高祖時代 その2
 
 武徳六年(623年)、 六年、正月。劉黒闥を滅ぼした。 

 壬午、 州の人王摩沙が挙兵した。元帥と自称し、進通と改元する。驃騎将軍衞彦へ、これを討伐させた。 

 二月、庚戌、上は驪山の温泉へ御幸した。甲寅、宮殿へ帰る。
 同月、平陽昭公主が卒した。戊午、公主を葬う。その葬式の時、前後にて鼓吹を奏でさせた。また、武装した兵士四十人が道を挟んで列を造った。
 太常が上奏した。
「禮では、婦人の葬式に鼓吹はありません。」
 すると、上は言った。
「鼓吹は軍楽だ。公主は自ら金鼓を執り、義兵を起こして大業成就を助けてくれた(185巻)。なんで普通の婦人のように扱えようか!」 

 同月、幽州総管李藝が入朝を請うた。庚午、藝を左翊衞大将軍とした。 

 同月、参旗等十二軍を廃止した。 

 三月、乙巳、前の洪州総管張善安が造反した。舒州総管張鎮周等へ、これを撃たせた。
 四月、張善安が孫州を落とした。総管の王戎を捕らえ、去った。 

 四月、丁卯、南州刺史寵(本当はまだれ)孝恭、南越州の住民ィ道明、高州首領馮暄が手を組んで造反した。南越州を落とし、姜州へ進攻する。
 合州刺史ィ純が、兵を率いて救援に向かった。 

 四月、壬申、皇子元軌を蜀王、鳳をタク王、元慶を漢王に立てる。
 癸酉、裴寂を左僕射、蕭禹(「王/禹」)を右僕射、楊恭仁を吏部尚書兼中書令、封徳彝を中書令とした。 

 六月、瓜州総管賀若懐廣が領内を巡撫して沙州へ行った時、同州の住民張譲と李通が造反した。懐廣は数百人で子城へ立て籠もった。
 涼州総管楊恭仁が救援軍を派遣したが、護等に敗北した。
 七月、張護と李通は賀若懐廣を殺し、汝州別駕竇伏明を盟主に推戴して瓜州へ進軍した。長史の趙孝倫が、これを撃退する。
 九月、乙未、竇伏明が沙州を以て来降した。
 高昌王麹伯雅が卒し、子の文泰が立った。 

 七月、丁丑、岡州刺史馮士羽(「歳/羽」)が新會に據って造反した。廣州刺史劉感が討伐した。士羽が降伏したので、官位を復旧した。 

 九月、太子が兵を編成した。
 壬辰、秦王世民を江州道行軍元帥とすると詔が降りた。
 秦王世民は、まだ并州へいた。十月己未、世民へ、帰ってくるように詔する。
 十月、上は華陰へ御幸した。
 十一月、丁亥、上が華陰で狩猟をした。
 己丑、忠武頓にて秦王世民を迎え、労った。
 十二月、甲寅、車駕が長安へ戻った。 

 九月丙申、渝州の住民張大智が造反した。刺史の薛敬仁は、城を棄てて逃げた。
 十月、張大智が倍(ほんとうは、さんずい偏)へ侵入した。刺史の田世康等がこれを討つと、大智は衆を率いて降伏した。 

