乞伏、金城に據る。

 

隴右鮮卑

 隴右の鮮卑乞伏述延が、苑川へ移住し、近隣を侵略・併合しながら勢力を拡大していった。
 趙が滅亡すると、述延は懼れ、麦田へ移住した。
 述延が死ぬと、子の辱(「人/辱」)大寒が立った。
 晋の成帝の咸和四年(329年)。辱大寒が死に、子の司繁が立った。

 

乞伏司繁

 簡文帝の咸安元年、(371年)。前秦の益州刺史王統が、乞伏司繁を攻撃した。司繁は三万の兵を率い、苑川にて防御した。
 王統は、密かに兵を動かして敵の本拠地の度堅山を襲撃した。司繁の部落五万余世帯は、皆、王統へ降伏した。妻子が降伏したと聞き、司繁の兵卒達は戦わずに壊滅した。
 司繁は逃げるあてもなく、とうとう、王統へ降伏した。苻堅は彼を南単于とし、長安へ留めた。又、司繁の一族の吐雷を勇士県の護軍とし、乞伏部を慰撫した。

 武帝の寧康元年(373年)。鮮卑族の勃寒が隴右で略奪して回った。苻堅は、乞伏司繁に討伐させ、勃寒は降伏した。この功績で、乞伏司繁は勇士川の鎮守を命じられた。
 太元元年(376年)、乞伏司繁が死に、子の乞伏国仁が立った。

 

国仁、決起す。

 八年、苻堅は大軍を以て東晋を攻撃した。この時、乞伏国仁は前将軍として従軍した。
 ところが、国仁が不在の間に、隴右にて叔父の乞伏歩頽が造反した。苻堅は、この鎮圧の為に、国仁を国元へ返した。
 これを聞いて、乞伏歩頽は大喜びし、国仁を路上まで出迎えた。国仁は歩頽と酒を酌み交わし、大言した。
「苻堅は戦いすぎた。民は疲れ、兵卒は驕慢。これは、国が滅びる前兆だ。我は、諸君等と共に建国の大業を成し遂げたい。」
 泓水にて苻堅が大敗すると、国仁は近隣の諸部族を脅しつけた。服従しないものは討伐して勢力を拡大し、やがて十余万の兵卒を得た。
 十年、九月。乞伏国仁は「大都督、大将軍、単于、領秦・河二州牧」と自称し、建義と改元する。左相、右相、左輔、右輔を置き、弟の乞伏乾帰を上将軍とし、全土を十二郡に分けた。勇士城を築いて、ここを都とする。

 

勢力拡大。

 十一年。正月、南安の秘宜が、きょう、胡の兵卒五万余を率いて乞伏国仁を攻撃した。国仁は五千の兵力で迎撃し、これを大破する。秘宜は南安へ逃げ帰った。
 七月、秘宜と、莫侯悌眷が三万余戸を率いて国仁へ降伏した。国仁は、秘宜を東秦州刺史に、悌眷を梁州刺史に、それぞれ任命した。
 十二年、三月。前秦の苻登は、乞伏国仁へ大将軍・大単于・苑川王の称号を与えた。
 六月、乞伏国仁は騎兵三万を率いて鮮卑の大人密貴、裕苟、提倫の三部を襲撃した。七月、乞伏国仁軍は没奕干、金煕と戦って大勝し、三部は全て降伏した。
 十三年、四月。乞伏国仁が平襄にて、鮮卑の越質叱黎を撃破。その妻子を捕らえて帰国した。

 

乞伏乾帰の継承

 六月、乞伏国仁卒す。諡は宣烈、廟号は烈祖。
 子息の公府は未だ幼かったので、大臣達は弟の乞伏乾帰を推戴し、大都督・大将軍・大単于・河南王とした。大赦を下し、太初と改元する。
 七月、乾帰は妃の辺氏を皇后に立て、百官を設置し、漢の制度を模倣した。人事は、以下の通り。
 南川侯出連乞都が丞相。梁州刺史悌眷が御史大夫。金城の辺内が左長史。東秦州刺史秘宜が右長史。武始の擢勍が左司馬。略陽王松寿が主簿。従弟の軻弾が梁州牧。弟の益州が秦州牧。屈眷が河州牧。
 九月、金城へ遷都した。
 十四年、苻登は乞伏乾帰を大将軍・大単于・金城王とした。
 五月、乞伏乾帰は侯年部を襲撃して大いに破った。ここに於いて、秦・涼の鮮卑、きょう、胡が大勢彼に帰順した。乞伏乾帰は彼等へ悉く官爵を授けた。
 十一月、枹罕きょうの彭渓念が乞伏乾帰へ帰属した。乞伏乾帰は、渓念を北河州刺史とした。
 十五年、十二月。越質詰帰が平襄に據って乞伏乾帰に背いた。十六年、正月。乞伏乾帰は越質詰帰を攻撃し、越質詰帰は降伏。乞伏乾帰は、彼に宗族の娘を娶せた。
 十八年、乞伏乾帰は息子の熾磐を太子に立てた。熾磐は、勇略明決、父親以上だった。

