王世充、その三
 
 唐の武徳三年(620年)冬、十月。甲午、王世充の大将軍張鎮周が来降した。
 甲辰、行軍総管羅士信が王世充のキョウ(「石/夾」)石堡を襲撃して、これを抜いた。
 士信は、又、千金堡を包囲した。堡中の人は、彼等を罵った。士信は、夜、百余人の人へ数十の嬰児を抱かせて堡下へ派遣し、児へ泣かせて呼びかけ、偽って言った。
「羅総管へ帰順する為、東都から来たのです。」
 だが、そう言った後、彼等は言い合った。
「ここは千金堡だ。我等は、道を間違った。」

 そして、去っていった。
 堡中の人々は、羅士信は既に去っており、洛陽から亡命した人々が居るだけだと思い、兵を出してこれを追撃した。士信は、道へ兵を伏せており、その門が開くのを窺って突入し、これを屠った。 

 李密が敗北した時、楊慶は洛陽へ帰り、姓をもとの楊氏へ戻した。(楊慶は、李密へ帰属して、改姓していた。)王世充が帝と称すると、慶は、再び姓を郭氏へ戻した。王世充は、彼を管州総管にして、兄の娘を娶せた。
 秦王世民が洛陽へ迫ると、慶は、人を派遣して降伏を請うた。そこで世民は、総管李世勣へ兵を与えて、管州城を占拠させる為に派遣した。
 慶は、妻と共に来降したがったが、妻は言った。
「主上は、君の心を繋ぎ止めたかったから、妾を小間使いにしたのです。今、君は既に付託に背いて、利を貪り保全を求めました。妾がどうして君について行きましょうか!もし長安へ行ったら、妾はただの一婢にしか過ぎません。君にとって何の役に立ちましょう!どうか洛陽へ送り返してください。それが一番のお慈悲です。」
 慶は許さなかった。
 慶が出ると、妻は侍者へ言った。
「もしも唐が鄭を滅ぼしたら、我が家は必ず亡びます。鄭が唐を滅ぼしたら、我が夫は必ず死にます。こうなってしまって、生きていて何になりますか!」
 遂に自殺した。
 庚戌、慶が来降した。姓を楊氏へ戻す。上国柱、ジュン(「旬/里」)国公を拝受する。
 この時、世充の太子玄應は、虎牢関を鎮守し、栄、ベンの間に陣営していたが、これを聞くと兵を率いて管城へ駆けつけた。李世勣は、これを撃退した。 

 唐軍は、栄州刺史魏陸を説得しようと、郭孝恪へ書を書かせた。それを読んで、陸は密かに降伏を請うた。そうとは知らず玄應は、兵を徴発しようと、大将軍張志を陸の元へ派遣した。丙辰、陸は志等四将を捕らえ、州を挙げて来降した。
 更に魏陸は、張志へ玄應の偽手紙を書かせた。その内容は、「東道の兵は移動せずに留まりその将の張慈寶はベン州へ帰れ。」とゆうもの。そして、その傍ら、ベン州刺史王要漢へは慈寶を図るよう、密かに告げた。慈寶は、まんまと騙されてベン州へ戻ったので、要漢は慈寶を斬り、唐へ降伏した。要漢はベン州総管となり、児(「児/里」)国公の爵位を賜下された。
 陽城令王雄は、諸堡を率いて来降した。秦王世民は、李世勣へ、兵を率いて呼応するよう命じ、雄を嵩州刺史とした。これによって、嵩山以南の道が始めて開通した。
 玄應は、諸州が皆叛いたと聞き、大いに懼れて洛陽へ逃げ帰った。 

 戊子、安撫大使李大亮が、王世充の沮・華二州を取った。
 十二月、辛卯。王世充は、許・毫羅十一州全てを以て降伏を請うた。そのかたわら、兄の子の代王宛(「王/宛」)と長孫安世を竇建徳の元へ派遣して、援軍を請うた。
 辛丑、王世充の隋州総管徐毅が州を挙げて降伏した。
 四年正月、王世充の梁州総管程嘉會が所管を以て来降した。 

