李密、その三
 
 王世充に大敗した李密は、唐へ帰順することにした。
 李密が他の政権の傘下へ入ったので、李密の将帥や州県の大半は、隋へ投降してしまった。
 李密が唐へ向かうと、唐の高祖はねぎらいの使者を次々と派遣した。李密は、大いに喜んで従者へ言った。
「我は百万の兵を擁しながら、一朝にして武装を解除し唐へ帰順するのだ。山東には、数百の城がある。我が唐へ帰順したことを知らせて使者を派遣して招けば、彼等もまた全て唐へ帰順するだろう。この手柄は竇融以上だ。これだけの持てなしも当然ではないか!」
 十月、長安へ到着した。やがて、李密への持てなしは次第に薄くなり、部下の兵卒達も食事が満足に与えられなかったので、怨みが募ってきた。やがて、李密は光禄卿、上柱国となりケイ国公の爵位を賜った。(光禄卿とは、封地を持たない貴族のこと。)この地位には李密は不満だった。朝臣の多くも彼を軽視したし、執政は彼へ賄賂を求めたりしたので、李密は益々不満が溜まった。ただ、高祖一人、李密を礼遇した。高祖は、彼のことを常に「弟」と呼んだ。李密が、高祖の舅の娘の独孤氏を娶っていた為である。
 李密の総管李育徳が武渉ごと李淵へ帰順した。その他、劉徳威、賈閠甫、高季輔等が、あるいは城邑ごと、あるいは手勢を率いて、次々と李淵へ帰順した。十一月には、王軌も滑州ごと唐へ帰順した。 

 ここで、北海の賊帥其公順について述べる。
 公順は、かつて三万の兵力で北海郡城を攻撃した。外郭を落とし、子城へ迫り、城内では食糧が尽きた。公順は、朝夕にでも落とせると多寡を括って、防備さえもしなかった。すると、明経の劉蘭成が、城中の健児百余人をまとめ上げてこれを襲撃した。それを見て、城内の正規兵もこれに続き、公順は大敗した。賊軍は陣営を棄てて逃げ、北海城は守り通せた。
 ここにおいて、郡官は城中の民を分かちて六軍と為し、劉蘭成も一軍の将とした。だが、ここに宋書佐とゆう男が、諸軍へ吹聴した。
「劉蘭成は、衆人の人気を得ている。何をしでかすか判らないぞ。殺してしまうのが一番だ。」
 衆人は、さすがに殺すに忍びなかったが、結局、劉蘭成から兵卒を取り上げて宋書佐へ授けた。
 劉蘭成は、身の危険を感じて公順のもとへ亡命した。公順の軍中は大喜びで、彼を盟主へ祭り上げようとしたが、劉蘭成は固辞して長史となった。しかし、軍事のことでは、大抵彼の意見が通った。
 劉蘭成が賊軍へ身を投じて五十余日、彼は軍中の驍健百五十人を率いて北海城へやって来た。城から四十里の所へ十人を留めて草を刈らせ、草の束を百余りも積み上げさせた。城から二十里の所で更に二十人を留め、各々へ大旗を持たせた。五・六里の所で更に三十人を留め、伏兵とした。劉蘭成自身は十人を率いて、夜、城から一理の所へ潜んだ。残りの八十人は、あちこちへ潜ませ、軍鼓の音を聞いたら人や家畜を略奪するよう言い含めた。
 翌日、城中から外を見てみると、敵の姿がなかったので、住民達は木こりや放牧に出てきた。日が高くなると、劉蘭成は十人を率いて城門へ駆けつけ、城の上で鉦や軍鼓を乱打した。それを合図に伏兵が飛び出し、家畜十余頭と木こりや放牧の民をさらって逃げた。劉蘭成は、皆が遠くへ逃げた頃を見計らって去った。
 城内から兵は出てきたが、伏兵を恐れて急追はしなかった。また、前方には旌旗がたなびき狼煙も上がっている。ついに、進軍せずに帰った。後、劉蘭成の兵が百五十人しかいなかったことを知り、追撃しなかったことを悔やんだ。
 更に一月ほど経って、劉蘭成は郡城を奪おうと考えた。二十人を率いて城門まで来ると、城内の兵が飛び出してきた。だが、十里も追いかけないうちに、其公順が大軍を率いて現れた。郡兵は慌てて城まで逃げ帰る。其公順は、これを包囲した。そこで、劉蘭成が一言招諭すると、城中の人々は争って降伏してきた。
 劉蘭成は老人や幼子へ優しくし、郡官は礼遇した。そして、宗書佐へも従前のように謙ったので、内外は安堵した。
 其公順が北海を占拠したとの噂が流れると、海陵の賊帥蔵君相が五万の兵を率いてこれと争いに来た。其公順の兵力は少なかったので、それを聞いて大いに懼れた。そこで、劉蘭成が言った。
「蔵君相は、まだずいぶんと遠くにいますから、油断して防備を固めてはいないでしょう。いまから驍勇五千騎を選んで、全速力で駆けつけ襲撃するのです。」
 其公順はこれに従い、五千騎の精鋭を自ら率い、たっぷり腹ごしらえをさせた後、これを急襲した。
 劉蘭成は、決死隊二十人と共に先行し、蔵君相の陣営から五十里の所で様子を窺った。すると、近隣で略奪を行った者達が、陣営へ戻っているのに出会った。そこで劉蘭成は仲間のふりをして略奪品などを運んでやり、共に陣営へ入って、その虚実をつぶさに探った。そして夜になると、突然火を付けて手当たり次第斬り殺した。蔵君相軍は大混乱に陥ったが、そこへ其公順軍が到着して襲撃を掛けた。蔵君相は体一つで逃げ出し、数千人の賊徒が捕斬される。其公順は、資財や兵糧を奪って帰った。
 これによって、其公順の威勢は大いに挙がった。やがて、李密が洛口を占拠すると、其公順は彼へ帰順したが、今回、その李密が敗北したので、彼は唐へ帰順した。 

