王世充、そのニ 
 唐の武徳二年(619年)三月。王世充は穀州を攻撃した。唐の穀州刺史の史萬寶が応戦したが、戦況不利だった。
 王世充が新安を攻撃したのは、上辺はこれを攻め取るように見せかけていたが、実は自分へ加担している文武官を呼び集めて受禅について議論する為だった。
 李世英は、強く否定した。
「大勢の将兵が四方から東都へ集まってきたのは、公が隋室を補佐しているからです。いま、九州の土地のうちのただひとつでさえ平定していないのに帝位に即いてしまったら、人々は皆、逃げ去ってしまいますぞ!」
 王世充は言った。
「公の言うとおりだ!」
 だが、長史の韋節と楊続は言った。
「隋の滅亡は、誰の目にも明らかです。非常の事は、常人の理屈で議論してはなりません。」
 太史令楽徳融は言った。
「昔、歳長星が出るのは、旧を除き真を敷く象徴でした。いま、歳星は角、亢に有ります。天上の亢に対応する土地は、鄭。この天道に早く応じなければ、王気が衰えてしまいます。」
 王世充は、これに従った。
 外兵曹参軍載冑が、王世充へ言った。
「君臣といえば親子も同然。明公が御国へ忠義を尽くせば、家国共に安泰です。」
 王世充は、跪いて善と称した。
 王世充が九錫を受けることを議論すると、載冑は、再び固く諫めた。王世充は怒って、鄭州長史に左遷した。虎牢関の鎮守は、兄の子の王行本へ任せる。
 皇泰主へ対して九錫の賜下を揶揄するよう、段達等へ命じた。彼等が、王世充へ九錫を加えるよう請うと、皇泰主は言った。
「鄭公は、最近李密を平定したので、太尉とした。しかし、それ以来これといった功績を建ててはいない。天下が平穏になるのを待ってから議論しても遅くはあるまい。」
 だが、段達は言った。
「太尉が欲しがっているのです。」
 皇泰主は、段達を熟視して言った。
「公へ任せる!」
 辛巳、段達等は皇泰主の詔として、王世充を相国、仮黄鉞、総百揆とし、鄭王へ進爵させ、九錫を加えた。鄭国には、丞相以下の官を設置する。
 東都の道士桓法嗣が「孔子閉房」を王世充へ献上して言った。
「相国は隋に代わって天子となるべきでございます。」
 王世充は大いに喜び、桓法嗣を諫議大夫とした。
 又、王世充はたくさんの鳥を捕らえ、その首へ帛をつり下げて放した。その鳥を捕らえて献上する者がいれば、官爵を与えた。これも瑞兆のでっち上げである。
 ここにおいて段達は、皇泰主の命令と標榜して、王世充へ殊礼を加えた。対して王世充は、三度辞退した。百官は勧進し、都堂へ位を設ける。納言の蘇威は年老いていたので、朝謁しなかったが、彼は隋室の重臣なので、彼の名前は士民へのめくらましに使えると王世充は考え、勧進ごとに必ず蘇威の名前を冠した。
 特礼を受ける日には、蘇威を扶けて百官の上へ置き、その後に南面して正座してこれを受けた。
 王世充は、長史の韋節、楊続及び太常博士孔穎達へ禅代儀を造るよう命じた。また、段達や雲定興等十余人を皇泰主へ入奏させて、言わせた。
「天命は移り変わるもの。鄭王の功徳は甚だ盛んです。どうか陛下、唐・虞の行いを遵守されてください。」
 皇泰主は膝を収め案に據り(原文「斂膝據案」多分、ひどく怒った有様を表現しているものと思います。)、怒って言った。
「天下は、高祖(隋の文帝)の天下だ。もしも隋の天命が滅んでいないなら、そのような言葉をどうして言えるのか。天命が既に改まったというのなら、何で禅譲などする必要があるか!公等は譜代の旧臣や台鼎の高官達だ。それでさえもこのようなことを言う。朕はまた、何を望もうか!」
 顔色は凛冽としており、その場へやって来た臣下達は皆、冷や汗を流してしまった。
 彼等が退朝すると、皇泰主は太后へ泣きついた。
 王世充は、更に別の者へ言わせた。
「今、海内は乱れております。年長の主君を立てて四方をまとめなければなりません。国家が平穏になりましたら、帝位を返上いたします。必ず、これを誓います。」
 癸卯、王世充は皇泰主の命令と称して鄭にて帝位を譲り受けた。皇泰主は、王世充の兄の王世軍が含涼殿へ幽閉していた。だからこの儀式で、王世充は三回辞退し、そのたびに敕書が強いて勧めたのだが、それは全て皇泰主の知らぬ事だった。
 諸将は兵を率いて清宮城へ入り、法術を使う者が桃湯と葦火で禁省を払い清めて廻った。
 乙巳、王世充の車駕が入宮し、皇帝位へ即いた。
 丙午、大赦が降り、”開明”と改元する。
 戊申、子息の王玄應を皇太子とする。王玄恕を漢王。その他、兄弟宗族十九人を王とした。皇泰主を奉じて路(「水/路」)国公とする。蘇威を太師、段達を司徒、雲定興を太尉、張謹を司空、揚続を納言、韋節を内史、王隆を左僕射、韋霽を右僕射、斉王王世軍を尚書令、楊汪を吏部尚書、杜淹を少吏部、鄭延を御史大夫とした。
 また、国子助教の陸徳明を漢王の師とした。陸徳明はこれを恥じ、病と称した。
 王世充は、闕下や玄武門など数カ所に寝椅子を設置し、どこにでも坐って自ら章や表を授けた。あるいは、軽騎を率いて街を出回る時にも、路を清掃させたりせず、民はただ行く手を開ければ良かった。
 王世充は言った。
「昔の天子は、深く九重に居たので、下事情を知りようがなかった。今、我は天位を貪ったのではない。ただ、この艱難の時に民を苦渋から救いたかったのだ。だからこのように、あたかも一刺史の如く自ら庶務を覧て士庶と共に朝政を評しても、なお敷居が高いのではないかと恐れている。今、門外にも政務を執る場所を設けた。各々腹蔵のない意見を述べよ。」
 また、西朝堂にては冤罪の訴えを聞き、東朝堂にては直諫を受け入れた。ここにおいて献策の上書が毎日数百も提出されたが、それら全てに目を通すのが煩雑だったので、数日で中止された。 

