李密、その一
 
 楊玄感が討伐された時、李密は逃げ出すことができた。その詳細は、「楊玄感の乱」へ記載する。
 李密は亡命すると、まず盗賊の赫孝徳のもとへ逃げ込んだが、赫孝徳は彼を礼遇しなかった。そこで李密は王簿を頼ったが、彼とも反りが合わずに飛び出した。
 その後は困窮し、木の皮を剥いで食べるような生活まで経験したが、やがて淮陽の田舎に隠れ住むことができた。そこで偽名を使って塾を開き、民を集めた。しかし、県令が怪しんだので、ここも逃げ出した。
 ついで李密は、ヨウ丘県令の丘君明を頼った。彼は、李密の妹婿である。丘君明は李密を見捨てず、遊侠の王秀才へ紹介した。王秀才は、娘を娶らせた。
 しかし、丘君明の一族の懐義がこれを密告したので、捕り手がやってきて王秀才の家を包囲した。その時、李密はたまたま外出していて難を逃れたが、丘君明も王秀才も死んでしまった。 

 話は変わるが、韋城の擢(ほんとうは、手偏はない)譲が東都法曹となった時、法に触れて死罪となった。だが、獄吏の黄君漢が、彼の驍勇を惜しんで夜中にこっそり言った。
「こんなご時世に、法を守って牢獄で死ぬつもりか!」
 擢譲は驚喜して言った。
「今の我は籠の鳥。我が命は黄曹主の胸三寸です。」
 そこで黄君漢は、擢譲を出してやり、枷を壊した。擢譲は再拝して言った。
「命の恩人。どうやって報いればよいものか!」
 すると黄君漢は怒って言った。
「お前が英雄と見たからこそ、苦しむ民を救う為に、命を捨てて助けたのだ。それが婦女のように泣きじゃくって感謝するだけか?まず生き延びて、力を振るえ。我のことは気にするな!」
 擢譲は瓦崗へ亡命して盗賊となった。同じ郡の単雄信も豪傑で、少年をかき集めると彼に従った。
 衞南に住む徐世積とゆう少年は、まだ十七才だったが、武勇で知られていた。彼が、擢譲へ説いた。
「東郡は公や私の郷里で、知人も多い。ここで略奪を働くのは宜しくない。栄陽、梁郡、ベン水などで商船を襲えば、資金も蓄えられるぞ。」
 擢譲は得心し、部下を率いて二郡界へ入った。そこで公私の舟を掠めたので資財が豊かになった。そうなると人が集まり、いつしか部下も一万を越えた。 