 徐世勣は、李密の旧領に據って、どこにも帰順しなかった。魏徴は李密と共に長安へ行ったが、自ら山東を安集しようと請願したので、李密は秘書丞として黎陽へ派遣し、降伏を勧告させた。徐世勣は遂に李淵への帰順を決意し、長史の郭孝恪へ言った。
「この土地も民も、全て魏公のものだ。私がこれを献上するのは、主君の敗北を好機にして自分で利益を得ることになる。実に恥じるべき行いだ。今、この戸籍は全て魏公へ渡し、魏公から献上して貰おう。」
 そして、まず郭孝恪を長安へ派遣した。また、兵糧などは全て淮安王神通へ渡した。
 さて、徐世勣の使者が上洛しながら、李淵へは何の前触れもなく、ただ李密へだけ文書を渡したと聞いて、李淵は非常に怪しんだが、郭孝恪が実情をつぶさに述べると、感嘆して言った。
「徐世勣は徳に背かないし、功績を貪らない。彼こそ純臣だ。」
 そして、徐世勣へ李の姓を賜った。以後、彼は李世勣と名乗ることになる。
 李淵は、郭孝恪を宋州刺史とは、李世勣には虎牢関以東を経略させた。彼が奪った州県には、官吏の選定を委ねた。 

 李密は相変わらず驕慢だった。自分では国ごと帰順した功績があると自負していたのだが、朝廷の待遇は期待していたほどではなく、鬱々として楽しまない日々が続いた。
 朝廷で宴会があった時、李密は光禄卿としての格式で遇せられるので、他の大官と差があり、これを心底恥ずかしんだ。李密は退会した後、王伯當へ愚痴をこぼした。王伯當も心中怏々としていたので、李密へ言った。
「公がその気になったら、天下を取れます。黎陽には東海公(李世勣)がおり、羅口には襄陽公(襄陽公が誰なのかは不明。羅口近辺の襄城は、張善相が鎮守していた。彼のことではないかと言われている。)がいます。河南の兵馬はすぐにでも手に入ります。なんで、このような生活をいつまでも続ける必要がありましょうか!」
 李密は大いに喜び、李淵へ献策した。
「臣は今、長安にてのんびり暮らしております。無駄に栄寵を蒙っているばかりで何の働きもしておらず、心苦しい限り。ところで、山東の衆は、皆、臣の旧臣達です。臣が赴いて掌握して見せましょう。そうすれば、王世充など、塵を払うようなものですぞ!」
 李密の旧臣経ちの多くが、王世充に懐かないでいることは、李淵も聞いていた。そこで李密を山東へ派遣しようと考えたが、多くの群臣達が諫めた。
「「李密は狡猾で、造反はお手の物。今、山東へ派遣するのは、魚を河へ投げ虎を山へ放つようなもの。絶対造反しますぞ!」
 しかし、李淵は言った。
「帝王には、天命がある。小子が取れるものではない。奴が造反して去っていったとしても、知れた物だ。それで王世充と戦うのなら、二賊が疲れ果てたときに、我が両方奪ってしまうさ。」

