高祖時代 その1
 
 武徳二年(619年)、十月、竇建徳が兵を率いて衞周へ赴いた。
 竇建徳は、行軍するとき、必ず三道に別れ、輜重隊や弱兵には中央を進軍させる。歩兵と騎兵がその左右を挟み、各々三里ほど離れて進む。竇建徳は千騎で先行し、黎陽を三十里ほど行き過ぎた。
 李世勣は騎将の丘孝剛へ三百騎を与えて偵察させた。丘孝剛は驍勇で、馬槊の名人。竇建徳と遭遇すると、これを攻撃し、竇建徳は敗走した。しかし、右方の兵が救援に駆けつけて、丘孝剛を斬った。
 竇建徳は怒り、黎陽へ引き返してこれを攻撃し、勝った。淮安王と李世勣の父親の徐蓋、魏徴及び李淵の妹の同安公主を捕らえた。ただ、李世勣は数百騎で逃げ出し、河を渡った。しかし、父親が捕らえられたので、数日後、引き返して竇建徳へ降伏した。
 黎陽陥落を聞いて、衞州もまた降伏した。
 竇建徳は、李世勣を左驍衞将軍として、黎陽を守らせた。しかし、父親の徐蓋は、人質としていつも自分の身近に置いた。魏徴は起居舎人とする。
 滑州刺史王軌の奴隷が、王軌を殺し、首級を携えて竇建徳へ降伏した。すると、竇建徳は言った。
「奴隷のくせに主人を殺すなど、大逆だ。我がどうして受け入れようか!」
 そして、奴隷を斬り殺し、王軌の首は滑州へ返してやった。吏民は感激し、その日のうちに降伏した。
 ここにおいてその近辺の州県や、徐圓朗等が、風に靡くように竇建徳へ帰順した。
 己未、竇建徳は洛州へ帰り、万春宮を築いて、移り住んだ。淮安王は下博へ置き、客分として礼遇する。
 同月、今度は王世充が、自ら兵を率いて滑台へ行き、黎陽へ臨んだ。
 尉氏城主時徳叡、ベン州刺史王要漢、毫州刺史丁叔則が、王世充へ降伏の使者を派遣した。王世充は、時徳叡を尉州刺史とした。王要漢は、王伯當の兄である。
 そんな中、高祖が淮左安撫に派遣した夏侯端が黎陽へ到着した。彼が出立するときには、李世勣は兵を発して護衛させた。夏侯端は檀淵から河を渡り、州県へ檄文を飛ばした。すると、東は海から南は淮へ至るまで、二十余州が唐へ降伏してきた。
 ところが、ベン州と毫州は、既に王世充へ降伏している。彼等が帰路を封鎖したので、夏侯端は長安へ帰れなくなった。
 夏侯端は、もともと衆人の心を掴んでいたので、彼の随従者二千人は、兵糧が尽きても、彼の元を離れなかった。夏侯端は、馬を殺して士卒を饗応し、涙を零して言った。
「卿等の故郷は、既に賊軍へ降伏している。卿等は、そのもとへ駆けつけたいだろう。我は王命を奉ったので卿等と同行できないが、妻子のある者は我が真似をする必要はない。それよりも、我が首を斬って賊軍へ降伏せよ。そうすれば、必ず富貴な身分になれるぞ。」
 すると、衆人は涙に濡れながら言った。
「公は唐室の親戚ではありませんのに、忠義を大切にして一身を顧みません。我等は賤しい身分ではありますが、それでも心は人間です。どうして公を害してまで利益を貪りましょうか」
 だが、夏侯端は言った。
「卿等が、我を殺すに忍びないというのなら、我は自害しよう。」
 皆は慌てて彼を抱きかかえて押しとどめた。
 それから五日、彼等は逃避行を続けた。殆ど餓死寸前の所を敵に攻撃され、大半の兵を失ったこともあった。最期には、たった五十二人になったが、彼等は野生の豆を煮ないで食べるような生活で、逃げ続けた。夏侯端は、そんな時にも節を肌身離さず持っていた。
 この頃、河南の土地は全て王世充の版図となっていた。ただ、杞州刺史李公逸は唐の為に堅守していた。彼は、兵を派遣して夏侯端を迎え入れ、館を与えた。
 王世充は、夏侯端を招こうと、使者を派遣した。この時、彼は自分の着物を脱いで使者へ持ってゆかせ、夏侯端へ与えた書では、淮南郡公、尚書少吏部の身分を与えると約束した。だが、夏侯端は使者の目の前で書を焼き着物を破り、言った。
「夏侯端は天子の大使だ。なんで王世充の官位を受けようか!我を連れて行きたいのなら、首を取って行くしかないぞ!」
 それ以来、夏侯端は山中を通って進んだ。荊などが生い茂った中を昼夜兼行し、ようやく宜陽へたどりついた。従者達は、あるいは崖から落ち、或いは虎や狼に殺され、更に半減していた。生き残った者も髪や鬢が禿げ落ちており、とても人間とは思えなかった。
 夏侯端は、高祖へ謁見すると、何の功績も挙げられなかったことを謝罪しただけで、艱難などは口にしなかった。高祖は、彼を秘書監にした。
 山東を安撫に行った郎楚之は、竇建徳に捕まったが、彼も屈せず、遂に帰京することができた。
 王世充は、従兄弟の王世弁へ徐・毫の兵を与えて李公逸を攻撃させた。李公逸は高祖へ使者を派遣して救援を求めたが、そこは王世充の勢力圏内の飛び地だったため、救援できなかった。李公逸は、一族の李善行をヨウ丘に留めて守らせ、自身は軽騎を率いて入朝しようとしたが、襄城にて、王世充麾下の伊州刺史張殷に捕まった。
 王世充は言った。
「卿は、我が領内にいながら唐の臣下となった。なぜかな?」
「我は天下で唐を知っているが、鄭など知らない。」
 王世充は怒り、これを斬った。李善行もまた、没する。高祖は、李公逸を襄邑公とした。 

