驪姫・恵公の乱
 
萌芽 

 晋の献公には三人の子息がいた。申生、重耳、夷吾という。後、献公は犬戎を討伐し、美人姉妹を得て、彼女達を夫人とした。姉の驪姫はケイ斉を生み、妹は卓子を生んだ。
 驪姫は献公へケイ斉を立てるようせがみ、献公もその気になった。 

 さて、晋には里克、丕鄭、荀息とゆう三人の大臣がいた。ここに及んで、彼等は集まって相談した。
 里克は言った。
「国に内乱が起ころうとしている。どうすれば良いだろうか。」
 対して、荀息が答えた。
「『主君に仕える者は、力を尽くして事を行う』と言うではないか。『君命に背くのが善い事だ』等とは聞いたことがない。主君が世継ぎを立て、臣下がこれに従う。なんで二心が持てようか。」
 すると、丕鄭が言った。
「いや、『主君に仕える者は、義に従うもの。主君の惑いにおもねってはならぬ。』と聞く。惑えば民の治め方を誤り、治め方を誤れば民は法に触れることを行う。これは民を棄てる事だ。民は義を治める為に主君を立てるのだ。義は利を生じ、利は民を豊かにする。我らは民と共に居るべきだ。どうして彼等を棄てて良いものか。太子を立てなければならない。」
 里克は言った。
「私は不才で義を知らないが、それでも惑いにおもねるつもりもない。私は静観しよう。」 

  

太子出征 

 十七年、献公は申生へ東山討伐を命じた。すると、里克が献公を諫めた。
「先例がありません。主君が親征する時には太子が監国となって留守を守るものです。今、主君が国に残り、太子が出征なさる。このような事は今までありませんでした。
 そもそも、軍は命令を一手に抑えるのが肝腎で、将軍が誰からか命令を受け継ぐのでは威厳を損ねます。しかし、太子が一存で命令を下しては不孝になりましょう。ですから、君の世継ぎは自身で軍を率いてはいけません。それに、指揮の仕方を間違えたなら、太子の威厳を損ねることになります。」
 すると、献公は言った。
「おまえの知ったことではない。世継ぎを決めるのは親子の問題だ。この一件で、申生の力量を試すのだ。」
 里克は退出すると太子へ会見した。すると、太子は言った。
「今回の出征は、どのような意図だろうか。私は廃嫡されるのだろうか?」
 すると、申生は言った。
「若君、恐いのですか?我が君は、若君へ手柄を立てさせようと思われているのです。恐れずに戦っておいでませ。それに、人の子となっては、ただ不孝だけを懼れなさい。立てない事を懼れてはなりません。」
 君子は評した。
「里克は、親子の間を巧く取り持った。」
 申生は、この出征で大勝利を得た。 

  

中立でも良い 

 驪姫は、申生殺害の陰謀を巡らせた。腹案はできたのだが、里克を憚って実践に移せないでいた。すると、驪姫お抱えの俳優が言った。
「私が籠絡して見せましょう。里克をもてなしますので、特別なごちそうを準備してください。その席で何を言っても、私は道化師。罪にふれることはありません。」
 驪姫は、これに従った。
 俳優は、里克をもてなし、彼が半ば酔った頃合いを見て、言った。
「人は皆、茂れる木に集まって楽しげなのに、我一人枯れた木に集まる。」
 里克は笑って聞いた。
「茂った木と枯れた木は、それぞれ何を指しているのかな?」
「母親は夫人となり、子息は君となる。茂れると言うべきでしょう。母親は既に死んでおり、子息も又誹られている。枯れていると言うべきです。その上、行く末も見えています。」
 そして、俳優は退席した。
 その夜、里克は俳優を召し出して尋ねた。
「あの言葉は、単なる戯れ言か?それとも、何か聞いておるのか?」
「ええ、実は我が君は、驪姫の請願に負けて、太子を殺してケイ斉を立てることを許可されました。その計画も既に完成しています。」
「太子を殺すには、忍びない。と言って、太子を殺すとゆう陰謀を既に聞きながら、殊更に太子へ走るようなことも馬鹿げている。中立したら禍を免れるだろうか?」
「免れましょう。」 

