して彼等を北亡(「亡/里」)へ葬ったが、萬頃の家族が墓を暴くことを恐れ、あちこちへ塚を造って本物がどれか判らなくした。
(訳者、曰く)開元十九年の事件と、二十三年の事件を繋げてみました。前半を読むと張審素が造反したとしか思えませんが、後半では冤罪としか思えません。しかもこの事件についての途中経過は一切ありませんでした。
 果たして、真相はどうなのか?すごく気になります。司馬光のボーンヘットですね。 

 十二月乙亥、もとの蜀州司戸楊玄炎(「王/炎」)の娘を壽王の妃に冊立した。
 玄炎はの曾孫である。 

 二十四年二月甲寅、朝堂にて新任の県令達と宴会を催した。上は”令長城戒”一篇を作り、天下の県令へ賜下する。 

 庚午、皇子の名を変名する。鴻を潭をj、浚を與(「王/與」)、洽を炎(「王/炎」)、涓を瑤、滉を宛(「王/宛」)、居(「水/居」)を居(「王/居」)、維(「水/維」)を遂(「王/遂」)、雲(「水/雲」)をゲキ、澤をリン、清を瑁、を分(「王/分」)、朮(「水/朮」)をg、溢を環、  を理、を此(「王/此」)、崔(「水/崔」)を珪、澄を共(「王/共」)、惠(「水/惠」)を眞(「王/眞」)、従(「水/従」)を睿(「王/睿」)、滔を敬(「王/敬」)とした。 

 守珪が、平盧討撃使、左驍衞将軍安禄山に奚・契丹の造反者を討伐させた。詳細は、「安史の乱」に記載する。 

 もとの連州司馬武攸望の子息温脊は、権貴と交際した罪で、杖で打ち殺された。
 四月乙丑、朔方、河東節度使信安王韋を衢州刺史、廣武王承宏を房州別駕、州刺史薛自勧を豊(「水/豊」)別駕へそれぞれ降格する。皆、温脊と交遊があった為である。承宏は守禮の子息である。
 辛未、蒲州刺史王居(「王/居」)を通刺史へ降格した。韋と文通した罪である。 

 八月壬子、千秋節である。群臣は皆、宝鏡を献上した。張九齢は”鏡で自分の姿形を見るように、人を見て自分を顧みて吉凶を見てください、”とて、前世の後背の原因を五巻の書に造り、これを「千秋金鏡録」と名付けて上納した。上は、書を賜下して褒美とした。 

 御史大夫李適之は、承乾の孫である。才幹で上から気に入られ、しばしば承乾のことを論じた。
 甲戌、承乾へ恒山愍王の爵位を追賜する。 

 冬、十月戊申、車駕が東都を出発した。
 以前、来年の二月二日に西京へ御幸すると敕にて予告していた。だが、宮中にて怪異が起こったので、その翌日、上は宰相を召して即座に西へ行こうと相談したのだ。すると、裴耀卿と張九齢は言った。
「まだ、農民の収穫が終わっておりません。仲冬を待ちましょう。」
 李林甫は密かに上の意向に気がついていたので、二相が退出しても一人だけ留まり、上へ言った。
「長安と洛陽は、陛下の東西の宮殿のようなもの。これを往来するのに、どうして時節を選ぶのですか!農業の収穫を妨げるとゆうのなら、その負担に応じて通過する場所の租税を減らせばよいのです。どうか即日西へ向かうと、百司に宣示してください。」
 上は悦び、これに従う。
 陜州を過ぎる時、刺史の盧奐が善い政治をしていたので、その政務を褒め称える文を残して去った。奐は懐慎の子息である。
 丁卯、西京へ到着する。 