 辛未、李淵は、李密を山東へ派遣した。李密は、賈閠甫の動向を請願し、李淵はこれを許した。そして、李密と賈閠甫へ食事を賜り、共に酒を酌み交わして言った。
「我等三人で一緒に飲む。この酒で、我等の心が一つになるように。さあ、朕の為に功名を建ててくれ。丈夫の一言は千金にも換えられない。弟の東行へ反対する者も多かったが、朕は誠心で弟へ接している。他人が仲を裂こうとて、出来はせぬわ。」
 李密と賈閠甫は、再拝して命令を受けた。
 更に李淵は、王伯當も同行させた。
 李密の手勢については、半数を華州に留め、李密は残りの半分を率いて関を出た。長史の張寶徳は、関を出る方に入っていたが、李密が逃げ去ったら自分まで罪に陥ってしまうことを恐れ、李密へ封書を出して李密が必ず造反すると告げた。そんな事もあって、李淵は途中で気が変わった。しかし、呼び戻したら李密が驚き却って造反を早めると考え、敕を出した。
「部下へ命令を下す為の節度を授けるので、手勢をそこへ留めて単騎入朝せよ。」
 李密は稠桑にて、この敕書を受け取ったので、賈閠甫へ言った。
「出陣の後で、理由もなく呼び戻す。天子はかつて、『卿を疑って出撃を許可しないよう諫める者も居た。』と言ったが、きっと、讒言で思い直したのだ。いま、我が都へ戻れば、生きて帰って来れまい。ここは桃林県を撃破して兵糧を奪い、北進して黄河を渡るべきだ。その報告が熊州へ着く頃には、我等は遠くへ逃げている。そして黎陽へ行き着いたなら、大事は必ず成就する。公はどう思うか?」
「主上は明公を大切に扱ってくれていますし、その名は図讖にも記されています。きっと、天下を統一するでしょう。明公は既に主上へ人質を差し出して臣下となったのに、これに背こうとしています。今、任壊は穀州に、史萬寶は熊州に屯営しています。我等が朝に桃林を襲撃したら、夕方にはこの二州から兵が来ます。桃林に勝てたとしても、一たび反逆者の汚名を着たら、誰が受け入れてくれましょうか!明公の為に謀るのです、朝命に応じて長安へ赴き、身の潔白を申し開いてください。今回出陣できなくても、次の機会もあります。」
 李密は怒って言った。
「唐は、我を絳や灌と同列に扱ったのだ。何で堪えられようか!それに図讖に記されているのなら、我も同じだ。今、李淵は我を殺さずに、東行を認めた。王者が死なないことの証明ではないか。唐は関中を平定したが、山東はわが領土だ。天の賜を取らずに、手を束ねて我をを投じたのだ!それなのに、我が腹心がその様なことを言うとは!もしも我と同心でなければ、今、御身を斬り殺してから進むまでだ!」
 賈閠甫は泣いて言った。
「明公は、ただ図讖に応じているとだけ言われますが、近年の実情を見ますに、すでに相違しております。今、海内は分裂して、それぞれ割拠することを考えており、強い者は雄となります。それなのに、明公は他人の傘下へ逃げ込みました。その明公を、誰が相手にしましょうか!それに擢譲を殺してから、人々は皆明公のことを『恩知らず』と言っております。その明公へ、ただ兵を委ねて東進させる者がおりますものか!彼は、公が造反することも考えているのです。ここで一戦交えたなら、もう足を容れる場所さえなくなりますぞ!今までの御厚恩を思えばこそ、何者をも忌まずに物申すのです。どうか明公、よくよくお考えください。大福は、二度と来ないのです。いやしくも明公さえ一生を全うできるなら、私は殺されても構いません!」