 翌朝、里克は丕鄭へ事の次第を伝えた。すると、丕鄭は答えた。
「惜しいことをした。『信じられん』と言って奴等を落胆させ、太子の周りを固めて驪姫の一派との交わりを断たせるべきだった。しかしながら、既に『中立する』と言ったのだ。奴等はますます図に乗って決意を堅くするぞ。もはや止めても止まるまい。」
「言ってしまったことは仕方がない。」
 その翌日から里克は病気と称して出仕しなくなった。それから一ヶ月もしない内に、申生は造反したと言い立てられ、献公から追討された。申生は、首をくくって自殺した。
 驪姫は、この事件に重耳と夷吾も関与していたと言い立てたので、重耳も夷吾も国外へ亡命した。 

  

弑逆 

 二十六年、献公が卒した。里克は、ケイ斉を殺そうと考え、まず荀息へ言った。
「三公子の残党達が、幼君を殺そうとしている。どうしようか。」
 すると、荀息は言った。
「我が君がお亡くなりになったのを幸いに、その跡継ぎを殺そうとゆう輩が出るのなら、私の命の捨て所とゆうものだ。」
「いや、卿が死んで若君が助かるのなら、それも甲斐があるだろう。しかし、卿が死んでも若君は廃される。それならば、単なる犬死にではないか。」
「昔、献公は、私に尋ねられた。
『卿は我にどのように仕えるか?』
『忠貞だけです。』
『どうゆう事だ?』
『公室の為に力を尽くせることがあるのなら、どんなことでもする。それが忠です。死者を葬った後には生きている者へ仕え、もしも死者が生き返ったとしても後悔せず、生きている者へ対しても恥じるところがない。それが貞です。』と。
 私は既にこの言葉を口にした。それ以上に我が身を愛せようか。たとえ死のうとも、避けることはできない。」
 そこで、里克は丕鄭へ同じ事を尋ねた。すると、丕鄭は言った。
「荀息はなんと言った?」
「命を捨てると答えた。」
「卿は、力を尽くせ。我も助力する。我と卿が力を合わせれば、必ず成功する。卿は七大夫を率いて我を待て。我は秦へ助勢を頼み、二公子のうち、力の弱い方を立てよう。そうすれば賄賂はたっぷりと手にはいる。それに、力の強い方を拒絶すれば、この国は誰の国になるかな?」
「それはいけない。『義は利の足である。貪は怨の元である。義を廃すれば利は立たず、厚く貪れば怨みが生ず』と言うではないか。
 だいたい、溪斉を殺すのは、彼が暴君だからではない。驪姫のやり方があまりにむごかったからだ。主君を蠱惑して無実の太子を殺したので、晋は諸侯の笑いものとなったし、百姓の心中にも悪心が芽生えた。大川が氾濫する前に、その源泉を塞ぎ、災いを未然に防ごうとゆうのだ。つまり、ケイ斉を殺し、亡命した公子を入れるのは民の心を定め、諸侯の侮りを止めてその援助を受ける為のものである。だから、『諸侯は義として晋を援け、百姓は喜んで新君を奉じ、御国は安泰になった。』と人から言われるようにしなければならない。
 それなのに、今、主君を弑逆してその富を貪り取り、義に背こうとする。貪れば民から怨まれ、義に背けば財産も頼みにならない。財を貪って民から怨まれ、国を乱して我が身を害すれば、後世の戒めとなるだけだ。常道ではない。」
 丕鄭は許諾した。
 ここにおいて、彼等は蜂起してケイ斉と驪姫を殺した。
 荀息は自殺しようとしたが、ある者が勧めた。
「まだ卓子は生きています。彼を補けて立てるべきです。」
 そこで、荀息は卓子を立てた。里克は卓子も殺した。遂に、荀息は自殺した。
 君子は評した。
「『白玉の欠けたるは、磨けばなおも磨かるる。出した言葉の欠けたるは、これを覆える術もない。』と言うが、荀息こそそれだ。」 

  