 庚寅、白簡と白狗キョウが、共に使者を派遣して入貢した。
 七年、正月。丙申、白狗らキョウの土地を維、恭二州へ設置した。
 春、周、斉の旧制度を踏襲して、州ごとに大中正一人を設置した。これに州内の人物を掌握させて、役人を任命させた。大中正は、本州の門望の高い者を任命し、品秩はなしとした。
 己酉、詔する。
「諸州に、一経を明確に知っている以上の能力を持ちながらまだ仕官していない者が居たら、その名を上奏せよ。また、州県及び郷には、皆、学校を設置せよ。」
 丁巳、上が国子監へ御幸し、死者への礼について講釈を受けた。諸王公子弟へ、各々就学するよう詔する。
 戊午、大総管を大都督府と改称する。
 三月、始めて令を定める。太尉、司徒、司空を三公とし、次いで尚書、門下、秘書、殿中、内侍を六省とする。その次が御史台、次の太常から太府へ至るまでを九寺とする。次が将作監、次が国子学、次が天策上将府、次の左、右衞から左、右領衞を十四衞とする。
 東宮には三師、三少、・事及び両坊、三寺、十率府を設置した。王公には、府佐、国官を置き、公主には邑司を置いた。これらを京職事官となす。
 州、県、鎮、戍を外職事官とする。
 開府儀同三司から将仕郎までの二十八階を文散官、驃騎大将軍から陪戎副尉までの三十一階を武散官、上国柱から武騎尉までの十二等を勲官とした。
 夏、四月。庚子朔、天下へ恩赦を下す。この日、新しい律令を頒布した。これは開皇の旧制と比べて新格が五十三條増えていた。
 また、初めて、均田租、庸、調法を定める。その内容は、以下の通り。
 丁、中の民へ田一頃を配給する。病人は症状により減らし、重症者は六割を減らす。寡妻妾は七割を減らす。全て、配給された田の二割が世業で、八割が口分田である。丁ごとに、毎年粟二石を租として徴収する。調は、土地の名産品で、綾・絹・シ・布などである。一年の労役は二旬。これを行わない者は、一日あたり三尺を納める。事が多い年は労役が増える。十五日増えたら調は免除。三十日増えたら租も調も免除する。
 水旱虫霜などの災害が起こった時は、出来高が平年の四割減なら租を免除する。六割減なら調を免除する。七割以上減なら課役共に免じる。
 およそ民の貨業は九等に分ける。
 百戸を里とし、五里を郷、四郷を保とする。城邑のあるものを坊とし、田野は村とする。
 禄を食んでいる家は、民と利益を争ってはいけない。工商雑類は、士と肩を並べてはいけない。生まれたばかりの男女を黄とし、四歳を小、十六を中、二十を丁とし、六十を老とする。(「男女始生為黄」は、日本で生まれたばかりの子供を「赤子」と称するようなものか?)年毎に帳に記載し、三年に一度戸籍を造る。 

 五月、丙戌、宜君へ仁智宮を作る。
 六月、辛丑。上が仁智宮へ避暑に行った。その後、国内では楊文幹が造反し、国外では突厥や吐谷渾が屡々侵略した。詳細は「李世民」「突厥」「吐谷渾」へ各々記載。七月、甲午、車駕が京師へ帰った。 

 七年正月、庚寅、鄒州の住民登(「登/里」)同穎が刺史の李士衡を殺して造反した。
 九月、癸卯、日南の住民姜子路が造反した。交州都督王志遠がこれを撃破する。 

 七月、隋末、京兆の韋仁壽が蜀郡の司法書佐となった。その任期中、彼が裁判に関与した囚人は処刑される時、西へ向いて仁壽の為に仏に祈ってから死んでいった。
 さて、唐が興ると、爨弘達が西南夷を率いて唐へ帰順したので、朝廷は使者を派遣してこれを巡撫した。だが、彼等は貪欲で勝手気儘。遠方の民はこれを患い、造反する者も居た。
 この頃、仁壽は 州都督長史だった。上はその名を聞いていたので、彼へ越 を治めさせるよう、検校南寧州都督へ命じた。一年使ってみて、その地を慰撫させようとゆうのだ。
 仁壽は寛大温厚な性格で、見識が高かった。命令を受けると、兵五百人を率いて西耳(「水/耳」)河へ至り、数千里周歴した。蛮、夷の豪族達は皆、風を望んで帰順し、仁壽へ謁見した。仁壽は七州十五県を置き、各々の豪族を刺史や県令とした。法令は清粛で、蛮・夷は悦び服した。 彼が帰るとき、豪族達は、皆、言った。
「天子が公を都督として南寧へ派遣してくれたのです。なんでこんなにサッサと去って行くのです?」
 仁壽は、城や池が未だ整備されていないと言い訳した。すると蛮・夷はみんな集まって、仁壽の為に城を造り廨舎を立てたが、これは旬日で完成してしまった。
 仁壽は言った。
「実は、我はただ巡撫せよとゆう詔を受けただけなので、どうしても留まることはできないのだ。」
 蛮・夷は号泣してこれを見送り、それぞれ子弟を派遣して入貢した。
 壬戌、仁壽は朝廷へ帰った。上は大いに悦び、仁寿へ南寧へ移って鎮守するよう命じ、兵卒にこれを守らせた。 

