李密、その二
 
 六月、李密は再び東都へ向かった。平楽園にて大決戦を挑み、東都軍は大敗する。李密は、再び回洛倉を奪った。
 武陽郡丞元寶蔵が、郡ごと李密へ降伏した。李密は元寶蔵を上国柱、武陽公とした。元寶蔵は、食客の魏徴を派遣して拝謝すると共に、武陽郡を魏州と改称することを請うた。又、手勢を率いて魏郡を奪い諸将を集めて黎陽倉を奪うことも請うた。李密は喜び、元寶蔵を魏州総管とし、魏徴を元帥府文学参軍として、記室の仕事をさせた。
 魏徴は、幼い頃孤児となり貧しかったけれども大志があった。道士となった後、元寶蔵に典書記として仕官した。李密は、彼の文辞が気に入ったので、貰い受けたのだ。
 話は遡るが、貴郷長の魏徳深は清静な政治を行っており、厳格ではなかったが、境内はよく治まっていた。遼東の役以後、税が重くなり、民は皆その苦痛に堪えられなくなったが、貴郷だけは騒動も起こらず、求められるだけの税を工面できていた。元寶蔵が盗賊追捕の詔を受けると、彼は近隣の郡へ器械を造らせ、できなかったら軍法で裁いた。それでまた一大騒動が持ち上がりどこの郡でも官吏が昼夜を分かたずに民をこき使ったが、貴郷県だけは民が一致団結して力を尽くし、いつでも諸県最大の功績を挙げており、魏徳深は民の父母として慕われた。元寶蔵は、その有能さに立腹し、千人の兵を揃えて東都へ向かうよう魏徳深へ命じた。
 こうして魏徳深は東都の守備をしていたが、今回元寶蔵が李密へ降伏したことを聞いた。魏徳深の部下の兵卒達は、親戚達を想って悲しみ、大勢の兵が城門を出て東へ向かって慟哭して帰ってきた。そんな兵士達へ、李密へ降伏するよう勧める者も居たが、彼等は口を揃えて答えた。
「我等は魏明府と共にここへきたのだ。どうして明府を棄てて逃げ出せようか!」 

 河南、山東が大水で、飢えた民が野に満ちた。煬帝は、黎陽倉を開放して難民を救済するよう詔したが、官吏がなかなか配給しなかった。その間、毎日数万人の餓死者が出ている。徐世勣は李密へ言った。
「天下大乱の原因は、飢餓です。黎陽倉を奪取できたら、大事は成就しますぞ!」
 そこで李密は、徐世勣へ五千の兵を与えた。徐世勣は原武から黄河を渡り、そこで元寶蔵、赫孝徳、李文相等と合流し、近隣の賊帥張升、趙君徳等も抱き込んで黎陽倉を襲撃し、これを奪取した。
 黎陽倉を開放したら大勢の民が駆けつけ、たちまち二十万の大軍となった。武安、永安、義陽、弋陽、斉郡などが、相継いで李密へ降伏してきた。また、竇建徳、朱粲等も、李密の傘下へ入った。李密は、朱粲を揚州総管、登(「登/里」)公とした。
 泰山の道士徐洪客が、李密へ書を出した。
「大衆が大勢集まりましたが、食料を食い尽くしたら散って行くのではありませんか。戦争が長く続くと、兵卒達へ厭戦気分が蔓延します。そうすると成功は難しいですぞ。ですから、時間を掛けてはいけません。この機に乗じて、士馬の意気が盛んなうちに東へ向かい、一気に江都を落とし、独夫を捕らえて天下へ号令を掛けなさい。」
 李密はこの勇壮な言葉に感動して彼を招いたが、徐洪客は応じず、行方を眩ませた。 

 煬帝は江都郡丞馮慈明を東都へ派遣したが、途中で李密に捕まってしまった。李密はもともと彼の令名を聞いていたので、甚だ礼遇して言った。
「隋はもう滅びます。公は孤と共に大功を建てる気はありませんか?」
 すると、馮慈明は言った。