二人の公子 

 里克は、重耳の元へ使者を送った。
「国が乱れ、民が動揺しています。乱れた時こそ国を得る事ができますし、動揺した民だからこそ、治めて勲とすることができます。どうして入国なさらないのですか。我々が先導役になりましょう。」
 重耳が従者と相談すると、舅犯が言った。
「いけません。樹を固くするのは始めにあります。始めに本を固めなければ、最後には必ず枯れ落ちるものです。国の長となる者は、ただ哀楽喜怒の節を知り、それを以て民を導くのです。喪を哀しまずして国を求めるのは難です。乱につけこんで入国するのは危です。利益を得れば喜びますが、喪や乱を喜ぶのは哀楽喜怒の節が異常です。これでは民を導けません。」
 重耳が言った。
「喪でなければ、代替わりは起こらないし、乱でなければ入国できないぞ。」
「『喪乱には大小がある。大喪大乱の矛先は犯してはならない。父母の死を大喪となし、兄弟の間に讒言が飛び交っているのを大乱となす。』と聞きます。今こそがその時です。」
 そこで、重耳は使者と会見して言った。
「この亡命者へは過分な思い入れ。だが、私は父親が生きている時にご奉仕もできず、その死に水も取れなかった不肖者です。大夫がせっかくご使者を寄越してくださいましたが、敢えてご辞退申し上げます。そもそも御国を安泰にする大本は、百姓と親しみ隣国と修好することです。民を幸せにして隣国から推される者がいたなら、大夫はそれを推戴してください。私は文句を言いません。」 

 呂甥は夷吾のもとへ使者を派遣した。
「どうか、秦へ厚く賄賂を送って後ろ盾となってもらってください。私は国元で助けとなりましょう。」
 夷吾は冀丙と相談した。すると、冀丙は言った。
「乗りましょう。国が乱れ民が動揺し、大夫は迷っている。この好機を失ってはなりません。乱でなければ入国できませんし、危でなければ安泰にできません。入国できなければ何も手に入らないのです。賄賂を惜しんではなりません。襲爵してからかき集めればよいのです。」
 夷吾は、使者と会見して許諾した。その報告を受けた呂甥は、晋の朝廷に出て大夫達へ言った。
「夷吾は、襲爵することを許諾したが、父親が死んだことを幸いにして自ら立つことは、さすがにできない。しかし、躊躇して時が経てば、その間に諸侯達が何をしでかすか判らないし、国内にも不逞の輩が出るかも知れない。ここは、夷吾がすみやかに襲爵するよう、秦に骨を折って貰おう。」
 大夫達は、許諾した。そこで、梁由靡が秦への使者となり、秦の穆公へ夷吾の後ろ盾となることを頼んだ。穆公は、これを許諾して、梁由靡を晋へ返した。そして、大夫の子明と子桑へ言った。
「晋国の乱を、どう裁量しようか。二人の公子が亡命している。どちらかを後押しして立てるべきだが、どちらを選べばよいだろうか。」
 すると、子明が言った。
「公子の執どのは、機敏な人柄で、礼節を弁え、敬虔な態度で、よく機微を見ることができます。彼を使者として、二人のもとへ派遣し、彼等の人柄を見てきて貰いましょう。」
 そこで、穆公は公子執を使者とした。
 公子執は弔問の名目で重耳と会見した。その席で来意を告げると、重耳は言った。
「私は亡命の身の上。それに、父親の死に目にもあえませんでした。そのお話は身に過ぎております。」
 そして、再拝して稽首せず、立ち上がって哭した(父親の弔問を名目としていたので、哭したのである)。退出した後、公子執と私的に会うこともなかった。
 公子執は、夷吾にも同様のことを行った。夷吾は、公子執へ対して再拝稽首し、立ち上がって哭しなかった。そして、退出した後、公子執と私的に会って言った。
「里克と丕鄭が、私を後押ししてくれています。里克へは田百万を与え、丕鄭には田七十万を与える予定。この上秦君が輔けてくださったなら、きっと成功します。私は亡命者ですから、宗廟を掃除して社稷を定められたらそれで充分。それ以上の、たとえば土地や財産などを望むのは身の程知らずというものです。秦君は実に広大な土地をお持ちですが、河外の城邑五つを献上いたしましょう。『土地ならば、私は既に沢山持っている。』などとは仰ってくださいますな。それから黄金四十鎰と白玉六双。このような些細なものを貴公様へ差し上げるのは余りに失礼ですから、これらは貴公様の従者達へでもお渡しください。」
 公子執が帰国して報告すると、穆公は言った。
「重耳の方が立派な人間ではないか。再拝して稽首しなかったのも、私的に会わなかったのも気に入った。夷吾は哭さえもしなかったではないか。重耳を立てよう。」
 すると、公子執は言った。
「我が君の言葉は過ちです。我が君が、もしも晋を安泰にしようとのお考えで晋君を立てられるのでしたら、仁君をたてるべきでしょう。しかし、我が君が、自分の名声を天下へ響かせようと思って晋君を立てるのでしたら、不仁な主君を立てるべきです。そうすれば、晋は乱れますので、我が国の力を振るう機会も多くなります。それに、臣は聞いたことがあります。『仁者も武者も、他国の君を立てることがある。その時、仁者は徳の高い者を立て、武者は自分に服従する者を立てる』と。」
 こうして、秦の穆公の力添えもあり、夷吾が立った。これが恵公である。 

