李淵決起   その二
 
 七月、癸丑、李淵は決起し、武装兵三万を率いて晋陽を出発した。軍門にて衆人へ誓いを立て、郡県へ檄文を飛ばし、代王を立てることを宣言した。西突厥の阿史那大奈が部下を率いて従った。
 壬戌、賈胡堡へ屯営する。ここは、霍邑から五十里しか離れていない。代王侑は、虎牙郎将宋老生へ精鋭二万を与えて霍邑へ屯営させ、屈突通を河東へ屯営させて李淵を防いだ。折から長雨に会い、李淵は進軍できなかった。
 乙丑、張綸が離石に勝ち、太守の楊子祟を殺した。 

 この頃、中原では李密の勢力が拡大していた。李淵は、李密へ書を送った。李密は自らの強兵を恃み、盟主になろうと思い、祖君彦に返書を書かせた。
「兄上とは流れが違うとはいえ、同じ李氏であり、根系は一つだ。私は浅才だが、四海の英雄から推されて盟主となった。今、我等力を合わせて咸陽の子嬰(項羽に降伏した秦王)を捕らえ、牧野の商辛(紂王)を殺したなら、何と素晴らしいではないか!」
 また、李淵を河内へ呼び寄せて盟約を結ばせようとした。
 李淵は書を読んで、笑って言った。
「李密は、虚勢を張っている。我は関中を制覇するつもりだが、これを拒絶したら、敵を一つ増やすことになる。腰を低くして奴を驕らせ、東都の兵と死闘させれば、我は西征へ専念できる。関中を平定してから険阻な地形で兵力を養い、状況を見て漁夫の利を得ればよいのだ。」
 そして、返書を書いた。
「天は民を生み、優秀な人へ支配させるのです。そのお方は、先生でなくして誰でしょうか!この老いぼれは身の程を知っております。龍の鱗に登り翼を掴み共に天に昇れたら望外の幸せ。どうか一刻も早く、図讖の予言通りに天下を安らげてください。商辛を牧野に殺すなど、私は言うに忍びません。どうかその儀ばかりはご勘弁ください。ただ、汾晋の旧領だけはなにとぞ安堵してくださいますよう。私は身を守ることに汲々として暇もない有様。盟約を結びに行くことさえ、かなわない状況なのです。」
 李密は返書を得て大喜びで、これを将佐へ見せびらかした。 

 ところで戦陣の方は、長雨が止まずに動けないまま、兵糧が乏しくなってきた。突厥へ使者に立った劉文静はまだ帰って来なかったので、”突厥が劉武周と手を結んで手薄になった晋陽を襲撃する”とゆう噂まで流れ始めた。李淵は将佐を集めて軍を退こうかと提案した。すると裴寂等は皆、言った。
「宋老生と屈突通が険阻な要害に據っていては、まず落とすことはできません。李密とは、連合したとは言えその腹の中は知れません。突厥は貪欲で信義がなく、観望して利のある方へ転ぶでしょうし、劉武周は胡の手下です。太原は一方の都ですし、義兵達の家族が住んでいます。ここを落とされては、我等は壊滅です。今は引き返して大本を固め、再挙を謀るのが上策です。」
 だが、李世民は言った。
「今、野には作物が育つ時期。なんで食糧の乏しさを憂うのですか!宋老生は軽薄な男だから、一戦で捕らえられます。李密は奪取した官庫に固執して、遠略がありません。劉武周と突厥は、上辺はくっついていますが、内実は猜疑しあつています。劉武周は、太原へ兵を出したら馬邑が突厥から襲われると心配するでしょう。
 もともと我等が大義を興したのは、我が身を棄てて民の救済に奮い、咸陽へ入って天下へ号令を掛けるためです。今、小敵にあったからと言ってすぐに引き返すようでは、議に退かれて集まった人々が一気に興をさまし、遂には太原一城のみを守り抜く賊徒と成り下がるかもしれません。それではじり貧ですぞ!」
 李建成も同意したが李淵は聞かず、退却を促した。
 李世民は李淵の幕舎へ入って諫めようとしたが、既に日暮れで、李淵は寝ていた。李世民は入ることができず、外で慟哭したが、その声は帳の中まで聞こえた。そこで李淵は李世民を招き入れて問うた。すると李世民は言った。
「今、我等が兵は義で動いています。ですから戦えば勝てますし、退けば皆は散らばって行きます。前では兵が逃散し、後ろから敵兵が追撃してくれば、我等の滅亡は目前です。これが悲しまずにいられましょうか!」
 李淵はその言葉に悟った。
「だが、軍は既に退却を始めた。どうすれば良いだろうか。」
「右軍は、まだ出発していません。左軍は退却を始めましたが、そんなに遠くまでは行っていません。これから私が追いかけましょう。」
 李淵は笑って言った。
「事の成否はお前次第だ。ただ、思うとおりにやるが良い。」
 そこで李世民は、李建成と共に左軍を追いかけて連れ戻した。
 やがて、晋陽から兵糧が届いた。 

