林邑  (今のベトナム)
文帝の末年、林邑に奇宝が多いと言う臣下達が居た。その頃、天下に大きな騒乱もなく、劉方が交州を鎮定したので、彼を方驩道行軍総管として、林邑を経略させた。劉方は一万余の兵を越棠から出陣させ、自身は比景から水軍で出征した。
 仁寿四年(604年)、煬帝が即位する。
 大業元年(605年)、正月。劉方軍は海口へ到着した。
 林邑王梵志は、険阻な地形で守りを固めたが、劉方はこれを撃破。梵志軍は逃げ出した。
 劉方軍が闍黎江を渡ると、林邑軍は巨象に乗って四方から攻めてきた。劉方は旗色が悪くなったが、罠を考えた。浅い穴を掘り、その上を葉っぱなどで覆い隠し、わざと敗北したふりをしてその落とし穴へ象軍を誘き寄せた。林邑軍はそうと知らずに追撃したので、象達は次々と転倒して大混乱に陥った。そこをすかさず劉方軍が矢を射かけたので、象達は逃げまどい、味方の陣を蹂躙した。そこへ劉方の精鋭が攻めかかったので、林邑は大敗し、死者や捕虜は一万を越えた。
 劉方は更に追撃し、連戦連勝。馬援の銅柱の南を過ぎて八日で林邑の国都へ至った。
 四月、梵志は城を棄てて海へ逃げた。劉方は入城し、戦功を石碑に刻んで帰った。
 しかし、士卒の四割方は足が腫れ上がったりして死に、劉方自身発病して、帰国途上で卒した。
 ところで、かつて李綱は、楊素や蘇威の意見に異議を申し立てることが屡々あった。そこで楊素は、李綱を劉方の行軍司馬として推薦した。劉方は楊素の意向を汲み取り、李綱を凌辱した。その為に、李綱は何度も死ぬような目にあった。
 戦争が終わって李綱は戻ってきたが、やがて、蘇威は李綱を再び南海へ派遣した。
 やがて蘇威は李綱を弾劾して、ガク県(京兆郡に属する)に謹慎を命じた。 

  

 唐の武徳六年(623)林邑王梵志が、使者を派遣して入貢した。
 もともと、隋の人間が林邑を破り、その土地を三郡にした。だが、中原で騒乱が起こると、林邑は再び独立した。ここに至って、始めて入貢したのである。 

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