王世充、その一
 
 義寧元年(617年)、七月。隋朝廷は、王世充へ江・淮の悍卒を与え、他の将軍達と共に東都の救援へ向かわせた。李密を討伐させる為である。
 九月、王世充、韋斉、王弁、河内通守孟善詛等が、各々軍団を率いて東都に集結した。越王同は虎賁郎将劉長恭等へ留守兵を与え、王世充等と兵を合わせて十万の大軍で李密を迎撃させた。決戦の地は洛口。煬帝は諸軍へ、王世充の指揮で動くよう詔した。
 王世充は夜半に洛水を渡ると黒石に陣取った。その翌日、自ら精鋭を率いて洛北へ向かう。李密はこれを聞いて迎撃したが、大敗した。この戦いで、柴孝和が溺死した。
 李密は精鋭を率いて洛南へ向かったが、他の敗残兵達は、月城へ逃げた。王世充は、これを追撃して包囲する。だが、李密が洛南から黒石を襲撃した。黒石の隋軍は懼れて狼煙を六本も挙げた。それを見て王世充は、狼狽して月城の包囲を解いた。そこへ李密が引き返してきてこれと戦い、大勝利を収めた。三千からの首級を挙げる。
 王世充はこの敗北を喫してから、城へ引きこもって固く守りを固め、戦おうとしなくなった。ところが越王は、使者を派遣して彼を労ったので、王世充は慙愧に耐えず、李密と戦うことを請うた。
 丙辰、両軍は石子河を挟んで布陣した。李密の陣は、南北に十余里。擢譲がまず王世充と戦ったが、戦況不利で退却した。王世充はこれを追う。すると、王伯當と裴仁基が横合いから突撃して、王世充軍を前後に分断した。そこへ李密が攻撃したので、王世充は敗北して逃げ出した。
 やがて、擢譲が李密軍中で浮き上がり、李密は擢譲を斬った。その経緯は「李密」へ記載する。
 もともと、王世充は李密と擢譲の仲が悪くなることを確信しており、二人が戦ってその機会に乗じることを狙っていた。だから擢譲が死んだと聞くと大いに落胆して言った。
「李密がこんなに果断とは。龍となるか蛇となるか予測がつかんぞ!」 

 この年、東都では米が一斗で三銭もした。餓死する者が、全体の二、三割にのぼった。 

 十二月、王世充軍から李密の軍へ降伏する兵卒が出た。李密は、その兵士へ問うた。
「王世充は、軍中で何をしている?」
「この頃、ますます募兵していますし、兵士達へご馳走を振る舞っています。その理由は知りません。」
 李密は、裴仁基へ言った。
「我等は最近、戦っていない。王世充は、食糧が尽きかけ、戦おうにも戦えない。そこで兵を募集して、新月の闇に乗じて倉城を襲撃するつもりだ。早く防戦の準備をしよう。」
 そして、赫孝徳、王伯當、孟譲等へ兵を与えて倉城のそばで待ち受けさせた。
 その夕方、王世充の兵は、果たして襲撃してきた。王世充軍は大敗し、驍将費青奴を斬られた。戦死者や溺死者は千余人を数えた。
 王世充は、屡々李密と戦ったが、勝てなかった。しかし、越王は彼を慰労して使った。王世充が兵力が少ないことを訴えたので、越王は七万の兵を増員してやった。 