 八月、辛巳。李淵軍は霍邑へ赴いた。李淵は、宋老生が出撃しないことを懼れていたが、李建成と李世民は言った。
「宋老生は勇気だけの猪武者。軽騎で徴発すれば、必ず出てきます。それに、万が一堅守したなら、我等に内通していると噂を流せばよいのです。奴は、左右から煬帝へ報告されることを懼れ、戦わざるを得なくなりますぞ!」
「その計略は善い。宋老生は、賈胡堡へ迎撃に出なかった奴だから、戦争に無能なことは判っている。」
 そこで、李淵は数百騎で霍邑城から数里のところへ先行し、李建成と李世民には数十騎で城下へ行かせた。二人は鞭で城を指し示し、こんな城はすぐにでも落とせるとからかった。宋老生は怒り、三万の兵を率いて出撃した。
 李淵の後続軍は既に到着していた。李淵は兵士達へ食を摂らせてから戦おうとしたが、李世民は言った。
「好機を逃してはいけません。」
 李淵と李建成は城東へ陣取り、李世民は城南へ陣取った。李淵、李建成軍が宋老生軍と戦って少し退却すると、李世民が救援に駆けつけた。李世民軍は敵の背後を衝き、李世民自ら数十人を殺した。李淵軍は盛り返した。この時、彼等は大声で叫んだ。
「宋老生を捕らえたぞ!」
 それを聞いて宋老生軍は戦意を喪失し、大敗した。
 李淵軍は、逃げる宋老生軍を追い抜いて城門へ迫ったので、霍邑状は味方を入れずに城門を閉めた。取り残された宋老生は劉弘基に斬り殺され、屍は数里に亘って転がっていた。
 李淵は、城壁を登るよう命じた。城攻めの道具はなかったが、将士は城壁をよじ登って、霍邑城を落とした。
 この戦いの論功行賞で、軍吏達は良民と奴隷の間に差を付けようとしたが、李淵は言った。
「矢石は相手の貴賤を問わずに降ってくる。どうして差を付けようか。功績に従って賞を与えよ。」
 李淵は、霍邑の吏民へ対して、西河の民と同じように賞した。丁壮を募って従軍させ、帰りたがっている関中の軍士へは五品の散官を与えて帰してやった。
 ある者が、官位を乱発していると諫めたが、李淵は言った。
「隋は勲賞を惜しんで人々から見離された。それをどうして見習えようか!」 