 秦王世民が精鋭千余騎を選び、皆へ引きずるような長い裾と黒い甲をかぶせて左右隊へ分け、秦叔寶、程知節、尉遅敬徳、擢(本当は手偏がない)長孫へ分散して指揮させた。戦争のたびに、世民は自ら黒甲をかぶり、これを率いて前鋒とし、機会に乗じて進撃したが、向かうところ敵を粉砕しないことはなく、敵人はこれを畏れた。
 ある時、行台僕射屈突通と贊皇公竇軌が、兵を率いて陣営へ向かっていると、王世充軍とバッタリ出くわし、戦いになったが、戦況は不利だった。だが、秦王世民が黒甲を率いて救援に駆けつけたので、世充は大敗した。この時、敵の騎将の葛彦璋を捕らえ、六千余人を捕斬した。世充は、逃げ帰った。
 二月、王世充の太子玄應が、兵数千人を率いて兵糧を虎牢から洛陽へ運び入れようとした。秦王世民は将軍李君羨を派遣して、これを襲撃させた。君羨は敵を撃破し、玄應は体一つで逃げ出した。
 秦王生民は進軍して東都を包囲しようと考え、宇文士及に請願させた。すると、上は士及へ言った。
「帰って、汝の王へ伝えよ。今洛陽を取ったら、兵を留めて休息させよ。城に勝ったときは、乗輿や法物や図籍器械など、個人で所蔵すべきでないものは、汝がこれを没収せよ。その他子女玉帛は、全て将士へ分賜せよ。」
 辛丑、世民は本隊を青城宮へ移した。その軍が塁や壁を完成させる前に、王世充は二万の軍を率いて方諸門から出陣し、馬坊垣の跡を利用して穀水へ臨み唐軍を拒んだので、唐の諸将は皆畏れた。だが、世民は精騎で北亡へ陣を布き、魏の宣武帝陵へ登って敵陣を望み、左右へ言った。
「賊軍は行き詰まったな。総勢で出陣し、この一戦に僥倖を求めている。今日、これを破れば、もう奴等に後はないぞ!」
 そして、屈突通へ五千の歩兵を率いて川を渡り攻撃するよう命じた。この時、通を戒めて言った。
「交戦したら、のろしを挙げろ。」
 煙が上がると、世民は騎兵を率いて南下した。自ら兵卒に先立ち、通と力を合わせて力戦する。世民は、世充の陣の厚薄を知りたくて、精騎数十騎と共に敵陣へ突っ込んで背後へ出た。行く手の敵兵は全て薙ぎ払われ、大勢の敵が死傷した。
 ところが、そこで長堤に行く手を阻まれ、諸騎はバラバラになってしまった。世民につき従っているのは、将軍丘行恭ただ一騎のみ。世充が数騎で追求する。その上、世民の馬に流れ矢が当たって、馬は倒れてしまった。
 行恭は馬首を返して追撃者を射た。それは一発も当たらなかったが、追う者も脚を留めた。そこで行恭は、下馬して自分の馬を世民へ授けた。そして自身は馬前にて徒歩で長刀を執った。跳躍して大呼し、数人を斬る。そのまま敵陣へ突入して突破し、大軍へ入ることができた。
 世充は、衆を率いて死戦した。散っては集まること数回。辰の刻から午へ及んで、世充軍はようやく退却した。世民は、兵を指揮してこれに乗じ、そのまま城下まで進撃する。七千人を捕斬して、遂に城を包囲した。
 驃騎将軍段志玄は世充軍と力戦するうちに深入りしてしまい、そこで馬が倒れて捕らえられてしまった。二騎が両側から彼の髻(もとどり)を掴んで洛水を渡ろうとしたが、志玄は身を翻して奮戦し、二人とも落馬してしまった。志玄は馳せ帰る。数百騎が追撃したが、彼へ敢えて近づこうととしなかった。
 ところで、驃騎将軍王懐文が、唐軍の斥候として偵察中に世充軍に捕らえられていた。世充は、憂さを晴らそうとして、これを左右へ置いていた。壬寅、世充が右掖門から出て洛水に臨んで陣を布くと、懐文はアッと言う間に槊を引いて世充を刺した。だが、世充は甲で庇った。槊は途中で折れて貫けなかった。世充の近習達は、突然のことに驚き慌てて為す術を知らない。懐文は唐軍目指して走り去ったが、潟口にて捕まって殺された。世充は、兜を取って群臣へ示し、言った。
「懐文は槊で我を刺したが、遂に傷つけることもできなかった。これこそ天命ではないか!」 