 十月、辛未、上がガクの南山で狩猟をした。
 丙子、上が楼観へ御幸史、老子祠へ詣った。
 癸未、隋の文帝陵を太牢で祭った。
 十一月、丁卯、上が龍躍宮へ御幸した。庚午、宮から帰る。 

 太子・事裴矩を権検校侍中とした。 

 八年、春、正月、丙辰。壽州都督張鎮周を舒州都督とした。
 鎮周は、もともと舒州出身だった。州へ到着すると、実家にて酒や肴を多量に買い込み、親戚知人を集めて盛大に宴会を開いた。髪はザンバラ足を投げ出しての無礼講。庶民の時のようなつき合いで、凡そ十日も飲みまくった。その後、金帛を彼等へ分け与えると、泣いて別れを告げた。
「今日の張鎮周は、まだ昔馴染みと酒を酌み交わせたが、明日から後は舒州都督として百姓を治めなければならない。君臣の礼は隔たっており、もうこのように交遊することは出来ないなあ。」
 以後、親戚知人が法を犯しても、まるで手を緩めなかったので、境内は粛然とした。 

 丁巳、右武衞将軍段徳操を夏州の地へ派遣した。 

  この月、突厥と吐谷渾が各々交易を求めてきた。これを許す詔が降りる。
 今まで、中国は戦乱の時代で、民は耕牛に不足していた。これ以来、戎狄から購入して養育できるようになった。
 四月、西突厥の統葉護可汗が使者を派遣して通婚を求めた。
 上は、裴矩へ言った。
「西突厥は、とても遠い。緊急の時に助け合うことはできないが、通婚を求めてきた。どうしようか?」
 対して答えた。
「今、北狄は盛強です。ですから今日、国家の為に計略を立てますと、やはり、遠くと交わり近くを攻めるべきです。臣は、この通婚を許し、頡利への牽制とするべきかと愚考いたします。数年経てば、中国も国力が充実し、北夷へ対抗できるでしょう。そうなってから、徐々に後を考えれば宜しいでしょう。」
 上は、これに従った。
 高平王道立をその国へ派遣した。統葉護は大いに悦ぶ。道立は、上の従子である。
 ところで、上は、天下がほぼ定まったと考え、十二軍を廃止していた。だが、その後突厥の来寇が止まない。
 辛亥、再び十二軍を設置した。太常卿竇誕羅を将軍として士馬を訓練させ、大挙して突厥を攻撃することを議した。 

 四月、甲申、上がガク県へ御幸した。甘谷で狩猟をし、終南山へ太和宮を造営する。
 丙戌、宮へ帰る。
 七月、甲子、上が太和宮へ御幸した。丙午、車駕が宮へ帰った。 

 九月、癸卯、初めて太府へ諸州の測量器具の軽重大小を調べさせた。 

 十一月、権検校侍中裴矩が、判黄門侍郎を辞めた。
 庚子、天策司馬宇文士及を権検校侍中とする。
 辛丑、蜀王元軌を呉王、漢王元慶を陳王とした。
 癸卯、秦王世民へ中書令を、斉王元吉へ侍中を加える。
 十二月、襄邑王神符を検校揚州大都督とする。始めて州府及び居民を丹楊から江北へ移す。 

 九年、春、正月、己亥、太常少卿祖孝孫等へ雅楽を更定するよう詔が降る。
 甲寅、左僕射裴寂を司空とした。毎日員外郎一人を派遣して、その第を更直させた。
 二月、庚申、斉王元吉を司徒とした。 

 二月丙子、初めて、州県へ社稷を祀らせた。また、士民へ里門ごとに社を建てるよう命じた。各々祈祷をすると同時に、郷党の寄り合い所としても使用させた。
 戊寅、上が社稷を祀った。 