 李密は大怒して斬り殺そうとしたが、王伯當等が固く止めたので、ようやく赦してやった。賈閠甫は熊州へ逃げた。
 王伯當も又、造反を止めたが、李密は聞かなかった。すると、王伯當は言った。
「義士の志は、存亡で心を変えたりしません。公は、絶対に諫言を聞き入れられないでしょう。それならば、私は公と共に死ぬだけです。ただ、犬死にに過ぎないことを恐れるのです。」
 李密は、使者を捕らえて、斬った。
 庚子の明け方、李密は桃林の県官へ言った。
「詔が出て、京師へ戻ることになった。その前に、県舎にて少し休ませてくれ。」
 そして、驍勇数十人へ夫人の着物を着せて幔幕で多い、裾の下へ刀を忍ばせて妻妾と偽り、共に県舎へ入った。たちまち正体を現して暴れ回り、県城を占拠する。そのまま県で掠奪して周ると、南山へ向かい、東進した。その傍ら、もとの部下だった伊州刺史張善相へ使者を派遣して、迎え入れるよう命じた。
 熊州を鎮守していた史萬寶は、行軍総管盛彦師へ言った。
「李密は、驍賊だし、王伯當が補佐している。今、秘策を練って決起した以上、まともにぶつかることはできぬぞ。」
 すると、盛彦師は笑って言った。
「私に数千の兵を貸して下さい。必ず梟首できます。」
「公に、なにか策でもあるのか?」
「兵法は、騙し合いです。公といえども、言えません。」
 こうして、盛彦師は兵を率いて熊耳山を越えて南進し、道を遮った。弓や弩で夾路を高所から狙い、刀を持った兵卒を谷へ伏せる。そして、命じた。
「賊が半ば渡るのを待って、一斉に射撃せよ。」
 ある者が問うた。
「李密は洛州へ向かうと聞いていますが、公は山へ入りました。どうしてですか?」
「李密が『洛州へ向かう』と宣伝しているのは、我等の兵力をそちらへ集めて、その隙に襄城の張善相のもとへ走るつもりなのだ。この山道は狭くて険しい。もし、賊徒が先に谷口へ入ったら、我等は後ろから追撃しても、奴等が殿に屈強の兵を置けば、戦うこともできずに奴等を取り逃がしてしまう。今、我等が先にこの谷へ入った。奴を必ず捕らえられるぞ。」
 李密は、陜を通過すると、もう大した軍隊もないと安心しきって山南へ出た。その半ばを盛彦師が襲撃すると、李密軍は前後に分断され、互いに助け合うこともできなかった。盛彦師は、遂に李密と王伯當を斬り、その首を長安へ届けた。
 盛彦師は、この功績で葛国公の爵位を賜り、熊州を領土とした。
 黎陽の李世勣へ、李淵は使者を派遣して李密の首を示し、彼が造反した有様を告げた。李世勣は、北面して慟哭し、上表して李密を埋葬することを請うた。李淵は、彼へ屍を引き渡した。李世勣は、臣下の礼に則って、李密を黎陽山の南へ葬った。
 李密はもともと士卒の心を掴んでいたので、埋葬する際、大勢の兵卒が血を吐くほど慟哭した。 