 話は遡るが、御史大夫の鄭廷(「廷/頁」)は、世充へ仕えるのが楽しくなく、病気と称して事に預からないことが多かった。ここにいたって、彼は世充へ言った。
「『金剛と言う、絶対に壊れない仏がある』と聞いたことがありますが、陛下こそそれであります。臣は稀代の僥倖にて仏の世に生まれることができました。どうか、官位を棄て、削髪して沙門となることをお許しください。日々精進して勤行に励み、陛下の神武の助けとなりとうございます。」 すると、世充は言った。
「国の大臣とは、声望が重く、人々が注視している。それが仏道へ入れば、人々は、何事かと騒いでしまう。戦争が一段落つくのを待ちなさい。そうすれば、公の願いを叶えよう。」
 廷は固く請うたが、世充は許さなかった。廷は退出すると、妻へ言った。
「名節を慕う志を持って、我が髪を束ねて官に就いていたが、不幸にして乱世に遭遇し、流離の末にここに至った。猜疑の主君の朝廷に身を置き、危亡の地に足を踏む。浅薄な我が智力では、我が身を全うすることはできまい。人は皆、いずれ死ぬ。早かろうが遅かろうが、大した違いはない。好きなことをするのなら、死んでも遺憾はない。」
 遂に、髪を削って僧服を着た。
 世充は、これを聞いて激怒した。
「お前は、我が必ず敗れると見て、難を逃れる為に出家したのか?これを誅殺しなければ、衆を制御することはできぬわ!」
 遂に、廷を市場にて斬った。
 廷は死に臨んで自若として談笑した。観る者は、彼を壮者と讃えた。
 詔が降りて、王懐文へ上国柱・朔州刺史が賜下された。 

 庚戌、王泰が河陽を棄てて逃げた。その将趙夐等は城を以て来降した。
 別将単雄信、裴孝達と総管王君廓は、洛口を挟んで対峙した。秦王世民は歩騎五千を率いて救援に向かい、轅へ至った。すると、雄信等は逃げたので、君廓は追撃して、これを敗った。
 乙卯、王世充の懐州刺史陸善宗が、城を以て降伏した。
 戊午、王世充の鄭州司兵沈悦が、左武候大将軍李世勣のもとへ使者を派遣して、降伏を請うた。左衞将軍君廓が、夜半に兵を率いて虎牢を襲撃すると、悦は内応した。遂に唐軍はこれを抜き、世充の荊王行本と長史の戴冑を捕らえた。
 悦は、君理の孫である。 

 秦王世民は、洛陽の宮城を包囲した。城中の守備は甚だ厳く、大きな投石機は、重さ五十斤の石を二百歩も投げ飛ばした。八つの弩は、車輪のような箭に巨斧のような鏃の矢を五百歩も飛ばした。世民は、昼夜休まず四面から攻撃したが、十日余りしても勝てない。城中から内応しようとする者は十三人も居たが、全て発覚して殺された。唐の将士はみな疲弊して帰りたがった。
 総管劉弘基等が撤退を請願すると、世民は言った。
「今、大挙してやって来たのは、この一労で永年の安逸を得る為だ。東方の諸州は既に風をに靡くように降伏してきた。ただ洛陽だけが孤城として残っているが、いつまでも保てるものか。功績は成就寸前だ。なんでこれを棄てて帰れるか!」
 そして、軍中へ命じた。
「洛陽を破るまでは、我が軍は絶対に帰らない。敢えて退却を言う者は、斬る!」
 これ以後、衆人は退却を口にしなくなった。
 上はこれを聞くと、世民へ密敕を出して、帰るよう命じた。だが、世民は、洛陽は必ず落とせると上表した。また、参謀軍事封徳彝を長安へ派遣し、入朝させて現状の形勢を面と向かって論じさせた。徳彝は、上へ言った。
「世充の得た土地は多いのですが、皆、面従しているだけで、その号令が施行されるのはただ洛陽一城のみです。奴等の知恵は尽き力は窮し、勝利は目前です。今、もしも退却すれば、賊軍は再び勢力を盛り返して更にあちこちと連合し、後には滅ぼしにくくなりますぞ!」
 上は、これに従った。
 世民は世充へ書を遣り禍福を論じて諭したが、世充は返事を出さなかった。
 洛陽を包囲した唐軍は、塹壕を掘り、塁を築いて厳重に対した。三月になると、城中では食料が欠乏し、絹一匹で粟三升、布十匹で塩一升にしかならない有様。宝石や服は土芥のように扱われた。民は草の根や木の葉を食べたが、それも食べ尽くした。遂には浮かんだ泥と米屑を混ぜて餅を作ったが、食べた者はみんな病気になった。体は腫れ上がり脚は弱まり、死者は道へ累々と転がった。皇泰主が民を宮城へ入れた時には、凡そ三万家いたが、今では城内には三千家しか残っていない。公卿と雖も食糧に困り、米や麦の糠でさえも満足に食べられなかった。尚書郎以下、餓死する者さえ現れた 

