洛陽遷都
 
南伐の大号令 

 平城は寒い土地で、六月にも雨雪が降り、風沙は常に起こる。
 永明十一年(493年)、孝文帝は洛陽へ遷都しようと思った。だが、群臣が従わないことを恐れたので、衆人を脅しつける為、大挙して斉を攻撃すると言い立てた。そして、明堂に大臣をズラリと並べ、太常卿の王甚へ占わせると、革の卦が出た。
 孝文帝は言った。
「『湯・武の革命は、天に応じ、人に順じる。』とゆう象だな。これ以上ない大吉だ!」
 敢えて口を開く群臣はいなかった。すると、尚書の任城王澄が言った。
「今、出陣もしていないのに湯・武の革命の象が出たのです。全吉とは言えません。」
 孝文帝は声を怒らせて言った。
「大人虎変と言うではないか!何が不吉か!」
「陛下は既に龍興なさっておられます。今更虎変もありますまい。」
 孝文帝は益々怒った。
「この国は俺の国だ。任城王は衆人の志気を萎えさせるつもりか!」
「この国は確かに陛下のものです。しかし、臣はこの国の臣下。国の為に危ういと判れば、言わずにはおれません!」
 孝文帝の怒りは、やや収まった。
「各々正しいと思ったことを口にするのだ。咎め立てはしない。」
 宮殿へ帰ると、孝文帝は任城王を呼び出して、言った。
「先程の革の卦だが、もう一度卿と論じてみよう。実は、群臣が余計な茶々を入れて我が大計を邪魔してはならんので、明堂ではわざと怒って奴等をびびらせたのだ。」
 そして、人払いをして、言った。
「この計画は、変更できない。我が国は北方で起こり、平城へ遷都した。だが、この平城は用武の地。文治に相応しい都ではない。今、我等の風俗を変えるのが困難な事は判っているが、それでも朕は中原へ移住しようと思う。卿はどう思う?」
「中土へ移住して四海を経略なさるのは、周や漢が興隆した故事にも則っております。」
「だが、北人は今までの習常に連綿として、きっと動揺するだろう。それをどうしようか?」
「これは非常の事です。非常の人にしかできません。陛下が断じて行えば、誰が阻めましょうか!」
「さもこそ!任城は、我の張良だ!」 

 六月、孝文帝は大軍が渡る為の橋を、黄河に架けさせようとした。すると、秘書監の廬淵が上表した。
「先代陛下は承平の君。ですから、六軍を自ら総督することはありませんでした。陛下が戦場に出て勝ったとて、武と言うには足りませんし、負けたら威光に傷が付きます。又、魏の武帝は疲れ切った一万の兵で袁紹を撃破しましたし、謝玄は三千の歩兵で苻堅を破りました。勝負には機がございます。大軍を動員すればよいとゆうものではありません。」
 すると、孝文帝は詔で返報した。
「承平の君が親征しないのは、天下が平定されているか、そうでなければ臆病だからだ。今、天下が平定されたかというと、そうではない。臆病者だとすれば、これは恥だ。王者が親征してはならないとゆうのなら、先王の革命の事実をどう説明するのか?又、魏の武帝の戦勝は理に叶っていたし、苻堅の敗北も失策のせいだ。少勢が必ず多勢に勝ち、弱者が必ず強者を制するなどという理がどこにあるか!」
 孝文帝は、自ら閲兵を行い、尚書の李沖に勇者を選定させた。 

  

巡回を兼ねて 

 七月、魏は中外に戒厳令をしき、全国へ書を飛ばして南伐を宣言した。斉では、揚・徐州の民を徴発し、守備を固めてこれに備えた。(この最中、斉の武帝が崩御。斉はてんやわんやの大騒動となる。)
 已丑、孝文帝は平城を出発した。南伐のふれこみで、率いる兵力は三十万。太尉の平陽王丕と廣陵王羽に、平城の留守を任せた。両者共に使持節とする。
 廣陵王は言った。
「節度は、太尉に専任させて下さい。臣は副となるべきです。」
 だが、孝文帝は言った。
「老人には智恵があり、若者には決断力がある。辞退する事はいらんよ。」
 又、河南王幹を車騎大将軍、都督関右諸軍事とし、司空の穆亮、安南将軍廬淵等とともに七万の兵力で子午谷から出陣させた。
 壬寅、孝文帝は肆州を通過した。すると、道端にびっこやすがめの人間が居たので、孝文帝は駕を停めて彼等を慰労し、衣食を死ぬまで与えるよう命じた。 

(胡三省、曰く。これは恵だが、政治を知らないと言える。目に止まった者へ衣食を与えるのなら、見なかったものは放ったらかすのか!昔の為政者は、孤独廃疾の者は全て養育したものだ。我が目で見た者だけ助けてやるとゆう法がどこにあるのか!) 