 唐の武徳元年(618年)。 王世充は洛陽の兵を得ると、洛北にて李密軍を撃破し、更に進軍した。
 洛水の川岸まで来ると、浮き橋を造って更に進軍するよう命じた。こうして諸軍は浮き橋を造ったが、橋が完成した軍から勝手に進軍し、全軍としての統一的な行動がとれなかった。虎賁郎将王弁は、李密軍の外柵を破った。李密軍は驚愕して壊滅寸前にまで陥ったが王世充はこれを知らず、角笛を鳴らして全軍を撤収した。李密はこれにつけ込んで決死隊を突撃させ、王世充軍は大敗した。兵卒達は浮き橋で先を争い、一万余人が溺死した。王弁は戦死。王世充も体一つで逃げ出した。洛北の諸軍も皆、壊滅した。
 王世充は、敢えて東都へは入らず、北方の河陽へ向かって逃げた。この夜は疾風が吹き荒び、雨は冷たく、路上で凍死する兵卒が一万を数えた。王世充が河陽へ入った時、その兵力は数千人だった。王世充は自ら牢獄へ入って罪を請うたが、越王は使者を派遣してこれを赦し、東都へ召し出して金帛や美女を賜下して、彼を安堵させた。王世充が敗残兵を呼び集めると、一万余人を得たので、含嘉城へ屯営したが、敢えて出撃しようとはしなかった。
 李密は、勝ちに乗じて金庸城を占領した。その城門や建物などを補修して、ここへ住んだ。鉦や軍鼓の音は、東都まで聞こえる。李密軍の兵力は、すぐに三十万を超えた。そこで李密は北亡へ陣を布き、上春門へ迫った。
 乙丑、金紫光禄大夫段達と民部尚書韋津が出兵してこれを防いだ。しかし段達は、李密軍が大軍なのを見て、先に逃げ帰ってしまった。李密はこれに乗じて攻撃したので、隋軍は壊滅し、韋津は戦死した。
 ここにおいて偃師、柏谷及び河陽校尉独孤武都、検校河内郡丞柳変、職方郎柳続などが手勢を率いて李密へ降伏した。竇建徳や朱粲などが李密へ帰順し、その威名が轟いた。 

 四月、唐王の軍が東都へ攻めてきた。段達が戦い、敗北。四千人からの使者を出す。唐軍は、二郡を奪って長安へ引き返した。詳細は「李淵」へ記載する。
 この頃、越王の命令は、東都城内だけにしか通用しなかった。人々の心も越王を離れ、朝議郎段世弘等は、唐軍へ内応しようとしたが、彼等がすぐに引き返したので、李密と内通しようとした。しかし、事前に計画が洩れて、段世弘等は誅殺された。
 この時、李密は既に軍を動かしていたが、すでに段世弘が鎮圧されたことを知り、引き返した。 

 五月、煬帝の訃報が東都へ届いた。
 戊辰、留守官は越王を奉じて即位させた。(彼のことを、資治通鑑では「皇泰主」と表記している。これに先だって、長安では李淵が禅譲を受けて皇帝となったので、既に隋は滅亡したと解釈しているのだろう。)大赦を降だし、皇泰と改元する。煬帝を明皇帝と諡し、廟号を世祖と定める。越王の父親の元徳太子を成皇帝と追尊し、彼の廟号を世宗とした。
 段達と王世充を納言、元文都と廬楚を内史令、皇甫無逸を兵部尚書とする。郭文懿が内史侍郎、趙長文が黄門侍郎。政務は、この七人が掌握し、人々は「七貴」と呼んだ。
 皇泰主は絵に描いたような美男子で、性格は温厚仁愛。その上、儼然とした風格があった。 