「公の家系は先朝に仕えて官位も俸禄も兼備していました。それなのに門閥を守りもしないで楊玄感と共に挙兵したのです。たまたま網から逃れて今日に至りましたが、その行動は単に反噬しているだけ。どこに高旨がありましょうか。王莽、董卓、王敦、桓玄の面々も、一時の強盛を誇りましたが、一朝にして一族皆殺しとなり、その罪は先祖にまで及びました。僕はただ死ぬだけ。ご命令は、敢えて聞きません!」
 李密は怒り、これを牢獄へぶち込んだ。しかし馮慈明は、防人の席務本を説き伏せて、一緒に逃げ出した。江都へは、東都の形勢を論じた報告書を送ったが、ヨウ丘にて再び李密軍へ捕まった。李密は義として彼を釈放したが、営門を出たところで擢譲がこれを殺した。
 話は前後するが、二月に李密が洛口で戦勝した時、箕山府郎将張季旬は固く守って降伏しなかった。李密は、その勢力が弱いのを見て、説得の使者を派遣したが、張季旬は口を極めて罵った。李密は怒りこれを攻撃したが、勝てない。この時、李密の兵は城下に数十万人もいた。張季旬は四方を閉ざされ、兵力は数百人に過ぎない。しかし、志はいよいよ固く、皆、死を誓い合った。
 やがて水も食糧も尽き果て、士卒は半病人となってしまったが、張季旬は彼等を良く慰撫したので、一人の離反者も出なかった。
 彼等は三月から九月まで頑張ったが、とうとう陥落した。張季旬は、李密を見ても拝謁せず、言った。
「天使の爪牙が、どうして賊を拝礼するか!」
 李密は、なおも彼を降伏させたがったが、どんな誘いにも乗らなかったので、遂にこれを殺した。張季旬は張祥の子息である。 

 同月、東都へ王世充を始めとする大勢の援軍が入った。李密はこれと戦い、互いに勝敗があった。詳細は「王世充」へ記載する。
 十一月、擢譲の司馬王儒信が、擢譲へ、李密の権威を奪うよう勧めた。擢譲の兄の擢弘は粗暴な馬鹿者。彼も擢譲へ言った。
「天子には、自分でなるものだ。何で人をならせるのか!お前がやらないのなら、俺がやる!」
 擢譲は大笑いしただけで意にも止めなかった。しかし、李密はこれを聞いて不愉快だった。
 総管の崔世枢は、最初から李密の部下だったが、擢譲は彼を私府に捕らえ、財貨を求めた。また、元帥府記室の刑義期へ、勝手に杖八十の罰を与えた。ある時は、左長士房彦藻へ言った。
「君が以前汝南を破った時、沢山の財宝を得たのに、魏公へだけ献上して我へは何も献上しなかったな!魏公を擁立したのはこの俺だぞ。どうなるか判っているな!」
 房彦藻は懼れ、これを李密へ告げた。そして房彦藻は左司馬鄭延と相談して李密へ言った。
「擢譲は貪婪で不仁。主君を主君とも思っていません。はやく処理するべきです。」
 すると李密は言った。
「今は安危さえ定まっていないのに味方同士で殺し合っては、どうして遠くの者を招けようか!」
「毒蛇に腕を噛まれた時に壮士が腕を切り落とすのは、体を助けるためです。彼が志を得てしまっては、悔いても及びませんぞ。」
 李密はこれに従い、宴席を設けて擢譲を招いた。擢譲と擢弘、そして甥の司徒府長史擢摩侯が、李密の元へやってきた。李密は彼等や裴仁基、赫孝徳等と共に席に就き、単雄信羅は立って侍っていた。
 李密は言った。
「卿は高官だけが腹蔵無く飲むのだから、人数が多いのは具合が悪いな。給仕だけ残して退出させよう。」
 李密は、近習達を全員退室させたが、擢譲の近習はまだ残っていた。房彦藻が、李密へ言った。
「今から楽しもうとゆうのに、今日はとても寒いです。司徒の左右の方々にも酒食を振る舞っては如何ですか?」