 四月、壬寅、王世充の騎将楊公卿、単雄信が兵を率いて攻めてきた。斉王元吉が迎撃したが、戦況は不利で、行軍総管盧が戦死した。
 同月、王世充の平州刺史周仲隠が城を以て来降した。 

 五月、己未、救援に来た竇建徳が李世民に敗北し、竇建徳は捕らえられた。
 甲子、世充麾下の偃師と鞏県が降伏した。
 乙丑、太子左庶子鄭善果を山東道慰撫大使とした。
 世充の将王徳仁が、洛陽旧城を棄てて逃げた。すると亜将の趙季卿が、城ごと降伏した。
 秦王世民は捕らえていた竇建徳、王宛、長孫安世、郭士衡羅を洛陽城下へ連れ出して、世充へ示した。世充と建徳は語り合って、泣いた。やがて、安世等が城内へ派遣され、敗戦の状況を語った。
 世充は諸将を集めて軍議を開いた。世充は、包囲を突破して襄陽へ逃げるつもりだったが、諸将は皆言った。
「我等が恃みとしていた夏王は、今では捕らえられています。包囲を突破しても、結局我等は滅ぼされます。」
 丙寅、世充は素服を着て太子と群臣二千余人を率いて世民の陣営へ出向き降伏した。世民は礼遇したが、世充は伏し拝んで瀧のように汗を流した。世民は言った。
「卿はいつも我のことを小僧っ子扱いしていた。今、その小僧っ子にあったのに、何でそんなに恭順なのだ?」
 世充は頓首して謝罪した。
 ここにおいて世民は諸軍を編成し、洛陽へ入った。各々の部隊へそれぞれ市肆を警備させ、略奪を禁止した。その禁令を敢えて破る者は居なかった。
 丁卯、世民が宮城へ入った。
 記室の房玄齢へ、先に中書省と門下省へ入って隋の図籍制詔を収容するよう命じたが、それらは既に世充の手によって処分されており、収穫はなかった。 蕭禹と竇軌へは、府庫を封印してその金帛を没収し、将士へ分け与えるよう命じた。
 世充の麾下で特に罪の大きな段達、王隆、崔洪丹、薛徳音、楊汪、孟孝義、単雄信、楊公卿、郭什柱、郭士衡、董叡、張童児、王徳仁、朱粲、郭善才等十余人を洛水の上で斬った。 

 ところで、李世勣はかつて単雄信と仲が善く、生死を共にしようと誓った仲だった。洛陽が平定すると、世勣は雄信が驍勇で健強なことこの上ないと言い、更に自分の全ての官位をなげうってでも、彼の命を救いたいと請願したが、世民は許さなかった。世勣は固く請うたが許されず、泣きながら退出した。
 雄信は言った。
「お前は弁明してくれないと思っていたよ。」
 世勣は言った。
「我は命など惜しくない。兄と一緒に死にたいのだ。だが、我が命は既に御国へ捧げている。友への情誼と二股は掛けられない。それに、我が死んだなら、誰が兄上の妻子の面倒を見るのだ?」
 そして、自分の股の肉を切り裂いて雄信へ食べさせ、言った。
「この肉は、兄上と共に土になる。昔の誓いをいくらかでも履行できただろう。」 

 朱粲は残忍で、大勢の士民が苦しめられていた。彼等は朱粲の屍へ競って瓦や礫を投げつけたので、たちまちのうちに塚のようになってしまった。
 韋節、楊続、長孫安世等十余人は捕らえて長安へ送った。世充に罪なく捕らわれていた士民は釈放した。既に殺されていた者は、大夫の格式で葬った。 

 話は遡るが、秦王府属の杜如晦の叔父の淹は王世充に仕えていた。淹はもともと如晦兄弟と仲が悪かったので、彼は如晦の兄を讒言して殺した。また、その弟の楚客は捕らえて餓死寸前にまで追いやっていたが、楚客は遂に怨みの色も浮かべなかった。
 洛陽が平定すると、淹は死刑に相当した。楚客は泣いて如晦へ頼み込んだが、如晦は従わなかった。すると、楚客は言った。
「昔は叔父上が兄上を殺し、今は兄上が叔父上を殺す。一族同士が殺し合って全滅してしまうなど、なんと痛ましい事だろうか!」
 そして自刎しようとしたので、如晦は彼の為に世民へ請願し、淹は殺されずに済んだ。 