 朔方節度使牛仙客は、以前は河西で働いていたが、よく節約して職務に励んだおかげで官庫は充満し器械は整備されていた。上は、これを聞いて喜び、尚書を加えようと思った。すると張九齢が言った。
「いけません。尚書は昔の納言です。唐が興って以来、宰相経験者か、中外で徳望の高い者だけしかこれになりませんでした。仙客はもともと河湟使典、今、これを即座に文官の要職につければ、朝廷の恥となります。」
「それでは実封を加えればよいか?」
「いけません。功績を立てようとゆう気持ちを煽る為に、実績ある者を爵位に封じるのです。辺域の将が官庫を満たし器械を整備するのは、常の職務に過ぎず、功績と為すに足りません。陛下が、その勤労を賞したいのなら、金帛を賜下すれば良いのです。領土を割いて封じるなど、妥当な処置ではありません。」
 上は黙り込んだ。
 李林甫は上へ言った。
「仙客は、宰相の才覚を持っています。尚書くらいこなせます。九齢は書生だから、大礼を知らないのです。」
 上は悦んだ。翌日、仙客を封じると再び言った。九齢は当初の意見に固執した。上は怒り、顔色を変えて言った。
「政務は、全て卿の言うとおりにしなければならないのか?」
 九齢は頓首して言った。
「陛下は臣のような愚か者を、宰相に抜擢してくださいました。ですから臣は、良くないと思ったことには言葉言い尽くさずにはいられないのです。」
「卿は、仙客が卑しい出自なのを嫌っているが、卿はどんな家門なのだ?」
「臣は僻地の賎しい出身、仙客が中華で生まれたのにも及びません(九齢は韶州、仙客は徑州の生まれ)。しかし、臣は長い間台閣に出入りして誥命も典司しています。仙客は辺境の小吏で、書を読むこともできません。もしも彼へ大任を任せれば、衆望に背くでしょう。」
 退出すると、林甫が言った。
「いやしくも才識があれば、辞学など必ずしも必要ではありません。天子が人を用いるのに、いけないことなどありません!」
 十一月戊戌、仙客へ隴西県公の爵位を賜り、実封三百戸を食ませた。
 上が林甫を宰相にしようと思った時、当時中書令だった張九齢へ問うた。すると、九齢は答えた。
「宰相は、国の安危に関わります。陛下が林甫を宰相になされたら、いつか社稷の憂いとなりましょう。」
 上は従わなかった。
 その頃、九齢は文学で上から重んじられていたので、林甫は恨んだけれども、表に出さずに彼と接していた。侍中の裴耀卿は九齢と仲が善かったので、林甫は彼のことも煙たがった。ところが、今では上も在位して長くなり、次第に奢侈や我が儘が募り初め、政事にも怠惰になってきた。それなのに、九齢は事件の細大に関わりなく全て力争している。李林甫は巧みに上に取り入りながら、日々彼等を中傷することを考えるようになった。
 上が臨シ王だった頃、趙麗妃、皇甫徳儀、劉才人の三人が特に寵愛されていた。麗妃は太子の瑛を産み、徳儀はガク王瑤、才人は光王居を産んだ。
 即位するに及んで、武惠妃を寵愛し、麗妃等の寵愛は薄れていった。惠妃は壽王瑁を産み、その寵愛は諸子の中でずば抜けていた。
 太子と瑤、居が内第で顔を会わせたとき、各々自分の母親が上から顧みられなくなったことを怨望して語り合った。フ馬都尉の楊は咸宜公主を娶っていたが、彼はいつも三子の過失を探っては武惠妃へ密告していた。惠妃は上へ泣いて訴えた。
「太子は密かに党類と結託し、妾母子を殺そうとしています。また、陛下を退位させるつもりです。」
 上は大いに怒って宰相に語り、三子を廃立しようとした。九齢は言った。