 王世充麾下の将軍丘懐義は門下省内に住み込み、越王王君度や、漢王、将軍郭士衡と共に、妓女達と酒を飲んでは博打を打っていた。侍御史張蘊古は、これを弾劾した。王世充は大いに怒り、越王や漢王を数十回も杖打たせたが、丘懐義や郭士衡は不問だった。張蘊古へは恩賞として帛百段を賜り、太子舎人とした。王君度は、王世充の兄の子である。
 王世充は、朝廷で議論を聞くたびに、慇懃に言葉を掛けた。同じ意味の言詞が重複し修飾は多岐に渡ったので、侍衞の人は飽き飽きした。百司の奏事は実に疲れるものとなった。
 御史大夫蘇良が諫めて言った。
「陛下の言葉は多すぎて要領を得ません。意志を伝えればよいのです。なんで辞を重ねる必要がありましょうか。」
 王世充は暫く黙りこんだ。蘇良を罰することはなかったが、この性格も変わらなかった。 

 王世充は、何度も唐の伊州を攻撃したが、総管張善相が拒戦した。しかし、そのうちに食糧が尽きてきて、しかも援軍は来ない。
 癸亥、城は落ちた。張善相は言葉の限り王世充のことを罵って死んだ。
 李淵は、これを聞いて嘆いた。
「我が張善相に背いたのに、張善相は我に背かなかった。」
 とど、その子へ襄城郡公を賜った。
 五月、王世充は義州を落とし、西済州へ攻め込んだ。李淵は、右驍衞大将軍劉弘基を救援に差し向けた。 

 裴仁基と裴行儼親子の威名が高いので、王世充は内心彼等を忌んだ。
 裴仁基親子はこれを知り、不安になった。そこで、尚書左丞の宇文儒童と、その弟の尚書右丞宇文温、散騎常侍崔徳本とともに、王世充とその一派を殺して皇泰主を再び立てようそうと謀った。しかし、陰謀が露見して、三族を皆殺しにされた。
 王世軍が、王世充へ言った。
「皇泰主が生きているから、宇文儒童等が造反したのです。はやく始末しましょう。」
 王世充はこれに従い、甥の王仁則と家奴の梁百年に、皇泰主毒殺を命じた。
 彼等が毒を持って行くと、皇泰主は言った。
「太尉が受禅した時の言葉はどこへ行った。」
 梁百年が、この言葉を王世充へ伝えようとしたが、王世軍は許さなかった。また、皇泰主は皇太后への最期の面会を望んだが、これも許されなかった。
 皇泰主は、布席で香を焚き、仏を礼拝して言った。
「転生しても、帝王の家には生まれないように!」
 毒を飲んだけれども死にきれなかったので、帛で絞め殺された。恭皇帝と諡される。
 王世充は、楚王王世偉を太保に、王世軍を太傅にした。 

