梁の滅亡
 
不協和音   

 王僧弁と陳覇先は、共に侯景を滅ぼしたので、当初は凄く仲が善かった。
 王僧弁は、自分の息子と陳覇先の娘を娶せることにしたが、母親の喪に遭って、しばらくの延期となった。
 王僧弁は石頭城に住んでおり、陳覇先は京口に住む。王僧弁は真心で彼へ接した。子息の王豈(「豈/頁」)が屡々諫めたけれども、聞かない。
 しかし、王僧弁が貞陽侯を推戴すると、陳覇先は使者を派遣して厳しく言い争った。使者は、四往復もしたけれども、結局、王僧弁は断行した。
 陳覇先は嘆いて、親しい者へ言った。
「武帝の子孫は大勢いるが、ただ、元帝陛下だけが復讐を完遂なさったのだ。その子に何の罪があって、突然これを廃立するのか!我と王公とは共に孤児を託されたのに、王公は変節した。夷狄を外援として、序列にない人間を帝位へ据えたのだ。その志は、一体何を欲しているのか!」
 そして、密かに数千領の袍と賞賜の道具として綾錦金銀を準備した。
 やがて、北斉軍が大挙して寿春へ攻め込むとの噂が流れた。王僧弁は、記室の江干を派遣して、陳覇先へ告げた。すると陳覇先は、江干を京口へ留め、王僧弁を襲撃する為に挙兵した。 

  

先んずれば 

 九月、陳覇先は、部将の侯安都、周文育及び徐度、杜稜を召集して謀略を練った。
 この時、杜稜は困難であると評した。陳覇先は計画が洩れることを恐れて杜稜の首を絞めて気絶させ、別室へ幽閉した。そして将士を集めると、金帛を分賜した。
 甥の著作郎曇朗へ京口を鎮守させた。徐度と侯安都へ水軍を与えて石頭へ向かわせ、陳覇先は馬歩を率いて羅落にて合流する手筈。この夜、全員出発した。杜稜も召し出して同行させる。
 この時、この陰謀を知っている者は、侯安都等四将だけだった。他の人間は、江干の要請に従って援軍に出た者と思いこんでおり、ちっとも怪しまなかった。
 甲辰、侯安都は水軍を率いて石頭へ到着した。だが、この時、陳覇先は馬を抑えて留まってしまった。侯安都は大いに驚いて陳覇先のもとへ馬を飛ばし、罵った。
「我等の造反は、既に決行したのですぞ。もはや後戻りはできません!敗北したら死ぬだけです。」
 陳覇先は言った。
「侯安都めが、我を罵りおった!」
 こうして、陳覇先は前進した。(この時、陳覇先は、侯安都の本心を見る為に躊躇した振りをしたと言われている。)
 侯安都は、石頭の北で舟を捨てて岸へ登った。
 石頭城の北は丘になっていたが、そんなに険しくはない。武装したままの侯安都を、兵卒が城内へ投げ入れ、他の兵卒達も後へ続いた。陳覇先の兵も、南門から城内へ入った。
 王僧弁が何事かと思って様子を見ようとすると、「敵が来た」との声がして、城内へ武装兵が出現した。王僧弁は慌てて逃げる。途中、子息の王豈に会ったので、二人して館から逃げ出し、側近数十人を率いて庁舎の前で苦戦した。だが、力屈して南門の楼へ逃げ登り、助けを求めた。
 陳覇先は、これを焼き殺そうとした。そこで、王僧弁親子は楼から降りて命乞いをした。
 陳覇先は言った。
「我に何の落ち度もなかったのに、公はどうして北斉の兵と共に我を討とうとしたのか?」
 又、言った。
「この備えのなさは、どうゆうつもりだ?」
 すると、王僧弁は言った。
「公へ北門を委ねていたのだ。どうして備えがないと言うのか?」(京口を、建康の北門に喩えたのだ。)
 この夜、陳覇先は王僧弁親子を絞殺した。
 結局、北斉軍は攻撃してこなかったが、これは陳覇先の流言ではなかった。 

 前の青州刺史程霊洗が、王僧弁を助けようと石頭の西門で力戦したが、敗北した。陳覇先が使者を派遣して招諭すると、しばらくして降伏した。陳覇先は、その行動を義と評して、彼を蘭陵太守に任命、京口の守備の副官とした。
 乙巳、陳覇先は檄文を作って、王僧弁の罪状を中外へ告知し、伝えた。
「罪の糾明は王僧弁の親子兄弟へ留め、他の者は一切罪に問わない。」 

  

晋安王即位 

 丙午、貞陽侯が帝位を退き、邸から出て行った。百僚は、晋安王へ上表して、帝位へ即くよう勧めた。
 十月、晋安王が即位した。これが敬帝である。大赦を下し、紹泰と改元する。貞陽侯は司徒と為し、建安公へ封じた。
 北斉へ告げた。
「王僧弁は、簒奪を謀ったので誅殺した。」
 そして、北斉の臣と称し藩国となることを請うた。
 北斉は行台の司馬恭を派遣して、梁と歴陽で盟約を結んだ。 

 壬子、陳覇先は尚書令、都督中外諸軍事、車騎将軍、揚・南徐二州刺史となった。
 翌日、宜豊侯循を太保とし、建安公を太傅とし、曲江侯勃を太尉とし、王林を車騎将軍、開府儀同三司とする。 

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