 初め、工部尚書独孤懐恩が蒲反を攻撃したが、なかなか落とせず、失敗も多かった。上は、屡々敕書で彼を叱責した。これによって、独孤懐恩は上を怨んだ。
 ある時、上は戯れに独孤懐恩へ言った。
「姑の子は、皆、既に天子になった(隋の煬帝と李淵自身のこと)。次は舅の子が天子となる番かな?」
 独孤懐恩は、それで自負した。
 ある時、彼は腕を振るって言った。
「我が家で尊いのは、どうして女性だけだろうか。(周の明帝の皇后、隋の文帝の皇后、そして上の母は、全て独孤氏だった。)」
 遂に、麾下の元君寶と共に、造反を考えた。
 やがて、独孤懐恩、元君寶、唐倹が、皆、尉遅敬徳に捕らえられると、元君寶は唐倹へ言った。
「独孤尚書が、大事を謀っていた。もっと早く決起していれば、こんな屈辱には会わなかった物を!」
 秦王世民が美良川にて尉遅敬徳を破ると、独孤懐恩は逃げ帰ったので、上は再び彼へ兵を与えて蒲反を攻撃させた。元君寶は、唐倹へ再び言った。
「独孤尚書は、遂に苦難から逃げ帰り、今は蒲反にいる。王者は死なぬとはこの事だ!」
 三年、唐倹は、独孤懐恩が遂に造反するのではないかと懼れ、劉世譲を帰して唐と和を結ぶよう、尉遅敬徳を説得した。尉遅敬徳はこれに従ったので、劉世譲は、独孤懐恩の造反計画を上聞することになった。
 この時、王行本は既に降伏しており、独孤懐恩は彼の城へ入城、占拠していた。上が独孤懐恩の陣営へ御幸する為に黄河を渡河しようと舟へ乗船した時、劉世譲が駆け込んできた。上は大いに驚いて言った。
「我が凶刃から免れたのは、天命以外のなにものでもない!」
 そして、独孤懐恩を呼び付けた。独孤懐恩は、まだ事が露見したとは思わずに軽舟でやって来たところを捕らえて獄吏へ引き渡し、党与を捕まえた。
 二月、甲寅、独孤懐恩と、その一味を誅殺する。 