 丙戌、李淵は臨汾郡へ入った。ここでも霍邑と同様に吏民を慰撫する。
 李淵郡は更に進軍した。絳郡通守陳叔達が防戦したが、辛卯、これを撃破した。陳叔達は陳高宗の子息で才学のある人間だったので、李淵はこれを礼遇した。
 癸巳、李淵郡は龍門へ到着した。劉文静と康鞘利が、突厥兵五百と軍馬二千を率いてやって来た。李淵は大いに喜んだ。
 汾陽の住民薛大鼎が李淵へ説いた。
「どうか河東を攻撃しないでください。龍門から直接河を渡り、永豊倉に據って遠近へ檄を飛ばすのです。そうすれば、関中はすぐに平定できます。」
 李淵はこれに従おうとしたが、諸将は河東攻撃を請願した。そこで仕方なくこれを許可したが、薛大鼎を大将軍府として、彼等が略奪をしないよう監視させた。
 河東県戸曹任壊が、李淵へ言った。
「関中の豪傑達は、皆、義兵の到着を待ち望んでいます。私は長年馮翊に住んでいましたから、何人もの豪傑を知っています。私が言って説き伏せれば、必ず麾下へやって来ます。」
 李淵は喜び、任壊を銀青光禄大夫とした。やがて、彼の説得によって、韓城等が降伏してきた。
 この頃、関中の群盗の中では、孫華が最も勢力があった。丙申、李淵は汾陰へ到着し、書を出して孫華を招いた。
 己亥、李淵は壺口へ到着した。すると河濱の民が舟を献上した。こうして百隻以上の舟が手に入ったので、水軍を造った。
 壬寅、孫華が河を渡ってやって来て、李淵に拝謁した。李淵は孫華の手を執って座に就き、彼を左光禄大夫、武郷県公、領馮翊太守とした。
 李淵は、まず王長諧、劉弘基、金紫光禄大夫史大奈等へ六千の兵を与え、渡河させた。李淵は王長諧へ言った。
「屈突通の軍は精鋭兵が多い。だが、五十余里の距離を保てば、その不利を補える。しかしそれでも、屈突通は罪を懼れて出撃するだろう。もしも、奴等が河を渡って卿等を攻撃するならば、我等が河東を攻撃すれば守り切れまい。もしも全軍で城を守ったなら、卿等は浦津橋を落とせ。前は敵の喉もとを押さえ、後はその背を襲えば、敵を必ず擒にできる。」
 屈突通は、虎牙郎将桑顕和へ驍果数千人を与えて、王長諧へ夜襲を掛けさせた。王長諧は戦況不利だったが、孫華や史大奈が桑顕和を背後から襲撃したので、隋軍は大敗した。桑顕和は城へ逃げ帰り、自ら浦津橋を切り落とした。
 馮翊太守蕭造が、李淵へ降伏した。
 戊午、李淵は諸軍を率いて河東を包囲した。屈突通は孤城でも堅守した。 

 将佐が官属の増置を求めたので、李淵はこれに従った。この頃、河東はまだ陥落していなかったが、三輔の豪傑達は毎日千人以上馳せ参じていた。
 李淵は西進して長安へ向かいたがったが、まだ決めかねていた。すると、裴寂は言った。
「屈突通が大軍を擁して堅城に籠もっています。これを見捨てて長安へ向かい、もしも落とせなければ、腹背に敵を受けます。これは危道です。まず、河東を落としてから、西上しましょう。長安は、屈突通の救援を恃んでいるのです。屈突通が敗北したら、長安も落ちます。」
 すると、李世民が言った。
「そうではありません。兵は神速を貴びます。我々が常勝の威光で帰順する民を受け入れながら軍鼓を鳴らして堂々と進軍すれば、長安の民は震駭します。これを取るなど容易いこと。ですが、この堅城の下で為す術もなく時を過ごせば、せっかく集まって来た軍閥達の心はバラバラになってしまい、大事は去ります。それに、関中で蜂起した英雄達は、どこへ帰属すればいいのか決めかねている状況です。早く彼等を招懐しなければなりません。屈突通はただ守りを固めているだけ。考慮しなくても構いません。」
 李淵はこれに従い、諸将を留めて河東を包囲させ、自分は軍を率いて西へ向かった。
 朝邑法曹の革孝謨が浦津、中単の二城を率いて降伏した。華陰令李孝常が永豊倉ごと降伏した。京兆の諸県も、多くが降伏の使者を派遣してきた。
 李淵が朝邑へ到着して長春宮へ泊まると、帰順する関中の士民が大勢やってきて、まるで市のようだった。
 丙寅、李淵は李建成と劉文静へ王長諧等の軍数万を指揮させ永豊倉や潼関を守らせた。東方から来る隋の援軍への備えである。李世民は劉弘基の軍を率いて渭北へ向かった。
 冠氏長干志寧、安養尉顔師古及び李世民の妻の兄長孫無忌が、長春宮へ謁見に来た。顔師古は顔之推の孫である。彼等は皆文学の徒だったが、長孫無忌には才略もあった。李淵は、彼等全員を礼遇した。 

