王林(「王/林」)の乱
 
状況 

 北斉が梁を攻撃したので、梁の主力部隊を率いる王僧弁と陳覇先が、江北へ釘付けとなってしまった。北魏はそれを見計らい、梁へ来寇した。
 北魏軍は、梁の元帝を攻撃し、これを殺すと、傀儡政権を樹立した。これが後梁である。
 王林(「王/林」)は、挙兵して、北魏へ対抗していたが、ここに及んでも節を曲げず、後梁へ対して抵抗を続けていた。
 その間に、陳覇先は王僧弁を粛清し、梁を簒奪して陳を建国した。
 王林は、これへ対して徴召へ応じず、造反の形を示した。(4〜7参照) 

  

王林討伐 

 永定元年(557年)、王林は既に徴召へ応じず、造反の形を示していた。彼は、多数の舟艦を造って、陳覇先を攻撃しようとした。
 六月、陳覇先は、開府儀同三司侯安都を西道都督、周文育を南道都督に任命し、水軍二万で武昌を攻撃させた。
 十月、侯安都が武昌へ進軍した。王林麾下の将軍樊猛は、城を棄てて逃げる。周文育が、豫章から、侯安都軍へ合流した。
 この時、陳覇先が即位したとの報告を受け、侯安は嘆いて言った。
「我等は負けた。この戦争の大義名分がなくなったではないか!」
 官軍は、二人の将軍が共に行軍することになったが、どちらが主導権を執るかでもめ、遂には同士討ちまで起こってしまった。
 陳軍が郢州まで進軍すると、王林の将潘純陀が遙か城中から官軍を射たので、侯安都は怒り、進軍して城を包囲した。しかし、勝てないでいるうちに王林が到着したので、侯安都は郢州の包囲を解いて撤退した。だが、逆風が吹いて、なかなか進めない。王林軍が追いついて、両軍は交戦したが、侯安都等は大敗した。侯安都、周文育及び裨将の徐敬成、周鉄虎、程霊洗等が、皆、王林に捕らえられた。
 王林は、湘軍を郢州へ移動させた。又、樊猛が江州を襲撃し、占領した。
 十一月、焦奄が王林軍へ合流しようと、蜀江から東下した。その兵力は水軍七千だったが、軍人の他、老弱三万人を率いていた。すると、北周の開府儀同三司賀若敦と叱羅暉等がこれを襲撃した。焦奄は斬られ、麾下の民は全て捕虜となった。 

 二年、正月。王林は退却して白水浦を確保した。その兵力は、武装兵十万。そして、北江州刺史の魯悉達を籠絡しようと、鎮北将軍に任命した。
 武帝も又、魯悉達を籠絡しようと、征西将軍に任命した。
 王林も武帝も、共に魯悉達へ美女や楽団を賜下した。魯悉達は、洞ヶ峠を決め込み、両方とも受け取った上、去就を明示しなかった。そこで武帝は安西将軍沈泰に魯悉達を攻撃させたが、勝てなかった。
 沈泰は、侯安都の時と連続の敗戦。処刑されることを懼れて、北斉へ出奔した。
 王林は東下したがったが、魯悉達が川の中流をガッチリ握っている。そこで使者を派遣して取り込もうとしたが、失敗した。
 己亥、王林は北斉へ使者を派遣して救援を求めると共に、捕らえている梁の永嘉王荘を下向させるよう請うた。彼を盟主に仰ぐ為である。 

  