 この頃、外黄の王當仁、済陽の王伯當、韋城の周文挙、ヨウ丘の李公逸等が、衆を擁して盗賊となっていた。李密はヨウ州を逃げ出してからいろいろな軍閥の間を往来して天下取りの策を述べて廻った。最初は誰も信じなかったが、次第に受け入れられ始めた。皆は、互いに言い合った。
「彼は公卿の子弟だし、野望に燃えている。それに、予言によれば楊氏の後に天下を取るのは李氏だと言うではないか。また、王者は死なないと聞く。彼は再三死地を脱した。彼こそ次の帝王ではないか!」
 こうして、次第に李密は尊敬を集め始めた。
 李密の見るところ、群盗の中では擢譲が最強だった。そこで王伯當に紹介して貰って擢譲の傘下へ入り、彼の為に近隣の盗賊達を説得して廻った。そうすると弱小の盗賊達は、次々と擢譲のもとへ集まってきた。擢譲は悦び、ますます李密を親任した。そこで、李密は擢譲へ説いた。
「項羽も劉邦も、庶民から出て帝王となったのです。今、皇帝は暴虐で、民は怨んでいます。精鋭兵は遼東で戦死し、突厥で信頼をなくしました。その上江都へ巡遊していますが、これは東都を自分で捨てたのです。今こそ、項羽や劉邦が奮う時ですぞ。足下は雄才大略、士馬は精鋭。これで二都を席巻し暴虐を誅すれば、隋などすぐにも滅亡しますぞ!」
 だが、擢譲は言った。
「我はしがない盗賊だ。朝夕草むらにて細々生きているだけ。君の言葉は、我にはご大層すぎるよ。」
 やがて、李玄英とゆう男が東都から逃げてきて、盗賊の間を飛び回って李密を探し歩いた。彼は言う。
「李密こそ、隋に取って代わる人間だ。」
 その理由を聞かれると、言った。
「民間で流行っている歌がある。『桃李氏、皇后(糸/尭)揚州、宛転花園裏、勿浪語、誰道許!』この、『桃李氏』とは、逃亡中の李氏とゆう意味だ。皇と后は主君を意味する。『宛転花園裏』とは、天子が揚州から帰って来れないとゆうことで、『勿浪語、誰道許』とは、つまり”密”とゆう意味ではないか。」
 李玄英は、やがて李密を見つけて彼の部下となった。
 前の宋城尉の房玄藻は自信過剰な男、出世できなかったことで世の中を恨んでいた。だから、楊玄感の陰謀にも加担しており、これが鎮圧された後は変名を使って逃げ回っていた。彼が李密の為に遊説をして廻って、数百人の豪傑を擢譲の陣営へ連れてきた。
 擢譲は、李密が豪傑達から心酔されているのを見て、彼の計略に従おうと思ったが、なお躊躇して決断できなかった。
 擢譲の軍師は、賈雄。彼は陰陽道や占術に精通しており、発言して聞かれないことはなかった。李密は賈雄と深く結託し、術数に託して擢譲を説得するよう頼んだ。賈雄は許諾したが、軽々しくは動かずに、ジッと好機を窺った。
 ある日、擢譲は賈雄を呼んで、李密の計略を告げ、吉凶を訊ねた。そこで、賈雄は言った。
「吉、最上です。ただ、公が自分で行ってはいけません。もしも、他の者を立てて行ったならば、必ず成功します。」
「卿の言うとおりなら、蒲山公(李密)が自分でやれば良いではないか。それなのに、彼が我に勧めているのだぞ。」
「物事には因果があります。将軍の姓は擢。これは沢を意味します。浦は沢がなければ生まれません。ですから、まず将軍が動かなければならないのです。」
 擢譲は得心し、以来、李密と益々親密になった。
 そこで、李密は擢譲へ説いた。
「今、四海は沸き返っており、とても耕作できるような状況ではありません。公は、大勢の士を抱えてはいますが、その食糧は倉に満ちているわけではありません。野から掠奪してどうにか食いつないでいるのです。これでは、強敵と持久戦を行えば、たちまち兵卒は逃散してしまいます。まず、栄陽を攻略して食糧を確保し、兵士をゆっくりと休め軍馬を肥えさせてから、戦争を始めるべきです。」
 擢譲はこれに従い、栄陽の諸県を次々と下していった。
 栄陽の太守は旬王慶。彼では擢譲を討伐できなかった。そこで煬帝は、張須陀を栄陽通守として、これを討伐させた。
 庚戌、張須陀は兵を率いて擢譲を攻撃した。擢譲はかつて張須陀には屡々敗北していた。だから、彼が来ると聞くと大いに懼れ逃げだそうとした。だが、李密は言った。
「張須陀は、勇気だけで無謀な男。その上戦勝続きで驕慢になっている。一戦で擒にできるぞ。公は戦陣を整えて待ち受けておけ。我が撃破してみせる。」
 擢譲はやむを得ず、戦いを挑んだ。李密は千人の兵で大海寺北の林の中に伏兵となった。 張須陀は擢譲を軽く見て、方陣を作って前進した。擢譲は戦ったけれども押されて行く。張須陀は図に乗って十余里も追撃した。そこに突然、李密の伏兵が襲撃を掛けた。張須陀軍は大混乱に陥った。
 李密と擢譲は、徐世積、王伯當等と合流して攻めまくった。張須陀は必死に戦って包囲を脱出したが、左右は取り込まれたままだった。張須陀は引き返して戦い、部下を救出した。しかし、まだ大勢の部下が敵の包囲陣の中で死戦している。張須陀は再び部下を救出するために突入した。このように戦うこと数回、ついに張須陀は戦死した。彼の部隊の兵卒達の慟哭は、昼夜を分かたず数日続いた。河南の郡県は、これによってすっかり戦意を失ってしまった。
 鷹揚郎将賈務本は張須陀の副将だった。彼も負傷していたが、それでも敗残兵をかきあつめた。どうにか五千人の兵力で梁郡まで逃げ込めたが、賈務本はこの無理がたたって死んでしまった。朝廷は、光禄大夫裴仁基を河南討捕大使としてその部下達を引き継がせ、虎牢関を鎮守させた。
 擢譲は李密を建牙として別働隊を組織させた。これを蒲山公営と名付ける。李密の軍令は厳格で、兵卒達は夏の盛りなのに冬の最中のようにピリピリしていた。しかし李密自身は質素な身なりで、略奪品は全ては以下へ分配したので、大勢の士卒が彼の元へ駆けつけた。
 擢譲は、李密へ言った。
「今、兵糧はほぼ足りている。もう、瓦崗へ戻りたい。もしも公が行きたくないのなら、ここで別れよう。」
 そして擢譲は輜重を持って東へ戻り、李密は更に西へ進んだ。康城にて近辺の城を説得したところ、数城が降伏してきた。これで李密も兵糧を充分に得ることができた。やがて擢譲は後悔し、部下を率いて李密の元へ戻ってきた。 