 三月、納言を侍中と改称する。同様に、内史令は中書令、給事郎は給事中。
 甲戌、内史侍郎封徳彝を中書令とした。
 四月、益州行台を設置し、益、利、ロク(鹿/里)、、遂州の六総管を隷属させた。
 壬子、顕州道行台楊士林を行台尚書令とした。
 甲寅、秦王世民に益州行台尚書令を加える。
 六月、丙午、皇子の元景を立てて趙王とした。元昌を魯王、元亨を豊(「豊/里」)王とする。
 顕州行台尚書令楚公楊士林は唐の官爵を受けたけれども、北は王世充と結び、南は蕭銑と通じていた。そこで安撫使李弘敏と共にこれを討つよう、廬江王援(本当は王偏)へ詔が降りた。
 ところが、六月、甲寅、楊士林から忌まれていた長史の田贊(「王/贊」)が、楊士林を殺して王世充へ降伏した。この時、廬江王援羅の軍は、まだ顕州へ到着していなかった。
 世充は田贊を顕州総管とした。
 九月、丙戌、唐は田贊を顕州総管とし、蔡国公の爵位を賜下した。 

 三年、五月。驃騎大将軍可朱渾定遠が、告発した。
「并州総管李仲文は、突厥と密約を結んでおります。洛陽で戦争が始まったら、胡騎を引き入れて長安を直撃する手筈です。」
 甲戌、皇太子へ蒲反を鎮守してこれに備えるよう命じた。又、礼部尚書唐倹を并州へ派遣して安撫させ、一時的に并州総管府を廃止して仲文を入朝させた。 

 王弘烈が襄陽へ據っていた。上は、金州総管府司馬陽の李大亮へ、樊・トウ地方を安撫して王弘烈を図るよう命じた。
 十一月、大亮は樊城鎮を攻撃してこれを抜き、その将国大安を斬り、その城柵十四を下した。 

 四年、春、正月、癸酉。大恩を代州総管として、定襄郡王へ封じ、李姓を賜下した。
 代州は石嶺の北で、劉武周の乱以来、寇盗が満ち溢れていた。大恩は鎮を雁門へ遷し、これらを討撃して、悉く平らげた。 

 延州総管段徳操が、劉企成を攻撃して破った。千余級を斬首する。 

 二月、并州安撫使唐倹が密かに上奏した。
「真郷公李仲文と妖僧志覚が、造反しようと謀りました。又、陶氏の娘を娶って、桃李の謡に応じようとしています。可汗へ諂い仕え、非常に気に入られています。可汗は、彼が南面可汗として立つことを許可しました。并州にては、贈賄が幅を利かせております。」
 上は、この件を裴寂、鎮叔達、蕭禹(「王/禹」)へ裁断させた。
 乙巳、仲文は、誅に伏した。 

 三月、秦王世民の子の泰を衞王に立てた。
 四月、甲寅、皇子元方を周王へ、元礼を鄭王へ、元嘉を宋王へ、元則を荊王へ、元茂を越王へ封じる。 

 同月、己丑。豊州総管張長遜が入朝した。(張長遜は、隋末に豊州を守り、唐が勃興すると来降した。そして今回入朝した訳である。豊州は長安から二千六百六里離れている。)
 この頃、朝廷の人々は、「長遜は長い間豊州に居り、突厥からも手厚くされているので国家の利にならない」と言い合っていた。長遜は、これを聞いて入朝を請願し、上は許可した。やがて太子の建成が稽胡を北伐すると、長遜は手勢を率いて合流した。その縁で、今回入朝したのだ。長遜は、右武候将軍を拝受した。
 益州行台左僕射竇軌が巴、蜀の兵を率いて秦王へ合流して王世充を攻撃すると、長遜を検校益州行台右僕射とした。 

 前の真定令周法明は、法尚の弟である。隋の末に食客等と共に黄梅を襲撃して、占拠した。そして一族の孝節に単春を攻撃させ、兄の子の紹則に安陸を攻撃させ、子の紹徳へ 陽を攻撃させ、皆、占領した。
 庚午、四郡を率いて来降した。
 乙亥。周法明を黄周総管とした。
 六月、周法明は蕭銑の安州を攻撃して、抜いた。その総管馬貴遷を捕らえる。 