  

裏切り者が裏切られ 

 僖公十年、四月。周公、王子党及び斉の湿朋が会合し、夷吾へ晋侯を襲爵させた。恵公は、全ての罪を里克へ押しつけて誅殺し、諸外国へ対して、溪斉や卓子が殺されたことへの釈明にしようとした。それに先だって、恵公は里克のもとへ使者を派遣して伝えた。
「卿がいなければ、我は襲爵できなかった。しかし、卿は二人の主君と一人の大夫を殺した人間だ。その卿の主君になるなど、なんと難しいことではないか。」
 すると、里克は言った。
「ケイ斉や卓子を殺さなければ、恵公様はどうして襲爵できたのですか?それでも罪を押しつけようとならば、難とでも言い訳は立つのですな。ともあれ、ご命令は判りました!」
 里克は剣の上に身を伏せて死んだ。
 この時丕鄭は、使者として秦へ行っていたので、巻き添えを食わなかった。その使いの内容は、賄賂が遅れていることの詫びである。会見の場で、丕鄭は穆公へ言った。
「呂甥、郤称、冀丙の三人が、土地の割譲へ文句をつけているのです。もしも厚賜と甘言でこの三人を呼び寄せたなら、私は国元にて恵公を追い出して、穆公様を迎え入れましょう。」
 そこで、冬、穆公は晋へ使者を出して三人を招いた。すると、冀丙が言った。
「贈り物が手厚く、言葉も巧すぎる。我々を誘っているのだ。」
 彼等は丕鄭が内応しているものと当たりを付け、丕鄭を始め里・丕の党類の七大夫や士を皆殺しにした。
 丕鄭の子息の丕豹は、どうにか逃げ延びることができた。彼は秦へ亡命して穆公へ言った。
「晋公はこちら様に背きましたが、国内でも乱暴の限りを尽くして、皆から見捨てられています。今、晋へ攻め込めば、逃げ出すに決まってます。」
 すると、穆公は言った。
「皆から見捨てられていては、丕鄭等を殺すことはできまい。それに、反対する仲間が全て亡命しているのだから、恵公を追い出せる人間も居るまい。」 

  