 義寧元年(617年)、李密が擢譲へ説いた。
「今、東都は兵力が少なく、士卒の訓練もしていません。越王はまだ幼く留守の諸官はおのおの勝手に政令を下し、士民の心は離れています。段達と元文都は暗愚で無謀。僕が測るに、奴等は将軍の敵ではありません。もし将軍が僕の計略を使うなら、天下は掌を返すように奪えます。」
 そこで、手下の裴叔方を偵察に放って、東都の虚実を窺わせた。東都の留守官達はこれに気がつき、防備を固めると共に江都へ急使を放った。
 李密は擢譲へ言った。
「ここまで来たら、もう攻撃しかありません。兵法に言う、『先んじれば人を制し、遅れれば制せられる。』です。今、百姓は飢饉に苦しんでいますが、洛口倉には穀物が山積みされています。ここは、東都から百里ほど離れています。将軍が大軍で急襲すれば、奴等の援軍は間に合いません。我等がこれを奪取して窮乏した民へ粟を配給すれば、遠近は皆、帰属しますぞ!百万の衆でも、一朝で集まります。ここで鋭気を養えば、逸を以て労を待てます。奴等が来襲したら、我等は防備を固めて迎撃できるのです。その後、四方へ檄を飛ばし、賢人豪傑を招き寄せて計略を練り、驍勇剽悍を選んで兵隊を与え、隋の社稷を滅ぼし将軍が天下へ号令を掛けるのです。なんと素晴らしいではありませんか。」
 擢譲は言った。
「それは英雄の仕事だ。僕の器量には余るよ。僕はただ、君の言うとおりに力を尽くしてみよう。君が先発となりなさい。僕は後続になるから。」
 李密と擢譲は、七千の精鋭を率いて興洛倉を襲撃し、これを落とした。官庫を開放して、民衆に好きなだけ与えたので、民は老人を携え幼子を背負って集まってきた。
 朝散大夫時徳叡が、慰氏と共に李密へ応じ、前の宿城令祖君彦が昌平からやって来た。
 祖公彦は、祖廷の子息である。博学多識で文章が巧く、天下に名を知られていた。かつて吏部侍郎薛道衡が、高祖へ推薦したとき、高祖は言った。
「これは流行歌を造って斛律光を殺した男の息子か?朕はそんな男は嫌いだ!」
 煬帝が即位すると、その令名に嫉妬して低い身分を歴任させた。祖公彦は自負心が強かったので、常に鬱々として動乱が起こることを待っていたのだ。
 李密は、彼の名声を聞いていたので、彼がやってくると大喜びで上客とし、檄文などの作成は、全て彼に任せた。
 越王同は虎賁郎将劉長恭、光禄少卿房則へ二万五千を与えて、李密討伐を命じた。東都の人々は、李密のことを、”餓えた盗賊が米を狙っただけの、ただの烏合の衆”くらいに考えていたので、軍功の建て放題だと、競って応募した。国子三舘学士や貴族の子弟達が従軍した。この軍隊は器械は充実しており、衣服は煌びやか、旌旗軍鼓は実に盛大だった。
 劉長恭等が先鋒となり、河南討捕大使裴仁基等が後続となって十一日で倉城南へ到着した。劉長恭は、士卒が朝食も執らない内に、洛水を渡河させ、石子河西へ布陣した。その陣は、南北に十余里続く。
 李密と擢譲は驍勇を選んで十隊に分け、四隊を伏兵として嶺下にて裴仁基を待ち受けさて、残る六隊は石子河東に布陣した。
 劉長恭等は、李密軍が小勢なので、これを軽く見た。まず擢譲が戦ったが、推され気味だった。しかし、そこへ横合いから李密が突っ込んだ。隋軍は兵卒が空きっ腹だったので、遂に大敗した。
 劉長恭等は、甲冑を脱ぎ捨てて、どうにか東都へ逃げ帰った。隋軍は、五・六割の兵を失った。越王は、劉長恭等の罪を赦した。
 李密と擢譲は、隋軍が捨てていった輜重や武器を奪い、ますます威勢が挙がった。
 ここにおいて擢譲は、李密へ盟主の地位を譲った。李密は魏公と名乗り、即位して改元した。その文書は「行軍元帥府」と称し、魏公府には三司や六衞を置いた。擢譲は上柱国、司徒、東郡公となる。その下に設置された長史などの人員は、元帥府の半数だった。その他、単雄信が左武候大将軍、徐世勣が右武候大将軍、房彦藻が元帥左長史、祖君彦が記室。
 これによって、趙・魏以南、江・淮以北の群盗達が、響きに応じるように彼へ帰順した。その主な者を列記すると、孟譲、赫孝徳、王徳仁及び済陰の房献伯、上谷の王君廓、長平の李士才、淮陽の魏六児、李徳謙、焦郡の張遷、黒社、白社、魏郡の李文相、済北の張青特等々。
 李密は、彼等全てに官爵を与え、手勢はそのまま統率させた。道路には、降伏する者が流れるようにやってきて、たちまち数十万の勢力になった。
 李密は、洛口へ居城を築いた。それは、四十里四方の大きさだった。また、房彦藻へ東方を攻略させ、安陸、汝南、淮安、済陽を落とした。河南の郡県は、大半が李密に落とされた。
 李密は擢譲を総管、斉郡公とし、東都を攻撃させた。擢譲は、二千の兵を率いて東都の外郭へ夜襲を掛けた。豊都市を焼き払って、明け方に去る。以来、東都の民は全て城内へ住むようになったので、台も省も府も寺も、全て人で溢れてしまった。
 鞏県長柴孝和、監察御史鄭延が、城ごと李密へ降伏した。李密は、柴孝和を護軍、鄭延を右長史とした。 