 六月、宇文化及が西進していると聞き、東都は上下大騒ぎとなった。
 蓋宗とゆう者が、李密と同盟を結んで宇文化及と戦うよう、上疏した。元文都が廬楚等へ言った。
「今、主君の仇を討ちたいが、兵力が足りない。もし李密の罪を赦して宇文化及と戦わせれば、我等は漁夫の利を得ることができる。宇文化及を撃破すれば、李密だって無傷ではいられまい。また、彼等の将兵へ我等が恩賞を与えれば、李密軍の上下が離間するだろう。いずれは李密も擒にできるぞ。」
 廬楚等も同意した。蓋宗を通散騎常侍に抜擢し、敕書を李密へ賜った。
 東都から特赦の使者として蓋宗がやって来ると、李密は大喜びで東都への帰順を請い、宇文化及の討伐で今までの大罪を贖いたいと申し出た。そしてまずは、捕らえていた雄武郎将于洪建を皇泰主へ引き渡し、併せて元帥府記室参軍李倹と上開府徐師誉を使者として派遣した。
 皇泰主は于洪建を公開処刑した。元文都等は、李密の降伏を真実と理解し、賓館を建てて李倹等をもてなした。皇泰主は、李倹を司農卿、徐師誉を尚書右丞として、多くの玉帛を賜下した。李密へは、太尉・尚書令・東南道大行台行軍元帥・魏国公の称号を与え、まず宇文化及を平定してから朝廷へ入り朝政を補佐するよう命じた。徐世勣を右武候大将軍とする。
 元文都は、李密と和解できたことを喜び、天下はすぐにでも平定できるかのように吹聴し、上東門にて酒宴を開いた。この宴席では、段達等が自ら舞を舞った。だが、王世充は癇に耐えぬ面もちで起居侍郎崔長文へ言った。
「賊徒へ朝廷の官職を与えるなど、一体何を考えているのだ!」
 元文都等は、王世充が宇文化及へ内通するのではないかと疑い、こうして彼等の間に隙ができた。しかし、まだ両者とも上辺は取り繕っていた。
 七月、皇泰主は李密のもとへ使者を派遣し、書を賜下した。
「これまでのことは水に流す。これ以後は一体となろう。七政の重は公に補弼して貰おう。九伐の利は公へ指揮を委ねよう。」
 使者が到着すると、李密は北面して詔書を受け取った。こうして李密は西の東都を考慮することなく、東の宇文化及へ全力を挙げることができた。
 李密は、宇文化及と戦って勝つたびに、その戦果を皇泰主へ報告した。隋の人々は皆悦んだが、王世充は言った。
「元文都などは文官だ。我の見るところ、結局我等は李密の擒になってしまうぞ。我が軍の兵士は、何度も李密軍と戦ってきた。親兄弟を我等に殺された兵卒達も、奴等の軍中には大勢居る。我等が奴等の部下になって見ろ、皆殺しにされてしまうぞ。」
 彼はこう言って、部下の将兵達を焚き付けたのだ。
 元文都は、これを聞いて大いに懼れ廬楚羅とともに、王世充が入朝する時を見計らって伏兵に斬り殺させようと企んだ。ところが、段達は臆病者で、計画の失敗を畏れ、遂に王世充へ密告してしまった。王世充は兵を率いて含嘉門を襲撃した。
 変を聞いた元文都は、皇泰主を奉って乾陽殿へ立て籠もり、兵を配置して諸将へ門を閉じて守るよう命じた。
 将軍跋野綱は、兵を率いて出て、王世充に遭うと馬から下りてその軍門へ降った。将軍費曜と田闍は門の外で戦ったが、押され気味だった。
 元文都は自ら兵を率いて玄武門から出て敵の背後へ回り込もうとしたが、長秋監の段瑜が、「門の鍵が見つからない。」と言い訳して暫く押しとどめた。明け方近くなり、元文都は、今度は太陽門から迎撃に出ようとしたが、乾陽殿まで戻ってきたときには、王世充軍は既に太陽門から突入していた。
