林士弘  馮央(「央/皿」)
 

 ハン陽の賊帥繰師乞が元興王と自称して、元号まで創った。豫章郡を攻略する。同郷の林士弘を大将軍とした。
 煬帝は治書侍御史劉子翊へ、これの追討を命じた。
 繰師乞は流れ矢に当たって戦死したが、林士弘がその部下を率いて劉子翊と決戦し、劉子翊は戦死した。これによって林士弘は威名を流し、十余万の大軍に膨れ上がった。
 大業十二年(616年)十二月、林士弘は皇帝を潜称し、国号を楚と定めた。
 林士弘は、更に九江、臨川、南康、宜春等の郡を奪取した。すると、各地の豪族達が競って隋の守令を殺し、郡や県ごと彼の配下へ入った。こうして北は九江から南は番禺まで、彼が領有した。 義寧元年(617年)十二月、方與の賊帥張善安が、廬江郡を襲撃して、落とした。彼はそのまま揚子江を渡り、豫章にて林士弘へ帰順した。
 だが、林士弘は張善安を信じられず、南塘上へ屯営させた。張善安はこれを恨み、林士弘を襲撃して、その城を焼き払い、去った。林士弘は、南康へ移住した。すると、蕭銑が豫章を攻撃した。林士弘は、餘干まで退いた。 

  

 唐の武徳三年(620年)廣・新二州の賊帥高法澄と沈寶徹が隋の官吏を殺して州に據り、林士弘へ帰属した。
 隋の漢陽太守馮央(「央/皿」)が、これを撃破したが、しばらくすると寶徹の兄の子の智臣が再び新州にて兵を集めた。央が兵を率いてこれを攻撃する。賊が結集すると、央は甲を脱いで大呼した。
「お前らは、俺を知らないのか!」
 すると、賊徒の大半は、武器を棄てて肌脱ぎになり、馮央を拝礼した。(馮央は、祖母の洗夫人以来、嶺南で畏敬されていた。)遂に、賊軍は壊滅し、馮央は寶徹と智臣を捕らえた。こうして、嶺外は平定された。 

 武徳五年(622年)蕭銑が滅亡すると、その兵卒達の大半は林士弘へ帰順したので、その勢力は再び増大した。 

 七月、丁酉、馮央が李靖の檄文を読み、手勢を率いて唐へ来降した。そこで、その領土を高、羅、春、白、崖、 、林、振の八州とし、央は高州総管として耿国公へ封じた。
 話は遡るが、ある人が央へ説いた。
「唐は中原を平定したばかりで、その支配力は遠方へは及んでいません。公の所領は、既に二十州。その領土はかつての趙佗(漢紀に出てくる。)よりも広いのです。南越王と自称されれば宜しい。」
 すると、央は言った。
「我が家は、ここで暮らすようになって、私で五代目だ。だが、牧や伯となった者は、吾が一門には一人も居ない。富貴は極めたけれども、負荷に耐えられずにご先祖へ顔向けできなくなるのではないかと常に恐れているのだ。なんで趙佗に倣って一方の王になったりできようか!」
 遂に来降した。
 ここにおいて、嶺南はすっかり平定した。 

 十月、林士弘が、その弟の番(「番/里」)陽王薬師を派遣して、循州を攻撃した。刺史楊略がこれと戦い、薬師を斬る。その将王戎は、南昌州を以て降伏した。
 士弘は懼れ、己巳、唐へ降伏を請うたが、やがて逃げ出して安成山洞を確保した。袁州の人々が集まって、これに呼応する。
 洪州総管若干則が派兵してこれを攻撃し、破った。
 士弘が死んだので、その部下達は散り散りに逃げた。 

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