王敦、湘漢を平定す。

 荊・湘巴へ移動した蜀の流民達は、屡々土地の人間から迫害されていた。そこで晋の懐帝の永嘉五年(311年)、李驤(成王の叔父の李驤とは別人)が流民達をかき集め、楽郷に據って造反した。
 南平太守の応言と、醴陵令の杜弓(「弓」は当て字)が協力してこれを撃破した。更に、王澄も彼等を討伐した。この時王澄は、彼等を許すと騙しておいてから襲撃し、李驤の党類八千余人を江へ沈めて殺し、その妻子は褒賞として部下へ配った。流民達は、益々怨んだ。
 これを背景に、蜀の杜疇が再び造反した。

 さて、湘州参軍の馮素は、蜀の汝班と仲が悪かった。そこで、馮素は刺史の荀眺に言った。
「巴・蜀の流民達は、全員造反しようと思っています。」
 荀眺はこれを信じ、流民を皆殺しにしようとした。
 流民達は大いに懼れ、四・五万世帯が一斉に蜂起した。杜弓は州では名望家だったので、彼等は杜弓を推戴した。こうして、杜弓は梁・益二州牧、領湘州刺史と自称した。

 その頃、王敦は楊州刺史となり、都督征討諸軍事を加えられた。

 四月、杜弓は長沙を攻撃した。五月、荀眺は城を棄てて廣州へ逃げたが、杜弓は追撃して捕らえた。これによって杜弓は勢いに乗り、南は零・桂を破り、東は武昌を掠め、太守や長吏を大勢殺した。

 六年、もとの新野王司馬欠の牙門将胡亢が、意陵にて民衆を集め、楚公と自称して荊州を略奪して回り、司馬欠の南蛮司馬杜曾を意陵太守とした。杜曾の勇名は三軍に冠たり、鎧を着たまま泳げるほどの剛者だった。

 王澄は、王衍の弟で、その賢者としての名声は天下に鳴り響いていた。やがて荊州刺史となると、成都内史の王機を、内にあっては股肱、外にあっては爪牙と寵用していた。王澄は屡々杜弓に敗れたが、猶も傲然自若として、王機と共に日夜、酒やばくちに明け暮れていた。
 これによって、民も官吏も次第に愛想を尽かしていった。南平太守の応言が屡々諫めたが、聞かない。
 やがて、王澄は、杜弓討伐の為自ら出陣し、作唐県に陣取った。すると、彼の留守中の荊州では、もとの山簡参軍王沖が、群衆をかき集めて造反した。王沖は応言を推戴しようとしたが、応言はこれに応じず、南平へ帰った。王沖が無頼漢だったので、応言はこれを嫌ったのだ。そこで、王沖は、自ら荊州刺史と称した。
 王澄は恐れ、部下の将軍杜蒙に江陵を守備させ、杳中まで逃げた。すると、別駕の郭舒が諫めた。
「一州の人心を掴まねばならないのです。今、西方の華容の兵を動員すれば、あんな連中、始末するのは訳ありません。なぜ自らこれを棄てて逃げ出すのですか!」
 王澄は従わず、郭舒を東方へ派遣しようとした。郭舒は言った。
「私は別駕となりながら、主君を矯正できませんでした。今、主を亡命させてしまいながら、おめおめ江を渡るには忍びません。」
 とど、屯口に留まった。

 王澄が江東へ逃げ込んだと聞いた琅邪王睿は、彼を召し出して、軍諮祭酒に任命した。そして、それまでの軍諮祭酒の周を彼の代わりに派遣した。
周が荊州へ着くと、建平の流民傅密が造反し、杜弓を迎え入れた。杜弓は、別将の王眞に攻撃させ、周は狼狽して根拠地を失った。
 征討都督王敦は、武昌太守の陶かん、尋陽太守の周訪、歴陽内史の甘卓を派遣し、杜弓を攻撃した。王敦自身は豫章まで進軍し、後詰めとなった。

 王澄は、王敦のもとへ訪れた。もともと、彼の名声は王敦を凌いでいた。それで、この時にも王敦を侮った態度をとった。王敦は怒り、「王澄は杜弓と内通していた」と言い立て、屈強の男を送って王澄を殺した。
 王澄の訃報を受けると、王機は禍を懼れ、地方へ下ろうと考えた。彼の父も兄も、かつては廣州刺史だったので、彼も廣州刺史の地位を望み、それを王敦へ求めたが、王敦はこれを許さなかった。すると、廣州の将軍温撃ェ刺史の郭訥へ造反し、王機を刺史として迎え入れた。王機は奴隷や門生千余人を率いて廣州へ入った。
 これに対して、郭訥は州兵を差し向けたが、この兵隊達は、いずれも王機の父や兄にお世話になっていたので、戦いもせずに降伏した。そこで、郭訥は自ら位を降り、刺史の座を王機へ譲った。