 皇甫無逸は、母や妻子を棄てて、長安へ逃げ出した。李淵は、彼を刑部尚書にした。廬楚は太官署に隠れていたが、王世充の一味に見つかり、王世充のもとへ引き出された。王世充は、これを斬り殺させた。
 王世充軍は、更に進んで紫微門を攻撃した。すると、皇泰主の使者がやってきて言った。
「何を求めて兵を挙げたのだ?」
 すると、王世充は下馬し、拝謝して言った。
「元文都と廬楚が、臣を殺そうとしたのです。元文都を殺してくだされば、甘んじて刑典に従いましょう。」
 段達は、将軍黄桃樹に元文都を捕らえさせた。元文都は皇泰主を顧みて言った。
「臣が朝死ねば、夕暮れには陛下へ及びますぞ。」
 皇泰主は慟哭して彼を賊徒へ引き渡した。元文都も廬楚も切り刻まれ、二人の諸子も皆殺しにされた。
 段達は、皇泰主の命令と言って、門を開いて王世充を招き入れた。王世充は宿衞の兵を先に入れ、その後から入って行き、乾陽殿にて皇泰主に謁見した。
 皇泰主は王世充へ言った。
「大臣を勝手に誅殺して奏聞さえしない。それが臣下の道だろうか。卿は武力をひけらかし、我へも及ぼすつもりか!」
 王世充は平伏して、涙を零して言った。
「臣は先帝から抜擢していただきました。その御恩には、身を粉にしても報いられません。元文都こそ、叛心を覆い隠し、李密を引き入れて社稷を傾けようとしていたのです。臣とは意見が違いましたので、深く忌み嫌っていました。そして臣を殺そうとの計画は実行寸前まで言っており、上奏する暇さえなかったのです。もしも臣に二心があり、陛下へ背こうとしたのなら、天地の神が照覧し、きっと我が一族を皆殺しとしてしまうでしょう。」
 王世充は涙で濡れそぼっており、皇泰主もこれを誠と思い、昇殿させて共に語った。ここにおいて、王世充を左僕射、総督内外諸軍事とする。この日のうちに郭文懿と趙長文を捕らえて殺す。その後、城を巡回して彼等を誅殺した経緯を告諭した。
 王世充は、含嘉城から尚書省へ引っ越した。以来、彼の権力は増大し、専横を極め始める。皇泰主は、ただ手を拱いているだけだった。
 東都では、餓えが続き、密造銭が横行した。それらの銭は質が悪く、大半は錫などが交ざっており、紙のように薄かった。だから、米一斛が八、九万銭もした。
 八月、切羽詰まった王世充は、死力を尽くして一大決戦を挑んだ。この時李密は王世充を侮っており、大敗北を喫した。その詳細は「李密」へ記載する。
 この一戦で、李密政権は壊滅し、李密は李淵を頼って逃げた。李密の将帥や州県の大半は、隋へ投降してしまった。朱粲もまた、隋へ降伏の使者を派遣した。皇泰主は、朱粲を楚王に封じた。
 十月、王世充は美人や珍宝及び将兵十余万を手にして東都へ戻り、闕下へ整列した。
 乙酉、皇泰主は大赦を下す。
 丙戌、王世充を太尉、尚書令、内外諸軍事に任命し、太尉府を開かせ官属を設置させた。その人選は王世充へ一任する。
 王世充は、裴仁基親子が驍勇だとして、これを礼遇した。
 徐文遠もまた、東都へ入った。彼は李密と王世充の師匠で、それまで李密のもとにいた。その頃は李密から礼遇されて師匠として接していたが、東都へ来てからは、王世充へ会う度に、自ら先に拝礼した。ある者が言った。
「君は李密へ対しては傲慢に接していたが、王世充へは恭謙だ。なぜかな?」
 すると、徐文遠は言った。
「魏公は君子で、賢士を容れることができた。だが、王公は小人だ。古馴染みでも殺せる。だから我は拝礼しなければならないのだ!」 