 三月庚申、靺鞨の渠師突地稽を燕州総管とした。
 六月、庚子、営州の住民石世則が総管晋文衍を捕らえ、州を挙げて叛いた。そして、突地稽を奉って盟主とした。 

 六月、乙巳、右驍衞将軍盛彦師を宋州総管として、河南を安撫させた。
 乙卯、海州の賊帥藏君相が五州を以て来降した。海州総管に任命する。 

 六月、秦王世民が、王世充、竇建徳を滅ぼして凱旋した。詳細は、「王世充」や「竇建徳」へ記載する。
 丁卯、天下がほぼ定まったので、百姓へ大赦を下し、一年間租税を免除した。陜・鼎・函・カク・虞・内(「草/内」)の六州から労費を転輸する。幽州管内は長い間戎の略奪を受けていたので、租税を二年間免除した。律・令・格・式は、開皇の旧制を使用した。
 赦令が降ったのに、王・竇の残党達はまだ遠流されてる者が居た。そこで、治書侍御史孫伏伽が上言した。
「軍備と食糧はなくしてもなんとかなりますが、信義だけはなくしてはなりません。陛下は既に大赦を下しましたが、流罪にする者もいます。このような言動不一致があれば、臣民は何を頼ればよいのでしょうか。それに、世充へ対しては、あんなに寛大な処置を執りました。それならば、残党達なら尚更です。釈放なさってください。」
 上は、これに従った。 

 隋末には粗悪な銭が横行し、遂には皮を切って紙を貼り付けて貨幣の代用にしたものまで現れる始末。人々は、その弊害に耐えきれなかった。ここにいたって、開元通宝が、始めて造られた。その重さは二銖四参、軽重大小を平均して、十銭を積んだ重さを一両とした。遠近はこれを利便とする。給事中欧陽詢へ、文や書を選ばせ、貨幣の周りへ刻ませた。
 癸酉、洛・并・幽・益等の諸州へ銭監を設置した。秦王世民と斉王元吉には鋳造所を三つ、裴寂には一つ賜下し、銭を鋳造させた。その他の者へは銭の鋳造を許さず、偽造する者は、本人は死刑、家族は全て官へ没収とした。 

 屈突通を陜東道大行台右僕射として、洛陽を鎮守させる。
 淮陽王道玄を洛州総管とした。
 李世勣の父の蓋は、無事に帰ってきたので、その官爵を復帰した。
 竇軌は益州へ帰した。軌は、兵を率いて出征してから、あるいは一ヶ月も鎧を解かずにいたこともあった。その性格は厳格酷薄で、軍律を犯した将佐は貴賤に関わらずたちどころに斬った。たやすく吏民を鞭打つので、庭はいつも流血で満ちていた。だから、彼の部下は皆、息をひそめ、脚をそばだてていた。 

 八月、丙戌の朔、日食があった。 

 丁亥、太子へ北辺を安撫するよう命じた。
 丙午、上は、南方に寇盗がまだ多いと考え、左武候将軍張鎮周を淮南道行軍総管とし、大将軍陳智略を嶺南道行軍総管として、これを鎮撫させた。 

  九月、乙卯。文登の賊帥淳于難が降伏を請うた。そこで、登州を設置し、難を刺史にした。 

 隋末、歙州の賊汪華は、歙等五州を占拠し、一万人を集め、呉王と自称していた。
 甲子、使者を派遣して来降してきた。歙州総管に任命する。 

 隋末、弋陽の盧租尚は壮士を糾合して郷里を守っていた。その部隊は厳格に整い、群盗はこれを畏れていた。
 煬帝が弑逆されると、郷人は、彼を推戴して光州刺史とした。時に、盧租尚は十九才。彼は、皇泰主へ表を奉った。
 王世充が自立すると、租尚は唐へ来降した。
 丙子、租尚を光州総管とした。 