 李淵が西へ入ったと聞くと、屈突通は鷹揚郎将堯君素を領河東通守として蒲坂を守らせ、自身は数万の兵を率いて長安へ向かったが、劉文静に阻まれた。将軍劉綱が潼関を守っていたので、屈突通は潼関へ向かったが、彼が到着する前に王長諧がここを襲撃して劉綱を斬っていた。王長諧は潼関を占領して屈突通を防いだので、屈突通は北城まで退却した。
 李淵は麾下の将呂紹宗等へ河東を攻撃させたが、勝てなかった。 

 柴紹が長安から脱出した。この時、彼は妻の李氏へ言った。
「尊公が挙兵した。ここにいたら捕まってしまうが、女連れで逃げ出すことはできない。どうしよう。」
 すると李氏は言った。
「貴方一人でお逃げください。女一人なら、どこにでも逃げ隠れできます。」
 こうして、彼は太原へ向かった。
 李氏は、また、馬三寶へ群盗を説得して廻らせた。これによって李仲文、向善志、丘師利等が、李淵の麾下へ入った。李仲文は李密の従父である。
 更に李氏は、武功、始平等を下し、その兵力は七万になった。
 李淵の一族の李神通が、長安の大侠史萬寶と起兵して李淵へ応じた。
 李神通の兵力は一万。関中道行軍総管と自称し、前の楽城長令孤徳芬を記室とした。
 西域の商胡何潘仁が司竹園へ入って盗賊となった。その勢力は数万。前の尚書右丞李綱をさらって、長史にした。李氏の家奴の馬三寶が何潘仁を説得して、李神通の傘下へ入らせた。彼等は力を合わせてガク県を落とした。
 西京留守は屡々何潘仁討伐軍を派遣したが、敗北してばかりだった。
 左親衞段綸は段文振の子息であり、李淵の娘を娶っていた。彼も藍田にて衆人を集めて決起した。兵力は一万余。
 李淵が黄河を渡ると、李神通、李氏、段綸等が使者を派遣して李淵を迎えた。李淵は李神通を光禄大夫、段綸を金紫光禄大夫とし、柴紹に李氏を迎えにやらせた。何潘仁、李仲文、向善志及び関中の群盗も、皆、李淵へ降伏した。これへ対して李淵は、一々書を出して慰労し、官位を授け、それぞれの基盤を安堵した。この群盗達は、李世民の指揮下へ入れた。 

 刑部尚書領京兆内史衞文昇は年老いており、李淵軍が長安へ向かっていると聞くだけで憂懼の余り病気になり、政務など取れなかった。ただ、左翊衞将軍陰世師、京兆郡丞骨儀が代王侑を奉じて城壁へ登って敵を防いだ。
 李淵軍は臨晋にて渭水を渡り、永豊にて軍を労い、官庫を開放して飢えた民を救済した。そこで一旦長春宮へ戻ってから、再び馮翊へ進駐した。 

 李世民が進軍する先では、群盗達が流れるように帰順してきた。李世民は、その中から俊才を選んで幕僚に加えていった。やがて、その兵力は九万にまで膨れ上がった。
 李氏は、精兵一万を率いて、渭北にて李世民と合流した。柴紹と各々幕府を置き、「娘子軍」と号した。
 話は前後するが、平涼の奴賊数万が扶風太守竇進を包囲していたが、数カ月経っても陥落しない。そのうち、賊軍の方が食糧が尽きてきた。すると、丘行恭が、五百人の人夫に食糧を背負わせ、牛や酒を携えて賊軍の陣営へやって来た。奴隷の親玉が謁見すると、丘行恭はこれを斬り殺し、衆人へ言った。
「お前達は良人のくせに、奴隷にこき使われて、天下の人々から奴賊と呼ばれているのだぞ!それで良いのか!」
 すると、衆人は伏し拝んで言った。
「これからは、貴方様に仕えさせてください。」
 丘行恭は、彼等を率いて兄の丘師利と共に、渭北にて李世民の傘下へ入った。李世民はこれを光禄大夫とした。
 シツ城尉の房玄齢も、李世民の軍門へやって来た。李世民は一見して古馴染みのように付き合い、記室参軍に任命して謀主とした。房玄齢も又、知己と出会えたとして、心力の限り李世民へ仕えた。 