 李密が擢譲へ尋ねると、擢譲は喜んで許諾した。こうして、擢譲の近習達も退出し、室内にはただ李密麾下の壮士蔡建徳だけが、刀を持って立っていた。
 食事が出る前に、李密は良弓を取り出して擢譲へ渡し、射撃を教えてほしいと頼んだ。擢譲が弓を振り絞った時、蔡建徳が後ろから叩き殺した。擢譲は牛のような声を挙げて倒れ伏した。擢弘、擢摩侯、王儒信羅も殺す。徐世勣は逃げ出したので門番が襲いかかったが、王伯當が、これを止めた。単雄信は叩頭して命乞いしたので、李密はこれを赦した。
 擢譲の近習達は驚愕して為す術も知らない。李密は、大声で叫んだ。
「君らと共に義兵を起こしたのは、もともと暴虐な人間を除くためだった。それなのに、司徒は自ら暴虐を行い群僚を凌辱し、上下の規律を乱している。今、誅殺するのは彼の一家のみだ。諸君等には無関係である。」
 そして徐世勣を助けて幕下へ置き、自ら傷の手当をしてやった。
 擢譲麾下の人間達は解散したがったが、李密は、単雄信へ宣慰させた。その後、李密は単身で擢譲の軍営へ出向いて、兵卒達を撫諭した。そして彼等を三分してそれぞれ徐世勣、単雄信、王伯當の麾下としたので、ようやく人心も落ち着いた。
 擢譲は残忍、擢弘は猜疑心が強く、王儒信は貪婪。だから彼等が死んだ時、哀しむ者はいなかった。しかし、李密麾下の将軍達は、自分達の将来を疑い始めた。
 もともと、王世充は李密と擢譲の仲が悪くなることを確信しており、二人が戦っていその機会に乗じることを狙っていた。だから擢譲が死んだと聞くと大いに落胆して言った。
「李密がこんなに果断とは。龍となるか蛇となるか予測がつかんぞ!」
 河南の諸郡は、ことごとく李密へ帰順したが、栄陽太守旬王楊慶と梁郡太守楊汪だけは、なお隋を守っていた。李密は旬王へ書状を渡し利害を述べて、言った。
「王の家は、もともと山東にあり、郭氏と称していた。生粋の楊一族ではありません。忠義だてしてどうしますか。」
 楊慶は、書を読んで恐惶し、郡ごと李密へ降り、姓を郭氏へ戻した。 

 唐の武徳元年(618年)、王世充は東都から援軍を得て李密を攻撃したが、大敗を喫した。李密は勝ちに乗じて東都へ迫る。その兵力は三十万を超えた。
 ここにおいて偃師、柏谷及び河陽校尉独孤武都、検校河内郡丞柳変、職方郎柳続などが手勢を率いて李密へ降伏した。竇建徳、朱粲、孟海公、徐圓朗等が、使者を派遣して李密へ帰順した。裴仁基などが皇帝位へ即くことを請願したが、李密は言った。
「まだ東都を平定していない。早過ぎるぞ。」
 二月、李密は房彦藻と鄭延羅へ州県を招慰させた。梁郡太守楊汪を上国柱、宋州総管として、自ら書を与えた。
「昔、ヨウ丘へ居た頃は互いに戦い合ったが、全て水に流そう。」
 楊汪は使者を派遣して、李密へ帰順した。
 房彦藻は、竇建徳へ書を渡し、李密のもとへご機嫌窺いに来るよう、諭した。竇建徳は返書を書いたが、その文面は非常に腰が低かった。
 房彦藻は李密のもとへ帰る途中、衞州にて賊帥の王徳仁に殺された。王徳仁は、数万の兵力で林慮山を本拠地とし、四方で掠奪しており、数州にて患いとなっていた。
 五月、李密は徐世勣に王徳仁を討伐させた。王徳仁は敗北し、李淵のもとへ逃げ込んだ。李淵は、王徳仁を業郡太守とした。
 この頃、大勢の人間が東都から李密のもとへ逃げ込んだが、その中に房公蘇威も居た。彼は隋の重鎮の一人だったので、李密はこれを虚心に礼遇した。蘇威は李密へ最初に謁見した時、隋皇室の危難については一言も述べず、ただ李密を聖明と褒めちぎり、再三舞踏するありさまだったので、人々は彼の人柄を賤しんだ。 