 秦王世民が昌(「門/昌」)闔門に座していると、蘇威が言ってきた。
「謁見を望んでいるのですが、老いと病で拝礼できないのです。」
 そこで、世民は使者を派遣して言った。
「公は隋室の宰相となりながら、危難を扶けることができず、主君を弑逆させて国を滅ぼさせた。李密や王世充へ対しては伏し拝んで舞踏までした。今既に老病だとゆうのなら、なにも謁見の労を執る必要はない。」
 後、蘇威は長安にて謁見を求めたが、やはり許可されなかった。彼は既に老いており、しかも貧しく、そのうえ官爵を持つこともできないまま、家にて卒した。享年八十二。 

 秦王世民は隋の宮殿を見て嘆いた。
「こんな好き勝手に贅沢して人欲を極めた。滅びない筈はない!」
 そして、端門楼を撤去させ、乾陽殿を焼き払わせ、則天門および闕を壊させた。諸々の道場を廃し、城中の僧尼は徳望で有名な三十人づつを留めて、残りは還俗させた。 

 戊寅。王世充の徐周行台杞王世弁が、徐・宋等三十八州を以て、河南安撫大使任壊へ降伏した。これにて、世充の旧領は全て平定した。 

 秋、七月。庚申、王世充の行台王弘烈、王泰、左僕射豆盧行褒、右僕射蘇世長が襄州を以て来降した。
 行褒と世長は上の古馴染みだったので、上は屡々書を遣って、彼等を招いていたが、行褒はすでに使者を殺していた。長安へ着くと、上は行褒を誅殺して世長を責めた。すると世長は言った。
「隋がその鹿を失って、天下が共にこれを逐いました。陛下は既にこれを得ましたが、同じように狩をしていた相手を憎んで、争肉の罪を詰問するとゆう法がございましょうか!」
 上は笑って、これを赦し、諫議大夫とした。
 ある時、世長は高陵にて上の狩猟にお相伴した。その時、獲物が沢山捕れたので、上は群臣を見返って言った。
「卿の狩猟は楽しかったか?」
 すると、世長が言った。
「陛下が狩猟をなさる時は、万機を放り出して十旬はかけます。この程度では、楽しいとは言えません。」
 上は顔色を変えたが、すぐに笑って言った。
「狂態が再発したか?」
 対して答えた。
「私の言葉は、臣下自身にとっては確かに狂ですが、陛下へ対しては甚だ忠実です。」
 またある時、披香殿にて宴会が開かれた。宴たけなわの時、世長は上へ言った。
「この殿は、煬帝が建てたのですか?」
 上は答えた。
「卿の諫言は、直に似てるが、その実は詐が多い。この殿を造ったのが朕であることを知っていて、煬帝と言っているのではないか?」
 対して答えた。
「臣は、本当に知らなかったのです。ただ、傾宮や鹿台のように贅を尽くした造りが、王の為せるわざと思えなかったのです。もしも陛下が造らせたのなら、真実、良くありません。臣は昔、武功にて陛下へ侍っていましたが、その頃の居宅は僅かに雨風を凌げるくらいでしたが、それでも充分でした。ですが、今は隋の宮室を元にして、既に充分すぎるほど贅沢なのに、更にこれを増やしています。どうすれば、この過を強制することができましょうか。」
 上は深く同意した。 

 甲子、秦王世民が長安へ到着した。世民は、黄金の甲を被り、斉王元吉や李世勣など二十五将がその後へ従った。鉄騎一万匹が、勇壮な軍楽の演奏付きで進んだ。捕虜にした王世充、竇建徳及び隋の乗輿、御物を太廟へ献上し、そこで宴会となって節度を保ったまま饗応した。
 上は王世充を見ると、その罪状を数え上げた。すると、王世充は言った。
「臣の罪は、もとより誅殺に値します。しかし、秦王は殺さないと約束してくださったのです。」
 丙寅、王世充を赦して庶民とし、兄弟子姪と共に蜀へ住ませた。
 竇建徳は、市場で斬った。 

 六月、王世充は、防備が不完全だと思い、擁州へ廨舎を設置した。独孤機の子息定州刺史修徳は、兄弟を率いてここへ来て、敕書と偽って王世充を「鄭王」と呼んだ。世充と兄の世軍が駆け出してきたところを、修徳等は殺した。(独孤機兄弟は王世充に殺されていた。これは、その仇討ちである。)
 詔が降りて、修徳は罷免された。その他の兄弟子姪等は、途上にて造反罪として誅殺した。 

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