「陛下は即位されてから三十年になろうとしています。太子や諸王は深宮から離れずに日々聖訓を受けています。天下の人々は、皆、陛下が永刻の国を統治して多くの子孫を持たれたことを慶んでおるのです。今、三子は皆、既に成人になっており、大きな過失も聞きませんのに、陛下はどうして根も葉もない噂一つに心を動かされ、一日にして全員を廃されるのですか!それに、太子は天下の本です。軽々しく揺らしてはいけません。昔、晋の献公が驪姫の讒言を聞き入れて申生を殺してから、三世に亘る大乱となりました。漢の武帝が江充のでっち上げを信じて戻太子を罰すると、京城では流血騒ぎが起こりました。晋の恵帝が賈后の譖を用いて愍懐太子を廃すると、中原の民は塗炭の苦しみを味わいました。隋の文帝が独孤后の言葉を容れて太子の勇を黜きますと、煬帝が立って遂に天下を失いました。これらを見ますに、慎まなければなりません。陛下がどうしてもと望まれても、臣は敢えて詔を奉じません。」 
 上は不機嫌になった。
 李林甫は、初めは何も言わなかったが、退出すると寵用されている宦官へ私的に言った。
「これは上の家庭のことだ。なんで外の人間に問う必要があるのか!」
 だが、上は尚も躊躇して決断しなかった。
 官奴の牛貴児が惠妃の命令で、九齢へ密かに言った。
「廃される者がいれば、必ず興る者が出るのです。公がこれを後援すれば、いつまでも宰相でいられますぞ。」
 九齢はこれを叱りつけ、その言葉を上へ語った。上はこれに心を動かし、太子は廃されずに済んだ。
 林甫は日夜、上へ九齢の悪口を吹き込んだので、上は次第に彼を疎み始めた。
 林甫が蕭Qを引き立てて、戸部侍郎とした。 Qはもともと学がなく、ある時中書侍郎厳挺之の字の「伏臘」を「伏猟」と読んだ。挺之は、九齢へ言った。
「省中で、どうして『伏猟侍郎』を入れられようか!」
 これによってQは岐州刺史へ出向させられた。この事件で林甫は挺之を怨んだ。
 九齢は挺之と仲が善く、彼を宰相に引き上げたくて、彼へ言った。
「李尚書は陛下のお気に入りだ。足下は新しい友人として懇意に付き合ってくれ。」
 挺之はもともと自負心が強く、林甫の為人を軽蔑していたので、遂に彼のもとへ出向かなかった。林甫の恨みはますます深くなった。
 挺之は離縁したことがあるが、別れた妻は蔚州刺史王元炎(「王/炎」)と再婚した。元炎は、やがて収賄罪で三司の詮議を受けたが、挺之は彼の為に仕事を休んだ。近習達が、李林甫の意向を受け、これを禁中にて上へ伝えた。上は宰相へ言った。
「挺之は罪人の為に連座を請うたぞ。」
 九齢は言った。
「これは挺之の別れた妻のことです。情はありません。」
「離縁したとはいえ、私情が残っていたのだ。」
 ここにおいて上は、今までのことが積み重なり、耀卿、九齢は徒党を組んでいるとした。
 壬寅、耀卿を左丞相、九齢を右丞相として、ともに政事をやめさせた。林甫は中書令を兼務する。仙客は工部尚書、同中書門下三品として、領朔方節度使はそのまま続けさせる。厳挺之は洛州刺史へ降格。王元炎は嶺南へ流した。
 上が即位以来用いた宰相達は、姚祟は通を尚び、宋mは法を尚び、張嘉貞は吏を尚び、張説は文を尚び、杜進は倹約を尚び、韓休・張九齢は直言を尚ぶ、と、それぞれ長所があった。だが、九齢が罪を得てからは、朝廷の士は皆、保身のみに走って、直言がなくなった。
 李林甫は人主の耳と目を塞いで自分が大権を独占しようと思い、諸諫官を召集して言った。
「今、明主が上にいる。群臣は、その指示に従っていれば良い。どうして多言を用いるか!諸君は仗馬が立っているのを見たことがないか?あの馬は、毎日三品の食料を食べられるが、一声いなないたら、すぐにお役御免だ。後悔しても及ばないのだぞ!」
 補闕の杜進(「王/進」)が上意に逆らうことを上書した。翌日、彼は下圭(「圭/里」)令に降格された。これより、諫争の路が途絶えた。
 牛仙客は、李林甫から引き立てられたので、ただ諾々とするだけだった。二人とも格式を謹守していたが、百官の遷除には各々法則があった。奇才異行でも年をとるまで異例の出世はなかったが、諂いが巧みで腹黒い人間はどんどん出世した。
 