 六月、煬帝弑逆の報が、李密のもとへ届いた。煬帝を弑逆した宇文化及は、兵を率いて北上し、東都を目指した。李密はこれと戦ったので宇文化及と東都と腹背に敵を受けることになった。だが、東都の皇泰主も、宇文化及を懼れ、かつ、大逆の罪を犯したのも宇文化及なので、李密を赦してこれを討たせようとした。こうして李密は皇泰主へ帰順して宇文化及を撃退した。その経緯は、「宇文化及、隋を滅ぼす」に記載した。
 だが、東都へ入朝する直前、王世充が兵を挙げて東都政権の重鎮達を粛清した。これは、彼のみ李密を懼れ、李密の帰順を認めなかったからである。その経緯は、「王世充」へ記載した。
 この報告を受けた時、李密は入朝の為に温まで出向いていたが、元文都等が殺されたと聞いて金庸へ戻った。 

 李密は、もともと儒学者の徐文遠に師事していた。その徐文遠は、皇泰主の国子祭酒となっていたが、薪を酉に出かけて李密軍に捕まってしまった。この時、李密は徐文遠を南面して坐らせ、自分は弟子としての礼節を執って北面して拝礼した。すると、徐文遠は言った。「この老いぼれへここまで礼を尽くしてくれるのなら、言葉を尽くして助言せずにはいられないな。ところで将軍の本心が判らない。将軍は、伊尹や霍光のように、滅びかかった国を再興させたいのかな?それならば、私は老いぼれではあるが、力を尽くさせて貰おう。しかし、王莽や董卓のように、危難を幸いに簒奪を目論んでいるのなら、この老父の出番はないぞ。」
 李密は、頓首して言った。
「先日、朝廷の命令を受けて賊を討ち、東都の陛下から上公の位をいただきました。力を尽くして国難を救う。それこそ私の本志です。」
「将軍は名臣のご子息だ。途中で流されてこのようになったが、今からでも力を尽くせば、忠義の臣下となれるだろう!」
 やがて王世充が元文都を殺害すると、李密は再び徐文遠に計略を訊ねた。すると、徐文遠は言った。
「王世充も又、この老父の門人だが、彼奴の人柄は残忍で偏狭。この気運に乗ったら、簒奪を目論むに違いない。あの男を破らない限り、入朝はできないぞ。」
「先生は儒学者で時事に疎いといつも言われていますが、今、たちどころに大計を定められました。何と明哲ではありませんか。」
 徐文遠は、徐孝嗣の玄孫である。 

 李密は、擢譲を殺してから驕慢になり、士卒を可愛がらなくなった。また、この政権には多量の食料こそあったものの、銭や帛は余りなく、戦士が功績を建てても賞することができなかった。そして、李密は最初から付き従っていた者ばかり可愛がっていたので、大勢の者が不満を持っていた。徐世勣が、宴席にてその短所を譏ると、李密はこれを根に持って、黎陽の鎮守を命じた。上辺はこれを委任した形だが、実際は彼を疎んじたのだ。
 李密は、洛口倉を占領すると人々へ穀物を配った。この時、管理人や文書など無く、欲しい者へ欲しいだけ持って行かせた。だから、持てるだけ持って出たので途中で力尽きて、これを道路へ撒き散らす者もおり、倉城から郭門まで、道上に数尺も米が敷き詰められ、車や馬はそれを踏み散らして移動した。
 食糧があることを聞きつけて、百万人からの民がやってきた。彼等のうち瓶などを持たない者はザルなどに入れて米を貰っていったので、洛水の両岸十里程の間に零れた米が敷き詰められ、まるで白砂のように見えた。李密は喜んで、賈閠甫へ言った。
「こんなにも食糧が満ちているぞ!」
 だが、賈閠甫は言った。