 王世充は、羅士信へ、穀州攻撃を命じた。しかし羅士信は、手勢千余を率いて唐へ降伏した。
 もともと羅士信は、李密の麾下として王世充を攻撃していたが、戦争で敗れて、王世充に捕らえられた。
 王世充は、彼を厚く遇して、寝食を共にするほどだった。しかし、後に丙元真等が降伏してくると、彼等も羅士信と同様に扱った。羅士信は、彼等と同列に扱われたので深く恥じた。
 羅士信は、駿馬を持っていた。王世充の甥がこれを欲しがったが、羅士信は与えなかった。すると、王世充はこれを取り上げて、甥へ与えた。羅士信は怒り、唐へ降伏したのだ。
 羅士信が降伏して来たと聞くと、李淵は非常に喜んで、使者を派遣して慰労し、彼を陜州道総管に任命した。すると、王世充の左龍驤将軍席弁と、同列の楊虔安、李君義等が、手勢を率いて降伏してきた。 

 王世充は、郭士衡に穀州を攻撃させたが、刺史の任壊が、これと戦って大勝利を収めた。郭士衡軍の兵卒の大半を捕斬する。
 十月、羅士信は夜中に勇士を率いて洛陽の外郭へ入り、火を放って清化里を焼き払い、帰った。壬戌には、青城堡を抜いた。 

 三年、王世充の将帥が、相継いで、統治している州県ごと降伏してくるようになった。そこで、王世充は法律を厳しくし、一人が亡叛したらその家族は幼長となく殺戮した。ただし、親子、兄弟、夫婦でも、告発したら赦された。また、五家を保となし、誰かが家族ぐるみ逃げ出して残りの四家が気がつかなければ、皆、連座して誅殺された。
 こうして、殺される人間は益々多くなったが、亡命する者は益々増える。とうとう、木こりのような人間でさえ、移動が制限されるようになった。公私共に困窮し、民は生活に安んじなくなった。
 また、宮城は大獄となっていた。王世充は、少しでも猜疑すると、その家族を宮中へ収繋した。出討する諸将も、また、家族を宮中へ人質に出した。おかげで、宮中に軟禁されている者は一万人を越え、毎日数十人が死んでいった。
 王世充は、また、台省の官吏を司、鄭、管、原、伊、殷、梁、湊、嵩、谷、懐、徳等十二州の営田使とした。丞、郎でこの役目を仰せつかる者は、まるで仙人にでもなれたかのように喜んだ。 

 六月、李淵が王世充攻撃を言い出した。世充はそれを聞いて、諸鎮から驍勇を選りすぐって、皆、洛陽へ集め、四鎮将軍を設置し、人を募って洛陽の四城を分守した。
 秋、七月。壬戌、秦王世民へ、諸軍を監督して世充を攻撃するよう詔が降りた。
 陜東道行台屈突通の二人の息子は洛陽にいた。そこで、上は通へ言った。
「今、卿にも東征を命じたいが、二人の息子はどうなるだろうか?」
 すると、通は言った。
「臣は昔、捕虜となりましたが、その時は殺されるのが当然でした。それなのに陛下は、ただいましめを解いてくれただけではなく、一人の士として礼遇してくださいました。この時臣は、『余命は陛下へ忠節を尽くす、』と、心と口で誓ったのです。いまはただ、死に場所を得ないことを恐れるだけです。今回先駆となれましたら、二人の息子などなんで顧みましょうか!」
 上は感嘆して言った。
「卿は義に殉じる士だが、ここまでだったとは!」 

 三年、四月、羅士信が、慈澗(隋志;河南郡、寿安県に慈澗がある。)を包囲した。王世充は、太子の玄應を救援に向かわせた。
 羅士信は、玄應を刺して落馬させた。しかし玄應は、部下から救われて危難を免れた。
 庚申、懐州総管黄君漢が、西済州にて王世充の太子玄應を攻撃して大勝利を収めた。熊州行軍総管史萬寶が、九曲にて襲撃し、また、これを破る。 