 愍帝の建興元年(313年)。胡亢は猜疑心が強く、部下の猛将を何人も殺した。杜曾は恐れ、密かに王沖の兵を引き入れ、胡亢を攻撃させた。胡亢は精鋭兵を総動員して防戦したが、その為、城内には兵卒が殆ど居なくなった。杜曾は、その隙に胡亢を殺し、彼の部下を奪った。

 周は潯水城へ籠もっていたが、杜弓軍の攻撃に苦しんでいた。そこで、陶かんが明威将軍の朱伺を救援に派遣した。杜弓は冷口まで退却した。すると、陶かんは言った。
「杜弓は必ず武昌へ向かう。」
 そこで、軍を移動して中途で待ち受けると、果たして杜弓は来寇した。陶かんは朱伺に迎撃させ、敵を大いに破った。杜弓は長沙まで逃げた。
周は潯水城から出て豫章の王敦のもとへ赴いた。王敦は、これを受け入れた。すると陶かんのもとから使者が来て、戦勝を告げた。王敦は言った。
「もし陶公がいなければ、荊州を失っていたところだ。」
 そして、陶かんを荊州刺史とするよう上表した。琅邪王は、周を再び軍諮祭酒とした。

 さて、王貢が、王敦のもとから意陵へやって来た。彼は杜曾の招聘を思い立ち、陶かんの命令と偽って彼を前鋒大都督と為し、王沖を攻撃させた。杜曾は王沖を斬り殺したので、王沖の部下は、全て杜曾のもとへ降伏した。 ところが、これによって杜曾は強大な勢力になってしまったのである。陶かんが杜曾を召還したが、彼はこの召集に応じなかった。王沖は、陶かんの命令と偽ったことで罰せられるのではないかと懼れ、とうとう、杜曾と共に造反して陶かんを攻撃した。
 十月、陶かんは大敗し、彼は体一つで逃げ出した。
 王敦は、陶かんを降格するよう上表した。すると、陶かんが周訪と協力して杜弓の軍を撃破したので、王敦は、陶かんの地位をもとへ戻すよう上表した。

 二年、三月。杜弓の将軍王眞が陶かんを攻撃し、陶かんは摂中まで逃げた。すると、周訪が救援に駆けつけ、両者で協力して杜弓軍を撃破した。

 三年、二月。王敦は、陶かんと甘卓に杜弓を攻撃させた。数十回の戦いで、杜弓の部下は大勢戦死した。とうとう、杜弓は丞相の琅邪王へ降伏を求めたが、琅邪王は許さなかった。そこで、杜弓は南平太守の応言へ書を送った。
「その昔、我々は共に手を執って楽郷を攻撃した。私はあの後、湘中へ行った。そこで生き延びる為には、大衆をかき集めるしかなかったのだ。
 旧交のよしみで、どうか私を救ってくれ。私のことを琅邪王へ取りなして欲しいのだ。 もしもその傘下へ入れたならば、私はきっと琅邪王の為に北伐をし、あるいは西の李雄と戦い、今までの罪を贖おう。その上で戦死したとしても、義に殉じられるのならば本望だ!」
 そこで、応言は上表した。
「杜弓は益州の秀才で、もともと人望がありました。しかしながら、その故に、却って反徒達から迫られて、その首領に推戴されてしまったのです。今、彼は前非を悔い、正道に立ち返ることを切望しています。どうか彼を撫納して、江・湘の民を安んじて下さい。」 そこで、琅邪王は杜弓の反逆罪を赦し、前の南海太守王運を使者として杜弓の降伏を受理した。杜弓は、巴東監軍に任命された。
 だが、杜弓がこの王命を受けた後も、諸将は攻撃の手を緩めなかった。杜弓は憤激に堪えず、遂に王運を殺し、再び反旗を翻した。麾下の将軍杜弘と張彦を派遣して臨川内史の謝擒を殺し、遂に豫章を落とした。