 李淵は、劉弘基と殷開山へ兵を与えて扶風を攻略させた。彼等は六万の兵力で渭水を渡り、長安の古い城へ屯営した。城から出撃してきたが、劉弘基がこれを迎え撃って撃破した。
 李世民が兵を率いて司竹へ向かうと、何潘仁、李仲文、向善志等が手勢を率いて従軍した。阿城へ屯営する時には、十三万の兵力となっていた。この軍は、軍令は整然としており、秋毫も犯さなかった。
 乙亥、李世民は李淵のもとへ使者を出し、期日を決めて長安を攻撃するよう請うた。すると、李淵は言った。
「屈突通は東へ向かって足止めを食らい、西へ戻ることができない。何を慮ることがあろうか!」
 そして、李建成へ精鋭を選りすぐって長楽宮へ進軍するよう命じ、李世民は諸軍と共に長安の北にある故城へ屯営するよう命じた。
 延安、上郡、雕陰等が、李淵へ降伏してきた。
 丙子、李淵は兵を率いて西進した。途中通過する離宮園苑は全て解放し、宮女達は親元へ帰した。
 十月、李淵は長安へ到着し、春明門の西北へ陣を布いた。諸軍も皆集結し、兵力は二十余万となった。兵卒達へ乱暴狼藉を禁じ、城内へ何度も使者を派遣して隋を尊ぶポーズを取ったが、城内からは返事がなかった。
 辛卯、諸軍へ長安包囲を命じた。
 城攻めに先立って、李淵は兵卒へ誓約した。
「七廟と代王、そして宗室は犯してはならない。これに背く者は、三族を皆殺しとする!」
 孫華が、流れ矢に当たって戦死した。
 十一月、軍頭雷永吉が城壁へ登り、遂に長安に勝った。
 代王は東宮にいたが、左右は皆逃げ出した。ただ、侍読の姚思廉のみが、側に侍っていた。軍士が殿へ登ろうとすると、姚思廉はこれを怒鳴りつけた。
「唐公が魏兵を挙げたのは、帝室を正す為だろうが。卿等、無礼をするでないぞ!」
 皆は愕然として、庭下に整列した。
 李淵は、東宮にて王を迎え、大興殿へ移動させた。姚思廉が王を助けたことを聞くと、泣いて拝礼し、去った。
 李淵は長楽宮へ戻り、民へ対しては十二丈の法令を約束し、隋の細々とした禁令は全て排除した。
 李淵が決起したとき、長安の留守官は、李淵の墳墓を暴き、五廟を壊した。李淵が入城した時には、衞文昇は既に死んでいたので、陰世師、骨儀などを捕らえ、彼等の貪婪苛酷を数え上げて斬った。しかし、処刑したのは十余人だけで、他は不問に処した。
 馬邑郡丞李靖は、もともと李淵と仇同士だった。李淵は入城してこれを斬ろうとしたが、李靖は大声で叫んだ。
「公が義兵を起こしたのは暴乱を鎮定する為だろう。それなのに、私怨で壮士を殺すのか!」
 李世民も、彼を弁護したので、捨て置いた。そこで李世民は、李靖を自分の幕府へ召した。
 李靖は幼い頃から自負心が強く、文武の才略があった。彼の舅の韓擒虎は、いつも彼を撫でて言っていた。
「将帥の才略があるのは、この子一人だ!」
 李淵は法駕を備えて代王を迎え入れ、皇帝位へ即けた。これが恭帝である。年は十三才。大赦を下し改元して(ここで始めて義寧となる。)、煬帝を太上皇へ祭り上げた。
 甲子、李淵は長楽宮から長安へ移った。仮黄鉞、使持節、大都督内外諸軍事、尚書令、大丞相となり、唐王へ進封される。武徳殿を丞相府にして、毎日虔化門にて政務を執った。
 乙丑、楡林、霊武、平涼、安定の諸郡が命令に従うと言ってきた。
 丙寅、軍国の機密や法律の制定、賞罰などは大小を問わず全て相府にて行い、恭帝へ対してはただ天地を祀る事のみ奏聞する、と詔した。
(訳者曰。物凄い詔ですね。ここまで露骨に表現されると、笑ってしまう。ともあれ、これはもう隋ではありません。唐です。)
 丞相府に官属を置き、裴寂を長史、劉文静を司馬とした。
 李淵は官庫を傾けて褒賞に当てたので、国用が不足した。すると、右光禄大夫劉世龍が献策した。
「今、数万人の義兵達が京師におりますので、柴や薪が高騰し、布帛は安くなっています。ですから六街や苑中の樹木を薪として布帛の代わりに賜下しては如何でしょうか。」
 李淵はこれに従った。
 李建成を皇太子に、李世民を京兆尹、秦公に、李元吉を斉公にする。
 十二月、李淵の大父襄公を元王と追諡し、夫人の竇氏を穆妃とした。 