 辛酉、王世充がトウ(「登/里」)州を陥とす。 

 五月、突厥が王世充へ阿史那掲多を使者として派遣し、馬千匹を献上して通婚を求めた。世充は宗族の女を娶らせ、互いに交易をした。
 癸亥、突厥が、密かに王世充へ使者を派遣した。路州総管李襲誉が、これを攻撃して敗った。牛や羊一万余を捕らえた。 

 壬午、秦王世民が新安へ到着した。王世充は、魏王弘烈を襄陽へ、荊王行本を虎牢へ、宋王泰を懐州へ、斉王世ツを寶城へ派遣してそれぞれ鎮守させた。太子玄應は東城を、漢王玄恕は含嘉城を、魯王道徇は曜儀城を守り、世充は自ら戦兵を率いた。左輔大将軍楊公卿は左龍驤二十八府の騎兵を、右游撃大将軍郭善才は内軍二十八府の歩兵を、左游撃大将軍跋野綱は外軍二十八府の歩兵を率い、総勢三万で唐へ備えた。
 弘烈と行本は世偉の子息で、泰は世充の兄の子である。
 羅士信は前軍を率いて慈澗を包囲した。王世充は、自ら三万の兵を率いてこれを救援に向かった。
 己丑、秦王が軽騎を率いて世充の動向を偵察に出かけたが、それがたまたま世充の軍隊と遭遇した。衆寡敵せず、道路は狭くて険しい。遂に、王世充軍は、これを包囲してしまった。だが、世民は左右に馳せながら射撃し、敵の左建威将軍燕hを捕らえたので、世充軍は退却した。世民が陣営に帰った時は、塵や埃が顔を覆い、どこの誰とも判らない有様。兵士達が入営を拒みそうになったので、生民は甲を脱いで名を名乗り、ようやく入営できた。
 明け方、世民は歩騎五万を率いて慈澗へ進軍した。世充は、慈澗の包囲を突破して洛陽へ帰った。

 世民は、宜陽に居た行軍総管史萬寶を龍門へ派遣して占拠させた。太行の将軍劉徳威は河内を包囲した。洛口の上谷公王君廓は敵の糧道を絶った。河陰の懐州総管黄君漢は迴洛城を攻撃した。
 唐の大軍が北亡(「亡/里」)に屯営し、陣営を連ねて王世充へ迫る。世充の有(「水/有」)州長史繁水の張公謹と刺史崔樞が州城ごと降伏してきた。 

 トウ州の土豪が、王世充の任命した刺史を捕らえて、来降した。 

 甲辰、黄君道が校尉張夜叉へ水軍で迴洛城を襲撃させ、これに勝った。その将の達奚善定を捕らえ、河陽南橋を切断して帰る。従属する堡二十余が降伏した。
 世充は、太子玄應へ楊公卿羅を率いて迴洛を攻撃させたが、勝てなかったので、迴洛城の西へ月城を築き、兵を留めてこれを守った。
 世充は、青城宮に陣を布いた。秦王世民も、又、ここに陣を布いて対峙した。
 世充は川を隔てて生民へ言った。
「隋室が傾覆して、唐は関中の帝となり、鄭は河南の帝となった。世充は、いまだかつて西へ侵略したことはないのに、王は突然挙兵して東進した。どうゆうつもりか?」
 すると世民の命令を受けて、宇文士及が答えた。
「四海は皆皇風を仰いでいるのに、ただ公独り、その声教を阻んでいる。だからやって来たのだ!」
 世充は言った。
「共に兵を退いて講和するのも、また素晴らしいではないか!」
 対して言った。
「詔を奉じて、東都(洛陽)を取るのだ。修好は命じられていない。」
 日が暮れて、各々兵を退いた。 