 三月、周訪は張彦を攻撃して斬り殺した。杜弘は臨賀へ逃げた。

 六月、陶かんと杜弓が戦った。杜弓が王貢に出撃させると、遙かからそれと知った陶かんが呼びかけた。
「杜弓は益州の小役人。かつては官庫の金を盗んだこともあったし、父が死んだ時には喪に服しもしなかった。卿ほどの人間が、何でそんな男の下に甘んじる!それに、白髪頭になるまで無事に生き延びられた賊徒など、天下のどこにもいないのだぞ!」
 王貢は、最初は聞き流していたが、顔つきが変わっていった。陶かんは、脈があると見て取って、使者を派遣した。この時、「自分に背いた罪は問わない。」として、その証に自分の髪を一房切って使者へ持たせた。王貢は、遂に陶かんへ降伏した。
 これによって、杜弓の軍は壊滅した。杜弓は逃げ出したが、結局、身投げした。
 陶かんは、応言と共に長沙まで進撃し、湘州の賊徒は平定された。
 琅邪王は、王敦を、鎮東大将軍、加都督江・揚・荊・湘・交・廣六州諸軍事、江州刺史とした。王敦は、刺史以下の役職を、この時始めて自分で任命した。そうして、次第に傲慢になり始めた。

 話は遡るが、張光が死んだと聞いた愍帝政権は、侍中の第五猗を安南将軍、監荊・梁・益・寧四州諸軍事、荊州刺史に任命し、武関から派遣した。杜曾は、第五猗を襄陽まで出迎え、自分の甥に第五猗の娘を娶せた。彼がかき集めた兵卒は万人を数えており、第五猗と同盟して、漢とべんとに分担して據った。

 杜弓を滅ぼした陶かんは、勝ちに乗じて杜曾軍へ向かって進撃した。その態度の中に、杜曾を軽視する様子があったので、司馬の魯括が諫めた。
「そもそも戦いとゆうものは、まずその将の器量を比べるものです。今、君の諸将のうち、杜曾に劣る者は、軽々しく進撃させてはなりません。」
 しかし、陶かんは従わず、杜曾を石城に包囲した。
 これに対し、杜曾のもとには大勢の騎兵が居た。杜曾は密かに城門を開けると、陶かんの陣へ突撃した。そしてさんざんに蹴散らした挙げ句、反転して更に襲撃した。この奇襲で、陶かんの兵卒は数百人が殺された。杜曾は、そのまま城を棄てて順陽へ向かったが、その際、下馬して陶かんを拝礼し、別れの挨拶を述べてから去っていった。

 首尾良く脱出した杜曾は、苑を包囲した。ここを守るのは、都督荊州江北諸軍事の荀ッ。荀ッの手勢は少なく、兵糧も乏しい。そこで、彼は友人の襄城太守石覧へ救援を求めようと考えた。荀ッの末の娘の荀灌は、十三才。しかし、彼女が使者にたった。 荀灌は勇士数十人を率いて、夜半、囲みを突破し、戦いながら進み、遂に石覧のもとへたどり着いた。彼女は、そこで書を記すと、南中郎将の周訪にも救けを求めた。周訪は息子の周撫に三千の兵卒を与えて派遣し、石覧と共に荀ッ救援に向かった。
 敵に援軍が来ると知って杜曾は撤退したが、やがて彼は荀ッへ書状を送った。
「丹水の賊徒を平定するので、今までの罪を赦して欲しい。」
 荀ッはこれを赦した。すると、陶かんが荀ッへ書状を渡した。
「杜曾は凶暴にして狡猾。母親を喰う梟のような男だ。こいつを殺さないことには、この土地の動乱は終わらないぞ。卿もいずれ、必ず思い知る!」
苑城には兵卒が少ないので、荀ッは杜曾の兵卒を借りたがったが、断られた。
 杜曾は、二千人の流民を吸収し、襄陽を包囲した。しかし、数日しても落とせなかったので、引き返した。

 王敦の取り巻きの銭鳳は、陶かんの功績を疎ましがり、屡々彼を讒訴した。陶かんは江陵へ帰る途中、王敦のもとへ立ち寄り、自ら釈明しようと思ったが、朱伺と皇甫方回が諫めた。
「言ったら戻って来れません。」
 陶かんは従わなかった。
 果たして、王敦は陶かんを留めて帰さなかった。そして廣州刺史へ任命し、彼の代わりの荊州刺史には、丞相軍諮祭酒の王異(彼は王敦の従兄弟に当たる)を任命した。
 すると、荊州将吏の鄭攀や馬雋が王敦のもとへやって来て、陶かんの留任を願い出た。王敦は怒り、許可しない。
 そもそも、大賊杜弓を滅ぼしたのは陶かんの功績である。にもかかわらず、荊州刺史から、片田舎の廣州刺史への転任では、これは左遷に他ならない。しかも、その廣州では、王機が刺史と自称して居座っているのだ。荊州の大勢の男達が、この処置に不満を抱いた。それに加え、王異が暴戻な性格だった。遂に、鄭攀は三千人の兵卒を率いて涓口を占領し、杜曾を迎え入れた。更に、鄭攀は王異を襲撃し、王異は江安まで逃げた。
 杜曾と鄭攀は、第五猗を迎え入れて王異と対峙した。王異は諸軍を指揮して杜曾と戦ったが、敗北してしまった。