 大司馬の安定王休が、盗みを働いた兵卒を三人捕らえ、軍規に照らし合わせて斬ろうとした。たまたま、孝文帝がその場に行き会わせたので、赦すように命じたが、安定王は断って、言った。
「陛下は、御身から六軍を総督し、江南まで遠征なさろうとゆうのです。今、まだ行軍は始まったばかりなのに、小人がさっそく盗みを働きました。これを斬らなければ、どうして姦悪を防げましょうか!」
「なるほど、卿の言う通りだ。だが、王者の礼として、時には非常の恩沢がある。三人の罪は、確かに斬罪に値するだろうが、ここで朕と遭ったのも何かの縁だ。軍法には背くかも知れないが、曲げて赦してやってくれ。」
 三人が釈放されると、司徒の馮誕が言った。
「大司馬は、かくも厳しく法を執っている。諸君、慎まなければならないぞ。」
 此処に於いて、軍中は粛然とした。 

(司馬光、曰く) 

 人主と国の関係は、たとえてみれば一つの体のようなもので、遠くを見ても近くを見るように、辺境にいる者も宮廷にいるように扱わなければならない。賢才を抜擢して百官に任命し、百姓の為に政治を修めれば、領内の民は全て、その境遇に安んじるものなのだ。
 だから、先王はトウコウ(黄色い綿の玉を連ねたもの)を耳に垂らして耳を塞ぎ、ゼンリュウ(冠の前の簾)を垂らして目を隠した。それは、耳目を近くに働かせないで遠くまで聡明さを推そうとしたのである。
 あの廃疾者を養うのなら、境内の担当役人に命じるべきである。道端で偶々出会った者へだけ施すのならば、見過ごされる人間が大勢出てくる。それが「仁」と言うのなら、何とちっぽけなものではないか!
 ましてや、罪人を赦すというのは、役人の法を邪魔することだ。人君の礼から最も外れている。惜しいかな!孝文帝は魏の賢君だが、なおこのようであるとは! 

(訳者、曰く) 

 手厳しい論評ですね。まあ、理屈はその通りです。ですが、それも厳密に考えると、皇帝は乞食に物を恵んではいけない、とゆうことになってしまいます。大体、困っている人を助けるとゆうのは大変気分の良い物ですし、その喜びを絶対に味わってはいけないとゆうのでは、窮屈で堪らないでしょう。皇帝ですから、少しぐらいの我が儘を、遊びと割り切って羽目を外さない程度に行うのなら、大した問題はないと思います。問題にするべきなのは、ただ、目の前の人間を救うだけに留めた、とゆうことでしょうか。廃疾者の救済が国是ならば、目の前にいる人間だけではなく、明確な基準を定めて養育救済するよう、全国へおふれを出すべきですね。そうすれば、民主主義国に先立つ福祉国家として評価されたでしょうに。
 罪人を助けたことについても、同様です。大体、儒教では恩赦を否定していますし(ここら辺、誤解している人もいるようですが、例えば平成天王の即位の時に恩赦が出たのは、儒教思想に則ったものではありません。)、 非難されるのは、理屈では正しいことです。ですが、一回きりと厳命した上で、しかも司徒の名フォローがあったとしたら、それ程大きな害には繋がらないと思います。
 現実に統治している皇帝は、人間です。時には馬鹿なこともします。それを全く否定したら、皇帝となれるのは機械だけでしょう。あんまり理想を高く掲げすぎて抑圧が続くと、大きく爆発してしまうかも知れませんよ。その方がよっぽど怖い。
 確かに人主として褒められたことではないにしても、「むかつくから殺す」とゆう遊びに比べたら罪のないものです。
 勿論、理屈がこうだとしっかり理解することは大切ですが、それを踏まえた上で少し遊んだ、しかも羽目を外さない、とゆうのであれば、許容範囲と認めても良いのではないでしょうか。この二つの行いくらいならば、孝文帝の評価を傷つけるものとは思えません。 

 戊申、孝文帝はヘイ州へ到着した。ヘイ州刺史の王襲は、立派な治世と評判で、境内も安静だったので、孝文帝はこれを嘉した。ところで、王襲は道の傍らに沢山の銘を設置し、自分の功績を虚称していた。孝文帝がこれについて尋ねたところ、王襲は口先で誤魔化したので、孝文帝は怒り、王襲の将軍号を二等、降格した。 

  