周迪 

 衡州刺史周迪は、南川で自立しようと企て、麾下の八郡の守宰と同盟を結び、北斉の庇護下に入ろうとした。陳の武帝は、変事が起こることを恐れ、これを厚く慰撫した。
 新呉洞主の余孝頃が、沙門の道林を派遣して、王林を説得した。
「周迪も黄法爽も陳覇先の手下に成り下がり、貴公の隙を窺っています。もしも陳覇先が大軍を率いて来れば、奴等は必ずや後顧の憂いとなります。ここは、まず南川を平定し、その後に東下するべきです。余孝頃が先鋒となりましょう。」
 そこで王林は、軽車将軍樊猛、平南将軍李孝欽、平東将軍劉廣徳へ八千の兵を与えて派遣した。
 余孝頃は彼等を率い、臨川へ陣を布き、周迪へ兵糧を差し出すよう命じた。そうやって、相手の出方をうかがったのだ。
 五月。余孝頃は二万の兵力で工塘へ屯営し、八城を連ねて周迪へ迫った。周迪は懼れて兵糧を渡した。
 樊猛は、これを受け入れようとしたが、余孝頃は周迪の領土を奪おうとして、講和を却下。柵を作って、周迪を包囲した。これ以来、樊猛と余孝頃に不協和音が生じた。
 六月、黄法爽と呉興太守沈恪、寧州刺史周敷が兵を合わせ、周迪救援に向かった。
 周敷が余孝頃の別城を攻撃したが、樊猛はこれを救援せず、城は落ちた。この時、劉廣徳は流れに乗って真っ先に川を下ったので、全軍無事に脱出できた。余孝頃等は舟を棄てて逃げだしたが、周迪等に追撃され、捕らえられた。
 周迪等は、余孝頃と李孝欽を建康へ送り、樊猛は王林のもとへ帰した。 

  

永嘉王荘 

 二年、三月。北斉は援軍と共に、永嘉王荘を江南へ送り込んだ。王林を、梁の丞相、都督中外諸軍、録尚書事とした。
 王林は甥の王叔寶に麾下の十州の刺史達の子弟を率いさせて、業へ派遣した。そして王林自身は永嘉王荘を梁皇帝に奉じ、天啓と改元した。建安公淵明を閔皇帝と追諡する。
 永嘉王は、王林を侍中、大将軍、中書監に任命したが、それ以外は全て北斉の命令に従った。 

 四月、陳の武帝は梁の敬帝を殺害し、梁の武林侯諮の子息の季卿を江陰王とした。
 五月、北斉の廣陵南城主張顕和と、長史の張僧那が手勢を率いて陳へ降伏した。
 六月、武帝は司空の侯真と領軍将軍徐度へ水軍を与え、王林討伐を命じた。しかし、戦闘に先立って吏部尚書謝哲を派遣して、王林を説得した。
 八月、周文育、侯安都、徐敬成が元の官位へ復帰した。(彼等は敗戦したとはいえ、当時の名将だった。王林がまだ平定できていないこともあり、彼等を罰しても害の法が大きいと判断したのだ。)翌月、周文育は、余孝頃の残党掃討を命じられた。
 三年、周文育は、戦死した。そこで侯安都が派遣された。侯安都は、余孝頃の残党を平定した。 

 王林の主力兵は東へ行ったきりだった。後梁はその隙を衝いて、大将軍王操を派遣し、長沙、武陵、南平を攻略した。 

  

一進一退 

 三年、王林は桂州刺史淳于量を呼び寄せた。淳于量は、王林と同盟を結んでいたが、その実、陳の武帝に内通していた。
 二月、武帝は、淳于量を開府儀同三司とした。
 同月、侯真が斉の水軍を、合肥にて焼き払った。 

 五月、魯悉達の部将梅天養が、北斉軍を城へ引き入れた。魯悉達は、麾下の数千人を率いて揚子江を渡り、建康へ戻った。
 武帝は、魯悉達を平南将軍、北江州刺史とする。 

  

武帝崩御 

 六月、武帝は病気になり、崩御した。享年五十七。(今まで、病気などの記述はなかったのに、いきなり死んでしまった。創造の君主にしては、何ともあっけない限りだ。)
 武帝は、戦争では英謀で独断だったが、政治は寛大、戦時などの急務でなければ臨時の税を掛けなかった。性格は倹素。食膳は常に数品しか揃えなかった。日用品も後宮も煌びやかに飾ったりはせず、女色や音楽の楽しみにも耽らなかった。
 この時、皇太子の昌は、北周に捕らえられて長安にいた。国内には男児がいない。又、外に斉・周の脅威があったので、宿将達は全て国境近辺へ出払っており、朝廷には重臣はいなかった。ただ、中領軍の杜稜が衛兵を率いて建康に在住していた。そこで章皇后は、杜稜と中書侍郎蔡景歴を禁中へ呼び寄せて今後のことを協議した。その結果、喪は秘して発せず、南皖の臨川王菁(本当は、青の左側にイが必要。)を急いで呼び寄せることにした。
 さて、侯安都が軍を率いて建康へ帰っている途中、たまたま南皖を通りがかったので、臨川王は、彼と一緒に上京した。
 臨川王が建康へ着くと、二代目皇帝に即位するよう言われた。臨川王は謙譲して引き受けない。臨川王が辞退するので、群臣も迷い始めた。すると、侯安都が言った。
「今、四方は平定していないのに、どうして他の皇族を遠方から呼び寄せる暇があろうか!それに、臨川王には大功ーがある。(王僧弁を殺した後、杜龕、張彪等を平定した。)彼を立てるべきだ。二の足踏む者は斬る!」
 そして、剣を持ったまま上殿し、皇后へ璽を出すよう願った。
 この日、臨川王は即位する。これが文帝である。
 皇后は皇太后となり、侯真が太尉、侯安都が司空となる。 