 王敦は、鄭攀の裏で陶かんが糸を引いていると邪推した。そこで彼を殺そうと、武装して陶かんの部屋へやって来たが、意を決めかねて二・三回出たり入ったりしてしまった。 すると、陶かんは顔つきを改めた。
「天下の為だと思うならサッサとやらんか!グズグズしおって!」
 怒鳴りつけると、陶かんは立ち上がって廁へ行った。
 すると、諮議参軍の梅陶と長史の陳頒が言った。
「周訪と陶かんは姻戚です。いわば左右の手のようなもの。左手が造反するのに右手が応じないことがありましょうか。」
 王敦は納得し、陶かんを廣州へ派遣することにした。
 王敦は、陶かんの出立に当たって、盛大な宴会を設けて餞別とした。陶かんは夜半出立したが、王敦は彼の息子の陶瞻を引き留めて麾下で参軍とした。

 ここで話は変わるが、交州刺史の顧祕が死んだ時、交州の人々は、顧祕の息子の顧壽を立てて領州事とした。すると、帳下督の梁碩が起兵して顧壽を攻め、遂にこれを殺し、交州を専制した。
 さて、王機は、もともと廣州を盗んだので、王敦が討伐してくることを恐れ、それに対抗する兵力を擁する為に交州を併呑したがっていた。そうこうするうちに、杜弓が滅亡し、麾下の杜弘が彼のもとへ転がり込んできた。
 すると、王敦は、王機の軍に梁碩を攻撃させようと考えた。そこで、「杜弘を降伏させたことは王機の手柄である」と称して、王機を交州刺史に任命した。
 王機が交州へ向かうと、梁碩は前の交州刺史修則の息子の修湛を迎え入れ、これを拒んだ。王機は、鬱林で立ち往生してしまった。そこで、杜弘や、廣州の将軍温戟A交州の秀才劉沈等と共に協議し、廣州へ帰って以前のように割拠しようと謀った。

 この状況で、陶かんは廣州へ進軍したのである。
 陶かんが始興まで進むと、州人は、留まることを勧めた。状況をよく見るのが得策で、軽々しく進むべきではない、と。しかし、陶かんは聞かず、廣州へ直行した。廣州の郡県では、既に王機が迎え入れられていた。
 杜弘は、使者を派遣して、偽装降伏してきた。しかし、陶かんはその偽りを見破り、杜弘を攻め、撃破した。小桂にて劉沈を捕らえる。
 更に、麾下の許高を派遣して王機を攻撃した。王機は敗走し、その途上、病死した。許高は王機の屍を掘り起こすとこれを斬った。
 さて、こうなると諸将は勝ちに乗じて温撃攻撃するよう進言した。すると、陶かんは笑って言った。
「我が勇名は轟いている。何で兵を出す必要がある?書状の一枚で事足りる。」
 そして、彼へ降伏を勧告した。温撃ヘ懼れて逃げたが、始興にて捕らえられた。
 杜弘は王敦のもとへ出向いて降伏し、こうして廣州の造反は平定した。なお、王敦は杜弘を将軍にして寵用した。