「国の基盤は民であり、民の命は食糧で保たれるのです。今、民が幼子を担いでまで流れるようにここへ集まってきているのは、この倉城に米があるからです。それなのに、我等はその米を湯水のように浪費しています。この米がなくなってしまったら、彼等はすぐに散って行くでしょう。」
 李密は感謝して、賈閠甫へ倉の管理を任せた。
 東都の軍は、李密軍に何度も敗北していた。また、重鎮達が互いに殺し合ったこともあり、すぐにでも東都は平定できると大言していた。だが実際は、王世充が全権を握ったので、却って強力になっていた。王世充は器械を整備し兵卒へ厚い恩賞を賜下し、李密軍をやっつけようと、密かに爪を研いでいた。
 この頃、東都には食糧がなかったが、李密軍には着物などがなかった。そこで王世充が、交易を求めてきた。李密はこれを断ったが、長史の丙元真等が、私利を求めて、交易を勧めた。彼等に説得され、李密もついにこれを許可した。ところが、それまでは毎日百人からの人間が李密へ降伏してきていたのに、食糧が足りた途端、降伏してくる者が減ってきてしまった。李密は後悔して、再び交易を中止した。
 李密は、宇文化及と戦ってこれを撃退したが、その戦いで大勢の強兵や悍馬を戦死させ、士卒は疲れ切ってしまった。王世充は、その疲弊に乗じてこれを攻撃しようと思ったが、人心が一つにまとまらないことを懼れた。そこで、左軍衞士の張永通が周公の夢を三回も見たと吹聴した。その夢の中で、周公はお告げをするのだ。「王世充を助けて、賊軍を撃退させる」、と。そこで王世充は、周公の廟を建造し、出兵するごとにこれへ祈祷した。また、巫女に宣伝させた。「周公は、僕射に李密を討伐させる。兵士達へ大功を建てさせるだろう。戦わぬ兵卒は皆、疫病で死んでしまうぞ。」と。
 王世充の麾下には楚の人間が多かった。彼等は迷信に惑わされやすく、これらのことから戦争を請うようになった。王世充は演習を繰り返して精鋭兵二万を得、馬も二千匹揃えた。
 壬子、王世充軍は、李密攻撃に出陣した。旗幡には「永通」と書かれ、士気は旺盛だった。偃師へ来ると通済渠の南へ陣営し、渠へ三つの橋を架けた。李密は王伯當に金庸を守らせ、自らは精鋭を率いて偃師から出陣し、亡山にて敵を待ち受けた。
 李密が諸将と軍議を開くと、裴仁基が言った。
「王世充は総力を挙げてきましたので、東都は殆ど空のはず。こちらは兵を分けて要所要所を押さえて奴等が東都へ帰れないようにし、精鋭三万で東都を襲撃します。王世充が逃げ出したらその背後を襲い、戻ってきたら防戦する。こうすれば敵は奔命に疲れ切り、我等には余裕があります。必ず勝てます。」
 李密は言った。
「公の策は大変良い。今回の東都軍とはまともに戦ってはならない理由が三つある。一つは、奴等が精鋭兵であること、二つには、奴等は敵地深く入ってきたこと。三つには、奴らには食糧がなく切羽詰まっていること。我等は城にて固く守り、力を蓄えて敵を待てばよい。十日も経たぬうちに、王世充は敗北するぞ。」
 だが、陳智略、樊文超、単雄信等は、言った。
「敵は少数です。その上負け続けで肝も冷やしているはず。兵法でも、『兵力が倍ならば戦う』とあります。我等の兵力は、敵の倍どころではありませんぞ!それに宇文化及の軍から降伏してきたばかりの兵卒達は、手柄を建てたくてうずうずしています。その戦意を以てすれば、楽勝ですぞ!」