南伐に非ず 

 戊辰、孝文帝の南伐軍は黄河を渡った。庚午、洛陽に到着する。
 孝文帝が平城を出発してから洛陽へ到着するまで、長雨が降り続いていた。
 丙子、諸軍へ出陣の詔が下った。
 丁丑、孝文帝は戎服(戦闘服)を着、鞭を執って乗馬した。すると、群臣が馬の前に集まって、行く手を阻んだ。
 孝文帝は言った。
「国策は決定しているのだ。大軍が将に進もうとするこの時に、諸公は何を言うつもりか?」
 すると、尚書の李沖が言った。
「今回の挙兵は、天下の願うところではありません。ただ、陛下一人が欲しているのです。陛下の想いが一人で先走ってはどのような結果になるか、臣には判りません。臣等は諫めようとしても言葉を知りません。敢えて、命がけで請願する他ないのです!」
 孝文帝は激怒した。
「我は天下を統一しようと思っているのに、卿等儒学者は大計を疑う。斧や鉞は、いつでも動かせるのだぞ。これ以上、何も言うな!」
 そして、馬を駆って進もうとしたが、安定王休等は取りすがり、泣いて諫めた。
 孝文帝は、群臣を諭すように言った。
「今回の動員は、些細なものではない。これだけ大仰に動いて何の功績も挙げないのでは、後世へ何の申し開きができるか!我が家は代々幽州や朔州に居していたが、朕はかねてから中土へ遷都しようと考えていた。この大軍が遷都の為だというのなら、人々への言い訳にも為るだろうが。ここまで来て南伐しないとゆうのなら、他に良い逃げ口はないだろう。王公はどう思う?遷都しようと欲する者は左へ、望まない者は右へ進め。」
 すると、南安王貞(「木/貞」)が言った。
「『大功を建てる者は衆人と謀らず』と申します。今、陛下が南伐を取りやめて洛陽へ遷都なさるとゆうのでしたら、それこそ臣等の願い、万民の幸いでございます。」
 群臣は皆、万歳と叫んだ。
 この時、魏の旧来の臣下で遷都を望まない者も居たが、南伐を憚って、敢えて異を唱える者は居ない。こうして、遷都の計が定まった。
 李沖が上言した。
「陛下は既に、鼎を洛陽に定められました。宗廟や宮室が完成するまで、馬上で生活するわけにはゆきません。どうか陛下、暫しの間代都(平城)へお帰り下さい。そして、臣等が宮室を完成させてから、再びにぎにぎしく入都なさるべきでございます。」
 孝文帝は言った。
「朕は、これから州郡を巡回しよう。そして、業(「業/里」)留まり、来春洛陽へ戻って来る。北へ帰るのは良くない。」(胡三省、注。平城へ戻り、群臣に里心がつくのを恐れたのである。)
 そして、任城王澄を平城へ帰らせると、百官を諭して留まらせ、遷都の準備をさせた。
「今日の事こそ、真の革である。諸王よ、それ、務めよ!」
 孝文帝は、群臣の心が一つにならないことを恐れ、鎮南将軍于烈へ言った。
「卿はどう思う?」
 すると、于烈は言った。
「陛下の聖略は深淵で、愚臣の如き浅慮者の測れるものではありません。もしも心を隠して言うのなら、遷都が楽しみな反面、平城を恋い慕う想いもあり、半々とゆうところでございます。」
「卿が異を唱えないのなら、それは肯定と同じだ。言葉を抑えたことを、嬉しく思うぞ。」
 そして、于烈を平城鎮守の為に帰した。
「平城の治政は、全てお前に任せる。」
 于烈は、于栗単(「石/単」)の孫である。 

  

遷都の準備 

 十月、孝文帝は金庸(「土/庸」)へ行き、穆亮と李沖、そして将作大匠(文化技術庁長官のようなもの)菫爾を呼び出し、洛陽の建設を命じた。そして、自身は河南城、豫州、石済と巡る。
 乙未、魏は戒厳令を解き、滑台の城東へ祭壇を設け、遷都の意を廟へ告げた。大赦を下し、滑台宮を造成する。
 任城王が平城へ帰り、人々は始めて遷都のことを知り、驚愕しない者はいなかった。だが、澄が古今の故事を挽いて徐かに彼等を諭したので、皆は何とか納得した。そこで、澄は滑台へ帰り、これを孝文帝へ報告した。孝文帝は、喜んで言った。
「任城王がいなければ、遷都は成功しなかった。」 

 癸卯、孝文帝は業へ戻った。すると、王粛が謁見し、伐斉の計略を語った。(この年三月、王粛は魏へ亡命して来た。)
 孝文帝はこれと語り、思わず時の経つのを忘れてしまった。以後、王粛は取り立てられ、親旧貴臣も割って入れない程だった。ある時は、人払いして夜中まで話し込み、巡り会うのが遅かったと嘆じた。やがて、王粛は輔国将軍、大将軍長史に任命された。
 この頃、孝文帝は、礼楽を定め、それまでの戎の風俗を中華風に改めようとしていた。およそ、威儀文物の大半は、王粛が定めた。 