 同月、李淵は、李世民を扶風へ、姜誉、唐軌を散関へ、李孝恭を山南へ、張道源を山東へ派遣して、各地を招慰させた。
 この頃、薛仁果が扶風を包囲していたので、李世民はこれを撃退した。詳細は、「薛挙」へ記載する。その直後、平涼留守張隆、河内太守蕭禹、扶風太守竇進が、相継いで来降した。李淵は、竇進を工部尚書・燕国公、蕭禹を礼部尚書・宋国公とした。
 しかし、姜誉、唐軌は薛挙に撃退された。
 李孝恭は、朱粲(彼については、「隋」の「群盗」の大業十一年の分に記載。)を撃破した。諸将は捕虜を皆殺しにしようと言ったが、李孝恭は言った。
「だめだ。そんなことをしたら、これから降伏する者が居なくなるぞ。」
 そして、更に進軍する。金川から巴、蜀へ出て、檄文を回したところ、三十余州が帰順した。 

 屈突通と劉文静は、一ヶ月余りも睨み合っていた。屈突通は桑顕和へ夜襲を掛けさせたが、劉文静と左光禄大夫段志玄は全力を挙げて抗戦した。桑顕和は敗走し、大半の兵卒は捕虜となった。これによって、屈突通はますます勢力が弱まった。
 ある者が屈突通へ降伏を勧めると、屈突通は泣いて言った。
「我は二代の主君に仕え、甚だ厚い恩顧を蒙った。人の禄を食んだのに、危難の時に逃げ出すなど、俺にはできん!」
 屈突通は、時に自分の首を撫でながら言った。
「国家の為に、ここで刀を受け止める!」
 将士を励ます時には、涙を流さないことはなかった。だから、兵卒達は彼を慕ったのだ。
 丞相李淵が、自分の奴隷を派遣して降伏を呼びかけたが、屈突通はこれを斬り捨てた。
 長安が陥落すると家族は全員捕虜となってしまったが、彼は桑顕和に潼関を守らせ、自身は兵を率いて東都を目指して東進した。
 屈突通が去ると、桑顕和は即座に城ごと劉文静へ降伏した。劉文静は、蕭宗と桑顕和へ軽騎を与えて屈突通を追撃させた。これは、稠桑にて屈突通へ追いついた。
 屈突通は陣を造って防備を固めた。蕭宗は屈突通の子息の屈突寿へ、降伏を勧告させた。すると屈突通は罵って言った。
「この賊めが、何しに来たのだ!お前とは昔は親子だったが、今は仇讐だ!」
 そして、左右へ弓を射させた。
 桑顕和は、屈突通の部下達へ言った。
「もう、京城は陥落している。お前達は皆、関中の人間だぞ。ここを棄ててどこへ行くのか!」
 皆は、武器を棄てて降伏した。
 屈突通は逃げられないことを知り、馬を降りると東南へ向かって再拝して号哭した。
「臣は力屈してここに至りました。国に背いたのではありません、天地神祗よ、ご照覧あれ!」
 軍人は屈突通を捕らえて長安へ送った。李淵は、これを兵部尚書として、蒋公の爵位を賜下し、秦公元帥府長史を兼任させた。
 この時、河東の堯君素は、まだ抗戦していたので、李淵は屈突通を降伏の使者として派遣した。堯君素は屈突通を見て泣きじゃくり、屈突通も涙が止まらなかった。両名して泣き濡れた後、屈突通は言った。
「我が軍は既に敗北した。義旗の指すところ、応じない者はいない。こうなってしまった以上、卿も早く降伏するしかないぞ。」
 すると、堯君素は言った。