 

前秦の滅亡(付、西秦建国)

 十九年、後秦の姚萇が死んだ。前秦の苻登は大いに喜び、大赦を下す。金城王乞伏乾帰を「左丞相、河南王、領秦・梁・益・涼・沙五州牧」とし、九錫を加えた。
 五月、苻登は姚興に大敗し、切羽詰まって平涼へ逃げ、敗残兵をかき集めて馬毛山へ入った。

 六月、苻登は、太子の祟を人質として乞伏乾帰の許へ派遣し、救援を乞うた。又、乞伏乾帰を梁王へ進封し、妹を娶らせた。乞伏乾帰は、弟の乞伏益州へ一万の兵を与えて救援に派遣した。
 七月、苻登は乞伏の援軍を出迎えに出たところを後秦に襲撃されて、敗北。姚興は、苻登を殺した。これを聞き、乞伏益州は引き返した。前秦太子の祟は、即位した。
 十月、前秦主の祟は、乞伏乾帰から放逐され、隴西王楊定のもとへ逃げ込んだ。楊定は二万の兵を率いて苻祟と共に乞伏乾帰を攻撃した。
 乾帰は軻弾、益州、詰帰等に三万の兵を派遣して防御させた。益州が楊定と戦って敗れ、軻弾と詰帰は戦わずに退却した。すると、軻弾の司馬の擢温が剣を振りかざして怒った。
「主上は雄武を以て国を築き、向かうところ敵なくして秦、蜀に武威を振るった。将軍は宗室の一員にして、職務は元帥。力つき命を落とすまで国家の為に戦うべきです。今、益州が敗れたとはいえ、二軍は健在。それでいて退却するのでは、何の面目あって主上にまみえられましょうか!」
 軻弾は陳謝して言った。
「部下の心根が判らなかったのだ。お前のような人間ばかりなら、吾も死を愛してみせるぞ!」
 とど、騎兵を率いて戦った。すると、益州と詰帰も兵卒を激励してこれに続き、楊定の軍を大いに破った。楊定と苻崇を斬り、一万七千の首級を挙げた。
 かくして、乾帰は隴西を平定した。
 十一月、乾帰は自ら秦王を名乗った。大赦を下す。
 二十年、正月。乾帰は太子の熾磐を領尚書令とし、辺内を左僕射、秘宜を右僕射とし、魏の武帝や晋の文帝の故事に倣って官職を設置した。しかしながら、大単于・大将軍の称号は取り下げなかった。
 六月、西城へ遷都する。
 二十一年、越質詰帰が二万戸を率いて西秦へ背き、後秦へ降伏した。

 

後涼の来襲

 安帝の隆安元年(397年)。乾帰が反復常無いとして、後涼王呂光が討伐軍を起こした。乾帰の群下は東方の成紀へ避難するよう提案したが、乾帰は言った。
「戦争の勝敗を決めるのは、作戦の巧拙だ。兵力の多寡ではない。呂光の兵は大軍だが、軍規が行き届いていない。弟の呂延は勇敢なだけの無謀者。懼れるに足らんぞ。それに、奴等の精鋭は呂延が率いている。この軍を撃破すれば、呂光は逃げる。」
 呂光軍は長最に陣を布き、太原公簒へ三万の兵を与えて金城を攻撃させた。乞伏乾帰は二万の兵を率いて救援に駆けつけたが、到着する前に、金城は陥落した。
 呂光は、又、梁恭等へ一万の武装兵を与え、陽武下峽へ派遣し、没奕干と共にその東を攻撃させた。呂延には、枹罕の兵を与えて、臨兆、武始、河関と攻撃させ、全て攻略した。
 乾帰は、反間を使って、呂延へ伝えた。
「乾帰の軍は散り散りとなり、奴は成紀へ逃げました。」
 そこで、呂延は軽騎を率いて追撃しようとしたが、司馬の耿稚が言った。
「乾帰の勇略はズバ抜けています。何でその軍が壊滅しましょうか!それに、奴等が楊定や王廣を撃破した時も、敗残兵を装って敵を誘い込んだではありませんか。今、この報告を行った者は、すべてその表情がオドオドとしており、落ち着きがありません。これは罠です。ここは整然と軍を整えて前進し、諸軍が結集するのを待ってから敵を攻撃するべきです。そうすれば、必ず勝てます。」
 だが、呂延は聞かず、軽騎だけで追撃した。乾帰はこれと戦い、呂延を殺した。耿稚と将軍の姜顕は、敗残兵をかき集めて枹罕まで撤退した。呂光もまた、姑藏まで撤退した。
 六月、乾帰は擢温を興晋太守に任命し、枹罕を鎮守させた。
 三年、丞相の出連乞都が死んだ。十月、金城太守の辛静を右丞相に任命した。
 四年、苑川へ遷都する。

