李淵決起   その一
 
 大業九年(613年)、楊玄感の乱が鎮圧されると、彼に内応していた斛斯政は高麗へ亡命した。留守弘化郡の元弘嗣は斛斯政と親しかったので、煬帝は彼を疑った。そこで、衞尉少卿李淵へ、元弘嗣を捕らえさせ、李淵を留守弘化郡へ任命した。こうして李淵は関右十三郡の兵卒を自由に動かせる立場となった。李淵は寛大な男だったので、大勢の人間が、彼の元へ集まってきた。
 もともと、李淵は奇異な顔をしており、その名前は図讖に応じていたので、煬帝は、彼を忌むようになった。ある時、李淵を行在所へ呼び寄せたところ、李淵は病気で行けなかったことがあった。後宮の王氏は李淵の姪だったので、煬帝は彼女へ訊ねた。
「お前の舅は、どうしてこんなに遅れているのだ?」
 王氏が病気だと告げると、煬帝は言った。
「死んでくれるかな?」
 李淵はその話を聞いて恐れ、以来、酒浸りになったり賄賂を受け取ったりして韜晦するようになった。 

  

 十一年、李淵は山西、河東撫慰大使承制黜陟選補郡県文武官となり、河東の兵を徴発して群盗を討捕するよう命じられた。
 李淵は龍門へ行き、毋端児を撃破した。
 十二月。樊子蓋が関中の兵数万を率いて絳の賊敬盤陀等を攻撃した。ところが樊子蓋は賊兵も良民もお構いなしで、汾水の北の村塢は全て焼き払い、降伏してきた賊兵は、皆、穴埋めにした。百姓は怨憤し、ますます集まって盗賊となった。そこで、李淵へ交代するよう詔が降りた。
 李淵は、降伏してきた者を左右へ置いたので、大勢の賊徒が降伏してきた。その数は、全て合わせて数万人。残りの賊徒は、他郡へ逃げ出した。 

  

 十二年、盗賊達が暴れ回る中、煬帝は江都へ巡遊した。臣下の中には、「今、長安へ帰らなければ隋は滅亡する。」と諫める者もいたが、諫言する者を処刑して断行した。
 十二月。李淵が太原留守を命じられた。虎賁郎将王威と虎牙郎将高君雅が副官となる。
 李淵は、擢児を討伐した。だが、数千の部下しかいないときに、敵の数万の本隊と遭遇し、何重にも包囲されてしまった。しかし、李世民が救出に来て、これを撃破した。
 この頃、突厥が屡々北辺を荒らし廻っていた。晋陽太守李淵と馬邑太守王仁恭へ、討伐命令が降った。
 この時、突厥は強勢を極めていたのに、隋軍は両軍合わせても五千にも足りなかった。王仁恭は、これを憂えた。しかし李淵は騎射の巧い者二千人を選び、彼等へ突厥の生活様式を真似させ、攻撃して廻った。突厥軍と遭遇すると屡々勝利を収め、突厥はこれを憚った。 

  

 李淵は、神武粛公竇毅の娘を娶って、四人の男児を儲けた。李建成、李世民、李玄覇、李元吉である。
 李世民は聡明で決断力があり、見識は人並みはずれていた。隋室が乱れているのを見て、密かに天下平定の志を持ち、腰を低くして士へ接し、財産を惜しまずに人と付き合った。
 李世民は右驍衞将軍長孫晟の娘を娶った。長孫晟の一族の右勲衞長孫順徳と、右勲侍劉弘基は、共に遼東の役を避けて李淵のもとへ亡命してきた者だが、李世民と仲が善かった。左親衞竇宗は、竇熾の孫である。彼も又太原へ亡命してきた。彼は、もともと李世民と仲が悪かったので、害されるのではないかと不安がっていたが、李世民が腰を低くして接したので、安心した。 