「おまえは国の大臣となった。主上は公へ関中を委ね、代王は公へ社稷を付したのだ。それなのに国に背いてオメオメと捕虜になって生き延び、あまつさえ敵の為に説客となったのか!公の乗っているその馬は、代王から賜った馬だぞ!どの面下げてそれに乗っているのか!」
「ああ、君素よ。我は力尽きたのだ。」
「我が力は、未だ尽きていない。これ以上つべこべ言うな!」
 屈突通は慙愧して退出した。
 堯君素は、籠城したまま頑強に抵抗した。虞州刺史韋義節がこれを攻撃していたが、長い間戦っても、戦況は不利だった。
 唐の武徳元年(618年)、四月、煬帝が弑逆され、五月には唐が受禅した。すると降伏する者が相継いだが、堯君素は降伏しない。
 九月、工部尚書独孤懐恩が、韋義節と交代して、堯君素を攻撃した。この戦争で、行軍総管の趙慈景が堯君素へ捕まった。趙慈景は、李淵の娘の桂陽公主を娶った男だったが、堯君素は彼を城外にて梟首して、降伏の韋氏が全くないことを示した。
 河東は、なかなか落ちない。ただ、蒲坂城の包囲は厳重だったので、外部と連絡も取れなかった。そこで堯君素は木で鵞鳥を造り、その首へ事勢を論じた文書をくくりつけて黄河へ流した。河陽を守っている者がこれを見つけて、東都へ届けた。皇泰主は、その文書を読んで嘆息し、堯君素を金糸光禄大夫とした。
 皇甫無逸等が唐へ降伏してくると、高祖は彼等を蒲反へ派遣して利害を述べさせたが、堯君素は従わない。高祖は、彼へ、絶対に殺さない旨、誓約書(原文;金券)を賜下した。また、堯君素の妻を城下へ派遣して言わさせた。
「隋は既に滅んだのですよ。どうしてそうまでご自分を苦しめるのですか。」
 堯君素は言った。
「天下の名義だ。女性の知ったことではない。」
 それどころか、弓を引いて射た。細君は、弦音を聞いて気絶した。
 堯君素も、助からないことは自覚していた。ただ、死ぬまで守り抜きたかったのだ。国家について口にするたび、涙を零さないことはなかった。彼は、将士へ言った。
「我は主上(煬帝)が晋王だった頃から側近として仕えていた。だから大義として、命を捨てなければならない。隋が完全に滅亡して、次の皇帝が決まったら、私は自殺しよう。そしたら卿等は我が首を持って降伏するがよい。きっと、富貴な身分になれよう。だが、今はまだ、この堅固な城に食糧もたっぷりあり、隋室再建の可能性も残っている。まだ邪心を起こしてはならぬ!」
 堯君素は厳格明晰な性格で、部下を使うのが巧かったので、彼に背く者は居なかった。
 やがて食糧が尽きると、人々は人肉を食べるようになり、捕虜の口から江都の陥落も知った。
 丙子、尭君素の左右の薛宗と李楚客が、唐へ降伏しようと、尭君素を殺した。
 これ以前に、尭君素は朝散大夫の王行本へ七百人の精鋭を与えて別の場所へ派遣していた。王行本は尭君素の危難を聞いて急いで駆けつけたが、間に合わなかった。そこで、尭君素を殺した者共を皆殺しにして、自身が指揮を執って拒戦を続けた。独孤懐恩が、包囲を続ける。
 王行本は、劉武周羅と呼応したりして頑強な抵抗を続けたが、武徳三年(620年)、正月、遂に力尽きて降伏した。その詳細は後述する。
 李淵は、蒲州まで御幸し、王行本を斬った。 

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