 

後秦の来襲

 五月、後秦の征西大将軍隴西公碩徳が、五千の兵を率いて西秦を攻撃した。
 この軍は、南安陜から進軍してきた。西秦王乾帰は、諸将を率いて隴西に陣取った。
 七月、乾帰は武衛将軍慕兀に屯営を守らせ、後秦軍の糧道を絶った。後秦主姚興が兵を率いて密かに進軍して、これを助けた。それを聞いた乾帰は、慕兀へ中軍二万を預けて柏楊へ屯営させた。鎮軍将軍羅敦が、外軍四万を率いて侯辰谷へ屯営した。乾帰は自ら軽騎数千を率いて後秦軍の前に陣取った。
 丁度この時、大風が吹いて霧が立ちこめ、乾帰は中軍の位置を見失った。そこへ敵が来襲したので、これに追い立てられて外軍へ入った。
 日暮れ時、両軍は戦い、西秦軍は大敗した。乾帰は苑川まで逃げ帰り、西秦軍三万六千は、全て後秦へ降伏した。姚興は、罕まで進軍した。
 乾帰は金城まで逃げ帰り、諸大人へ言った。
「我は不才の身で王号を潜称して十年が経ったが、今回このザマだ。もはや、敵を迎撃することはできぬ。そこで、允吾まで逃げようと思う。だが、国を挙げて逃げるのでは、必ず追いつかれてしまう。だから、卿等をここへ留めて行く。卿等は、各々部族を率いて後秦へ降伏しろ。そうすれば、宗族を全うできよう。吾について来てはならぬ。」
 すると、皆、言った。
「生きるも死ぬも、陛下とご一緒しとうございます。」
「吾はこれから、他人の庇護にすがるのだ。しかし、もしも天が見放さなければ、いずれ再起もできるだろう。そうすれば、再び卿等とまみえることもできる。今、みんなして死ぬのは意味がない。」
 皆、号泣して別れた。
 こうして乾帰は、一人、数百人を率いて允吾まで逃れ、武威王(南涼王)の禿髪利鹿孤へ降伏した。利鹿孤は廣武公の辱檀を派遣して、これを迎え入れた。そして晋興に居住させ、上客の礼でもてなした。
 鎮北将軍の禿髪倶延が、利鹿孤へ言った。
「乾帰は、もともと我等の属国でした。それが、騒乱のどさくさに紛れて尊号を自称したのです。今回、切羽詰まって我が国へ逃げ込みましたが、本心からの降伏ではありません。もしも姚氏のもとへ逃げ込まれましたら、必ず国患となります。ですから、彼を乙佛(西の果て、吐谷渾との国境付近)へ住まわせ、逃げられないようにするべきです。」
 すると、利鹿孤は言った。
「彼は切羽詰まって我が許へ逃げ込んできたのだ。それを疑うのなら、これから先、我が国へ亡命してくる者が居なくなってしまうではないか!」
 倶延は、利鹿孤の弟である。

 