 ところで、隋の裴仁基は、賊を破ると、盗賊達の資産を全て士卒への報酬にしたが、監軍御史の蕭懐静はこれを許さなかったので、士卒は皆、彼を怨んだ。蕭懐静は、また、しばしば裴仁基の過失を劾奏した。
 李密討伐戦で、裴仁基は期日に間に合わなかった。その戦争で劉長恭が敗北したので、裴仁基は懼れて敢えて進軍せず、百花谷へ屯営して守備を固めて守ったが、朝廷から罰されることも懼れていた。
 李密は、裴仁基の狼狽を知り、使者を派遣して説得し、厚い利益も約束した。
 裴仁基の軍中に、賈務本の子息の賈閠甫がいたが、彼は裴仁基へ李密への降伏を勧めた。裴仁基は言った。
「蕭御史をどうする?」
「蕭君など、楼の上の鶏のようなもの。機変を知りません。明公の一刀でけりがつきます。」
 裴仁基はこれに従い、賈閠甫を降伏の使者として李密のもとへ派遣した。
 李密は大いに喜び、賈閠甫を元帥府司兵参軍、兼直記室事とし、降伏を受け入れるとゆう返書を裴仁基へ届けさせた。裴仁基は、虎牢関へ戻った。
 蕭懐静は、この事を江都へ密告した。裴仁基はそれを知ると蕭懐静を殺して、虎牢関ごと李密へ降伏した。李密は裴仁基を上国柱、河東公とした。裴仁基の子息の裴行儼は、驍勇でよく戦ったので、上国柱、絳郡公となった。
 李密は、秦叔寶と程交金を得て、共に驃騎とした。
 李密は、軍の中から驍勇の男八千人を選び、これを四隊に分けて四人の驃騎に指揮させた。これを「内軍」と号する。李密はいつも言っていた。
「この八千人は、百万に匹敵する。」
 程交金は、後に程知節と変名する。
 羅士信、趙仁基等も、部下を率いて李密へ帰順した。李密は、彼等を総管として、元の部下を統率させた。 