 建武元年(494年)正月。孝文帝は南巡の途中、比干の墓に立ち寄り、大牢の格式でこれを祀った。この時、孝文帝は自ら祝文を作って言った。
「ああ、介士よ。御身はどうして我が臣下ではなかったのか!」 

  

韓顕宗の上書 

 乙亥、孝文帝は洛陽西宮へ御幸した。すると、中書侍郎の韓顕宗が上書して、四事を陳情した。
 その一
「今夏、陛下は三斉を巡回なさらず中山へ行かれたと聞きます。冬場に業へ留まられた時、農閑期でもなお、陛下が留まる屋敷や通過する道路などの整備の為の労役に、民は苦しんでおります。まして今年は麦の害虫が発生致しました。民は益々堪りませんぞ。それに六軍の兵卒も、陛下に従って巡回致しました。この暑さを推しての行軍で、疫病が発生する事を恐れます。どうか早く北京(平城)へ帰られて、諸州や供奉者の労苦を省き、静かに洛陽造成をお待ち下さい。」
 そのニ
「洛陽に残っている宮殿は、もともと魏の明帝が建造したもので、その当時から豪奢過ぎると非難されていました。今、これらの宮殿を修繕しておられますが、どうか規模を縮小して下さい。また、近頃の平城では、富豪達が競って豪奢な邸宅を建築しています。遷都してからは、このような事のないよう、きちんと制度を決めておきましょう。あと、大きな道の隅には側溝を造っておくと宜しいでしょう。」
 その三
「陛下が洛陽へ帰られた時、わずかの供奉者を従えただけでした。王者は宮中を歩くときでさえ、警備を忘れてはならぬものです。ましてや、山河を渡るのですから、もっと慎重になさるべきでございます!」
 その四
「陛下は耳に雅楽を聞き、目に経典を読み、口に政策を語り、心には万機を慮って、夜が更けてから食を摂り、深夜におやすみになられます。更に、至孝の性で未だに文明太后を想って胸を悼められ、文章は毎日篇巻を作るほど作成為されます。叡明を用いるのは宜しいのですが、このような毎日を送られておりますと、疲れ果ててしまい、精神の療養にはなりません。どうか、国家の重きを思い、お体を大切にして、些細なことは臣下に任せて天下を治めるようにお願いいたします。」
 孝文帝は、これに納得し、輿駕は平城へ向かった。なお、韓顕宗は韓麒麟の子息である。 

  

平城の世情 

二月、北巡して黄河を渡り、三月、平城へ到着した。そこで、群臣へ遷都の利害を説き、各々の意見を腹蔵無く述べさせた。すると、燕州刺史穆羆が言った。
「今、四方が平定されておりませんので、遷都するには宜しくありません。それに、征伐するにも馬がなければ、どうやって勝ちを得るのですか?」
 孝文帝は言った。
「洛陽に遷都しても、代(平城のある地域)に厩牧を設けよう。何の患いがあろうか!代は恒山の北にあるが、これは九州の地域外だ。帝王の都ではない!」
 尚書の于果が言った。
「臣は、代が洛陽に勝るとは言いません。しかし、先帝以来ここに住んでから長い時間が経っており、人々は慣れ親しみました。南遷すると、衆人には不満が生まれましょう。」
 平陽王丕は言った。
「遷都は大事件です。卜筮に尋ねねばなりません。」
 孝文帝は言った。
「昔の周公や召公のような聖賢でこそ、卜も行える。今、そのような人間は居ないのに、卜が何の役にたとうか!それに、『卜は疑わしいことを決める。疑わしくない時、なんで卜を行おうか!(左伝、闘廉の台詞)』
 王者は四海を家とする。或いは南へ或いは北へ、常の住居などない!朕の遠い先祖は北の荒れ地に住んでいた。平文皇帝が始めて東木根山に都を造り、昭成皇帝が盛楽を造営し、道武皇帝が平城へ遷都した。朕はその後を継いだが、どうして朕だけ遷都してはならぬというのか!」
 群臣は、黙り込んだ。
 穆羆は穆寿の孫、于過は于烈の弟である。 

  

十月、孝文帝は、東陽王丕を太傅、録尚書事として、平城の留守を任せた。
 やがて、孝文帝は自ら太廟に報告して洛陽遷都の為、平城を出発した。 

  

(訳者、曰) 

 明治天皇が東京へ移住する時、京都の人々をなだめすかすのが大変だったと聞いている。
 殷が遷都を行う時、盤庚は民を説得する為に、懇切丁寧な詔を何度も発布し、それは書経に記載されている。
 遷都を行うというのは、このように一大事業であり、民の反発も又、甚だしい。その事件を、このように詳細に記してあり、群臣の心や当時の世相が手に取るようにありありと実感できた。これは、貴重な実録と言えるだろう。