 九月、癸酉、王世充の顕州総管田贊が所領二十五州を率いて来降した。 

 史萬寶が甘泉宮まで進軍した。
 丁丑、秦王世民が右武衞将軍王君廓を派遣して環(王偏ではなく、車偏です)轅を攻撃し、これを抜いた。王世充は、その将魏隠羅へ君廓を攻撃させた。君廓は、偽って逃げ、伏兵に襲撃させて、敵を大いに破った。遂に東進し、管城へ至って、帰った。
 話は前後するが、王世充の将郭士衡と許羅漢が東都の国境で掠奪を行った時、君廓は策を用いてこれを撃退した。すると、ねぎらいの詔が降りた。
「卿は十三人で賊軍一万を破った。この少数でこんな大軍を撃退した例は、古今未曾有である。」
 世充の尉州刺史時徳叡が、指揮下にある巳(「木/巳」)、夏、陳、許、穎(禾ではなく、水)、尉の七州を率いて来降した。秦王世民は、便宜的に、時徳穎へ旧領をそのまま支配させ、手を加えなかった。尉州を南卞(「水/卞」)州と改称する。ここにおいて、河南の郡県は、相継いで来降した。
 劉武周からの降将尋相等が大勢叛去した。だから、諸将は尉遅敬徳を疑い、軍中にて捕らえた。行台左僕射屈突通や尚書殷開山は世民へ言った。
「敬徳は驍勇絶倫の男。今、これを捕らえましたので、彼は心中必ずや怨んでおります。放置したら、後難の種となりかねません。殺した方が宜しゅうございます。」
 世民は言った。
「そうではない。敬徳がもしも叛くのなら、どうして尋相に遅れたりするものか!」
 そして、彼を釈放するように命じ、臥内へ引き入れ、金を賜下して言った。
「丈夫の意気が通いあったのだ。小嫌など意に介さないでくれ。我は、讒言を信じて忠良を害したりなどしない。公はそれを信じてくれ。だが、どうしても去りたいのならば、この金を、今後のたすけとするがよい。一時でも共に力を合わせた時の想いを表したいのだ。」
 辛巳、世民は五百騎を率いて戦地へ行き、魏の宣武帝陵へ登った。王世充は、歩騎一万余を率いて駆けつけてきて、これを包囲した。単雄信が、槊を引いて、世民へ直進してきた。すると、敬徳が馬を踊らせて大声で怒鳴り、横あいから雄信を刺して落馬させた。世充の兵がびびってしりごみしたところを、敬徳は世民を連れて包囲を突破した。
 世民と敬徳は、すぐに騎兵を率いて取って返して戦った。かれらは、世充の陣を縦横に駆け回り、ちっとも足を滞らせない。そこへ後続の屈突通が大軍を率いてやって来たので世充軍は大敗し、王世充は体一つで逃げ出した。冠軍大将軍陳智略を捕らえる。千余の首級を斬り、六千の捕虜を獲た。
 世民は、敬徳へ言った。
「公は、さっそく報いてくれたか!」
 敬徳へ金銀一篋を賜下し、以来、ますます寵遇が厚くなった。
 敬徳は、ショウ(「矛/肖」;武器の一種)をかわすのが巧く、単騎で敵陣へ乗り込むたびに、敵は矛先を並べて突き刺そうとするのだが、遂に傷つけることができなかった。また、敵のショウを奪って、却ってこれで刺したりした。
 斉王元吉は、馬ショウの名手と自負していた。敬徳の能力を聞くと、刃抜きの武器での勝負を申し込んだ。すると、敬徳は言った。
「敬徳は、謹んで刃を去らせていただきますが、王は刃を付けたままで宜しゅうございます。」
 そして試合をしたが、結局元吉は、敬徳を刺すことができなかった。すると、秦王世民が敬徳へ問うた。
「ショウを奪うのと、ショウを避けるのと、どちらが難しい?」
 敬徳は言った。
「奪う方が難しゅうございます。」
 そこで世民は、元吉のショウを奪うように命じた。元吉は、ショウを繰り出し、馬を踊らせて刺すことばかりに必死になったが、敬徳はシュユの間に三度、そのショウを奪った。元吉は、上辺だけは感嘆した顔をしていたが、心中では非常に恥じていた。 

 初め、王世充はヘイ(「丙/里」)元真を滑州行台僕射とした。
 濮州刺史杜才幹はもとは李密の将で、ヘイ元真が李密に叛いたのを恨んでいたので、衆を率いて降伏すると欺いた。元真は、後ろ盾の勢力を恃んで、自ら招慰に出かけた。才幹は出迎えて室へ招き入れ座に就かせてから捕らえ、その罪状を数え上げた。
「魏公は凡庸な汝を幕僚に抜擢した。それなのに汝は毫毛の手柄も建てずに、滔天の禍を犯した。今、殺してやるが、これこそ汝に相応だ!」
 遂に、これを斬る。黎陽へ人を派遣して、その首を李密の墓へそなえて、祭った。
 壬午、濮州を以て来降した。
(「唐紀」へ入ってからは、ただ単に「○州刺史」と記載された場合は、「李淵麾下の○州刺史」を意味すると判断し、これまでそのように翻訳してきました。ところが、ここでは「濮州刺史杜才幹」と記載されているのに、後で李淵に降伏している。多分、これは最初の記述の誤りで、ヘイ元真を殺した時の杜才幹は独立した軍閥だったのではないだろうか。) 

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