  

喪につけ込んで 

 武帝崩御を知った王林は、少府卿孫場を郢州刺史として全てを任せ、自身は梁の永嘉王を奉じて出兵した。北斉の揚州行台慕容儼が、部下を率いて揚子江まで出張り、声援した。
 十一月、王林は大雷を襲撃する。
 侯真と侯安都及び儀同徐度が、防戦した。
 安州刺史呉明徹が、盆城へ夜襲を掛けた。王林は、巴陵太守任忠へ、これを撃破させる。呉明徹は、体一つで逃げ出した。だが、王林も兵を引いて東へ戻った。 

  

後門の狼 

 文帝の天嘉元年(560年)、二月。高州刺史紀機が王林へ呼応した。しかし、ケイ令賀當遷が、これを討って平定する。
 王林は柵口へ進んだ。侯真は諸軍を督して蕪湖へ屯営し、対峙したまま百余日が過ぎた。 そのうちに、春水のせいで東関の水位が次第に上がって行き、船艦の進行が自由になった。そこで王林は合肥の軍勢を引き入れた。多くの軍艦が次々とやって来て、王林軍は勢力が盛大になった。
 王林軍が東下したと聞いた来た北周は、都督五十二州諸軍事、荊州刺史史寧へ数万の兵を与えて、郢州を襲撃させた。孫場は城門を閉じて守った。これを知った王林は、部下達が逃げ帰ることを恐れ、水軍を更に東進させた。
 北斉の儀同三司劉伯球は、万余の兵を率いて王林の救援に駆けつけた。行台慕容恃徳の子息の子會が鉄騎二千を率いて蕪湖の西岸へ屯営し、声援となった。
 丙申、西南の風が強く吹いた。王林は、天佑と言って、兵を率いて建康へ急行した。侯真等はその後を追う。西南の風は、彼等の追撃の助けにもなった。
 王林は、侯真軍へ対して、火を擲った。だが、その火は却って自軍を焼いてしまった。これに乗じて、侯真軍は攻撃を掛けた。その舟は、牛皮で覆われている。
 王林軍は大敗した。風上の敵へ火攻を使ったのが敗因である。全兵力の二・三割は溺死し、残りは舟を棄てて岸へ登ったが、大半は陳軍の為に殺されてしまった。
 北斉の歩兵軍が西岸にいたが、皆、泡を食って逃げまどい、泥沼の中へ落ち込んでしまった。騎兵は、軍馬を棄てて逃げる。どうにか逃げ延びた兵卒は、二・三割に過ぎなかった。
 陳軍は、劉伯球と慕容子會を捕らえた。殺戮、捕獲した斉兵は万余を数える。そして、梁・斉軍の器械兵糧を悉く奪う。
 王林は辛くも遁走して、盆城へ逃げ込んだ。ここで敗残兵を呼び集めようとしたが、集まってくる者はいなかった。遂に、妻子と共に北斉へ逃げる。
 ところで王林は、侍中袁泌と御史中丞劉仲威に、永嘉王荘の侍衛を命じていた。王林が敗北すると、左右の人間は皆逃げ散ってしまった。袁泌は、軽舟で永嘉王を北斉との国境まで送ると、自身は陳へ降伏した。劉仲威は永嘉王を奉じて北斉へ亡命した。
 樊猛と、その兄の樊毅は、陳へ降伏した。 

 侯真は都督湘、巴等五州諸軍事となり、盆城の鎮守を命じられた。 

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