 晋陽宮監の裴寂と晋陽令の劉文静が同宿していた時、城から狼煙が上がった。それを見て裴寂は嘆いた。
「我等はこんなに貧しい上に、戦乱の世の中になってしまった。どうやったら生き延びられるやら!」
 すると劉文静が笑って言った。
「善いご時世だ。我等二人が揃ったら、貧賤などなんで憂えようか!」
 その劉文静は、李世民を見て異才だと感じ、深く結託して、裴寂へ言った。
「彼は常人ではない。漢の高祖や魏の太祖の類だ。年は若いが世界を救う才を持つ。」
 しかし、裴寂は当初はそうは思わなかった。
 劉文静は、李密の一党として太原の牢獄へぶち込まれた。李世民が面会に行くと、劉文静は言った。
「天下は大乱です。漢の高祖や後漢の光武帝のような器量人が出なければ治まりません。」
「それは判っているが、補佐してくれる人間が居ないのだ。我は、女子供のような未練の情でここへ来たのではない。君と大事を謀りたいのだ。」
「今、主上は江都へ行っており、李密は東都を包囲しており、群盗はごまんと居ます。このようん折に、真の主が出て行ったら、天下を取るなど掌を返すようなもの。太原の百姓は、皆、盗賊を避けて城内へ入っております。私は数年、この太源の令をしていましたので、豪傑達を知っています。彼等へ呼びかければ、十万人は集まります。尊公が率いる兵も、数万人。これだけ集まれば、誰が逆らえましょうか!この虚に乗じて関へ入り天下へ号令を掛ければ、帝業は成就します。」
 李世民は、笑って言った。
「それこそ、我が想いと同じだ。」
 そして、密かに彼を賓客扱いしたが、李淵はそれに気がつかなかった。李世民は、決起を勧めても李淵が従わないことを危惧し、まだ計画を話さなかった。
 李淵と裴寂は古馴染みで、屡々一緒に飲んだ。そこで劉文静は裴寂へ李淵を説得させようと考え、裴寂を李世民へ引き合わせた。李世民はバクチにかこつけて数百萬の私銭を与えたので、裴寂は大いに喜び、李世民と狎れ遊ぶようになった。そこで李世民が陰謀を語ると、裴寂は許諾した。
 さて、突厥は馬邑への入寇を続ける。李淵は、部下の高君雅と王仁恭へ防がせたが、戦況は不利だった。李淵は罪へ落とされることを懼れ、鬱々とした。そこで李世民は人の居ない場所で李淵へ言った。
「今、主上は無道で百姓は困窮しています。晋陽城の外は、全て戦場ではありませんか。大人が小節を守っていたら、下は突厥や群盗達から攻められ、上は主上の厳しい刑罰があり、いつ滅亡するか知れたものではありません。ここは、民の想いに従い、義兵を起こすしかありません。そうすれば禍は転じて福となります。この動乱こそ、天が授けてくれた好機です。」
 李淵は大いに驚いた。
「お前はなんて事を言うのだ。捕まえて県官へ告発するぞ!」
 そして、紙と筆を取って告訴状まで書こうとした。だが、李世民は静かに言った。
「私は天の時と人の想いを見て判じたのです。それも、後に退けないところまで来ています。私を捕まえるというのなら、殺されても構いません!」
 李淵は言った。
「俺が、どうしてお前を告発できようか。お前は、慎んで口を塞いでおけ!」
 翌日、李世民は再び言った。
「今、盗賊は天下に満ち溢れています。大人が盗賊掃討の命令を受けたとて、どうして根絶やしにできましょうか!それならば、結局は罪に落ちるのではありませんか。それに、世間の人々は皆、李氏が図讖に応じていると言っています。かつて李金才は罪もないのに一日で一族を全員誅殺されてしまいました。大人が盗賊達を根絶やしにできたら、それこそ『高すぎる功績を建てれば賞されず、ただ危険を増すばかり』とゆうものではありませんか!ただ昨日の策だけが、禍から救えるのです。これこそ万全の策、どうか大人、お疑いにならないでください。」
 李淵は嘆息していった。
「お前の言うことを、一晩考えてみたが、それしかないようだ。今日家を滅ぼすなら、お前のせいだ。そして家が国に化けるとしたら、それはお前の力だ!」
 話は前後するが、裴寂は、李淵へ女性を世話していた。そして、李淵は知らなかったが、その美女達は晋陽宮の女官だった。
 ある時、裴寂は李淵と酒を飲んでいる時、言った。
「次男坊は、密かに士馬を養い、大事を起こそうとしています。ですから私は、公へ宮女を勧めたのです。露見して誅殺されることが恐いなら、はやく決起するしかありませんよ。」
 李淵は言った。
「確かに、あいつは陰謀を進めている。ここまで来たら、従うしかないな。」 