 十二月、王世充は三万の兵で穀州を包囲したが、刺史の任壊が撃退した。
 二年、正月。隋の将軍王隆が、屯衞将軍張鎮周、都水少監蘇世長等と共に、山南の兵を率いて東都へやって来た。 

 王世充は、隋朝廷の高官や名士達を、ことごとく太尉府の官属とした。これには、杜淹と戴冑が関与していた。王世充は、朝政を専断し、大小に関わらず、全て太尉府にて決裁し、台府の省監署は閑古鳥が鳴いていた。
 王世充が、太尉府の門外へ三つの牌を立てた。一つは、現状の政務を執れるような文学才識のある者を求めていた。もう一つは、敵を撃退できるような武勇知略のある者を求めていた。最後の一つは、冤罪で苦しんでいるがどこにも訴え出ようのない者を求めていた。おかげで、毎日数百の上書が出た。王世充はその全てと謁見し、自ら丁寧に尉諭したので、人々は皆、喜んだ。しかし、ここで献策されたことは、ついに一つとして実践されなかった。王世充は、下は兵卒の端役へ至るまで、甘言で悦ばせたけれども、実際に恩を施すことはなかった。 

 隋の馬軍総管独孤武都が王世充から親任されていた。彼の従兄弟の司隷大夫独孤機は虞部郎楊恭慎、渤海郡主簿孫師孝、歩兵総管劉孝元、李倹、崔孝仁等と共に唐の軍隊を引き入れようと計画していた。独孤機は、独孤武都を計画に引き入れようと、崔孝仁に独孤武都を説得させた。
 崔孝仁は言った。
「王公は、子供だましのやり方で下愚を悦ばせているが、その性格は偏狭で貪欲残忍、その上、親戚や古馴染みを蔑ろにしている。これでどうして大業が為せようか!図讖も、李氏が天下を取ると予言していることは、誰でも言っている。唐は晋陽にて起兵したのに、既に関内を占拠しており、兵を留めて動かないのに英雄達が次々と帰順している。李淵は、善を挙げ功を賞し旧悪を根に持たず、最強の土地に據って天下を争っている。誰がこれに勝てようか!我等は枯れ木に身を託した。一族全滅を座して待つのか。今、任管公の軍が新安付近にいるが、彼は私の古馴染みだ。使者を派遣して夜襲を掛けさせ、我等は内応して城門を開く。こうすれば、成功間違いない。」
 独孤武都はこれに従った。
 しかし、事前にばれてしまい、王世充は、彼等一味を皆殺しにした。 

 王世充は、元文都や廬楚を殺した当初は、人々が自分に懐かないことを慮って、皇泰主は祭り上げており、非常に謙って接していた。だが、やがて次第に傲慢になっていった。
 ある時、禁中で食を賜った時、家へ帰って嘔吐したことがあった。王世充は、毒を仕込まれたかと疑い、それ以来朝廷へ出向かなくなった。
 皇泰主は、いずれ王世充が簒奪することを予期していたが、制圧するような兵力を持たなかった。ただ、内庫から宝物を取り出しては僧や窮乏した民へ施して福を求めるばかりだった。すると王世充は、部下の張績と董濬に、章善と顕福の二門を守らせた。以来、宮内の雑物は、何一つ持ち出せなくなった。
 この月、王世充へ印と剣を献上する者が居た。もちろん、王世充が裏で手を回して献上させたのである。また、黄河の水が澄んだと吹聴された。いずれも簒奪する為に、瑞兆をでっち上げていたのだ。 

 二月、王世充は唐の穀州を攻撃した。秦叔寶を龍驤将軍、程知節を将軍とし、彼等を大切に扱ったが、二人は王世充が偽りの多い人間なのを嫌った。そこで、程知節が秦叔寶へ言った。
「王公は器量が狭く、妄語が多い。好んで呪いの言葉を吐くが、これではまるでまじない婆ではないか。この乱世を切り開ける主君ではないぞ!」
 王世充は九曲で唐軍と戦った。秦叔寶と程知節は、兵を率いて前列にいたが、彼等は数十騎を率いて西へ駆けると、下馬して王世充へ拝礼し、言った。
「我等は公から厚い恩顧を蒙り感謝しておりました。しかし、公は猜疑心が強く讒言を喜びます。僕等が一身を託せるお方ではありません。仰ぎ仕えることができませんので、今、おいとまいたします。」
 そして、馬を踊らせて唐へ降伏した。王世充は、敢えて追撃しなかった。
 唐の高祖は、彼等を李世民へ預けた。李世民は、元々彼等の名声を聞いていたので厚く礼遇し、秦叔寶を馬車総管、程知節を左三統軍に抜擢した。
 また、王世充もとでは驃騎の李君羨や征南将軍田留安が驍将だったが、彼等も王世充の為人を嫌って唐へ降伏した。李世民は、田君羨を左右へ置き、田留安を右四統軍とした。 

 王世充が、獲嘉に、李厚徳を捕らえていた。しかし、李厚徳は、守将の趙君穎と共に殷州刺史段大師を追い出し、城ごと唐へ降伏した。高祖は、李厚徳を殷州刺史とした。
 李厚徳の弟の李育徳は、唐の陟州刺史である。癸亥、李育徳は王世充を攻撃し、河内の堡を三十一攻め落とした。
 乙丑、王世充は、兄の子の王君廓に陟州を攻撃させたが、李育徳はこれを撃退し、千余の首級を挙げた。
 そんな中、李厚徳の親が病気になり、彼は故郷に帰ったが、その時、李育徳に獲嘉を守らせた。王世充は、これを攻撃し、丁卯、城は落ちた。李育徳と三人の弟は、全員戦死した。 

 三月、王世充は穀州を攻撃した。刺史の史萬寶が応戦したが、戦況不利だった。 

  

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