 二十五年二月、敕が降りた。
「進士は名声だけで学があるとされ、古今に暗い者が多い。明経はその内容に精通していることが大切なのだ。今後は明経で大義十条を問い、時務策三首を述べさせる。進士は大経十帖を試す。」 

 四月辛酉、監察御史周子諒が牛仙客を非才であると弾劾し、讖書を引いて証拠とした。
 上は怒り、左右に命じて殿庭にて殴らせた。子諒は気絶したが、やがて蘇生した。すると今度は麻堂にて杖打ち、襄(「水/襄」)州へ流したが、その途上、藍田にて卒した。
 李林甫は言った。
「子諒は、張九齢が推薦した者です。」
 九齢は荊州長史へ降格となった。
 以後、九齢は荊州長史のまま二十九年二月に卒した。
 上は、彼が旨に逆らったので地方へ追いやったのだが、それでも彼の人格は愛重しており、宰相が士を推薦する度に言った。
「九齢のような風格があるかな?」 

 ”太子瑛とガク王瑤、光王居が、太子妃の兄のフ馬薛粛(「金/粛」)と密かに異謀を語っていた、”と、楊が再び上奏した。上は宰相を召してこれを謀る。
 李林甫が言った。
「これは陛下の家庭のことです。臣等が関わることではありません。」
 上の想いは決した。
 四月乙丑、宦官へ、”瑛、瑤、居を廃して庶人にし、粛は襄(「水/襄」)州へ流す”と宮中に宣制させた。
 ついで瑛、瑤、居は白東駅にて死を賜り、粛は藍田にて死を賜った。
 瑤も居も学問を好んで才識もあり、罪もないのに殺されたので、人々はこれを惜しんだ。
 丙寅、瑛の舅の一族趙氏、妃の一族薛氏、瑤の舅の一族皇甫氏が、連座で数十人、流されたり降格されたりした。ただ、瑤の妃の一族韋氏は、妃が賢人だったので免れた。 

 五月、夷州刺史楊濬が収賄で死罪になるところを、上は杖六十と命じて古州へ流した。左丞相裴耀卿が、上疏した。その大意は、
「死罪を杖へ減刑したのは、非常な恩義であります。しかし、裸にして笞打たれるとゆうのが、どれ程の恥辱でしょうか。こうゆう施しは奴隷や庶民のみにして、士人へは行いませんよう。」
 上は、これに従った。 

 癸未、辺境の乱を平定するよう敕が降りた。中書門下と諸道節度使に軍陳間の利害を量らせ、軍費の定額を産出させ、諸外国からの降人や客戸から丁壮を募兵し、辺境の軍卒へ充てた。田宅を増給し、務めて労わせた。 

 七月己卯。大理少卿徐喬(「山/喬」)が上奏した。
「今年、天下の死刑は五十八人しかおりませんでした。今までは、大理獄院からは殺気が満ち溢れ、雀でさえも巣を掛けなかったものでしたが、今では鵲がその木に巣を造っております。」
 ここにおいて百官は、罪人が減ったとして、上表して祝賀した。
 上は、それを宰輔の功績とした。庚辰、李林甫へ晋国公、牛仙客にタク国公の爵位を賜下した。
 上は、李林甫、牛仙客と法官へ律令格式を編纂し直すよう命じていたが、これが完成した。九月壬申、これを頒布する。 