 煬帝は、李淵と王仁恭では突厥の来寇を防げないと考えて、捕らえて江都へ連れて来させる為に使者を派遣した。李淵が大いに懼れると、李世民と裴寂が説いた。
「今、主上は混迷で国は乱れています。忠義を尽くしても、何の役にも立ちません。刑罰はいい加減で、明公は罪に落とされようとしています。ここまで来た以上、早く決起するしかありません。それに、晋陽の士馬は精強で宮監には巨万の蓄えがあります。挙兵したら、何で失敗しましょうか!代王はまだ幼く、関中の豪傑達は決起しても盟主と仰ぐ相手を決めかねています。公が軍鼓を鳴らして西進し、彼等を慰撫すれば、袋の中の物を掴むようなものです。なんでおめおめ捕らわれて一族を夷滅させてよいものでしょうか!」
 李淵は同意し、密かに決起の準備をした。
 ところが、すぐに次の使者が来て、李淵等の赦免を告げたので、李淵は準備を緩めてしまった。
 李淵が河東討補使になった時、請願して大理司直の夏侯端を副官とした。夏侯端は、夏侯詳の孫である。彼は占術や人相見に長けた人間で、ある時李淵へ言った。
「今、玉牀は揺れ動いており、帝座は不安定です。晋陽が時を得ています。必ず真人が起って天下を取ります。その真人は、公でなくて誰でしょうか!主上は猜疑心が強く、残忍で、李姓の者を最も忌み嫌っています。李金才は既に殺されました。公が決起しないと、次は公の番ですぞ!」
 李淵は心底同意した。
 やがて留守晋陽となると、鷹揚府司馬許世緒が李淵へ言った。
「公の姓は図讖に載っており、名は歌謡に応じています。しかも五郡の兵を掌握し、四戦の地に居ます。事を起こせば帝業でも成就しますが、端座していれば滅亡は目前です。ただ、公の心のままにお選びください。」
 他にも大勢の人間が挙兵を勧めた。
「明公が北方の戎狄を招き南方の豪傑と手を結べば、すぐにでも天下が取れます。これこそ殷の湯王や周の武王の挙兵と同じです。」
 だが、李淵は言った。
「湯王や武王の真似などできないよ。我は存続を図り、公は動乱を謀る。卿はしばらく自重しておれ。我はしばらく考えておく。」
 この頃、李建成も李元吉も河東にいた。だから李淵は決起を躊躇ったのだ。
 劉文静が、裴寂へ言った。
「先んじれば人を制し、遅れれば人に制せられる。どうして、早く造反するよう唐公へ勧めず、グズグズと時ばかり過ごしているのだ。それに、公は宮監となって、宮女を唐公へ勧めたのだ。これがばれたら公は死刑だぞ。」
 裴寂は懼れ、唐公へ起兵を何度も勧めた。
 とうとう李淵は決起を決意し、劉文静へ敕書を偽造するよう命じた。「太原、西河、雁門、馬邑の二十以上五十以下の男達全員を徴発して今年中にタク郡へ向かうように、」との命令書だ。これによって、それらの人民は動揺し、決起を思うようになった。 