 四月、太史令傅奕が上疏して、仏法排除を請うた。
「仏は西域にあり、その言葉は妖しく、路は遠うございます。漢代に胡書が翻訳されましたが、今ではそれが都合の良いように解釈されています。彼等は不忠不孝にも髪を剃って君親を見捨て、働きもしないで衣食に満ちて、租税を逃れます。三塗(地獄、餓鬼、畜生)や六道(三途+修羅、人、天)のようなでっち上げを広めて愚夫を恐喝し、凡庸を騙す。過去の罪を妄りに赦し将来の福の空手形を与えるので、民は一万倍の報酬を求めて萬銭の布施を行い、百日の糧食を欲して一日の斎を差し出す。こうして功徳を妄りに約束された愚迷達は、法律を憚らなくなり、憲章を犯すようになるのです。そして遂には悪逆を行い、牢屋へぶち込まれるに至っても、彼等は獄中で仏を礼拝し、罪を免れるよう希うのです。
 それに、生死や長命夭折は自然の力、刑徳威福は人主が与えるもの、そして貧富貴賤は功業が招くものなのに、愚僧達は、事実を歪曲して全て仏の力だと説いています。彼等が人主の権威を盗み、造化の力に仮託することで、政治がどれ程害されましょうか。まことに悲しむべき事です! 
 伏ギ、神農から漢代へ至るまで、仏法とゆうものはありませんでしたが、主君は賢明で臣下は忠義、王朝は長く栄えました。漢の明帝が始めて胡神を立て、西域の桑門からその法が伝来しました。西晋の頃は国に厳しい法律があり、中国の人が簡単に髪を剃るなど許しませんでした。苻、石、キョウ、胡が中華を乱す頃は、主君は凡庸で臣下は奸佞。政治は残虐で王朝は短命となったのです。梁の武帝や斉の文襄は、明白な鏡ですぞ。
 今、天下の尼僧は十万を数え、そのような無為徒食の人間の贅沢の為に多くの繪綏が浪費され、萬姓を苦しめております。彼等を還俗させれば十万余戸となります。彼等へ子供を産育させて、十年養った後教えれば、兵とすることができます。そうなれば四海は無駄飯食いの殃がなくなり、百姓は権威を持ち福を与える者が誰か思い知ります。そうすれば妖惑の風潮は自然になくなり、純朴な風俗が戻ってきます。
 北斉の頃、章仇子佗が『僧尼が多くなれば国家は疲弊し、寺塔が奢侈になれば金帛が浪費される。』と言ったところ、諸僧や諸尼が宰相や妃・主へ取り入って誹謗讒言した為、子佗は捕らえられ、都市にて処刑されました。北周の武帝は、斉を平定すると、彼の墓へ封戸を付けてやりました。臣は不敏ではありますが、北周の武帝の業績を慕っているのです。」
 上は、百官を集めて、これについて協議させた。すると、ただ太僕卿の張道源だけが奕の言葉が理に叶っていると称した。対して、蕭禹が言った。
「仏は聖人です。奕は、これを非難しました。聖人を非難するのは無法者です。その罪を窮治めするべきでございます。」
 奕は言った。
「君父は人の大倫です。それなのに仏は、世嫡のくせに父親に叛して出家し、匹夫のくせに天子へ逆らいます(釈氏の法として、君親へ拝礼しないことを指す)。蕭禹は木石から生まれたわけでもないのに、父親を無視する教えを尊んでいます。『孝にあらざる者は親無し(非孝者無親。孝経の一節)とは、彼のことです!」
 禹は言い返すことができず、手を合わせて言った。
「地獄は、こんな奴のために造られたのだ!」
 上は、沙門や道士が戒律も守らないくせに戦役を逃れていることを憎んでいたが、それは奕の言葉通りだった。また、寺観が邸宅に隣接すると、(あたりが汚れきってしまう?)。辛巳、役人達へ詔を下して命じた。
「天下の僧、尼、道士、女冠のうち勤行に励んでいる者は大寺観へ移して衣食を給与して不自由させないように。また、勤行を怠けている者は全て還俗させて郷里へ返還させよ。」
 京師にはただ寺を三ヶ所、観を二ヶ所、諸州には各々一ヶ所だけ留め、残りは全て壊させた。
 傅奕は謹密な性格。占候の職務にあった時から交遊を途絶し、災異を奏上すると、すぐに文書を焼き払ったので、人々は彼の功績を知らなかった。 