 元帝の建武元年(317年)。荊州では、相変わらず鄭攀が王異の入州を拒んでいたが、その部下は次第に結束が緩み、軍を抜け出す者が続出していた。そこへ、王敦が武昌太守の趙誘と襄陽太守の朱軌を差し向けて攻撃してきた。鄭攀等は恐れ、降伏を請うた。杜曾も又降伏を請い、第五猗を撃って襄陽を恢復することで贖罪したいと申し出た。
 そこで、王異は荊州へ赴こうとして、長史の劉浚に揚口の砦を預けた。すると、意陵内史の朱伺が言った。
「杜曾は狡猾な男です。上辺は屈服を装っていますが、実は官軍を西方へ誘い込み、その隙に揚口を襲撃する腹に決まっています。揚口の兵を動かしてはなりません。今、荊州へ行くのは時期尚早です。」
 だが、王異は偏狂で傲慢な性格。自論に固執する人間だったので、今回も、朱伺が年老いて臆病風に吹かれたと言い立て、西へ向かった。
 杜曾等は果たして揚口を襲撃した。
 王異は朱伺をとって返させた。朱伺軍が砦に戻った直後、杜曾軍はこれを包囲してしまった。劉浚は北門を守り、朱伺には南門を守らせる。
 さて、馬雋は杜曾に従ってこの城攻めに参加していたが、揚口城には彼の妻子が住んでいた。そこで、ある者が言った。
「馬雋の妻子の面を剥ぎ取って、奴目に見せつけてやろう。」
 しかし、朱伺は言った。
「彼の妻子を殺したとて、この包囲は解けないぞ。却って奴を怒らせ、攻撃が益々激しくなるだけではないか。」
 そこで、取りやめとなった。
 杜曾は北門を攻め落とした。城内に敵兵が攻め込み、朱伺は負傷したが、退却して船に乗り込み、その船底から水中を伝って脱出した。すると、杜曾は使者を派遣して朱伺へ言った。
「馬雋は卿に感謝している。今、卿の家の周りは馬雋に任せているが、奴は心を尽くして監視している。どうだ?家族のもとへ帰ってこないか?」
 すると朱伺は答えた。
「わしは六十余。この年になって卿の麾下で賊徒となることはできん。わしが死んでも、魂は南へ帰る。妻子のことは、卿の裁量に委ねよう。」
 そして王異の陣へ戻ったが、傷が悪化して卒した。
 趙誘、朱軌、そして陵江将軍の黄崚は杜曾と戦ったが破れ、趙誘等は皆、戦死した。杜曾は勝ちに乗じて進撃し、その威名は江・べんを震わせた。
 琅邪王は豫章太守の周訪に杜曾攻撃を命じた。その兵力は八千。
 彼等は屯陽まで進撃した。対する杜曾は意気盛ん。周訪は、将軍李恒に左陣を、許朝に右陣を指揮させ、自身は中軍を指揮した。
 杜曾はまず両翼を攻撃したが、周訪は後方で雉狩りをして、兵卒達へ余裕を示した。そして、兵卒を集めて言った。
「片翼が敗れれば軍鼓を三度鳴らさせる。両翼共に敗れれば六度だ。」
 さて、趙誘の息子の趙胤は、父の残兵を率いて左翼に居た。力戦して敗れたが、何とか再び集結し、周訪のもとへ戻った。周訪は怒り、叱咤して再びの出撃を命じた。趙胤は号哭して戦場へ戻った。
 明け方から夕暮れ時までの戦闘で、遂に両翼共に敗れた。その間、周訪の精鋭兵達は、ゆっくりと鋭気を養っていた。周訪は自ら酒を飲み、兵卒達の妄動を禁じた。そして、軍鼓が鳴ったら進撃するよう命じていた。
 両翼を敗った杜曾軍が三十歩も進まないうちに、周訪は自ら軍鼓を打ち鳴らした。それを合図に、将士は皆、勢い込んで突撃した。杜曾の軍は壊滅し、千余人が戦死し、逃げ出した。
 周訪は追撃を命じる。だが、既に夜も更けていた。諸将は夜明けを待つよう請うたが、周訪は言った。
「杜曾は驍勇で戦上手。今回は、疲れ切った奴の軍を、元気満ちた我が軍が攻撃したから勝てたのだ。この機会を逃すな。これに乗じて追撃すれば、必ず奴を滅ぼせる。」
 こうして軍鼓を鳴らして進撃し、遂に漢・べんを平定した。
 杜曾は逃走して武当に據った。
 こうして、王異はようやく荊州へ入ることができた。又、周訪はこの功績で梁州刺史となり、その軍は襄陽に屯営した。

 大興元年(318年)、十一月。詔が降り、王敦が荊州牧となった。陶かんには、都督交州諸軍事が加えられる。王敦は荊州牧を固辞し、代わりに王聴を刺史とした。

 二年、四月。周訪は杜曾を攻撃し、大打撃を与えた。馬雋等が、杜曾を捕らえて降伏した。周訪は杜曾を斬り、併せて第五猗を捕らえて武昌へ送った。
 さて、第五猗は、もともと愍帝に正式に任命された刺史だった。その頃は、琅邪王も愍帝のもとで大丞相だったのだから、実は第五猗の方が正統な州刺史だったとも言える。その上、彼には人望もあった。そこで、周訪は、第五猗を殺すのは良くないと進言したが、王敦は聴かず、第五猗を斬った。