 やがて、劉武周が決起して汾陽宮に據った(義寧元年(617年))。すると、李世民が李淵へ言った。
「大人は留守となったのに、盗賊が離宮を占領しました。はやく大計を建てないと、禍が来ますぞ。」
 李淵は、将佐を集めて言った。
「劉武周が汾陽宮を占拠したが、我等は手出しできなかった。この罪は、一族誅殺に値するぞ。どうすれば良いだろうか。」
 王威等は懼れ、再拝して計略を請うた。そこで、李淵は言った。
「朝廷の兵は、全て節度で動く。今、賊は数百里以内にいるのに、江都は三千里も離れている。そのうえ道路は険阻で、途中に大勢の盗賊達が割拠している。と言って、この城の兵力では、とても賊を撃破できない。進退窮まって手が出せないのだ。」
 王威等は言った。
「公は国の重鎮ですし、この重大な職務に就いているのです。どうして一々許可が要りましょうか。要は盗賊共を退治することです。兵を専断なさってください。」
 李淵は、上辺はやむを得ないようなふりをして、言った。
「それでは、募兵しよう。」
 そして李世民、龍文静、長孫順徳、劉弘基等に、各地で募兵させた。すると、遠近から人が集まり、旬日のうちに一万人近くなった。また、李建成と李元吉を長安から呼び寄せた。
 大軍が雲集したのを見て、王威と高君雅は、李淵に二心があるのではないかと疑い、武士尋へ言った。
「長孫順徳も劉弘基も、遠征から逃げ出した人間だ。その罪は死刑に値する。そんな男達へ、どうして兵を率いさせられようか!」
 彼等は、その兵を自分の手勢にしたかったのだ。だが、武士尋は言った。
「あなた方は、二人とも唐公の客です。もしも唐公の兵卒を奪おうとしたら、大騒動になりますぞ。」
 脅されて、王威たちは追求をやめた。
 留守司兵田徳平は、王威等へも募兵するよう勧めようとしたが、武士尋が言った。
「討捕の兵は、全て唐公の麾下にある。王威も高君雅も、単なる居候だ。奴等になにができるか!」
 田徳平は、勧めるのをやめた。
 晋陽郷長劉世龍が、密かに李淵へ告げた。
「王威、高君雅が、晋祠での雨乞いの時、何かしでかします。」
 五月、癸亥の夜、李淵の命令を受けて、李世民が晋陽宮城外へ兵を伏せた。
 甲子の明け方、李淵と王威、高君雅が共に政務を執っていると、開陽府司馬劉政会が庭へ入ってきて、密状があると言った。李淵は王威を見て、これを取るよう促したが、劉政会は与えず、言った。
「副留守事への告発状です。唐公以外へは渡せません。」
 李淵は驚いたふりをして、言った。
「そんなことがあるものか!」
 だが、その密状を見て、言った。
「王威と高君雅が、突厥と内通している。」
 高君雅は、袂を払って怒鳴りつけた。
「これは我等を殺す為の言いがかりだ!」
 この時、李世民が兵を出して逃げ道を塞いだ。劉文静は、長孫順徳や劉弘基と共に王威と高君雅を捕らえ、牢獄へぶち込んだ。
 ところで、ここで言った「突厥との内応」とゆうのは単なる言いがかりだったのだが、丙寅、突厥の兵数万人が晋陽へ来寇した。彼等は軽騎で外郭北門から入り、東門へ出た。李淵は、裴寂等へ軍備を命じ、全ての城門を開放させた。突厥は、敵の真意を測りかね、敢えて攻め込もうとはしなかった。
 これを見た民衆は、王威と高君雅が本当に突厥と内通しており、彼等が突厥軍を引き入れたのだと思った。そこで李淵は、王威と高君雅を引き出して切り捨てた。
 李淵の部将の王康達が千余人で出撃したが、全滅してしまったので、城内は震え上がった。
 李淵は、夜、軍を密かに城外へ出し、翌朝、鳴り物入りで入城させた。突厥はこれを見て、援軍が来たと思い、城外で掠奪して帰った。 

 李建成と李元吉は、兄弟の李智雲を棄てて、河東を逃げた。官吏は李智雲を捕らえて長安へ送り、殺した。
 李建成と李元吉は、途中で柴紹へあったので、同行した。
 六月、李建成等は晋陽へ到着した。 

 劉文静は、突厥と同盟を結ぶよう李淵へ勧めた。李淵はこれに従い自ら書状を書き、腰を低く賜を厚くして始畢可汗のもとへ使者を派遣した。その文に曰く、
「義兵を大挙して遠方の主上を迎え入れ、開皇の頃のように突厥と和親しようと思うのです。もしも我等と共に南進するのなら、百姓へ暴虐を行わないでください。そのかわり和親したなら、座したままで宝物を受け取れるのです。どちらを選ぶも、可汗の心次第ですぞ。」
 始畢可汗はこの書を大臣へ見せていった。
「我は、隋主の為人を知っている。もしも彼を迎え入れたら、必ずや唐公を害して我等を攻撃すること、疑いない。もしも唐公が自ら天子となるのなら、我は南方の酷暑をもものともしないで、兵馬を出して彼を助けよう。」
 そして、その意向で返事をした。
 突厥の使者からこれを聞いて将佐は皆、大喜びでこれに従おうと言ったが、李淵は不可とした。すると、裴寂と劉文静が言った。
「今、義兵が集まりましたが、軍馬が不足しております。胡兵は不要かも知れませんが、軍馬を失うことはできません。この同盟を断ると、後に悔いることになりますぞ。」
「だが、次善の策を考えてみよ。」
 そこで裴寂は言った。
「今上の主上が嫌われているのです。天子を太上皇へまつりあげ、代王を皇帝へ立てましょう。そうやって隋室を安泰にする、と、郡県へ檄文を飛ばすのです。」
「それは、『耳を覆って鐘を盗む。』とゆうやつだな。だが、事態は切迫している。やむを得まい。」
 そこで、事の次第を突厥へ伝えた。 

  