 五月、壬寅、越州の住民盧南が反し、刺史の 道明を殺した。 

 六月、玄武門の変が起こる。詳細は「李世民」へ記載。
 同月、益州大行台を廃止し、大都督府を設置する。
 壬申、上が手詔を裴寂等へ賜り、言った。
「朕は、尊号を太上皇としようと思う。」
 八月、癸亥、位を太子へ伝えると制が降りた。太子は固辞したが、許さない。
 甲子、東宮の顕徳殿にて、太宗が皇帝位へ即いた。天下へ恩赦が下り、関内及び蒲、丙(「草/丙」)、虞、泰、陜、鼎の六州は二年間、その他の州は一年間、租税を免除する。 

 貞観八年(634)、太宗皇帝は、しばしば上皇へ、九成宮へ避暑へ行くよう勧めたが、上皇は、隋の文帝がそこで崩御したので縁起が悪いとして行かなかった。そこで、冬、十月、上皇の避暑の為に大明宮を造営する。だが、完成前に上皇は病気に伏してしまい、住むことができなかった。
 上皇はそのまま回復せず、九年、五月庚子、垂拱殿にて崩御した。
 七月、丁巳、詔が降りる。
「山陵は、漢の長陵(漢の高祖の陵)の故事に依り、つとめて厚く盛り上げよ。」
 期限を定めて督促し、どんなに努力しても追いつかない。秘書監の虞世南が上疏した。
「聖人が親を薄く葬るのは、不孝ではありません。深思遠慮いたしますと、厚葬は親を害するだけですから、薄く葬るのです。昔、張釋之が言いました。『墓の中に宝物を山と入れておけば、南山を重石にしたところで、必ずこじ開けられてしまいます。』 劉向も言いました。『死者は永遠に死にっぱなしですが、国家には興廃がある。国が滅んだ後は、誰も墓を守ってくれない。釋之の言葉は、無窮の計略です。』その言葉は深く切実で、まったく道理にあっております。陛下の聖徳は聖君たる唐・虞を越えていますのに、その親へ対しては、秦や漢を手本として厚葬しております。臣は、陛下の為を想って、これを採らないのです。喩え金玉を副葬しなくても、後世の人が丘のような墳墓を見れば、どうして中に財宝がないなどと思いましょうか!それに、今、服喪は覇陵に依りました(漢の文帝と同じく、三十七日の喪に服した)のに、陵だけは長陵へ依る。これは宜しくありません。どうか白虎通(後漢の班固等の著作物)に依り、三仞の墳とし、器物制度も皆節約し、陵の傍らには石碑を刻み、別に一通の書を宗廟へ蔵して子孫永久の法としてください。」
 疏は奏されたが、返事はなかった。そこで世南は、再び上疏した。
「漢の天子が即位してから山陵を造営するまで、五十余年の歳月が流れています。今、数ヶ月の間に数十年の功を立てようとしていますが、これでは人民が耐えられないことを畏れます。」
 上は、世南の疏を役人へ渡して、適宜な処置を衆議させた。房玄齢等が議し、言った。
「漢の長陵は高さ九丈、原陵(後漢の光武帝陵)は高さ六丈。今、九丈は祟すぎ、三仞は卑しすぎます。原陵の制に依りましょう。」
 これに従う。
 上は自ら園陵(献陵のこと)へ詣でたがったが、上の哀しみがあまりに酷く、やせ衰えていたので、群臣は固く諫めて止めた。 

 十月庚寅、太武皇帝を献陵 に埋葬し、廟号を高祖とした。穆皇后を一緒に埋葬し、太穆皇后の号を加える。
 十一月、庚戌、太原へ高祖廟を立てることについて議論するよう詔が降りた。すると、秘書監の顔師古が言った。
「寝廟は、京師に置くべきです。漢代では、郡国に廟を立てるのは、礼ではありませんでした。」
 そこで、止めた。 

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