 己卯、天下の戸口を括ると詔した。 

 太常楽工とは、前代に罪を犯した者が官奴となって、子孫もその身分を継承させられた者達である(いわゆる「楽戸」)。癸未、詔が降りた。太常楽工は長い年月に亘って子孫まで苦しめられ、憐れむべき事である。彼等全てを良民とする。ただし、もしも内宮を志願する者が居れば、そのまま留める。と。 

 庚戌、詔が降りる。陜東道大行台尚書省は令・僕から郎中、主事へ至るまで、品秩は皆京師と同等にする。ただし、員数は少し減らす。山東行台及び総管府、諸州は、これの麾下に入る。行台尚書令へは人員を補充する権限を与える。
 その秦王、斉王府官の外には、各々左右六護軍府及び左右親事帳内府を置く。 

 昆彌が、帰順しようと使者を派遣した。昆彌とは、漢代の昆明である。
 州治中吉弘緯が南寧を通って昆彌へ行き説得したので、遂に来降した。 

 武徳五年(622年)正月丙戌、同安の賊帥殷恭邃が舒州を以て来降した。
 己酉、嶺南俚の帥楊世略が、循・潮二州を以て来降した。
 唐の使者王義童が泉・睦・建の三州を下した。
 二月、豫章の賊帥張善安が虔、吉等五州を以て来降した。洪州総管へ任命する。
 三月、宋州総管盛彦師が斉州総管王薄を率いて須昌を攻撃した。この時、潭州から軍糧を徴発したが、刺史の李義満は薄へ含むところがあり、倉を閉じて兵糧を与えなかった。
 須昌が降伏すると、彦師は義満を捕らえて斉州の牢獄へぶち込んだ。やがて、これを赦すよう詔が降りたが、その使者が到着する前に、義満は獄中にて憤死していた。
 薄は任地へ戻る途中潭州を通過した。戊戌の夜、義満の兄の子の武意が薄を捕らえ、殺した。
 義満の死は彦師の罪とみなされ、彦師も死刑となった。 

 甲辰、隋の交趾太守丘和を交州総管とする。和は、司馬の高士廉を派遣して表を奉じ、入朝を請うた。詔してこれを許し、その子の師利を派遣して彼を迎えた。 

 夏、四月、己未、隋の鴻臚卿長眞が寧越、鬱林の土地を以て李靖へ降伏を請うた。これによって、交・愛への道が、始めて開通した。
 長眞を欽州総管とする。
 同月、?州総管趙郡王孝恭を荊州総管とする。
 戊寅、廣州の賊帥トウ(「登/里」)文進、隋の合浦太守ィ宣、日南太守李俊(「本当は日偏」)が来降した。
 ところで、三年十二月己酉に、瓜州刺史賀抜行威が、驃騎将軍達奚高(「日/高」)を捕らえ、挙兵して造反していた。五年五月、庚寅、瓜州の土豪王幹が駕抜行威を斬って降伏した。これによって、瓜州は平定した。 

 六月、丙申、遷州の十人トウ(「登/里」)士政が刺史の李敬昴を捕らえて造反した。 

 八月。辛亥、名、荊、交、并、幽の五州を大総管府とする。 

 同月、隋の煬帝を揚州の雷塘へ改葬した。 

 十月、甲子、秦王世民を領左、右十二衞大将軍とした。 

 十一月、乙酉、宗室の略陽公道宗等十八人を郡王とした。
 道宗は、道玄の従父弟である。彼が霊州総管だった時、梁師都は弟の洛児へ突厥数万の兵を与えてこれを包囲させたが、道宗は隙を見て出撃し、大いに破った。また、突厥が梁師都と手を結んでその郁射設を五原へ入居させた時、道宗はこれを追い出し、唐の領土を千余里広げた。上は、道宗の武幹は魏の任城王彰にも劣らないと思い、彼を任城郡王へ立てた。
 十二月、庚戌、宗室の孝友ら八人を郡王へ立てる。交遊は神通の子息である。 

 十一月、丙申、上が宜州へ御幸した。
 癸卯、上が富平にて狩猟を行った。また、上は、華池にても狩猟を行い、十二月庚申、長安へ戻った。 

 十一月己亥、斉王元吉が魏州へ派兵して劉十善を攻撃し、これを破った。 

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