飢饉は交互に起こる 

 十三年、冬。晋で飢饉が起こったので、恵公は秦の穆公へ穀物を無心した。穆公が臣下へ尋ねると、子桑が言った。
「何度も恵んでやって、先方がそれに報いたら、何も申すことはありません。何度も報いて何度も裏切ったなら、晋の国民は必ず恵公へ愛想を尽かします。そうなってしまってから晋を討伐したら、必ず勝てます。」
 百里ケイが言った。
「天災は交互にやってきます。隣りどうし災いを助け合うのは、人の道です。道を行えば、福があります。」
 すると、丕豹が言った。
「晋君が我が君へ対して忘恩なのは、皆が知っております。先年、晋では重臣達が大勢殺されましたし、今回は又飢饉が来ました。今攻撃すれば、必ず勝てます。穀物を与えてはいけません。」
 穆公は言った。
「寡人は恵公を憎んでいるが、晋の民に何の罪があろうか。天の災いが流行するのは、どの国にも起こることだ。飢饉の際、隣りどうし助け合うのは人の道である。天下の道を廃らせてはならない。」
 こうして、穀物を与えた。
 翌年、今度は秦で飢饉が起こった。穆公は晋へ穀物を無心した。恵公が穀物を送ろうとすると、冀丙がこれを止めた。すると、慶鄭は言った。
「施しに背いたら、皆から見放されます。他国の災いを喜ぶのは不仁です。他人の好意を貪るのは不祥です。隣国を怒らせるのは不義です。四徳を失えば、どうやって国を護りましょうか。」
 対して、カク射が言った。
「以前、土地を与えなかったので、秦は我等を怨んでいます。これへ穀物を送っても、かつての怨みは消えません。これは敵を強くするだけ。与えるべきではありません。」
 恵公がこれに同意すると慶鄭が言った。
「かつての恩を忘れて他人の災いを喜ぶ。これでは民から見捨てられますぞ。身内からさえ悪く言われる。ましてや怨みを含む者からどう思われるでしょうか。」
 しかし、恵公は聞かない。とうとう、秦の要請を拒絶した。 

  

 会戦 

 十五年、遂に秦は晋を攻撃した。秦の民は怨みに燃え、晋の民には引け目があったので、秦軍は三度戦って連勝。晋は韓まで退却した。
 恵公は慶鄭へ言った。
「敵は我が国深く攻め込んだ。どうしようか。」
「我が君が深くなさったのです。今更どうしようもありません。カク射にでもお聞きなさい。」
「あいつは戦争が苦手なのだ。」
 次の戦いに当たって、公の護衛を占ったところ、慶鄭が吉と出た。だが、恵公は言った。
「あいつは不遜だから嫌いだ。」
 結局、カク射が護衛となった。
 遂に最後の決戦が起こったが、晋軍は壊滅した。恵公は逃げ出したが、馬車の車輪がぬかるみにはまって立ち往生してしまった。すると、そこへ慶鄭の戦車が通りかかったので、恵公は言った。
「我を乗せよ。」
「善を忘れて徳に背き、卜を無視する。その上、何が『乗せろ』ですか。臣の戦車は、我が君を乗せるには粗末すぎます。」
 一方、梁由靡と韓簡は秦の穆公と戦い、今にも捕らえそうなところまで追い詰めていた。だが、そこへ慶鄭がやって来て言った。
「そんなものは放って置いて、我が君を救いなさい。」
 それを聞いて二人がまごついている隙に、穆公は逃げ出した。
 とうとう、恵公は捕らわれて、秦の捕虜となり連れ去られた。 

  

乱の終焉 

 捕虜とした恵公を、秦の公子執は殺そうと訴えたが、百里ケイはこれに反対した。晋を一気に滅ぼすだけの戦力がないのに、主君を殺してしまったのでは怨みを買うだけで何の役にも立たないとゆうのだ。穆公はこの意見に同意し、恵公の返還の代わりに晋の太子を人質として要求して晋を属国化しようと考えた。
 片や恵公は、晋へ使者を送って伝えた。
「孤は帰れるとしても、社稷の名を汚した身の上である。諸大夫は、孤の事を気に掛けず、太子に後を継がせて、我が国を良くもり立ててくれ。」
 これを聞いて晋の民は皆、声を挙げて泣いた。
「我が君は、囚われの身となって異境にいるのに、我等のことばかりを案じてくださる。」
 そこで群臣は語り合い、一致団結して太子をもり立て、諸外国へ対して秦の横暴を訴え、州兵を設立して報復に燃えた。
 ところで、穆公の夫人は、恵公の姉に当たった。彼女は弟を帰国させるよう、日々、穆公へせがんでいた。又、晋の民も容易には服従しない。そこでとうとう、穆公は恵公を帰国させて、晋へ恩を売ることにした。
 恵公が帰国すると聞いて、ある者が慶鄭へ亡命するよう勧めたが、慶鄭はこれを潔しとせず、恵公が帰国した後、彼の誅に伏した。