 二年、正月。張善相が唐へ帰順した。 

(新唐書の賛に曰く)・・・・これは多分、選者の欧陽修の李密評です。
 ある者は、李密が項羽に似ていると称しているが、それは違う。
 項羽は五年で天下に覇を唱えたが、李密は数十百戦を連ねても、東都一つ落とせなかった。それに、最初に楊玄感が造反した時には李密は長安を取ることを勧めたのに、自立した時には西へ進むことができなかった。滅亡したのも、当然だ。
 しかしながら、賢者へ礼を尽くし、士の心を掴んだ。喩えるならば、田横のようなものか。陳渉などよりは、遙かに優れている。
 ああ、李密が背かなかったとしても、その才雄は、きっと時節に容れられなかっただろう。 

(訳者、曰く) 

 中国史のダイジェスト版などで李密について読み、「謀略には優れているが、戦争には弱い。」とゆうイメージを抱いていた。今回、資治通鑑で読んでみて、どうしてどうして、李密は戦争にも強かった。
 張須陀を殺し、王世充を何度も破り、宇文化及を撃退した。最後に王世充との一戦で滅んでしまったのは、「戦争に弱い」と言うより、孫子の言う「百戦して百勝する者は必ず滅ぶ」ではないだろうか。
 宇文化及を滅ぼした時、大勢の兵卒達が、李密へ降伏したので、兵力だけは、却って増えた。しかし、其の兵卒達は、自軍の兵も新規の兵も、全て戦争で疲弊し、或いは負傷した兵卒達ばかりだった。これなら、どれだけ数が多くても、少数の精鋭に負けてしまう。
 李密はそれを判っていたが、降伏したばかりの将軍達は手柄を建てようと躍起になって、どうでも戦争へ邁進した。
 しかし、それでも李密が断固として持久戦に持ち込めば良かったのだ。だが、彼は主戦論に流された。
 翻訳してみて、どうも李密は図に乗りやすい性格のような気がしてならなかった。ちょっと羽振りが良いと、もう天下を取ったような気がして、諸々の軍閥達を目下に扱う。暴虐な振る舞いこそなかったが、心は驕りまくっていた。
 戦いに勝つと、兵は疲れるが、兵力は増える。そして、主君の心は驕る。戦うべきでないことが理屈では判っていても、多数の兵と、いつも撃退している弱い相手。一戦して討ち滅ぼすとゆう快感。そこで威勢の良い話を聞けば、ついついその気になってしまう。だから、李密は将軍達に流されて戦争をしたのではない。自分で選んで、馬鹿な戦争へ踏み切ったのだ。戦わなかったら、東都は手に入っていたものを。
 図に乗ってふんぞり返っていた者が、思いもかけぬ大敗北を喫した。有頂天から、一気に奈落の底へ叩き落とされたのだ。これは、人の心を最も萎えさせる。李密は、途端に全てを棄てて逃げだしてしまった。
 あの敗戦で、本当に李密は滅んだのだろうか?私はそうは思わない。確かに、李密は寄せ集めの軍隊で、大打撃を受けたら、大勢の軍隊が王世充へ降伏していった。だが、それで喩え兵力が四分の一になったとしても(実際は、半減までも行かないと思うのだが)、防戦に徹すれば王世充を防ぐことはできただろう。
 力尽くの大会戦なら、勇将の王世充に分があるかもしれない。しかし、情報を駆使し周到に準備した戦いなら智将の李密が勝っていた。防戦で負けない形を造り、敵の隙を見てコツコツと小勝利を重ねて行けば、次第に勢力を挽回するのは必ずや李密の方だ。そしてなにより、将帥の人間性が格段に違う。上辺を繕うだけで実は貪欲残忍な王世充なら、時が立ては必ず部下から愛想を尽かされる。李密は、驕慢ではあるが、悪辣な暴君ではない。じっくりと腰を落ち着ければ、王世充など、本来李密の敵ではなかったのだ。 
 だが、李密は李淵へ帰順してしまった。そしたら、彼の部下達は、誰を頼るのか。唐へ帰順するか王世充へ降伏するか。この愚挙で、李密軍閥は一気に崩壊したのだ。
 後に彼は黎陽へ向かい、行き着けずに死んだ。それなら最初から、唐へ帰順せずに黎陽へ落ち延びて、全ての部下を再結集させれば良かったではないか。
 図に乗りやすい人間が、一度の失意で自棄になる。この二つは、同じ一つの性格が、事象によって形を変えて現れただけのような気がする。感情の起伏に流されてしまう精神の弱さ、李密は自分に敗れたのだ。
 宇文化及が北上した時、王世充は、李密と宇文化及を戦わせて共倒れにしようと考えた。「そんなありきたりの手に誰が乗せられるか」と思ったが、結果を見れば、しっかりと、その馬鹿馬鹿しい手口に載せられてしまっていた。
 李密の知謀ならば、そんな手など見え見えだったに違いない。しかし、驕慢な心が危険を無視し、結局は児戯に等しい計略に見事に填ってしまった。哀れなことだ。 

 ところで、基盤とした場所も悪かったようだ。東都は中国の中心。どこからでも兵がやってくる。彼が占拠した場所が長安や北平のように中国の片隅に寄っていたなら、宇文化及と戦う事はなかったわけだ。
 中央に位置すると、四方八方へ兵を出せるし、四方八方から襲撃してくる。勢い、戦いが多くなるのだ。一方へ割拠して、じっと自力を蓄えるゆう芸当は、東都付近では難しい。日本でもそうだったが、都付近の軍閥は、「百戦百勝して滅んで行く」運命にあるのだろう。 

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