 西河郡は李淵の命令に従わなかった。李淵は、李建成と李世民へ西河を攻撃させた。この時、太原令の温大有を随行させ、言った。
「わが子等は、まだ幼い。卿を参謀とする。事の成敗を占う、大事な一戦だぞ。」
 軍士達は集まったばかりで、まだ軍事訓練をしていなかった。李建成と李世民は、彼等と甘苦を共にし、敵に遭遇したら先陣切って戦った。彼等は、買った物しか食べなかった。まれに兵士が作物を取って行くことがあったが、その時は持ち主を捜して代価を払い、しかも奪った兵士を詰らなかったので、兵士も民も喜んだ。
 西河城下へ着くと、近隣の庶民の中で城内へ入りたがっている者は入れてやった。
 郡丞の高徳儒は城門を閉じて拒んだが、攻め落とされた。李世民は高徳儒を捕らえると、言った。
「汝は野鳥を指して鸞と言い、人主を欺いて出世した男だ(大業十一年。「煬帝その三」に詳細を記載。)。我が義兵を起こしたのは、まさに佞人を誅する為なのだ!」
 そして、これを斬った。
 しかし、それ以外の者は一人も殺さず、民のものは秋毫も犯さない。皆を慰撫して、普段通り働かせた。これを聞いて、近隣の民も大いに喜んだ。
 討伐軍は、そのまま晋陽へ戻った。この往復には、九日しかかからなかった。李淵は喜んで言った。
「これならば、天下を横行することもできるぞ。」
 遂に、入関の計略を定めた。
 李淵は官庫を開いて貧民を救済したので、応募する者は日々増えた。李淵は、これを三軍に分けた。裴寂は、李淵へ大将軍の称号を献上した。そこで李淵は大将軍府を建てる。裴寂を長史、劉文静を司馬、唐倹と前の長安尉温大雅を記室とし、温大雅とその弟の温大有に機密を掌握させた。また、李建成を隴西公、左領軍大都督とし、李世民を敦煌公右領軍大都督として、各々官属を設置した。 

 突厥は唐と交易しようと、柱国の康鞘利等へ千頭の馬を与えて晋陽へ派遣した。そして、李淵が入関の為に出陣する時には、援軍を出すと許諾した。
 李淵は康鞘利と謁見し、可汗の親書を受け取った。その時の有様は恭謙で礼を尽くしていた。また、康鞘利等へは厚く賜下した。馬は良い物だけ半数を買い取った。すると義士の一人が、余った馬を私的に買い取りたいと申し出た。対して李淵は言った。
「我が半分しか買わなかったのは、我等が貧しいと思わせ、又、軍馬の必要にそこまで切迫していないと見せかける為なのだ。」
 霊寿県の賊帥希士陵が、数千人の部下を率いて帰順した。李淵は彼を鎮東将軍、燕郡公として、鎮東府を設置して幕僚を選ばせた。こうやって、山東郡県の盗賊達を招撫したのである。
 康鞘利が北へ帰ると、李淵は劉文静を突厥へ派遣して援軍を要請した。この時、李淵は劉文静へ言った。
「胡騎が中国へ入るのは、生民の大きな害毒だ。しかし、それでも我が彼等を仲間に引き込もうとしているのは、奴等が劉武周と共に辺境を荒らし回ることを懼れるからだ。又、胡馬を遊牧させれば粟も要らないし、それだけでも牽制になる。だから、援軍は数百人以上は無用だぞ。」(胡三省、曰く。この唐公の言葉を観るに、粛、代及び石晋の君主達と、なんと違うことか!)
 劉文静は、突厥へ着くと李淵の言葉通り援軍を請い、言った。
「もしも長安へ入ったら、民衆と土地は唐公が取るが、金玉繪帛は突厥へ渡そう。」
 始畢可汗は大いに喜び、大臣の級失特勒を派遣した。 

  

 李淵は、李元吉を太原太守、留守晋陽とし、後事を全て委ねた。
 七月、癸丑、李淵は武装兵三万を率いて晋陽を出発する。軍門にて衆人へ誓いを立て、郡県へ檄文を飛ばし、代王を立てることを宣言した。西突厥の阿史那大奈が部下を率いて従った。
 丙辰、李淵は西河へ到着。吏民を慰労し、貧民を救済した。七十歳以上の民は散官(朝議等の八郎、武騎等の八尉を散官とゆう)へ叙任し、その他の豪族や俊才には、才覚に見合った官位を授けた。一日に、千余人へ官位を与える。
 壬戌、賈胡堡へ屯営する。ここは、霍邑から五十里しか離れていない。代王侑は、虎牙郎将宋老生へ精鋭二万を与えて霍邑へ屯営させ、屈突通を河東へ屯営させて李淵を防いだ。折から長雨に会い、李淵は進軍できなかった。
 乙丑、張綸が離石に勝ち、太守の楊子祟を殺した。 

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