 太常博士王與(「王/與」)が上疏して、青帝檀を立てて春を迎えるよう請うた。これに従う。
 冬、十月辛丑、今後、立春には東郊にて迎春をするよう敕する。
 この頃の上は、鬼神を祀る事をとても好んでいた。だから、與は祠祭の礼だけを学んで進言した。上はこれを悦び、侍御史、領祠祭使とした。
 與の祈祷は、あるいは紙銭を焚いたりするもので、巫事の類だった。だから、礼を習った者はこれを羞じた。 

  十一月己丑、開府儀同三司廣平文貞公宋mが卒した。 

 十二月丙午、惠妃武氏が卒した。貞順皇后の諡を賜下する。
 彼女は、翌年二月己未、敬陵へ葬られる。 

  この年、将作大匠康 素へ、東都へ行って明堂を壊すよう命じた。すると、 素は上言した。
「これを壊すのは大変な労力が要ります。どうか上層を撤去して、旧来より九十五尺低くして、乾元殿としてください。」
 これに従う。 

 二十六正月乙亥、牛仙客を侍中とする。 

 壬辰、李林甫を隴右節度副大使として、ゼン州都督杜希望を留後とした。
 二月乙卯、牛仙客へ河東節度副大使を兼任させる。
 五月乙酉、李林甫へ河西節度使を専任させる。 

 太子英が卒して後、李林甫は屡々寿王iを立てるよう上へ勧めた。上は、忠王與が年長であり、その人格が仁孝恭謹で学問を好んでいたので、彼を立てたかったのだが、なお躊躇して一年余りも決断できなかった。だが、自身がますます老いて行くことを感じ、三子を同日に誅殺した上世継ぎが決まっていないので、いつもぼんやりとしていて楽しまず、夜も寝られず食欲もなくしてしまう有様だった。
 高力士が合間を見て心痛の理由を尋ねると、上は言った。
「汝は我が家に長く務めているのに、どうして我が思いが判らないのか!」
 力士は言った。
「世継ぎが決まらないせいですか?」
「そうだ。」
「大家、何でその様に聖心を思い煩わせるのですか。ただ年長を推して立てれば、誰が敢えて争いましょうか!」
「汝の言うとおりだ!汝の言うとおりだ!」
 これによって、ついに決定した。
 六月庚子、與を太子に立てた。
 太子が冊命を受けるにあたって、中厳、外弁及び絳紗袍を身に纏うのが儀礼だった。太子は至尊と同じ格好をすることが畏れ多くて、上表してこれを代えるよう請うた。左丞相裴耀卿は、中厳を停止し、外弁を外備と改称し、絳紗袍を朱明服へ改めるよう上奏した。
 秋、七月己巳、上は宣政殿へ御幸して、太子を冊立した。
 故事では、太子は輅に乗って殿門へやって来る慣わしだった。ここにいたって、太子は輅に乗らず、宮から歩いて入った。
 この日、天下へ恩赦を下す。
 己卯、忠王の妃韋氏を太子妃に冊立する。 

 この年、西京と東都の往来の道に、行宮千余間を造る。 

 潤州刺史斉幹(「水/幹」)が上奏した。
「瓜歩から江を渡れば、六十里も迂回することになります。どうか京口ダイから直接江を渡ってください。伊婁河から二十五里運河を掘って揚子県へ繋がります。伊婁堤を立ててください。」
 これに従う。 

 二十七年正月壬寅、隴右節度大使栄王宛へ、本道へ戻って管轄下の諸軍を巡り、関内、河東の壮士三十五万人を選び隴右の防備に向かうよう命じた。ただし、秋になっても来寇がなければ、帰ってくることを許した。 