 陳智略や樊文超は、共に宇文化及のもとから李密のもとへ降伏してきたばかりの将軍である。彼等に煽動されて、将軍達の七・八割方は主戦論を譲らなかったので、李密も衆議に惑わされ、これに従った。裴仁基は苦争したがかなわず、地を撃って嘆いた。
「公は必ず後悔します。」
 魏徴は長史の鄭延へ言った。
「魏公は、兵卒だけは数多くかき集めているが、精鋭は戦死してしまった。戦士達は戦争に疲れている。この条件では敵と戦いがたい。それに、王世充軍は食糧が乏しく死ぬ気で掛かってくるので、まともには戦えない。ここは堀を深く濠へ意を高く造り守りを固めて戦わないことだ。旬月もしないうちに奴等は食糧が尽きて退却する。それを背後から撃てば、必勝間違いなしだぞ。」
 鄭延は言った。
「ありがちな作戦だな。」
「これは奇策だ。何がありがちなものか!」
 程知節は内馬軍を率いて李密と共に北亡山上に陣営した。単雄信は外馬軍を率いて偃師城北に陣営した。
 王世充は、数百騎に通済渠を渡らせて単雄信の陣を攻撃させた。対して李密は、裴行儼と程知節を援軍に派遣した。裴行儼は真っ先に敵軍へ突撃したが、流れ矢に当たって落馬した。程知節はこれを救って敵兵数人を殺した。その驍勇に王世充軍は切り開かれたので、程知節は裴行儼を抱えて逃げ帰ることができた。日暮れになって、各々兵を退いた。李密軍は、この戦いで驍将の孫長楽等十余人が重傷を負った。
 李密軍は、宇文化及を撃退したばかりで、その戦勝に慢心し、王世充軍を軽く見て、壁塁などの防備もろくにしていなかった。王世充は、二百人を北山へ差し向けて伏兵とさせ、軍士達へ腹ごしらえをさせた。翌実の明け方、戦いの直前に王世充は兵卒達と誓った。
「今日の戦いは、ただ勝負を争うだけではない。生死の分かれ目も、この一挙にあるのだ。もしも勝ったら、もちろん富貴な身分になれる。しかし負けたら全員死ぬぞ。国の為だけではない、命が掛かっているのだ。各々、これを勉めよ!」
 そして李密軍へ挑戦した。李密軍は兵を出してこれに応じる。だが、彼等がまだ戦陣を組まないうちに、王世充は突撃した。王世充が率いる兵卒は、皆、江・淮の剽悍な勇士達ばかりで、飛び跳ねるように戦った。
 ところで、この戦いの前に、王世充は李密によく似た兵卒を選んで縄で縛って隠しておいた。やがて戦いがたけなわになると、その戦陣へ兵卒を引き出して連呼した。
「李密を捕らえたぞ!」
 隋兵達は皆、万歳と叫んだ。
 そこへ伏兵が発して、高みから駆け下り、李密の陣営へ火を放って廬舎を焼き払った。
 李密軍は壊滅し、将軍の張童仁や陳智略等が降伏した。李密は、万余人率いて洛口へ向かった。
 王世充は、夜半に偃師を包囲した。鄭延が偃師を守っていたが、楚の部下が城門を開いて王世充軍を迎え入れた。裴仁基や鄭延、祖君彦など李密の将佐数十人を捕虜とする。
 ところで、もともと王世充の家族は江都に住んでいたが、宇文化及と共に滑台までやって来て、そこから王軌と共に李密軍へ帰順した。李密は、いずれ王世充を招き寄せる材料とするつもりで彼等を偃師へ住まわせていた。今回偃師を攻略したので、王世充は彼等と再会することができた。
 王世充は、ここで陣を整えて洛口へ向かい、丙元真の妻子や鄭虔象の母をはじめ李密の諸将の子弟を捕らえた。王世充は、彼等を大切に扱って、ひそかに父兄を招かせた。
 丙元真は、もとは隋の県吏だったが、罪を犯して亡命し、擢譲が占拠していた瓦岡へ逃げ込んだ人間。擢譲は彼が役人上がりだったので、書記として使った。李密が元帥府を開いたとき、有能な人間を捜したので、擢譲は丙元真を長史に推薦した。李密はやむを得ずに彼を使ったが、軍事計画などには参画させなかった。