 癸巳、裴仁基と孟譲が、二万余人で回洛の東倉を襲撃し、これを破った。そして天津橋を焼き、大いに掠奪する。東都の軍が出撃して裴仁基等は敗走したが、李密自ら兵を率いて回洛倉を確保に向かった。しかし東都には、まだ二十万の兵がおり、城壁に乗って李密軍を防いだ。朝も夜も武装を解かずに必死で防戦した為、李密軍は攻めあぐね、遂に洛口へ帰った。
 東都城内は兵糧が乏しくなっていた。布帛は山ほどあったので、絹を裂いて水を汲む縄にしたり、布を燃やして暖を取ったりする有様。越王は回洛倉の米を城内へ運び込ませ、豊都市、上春門、北亡山に各々五千人を配置して綿密に連絡を取らせ、李密に備えた。
 丁酉、房献伯が汝陰を落とし、淮陽太守が郡ごと降伏してきた。
 己亥、李密は三万人を率いて再び回洛倉へ據った。塹壕などを修復して東都へ迫る。段達等が七万で出兵して、これを防いだ。二日後、倉北にて戦い、隋軍は敗走した。
 丁未、李密は郡県へ檄文を飛ばして煬帝の十の大罪を数え、かつ、言った。
「南山の竹を使い尽くしても、煬帝の罪を全て書き留めることはできない。東海の波を翻しても、彼の悪行を洗い流すことはできない。」
 これは、祖君彦の辞である。(原文は、「磬(石の代わりに缶)南山之竹、書罪無窮。 決東海之波、流悪難盡」) 

 越王は、江都へ援軍を求めようと、太常丞元善達を使者として派遣した。元善達は、賊軍が溢れている中をどうにか突破して江都へ着き、上奏した。
「李密は、百万の兵力で東都を包囲し、洛口倉を占拠しています。城内には食糧がありません。陛下が来られましたら、烏合の衆は、必ず散り散りになります。そうでなければ、東都は陥落してしまいます。」
 涙ながらに訴えたので、煬帝も顔つきを改めてしまった。
 ところが、虞世基が進み出て言った。
「越王は未だ幼いので、たぶらかされているのです。その言葉通りなら、どうやってここまで来れたのですか!」
 煬帝は、勃然と怒って言った。
「善達の不届き者。我をはずかしめるか!」
そして、わざと盗賊が大勢居るコースを選んで食糧を取りに行かせた。元善達は、思惑通り盗賊達に殺された。
 これ以後、人々は口を閉ざして、盗賊達の実情を伝えようとする者はいなくなった。
 虞世基は、言うことが全て煬帝の意に叶い、寵用の深さでは、朝臣に並ぶ者がなかった。追従する人間は彼に媚び、官位や裁判は金で動き賄賂は横行したので、門前に市を為す有様。朝野共に彼を怨んだ。
 内史舎人の封徳彝は彼の片腕として、群臣の上奏文を検分し、煬帝の意向に逆らうものは全て握りつぶした。法律の曲解などは彼のお手の物。だから虞世基の寵愛は益々盛んになり、隋の政治は益々腐っていった。それは全て封徳彝の差し金である。 

 煬帝は、監門将軍龍玉と、虎賁郎将霍世挙へ、関内の兵を率いて東都を救援に行くよう命じた。
 柴孝和が、李密へ言った。
「秦は、堅固な山川があり、秦も漢もここを基盤として王業を成したのです。ですから、擢司徒へ洛口を守らせ、裴柱国へ回洛を守らせ、明公は精鋭を率いて長安を襲撃してはいかがでしょうか。そして長安を落としてから東へ向かい、河・洛を平定し檄文を飛ばせば、天下は定まります。今、隋は鹿を失い、豪傑達が並び立って競っております。早くしなければ、必ず先に手を出す者が出ます。そしたら、悔いても及びませんよ!」
「それは上策だ。我もずっとそう考えていた。ただ、昏主といえどもまだ生きており、規律のない兵とはいえ数が多い。それに我等が率いているのは、山東の人間だ。まだ洛陽を落としもしないのに更に西の長安へ向かっても、誰が我に従ってくれようか!諸将は群盗出身だから、ここに留めておけば各々雌雄を競い合うだろう。そうなれば、我等は終わりだ。」
「大軍で西進することができないのなら、僕だけでも行かせてください。状況を見て参ります。」
 李密はこれを許諾した。
 柴孝和は数十騎で進んだが、山賊達が次々と帰順して、陜県まで行く頃には一万余の兵力となった。
 この頃、李密軍は大変意気盛んで、戦う度に連戦連勝だった。そんな中で、李密が流れ矢に当たってしまった。李密が営中に伏せって居ると、越王は段達と龍玉等を出陣させて、回洛倉の西北に陣取らせた。李密と裴仁基が出撃したが、散々に破れてしまい、大半の兵を失った。そこで李密は回洛を棄てて洛口まで逃げた。龍玉、霍世挙は偃師まで進んだ。
 李密が敗北したと聞くと、柴孝和のもとへ帰順していた山賊達はてんでに逃げ去ってしまった。柴孝和は、しかたなく李密のもとへ逃げ帰った。 

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