 群臣が、「聖文」の尊号を加えるよう請うた。
 二月己巳、これを許す。そして天下へ恩赦を下し、百姓へは今年の田租を免除する。 

 四月癸酉、敕が降る。
「諸々の陰陽術数は、婚姻や葬礼、占い以外、これを禁じる。」 

己丑、牛仙客を兵部尚書兼侍中、李林甫を吏部尚書兼中書令として、文武の人事を統べさせる。なお、牛仙客の朔方、河東節度使については、二十八年十一月にやめさせた。 

 六月、癸酉、御史大夫李適之へ幽州節度使を兼任させる。
 幽州の将趙甚(「土/甚」)と白眞施羅が、張守珪の命令をでっち上げて、造反した奚の残党を横水にて討伐するよう、平盧軍使烏知義へ命じたが、知義は従わなかった。すると白眞施羅は、制をでっち上げてこれを強要した。知義はやむを得ず出陣した。虜と遭遇して戦い、最初は勝ったが、次に負けた。
 守圭は敗戦を隠蔽し、戦勝のみを報告した。
 これが露見して、上は内謁者監牛仙童へ現地の視察を命じた。守圭は仙童へ厚く贈賄し、全ての罪を白眞施羅へ押しつけて、これを首吊り自殺させた。
 仙童は上から寵愛されていたので、多くの官吏が彼を憎んでいた。そこで、皆が共謀してこれを告発した。上は怒る。
 甲戌、これを杖で殴り殺すよう、楊思助(「日/助」)へ命じた。思助は仙童を縛り上げて数百打ち据え、心臓をえぐり取り、その肉を食らった。
 守珪は有罪となり括州刺史へ降格。
 太子太師蕭嵩は、かつて城南の良田数頃を仙童へ賄賂として贈っていた。李隣保がこれを告発したので、嵩は有罪となり、青州刺史へ降格させられた。 

 九月、太子が、「紹」と改名する。 

 十月辛巳、東都の明堂を改修する。十一月甲辰、明堂が完成する。 

 二十九年正月丁酉、制が降りる。
「従来、諸州で飢饉が起こった時には、上奏した結果を待ってから官庫を開いて民を救済していた。しかし、道が遠い時には、どうして救済に間に合おうか!今後は、州県の長官と采訪使が状況を判断して給付し、事後報告とせよ。」 

 上が、夢で玄元皇帝から告げられた。
「京城の西南百余里に、吾が像がある。汝は使者を派遣してこれを求めよ。吾は、興慶宮にて汝とまみえよう。」
 上が使者を派遣したら、楼観山の中でこれを得た。
 夏、閏四月、これを興慶宮へ迎置する。
 五月、玄元の姿を絵に描かせて、諸州の開元観へ置かせた。 

 十一月、庚戌、司空の分(「分/里」)王守禮が卒した。
 守禮は、凡庸な人間で学識はなかったが、雨が降ったり晴れたりするときには、必ずこれを予言し、それがまたピタリと当たった。
 岐、薛諸王は、上へ言った。
「分兄は、不思議な術を持っています。」
 そこで上が尋ねてみたところ、守禮は答えた。
「臣は不思議な術など持っていません。ただ、則天武后の頃、章懐の一件で宮中へ十余年幽閉され、毎年杖で四回打たれたのです。その傷跡が背中に瘡蓋となって厚く残っております。雨が降ろうとするときにはそれが重くのしかかってきますし、晴れようとした時には、軽爽になるのです。ですから、臣は天気を予測できるだけです。」
 言っているうちに零れた涙が襟を濡らした。上も、また、彼の為に心を悼めた。 

 同月辛未、太尉の寧王憲が卒した。上はことに甚だしく哀しみ嘆いて、言った。
「天下は兄上の天下なのに、兄は我へ強く譲り、唐の太伯となった。常の褒め言葉では褒め足りない。」
 そこで、譲皇帝と諡した。
 その子の汝陽王進(「王/進」)は、上表して父親の志を述べ、その謙譲の為人なら帝号を必ず辞退すると言ったが、上は許さない。納棺の日、天子の服を着せ、霊前に自ら書いた書を置いたが、それには「隆基申す」と署名されていた。
 また、彼の墓を惠陵と言い、その妃の元氏を恭皇后は追諡し、共に埋葬した。 

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