 李密が王世充と戦うようになると、丙元真を洛口倉の留守を任せた。だが、丙元真は貪欲な人間だったので、宇文温は李密へ言った。
「丙元真を殺さなければ、いずれ公の患いになりますよ。」
 李密は、返答しなかった。
 丙元真は、これを知って李密へ造反しようと企んだ。楊慶がこれを聞きつけて、李密へ密告した。こうして、李密も丙元真を疑った。
 そうゆう経緯があったので、李密が洛口城へ入ろうとした時には、既に丙元真が王世充軍のもとへ使者を出して内応を申し出ていた。
 李密はこれを知ったので、出発せずに、王世充軍が半分だけ洛水を渡った時に攻撃しようと考えた。だが、実際に王世充軍が来たとき、斥候がぐずついて、出撃しようとした時には敵軍は洛水を渡りきっていた。
 この時、単雄信等は、各自が守りを固めているだけで、他の部隊と連携を執ろうとしなかった。李密は支えきれないと考え、軽騎を率いて虎牢関へ逃げた。丙元真は、城ごと王世充へ降伏した。
 もともと、単雄信の驍勇は諸軍に冠たるもので、軍中では「飛将」と呼ばれていた。ところが房彦藻は、単雄信が軽々しく主人を変えるので、殺してしまうよう李密へ勧めた。だが、李密は彼の才覚を愛で、実践しなかった。今回、李密が大敗を喫すると、単雄信は手勢を率いて王世充へ降伏した。
 李密が黎陽へ向かおうとすると、ある者が言った。
「擢譲を殺した時、徐世勣も殺される寸前でした。今回彼のもとへ落ち延びて、安全でしょうか!」
 この時、王伯當は金庸を棄てて河陽を保っていた。そこで李密は、虎牢関から移動して河陽へ落ち着き、諸将と共に善後策を協議した。李密としては、南は黄河を防衛線として、北は太行を守り、東は黎陽と連携してあくまで進取を図りたがったが、諸将は言った。
「今、大敗したばかりで、人々はビクビクと怯えています。このまま停滞したら、反旗を翻す者や亡命する者が続出して、数日ならずに我等は自滅するでしょう。それに、部下達は大それた望を無くしています。とても成功しないでしょう。」
 李密は言った。
「孤は、卿等だけが恃みなのだ。その卿等が大望を持たぬのなら、我が道は行き詰まった。」
 そして、自刎して皆に陳謝しようとしたので、王伯當が慌てて抱きかかえ、号泣した。皆も悲しんで泣き濡れる。
 李密は、また、言った。
「諸君等が、我を見捨てずにいてくれるのなら、皆で関中へ行き、李淵へ帰順しないか。我には何の功績もないが、諸君等は富貴の身分を確保できるだろう。」
 すると府掾の柳変が言った。
「明公は唐公と同族ですし、今まで連合してきたのです。共に戦ったことこそありませんが、明公がここで隋軍の東進を抑えていたからこそ、唐公は長安経営に専念することができたのです。これは公の大功です。」
 それを聞いて、皆は口々に”その通りだ”と言い合った。
 李密は王伯當へ言った。
「将軍は高貴な家系だ。こんな落ちぶれた人間に同行してはならない。」
 すると、王伯當は言った。
「昔、蕭何は子弟全員を率いて漢王に従いました。それに引き替え私は、兄弟を従えないのが恨めしかったのです。どうしてこんな事くらいで公のもとを去りましょうか!たとえのたれ死んでも望むところです!」
 左右の人々も皆感激した。こうして、二万人からの人間が、李密に従って李淵のもとへ帰順した。 

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