亡命

 後秦軍が帰国すると、南きょうの梁戈等が、密かに乾帰を招き、乾帰はこれに応じようとした。すると、彼の臣下が晋興太守へこれを密告し、利鹿孤の知るところとなった。利鹿孤は弟の吐雷へ三千の騎馬兵を与え、捫天嶺に屯営させた。
 乾帰は、利鹿孤から殺されることを懼れ、太子の熾磐へ言った。
「我等親子がここにいては、いずれ利鹿孤から殺される。今、姚氏が強盛を誇っているので、我は後秦へ帰順するつもりだ。だが、一族全員で行ったなら、必ず追撃が掛かり、捕らえられてしまうだろう。そこで、お前等達弟や母親を人質として、奴に渡す。そうすれば、奴は我を疑うまい。我が長安にいる間、奴は絶対人質を殺さない。」
 そして、熾磐等を西平へ送った。
 八月、乾帰は罕へ逃げ、遂に後秦へ降伏した。
 十一月、乞伏乾帰は長安へ行った。姚興は、彼へ「都督河南諸軍事、河州刺史、帰義侯」の爵位を与えた。
 しばらくすると、熾磐は逃げだし、乾帰のもとへ走った。利鹿孤は追いかけて、これを捕らえた。利鹿孤が熾磐を殺そうとすると、禿髪辱檀が言った。
「子が親元に帰りたがるのは当然。深く責ることではありません。ここは罪を軽くして、陛下の度量を天下へ示すべきです。」
 利鹿孤はこれに従った。

 

西秦復興

 五年、二月。姚興は、乞伏乾帰を苑川へ帰し、鎮守させた。部族の民も、悉く彼へ返した。
 四月、乾帰は、苑川へ戻った。辺内を長史とし、王松寿を司馬とし、公卿や将帥は、皆、僚佐偏裨へ降格した。
 元興元年(402年)、四月。熾磐が、西平から逃げだし、苑川へ帰ってきた。南涼王の禿髪辱檀は、その妻子も帰してやった。乞伏乾帰は、熾磐を後秦へ入朝させ、姚興は熾磐を興晋太守に任命した。
 義煕二年(406年)、十一月。乾帰は後秦へ入朝した。
 三年、正月。乞伏乾帰の部族が次第に強力になってきたので、姚興は、支配しにくくなることを恐れた。そこで、乾帰を長安へ留め、主客尚書とした。(漢の成帝は、四曹尚書を設置した。その四番目が主客尚書で、外国夷狄のことを司る職務。)そして、世子の熾磐を行西夷校尉に任命して、その部族を治めさせた。
 四年。乞伏熾磐は、後秦の勢力が次第に衰えて行ったことを見て取った。又、後秦から襲撃されることが恐くもあった。十月、諸部を団結させて二万人を集め、康良山に城を築いてここに據った。
 十二月、熾磐は、罕の彭渓念を攻撃したが、敗北して帰還した。
 五年、熾磐は、秦の太原公姚懿へ挨拶する為、上圭まで出向いた。彭渓念は、その留守を狙ってこれを攻撃した。熾磐は報告を受けて激怒し、姚懿へ無断で帰国して彭渓念を攻撃、これを撃破して罕を包囲した。
 この時、乞伏乾帰は、姚興のお供で平涼へ行っていた。
 やがて、熾磐は罕を占領し、これを乾帰へ報告した。これを知った乾帰は、苑川へ逃げ帰った。
 四月、乾帰は罕へ行き、そこの鎮守を熾磐に命じると、彼等の部族二万を配下に入れ、度堅山へ遷都した。
 七月、乾帰は、再び秦王を自称した。大赦を下し、更始と改元する。又、臣下達の官職名を公卿や将帥へ戻した。
 十月、乾帰は、妃の辺氏を皇后とした。又、熾磐を皇太子として、都督中外諸軍事、録尚書事とする。屋引破光を河州刺史に任命し、枹罕を鎮守させた。焦遺を太子太師とし、軍国の大謀に参与させた。
 乾帰は熾磐へ言った。
「焦遺は、特に名儒というわけではない。しかし、王佐の才能があるのだ。お前は、我に仕えるように、彼へ仕えよ。」

 

西秦の興隆。

 六年、三月。西秦王乾帰は、後秦の金城を攻撃し、これを抜いた。
 六月、乾帰は越質屈機等十余部を討伐し、その衆二万五千が降伏して来た。彼は、これを苑川へ遷した。
 八月、乾帰は苑川へ帰った。
 九月、乾帰は、後秦の略陽、南安、隴西の諸郡を攻撃。全て克った。二万五千の民衆を得、苑川及び枹罕へ移住させた。
 七年、正月。後秦王姚興は、太常の索稜を使者として西秦へ派遣し、これを招撫した。西秦王乾帰は、使者を派遣して、捕らえていた後秦の守宰達を送り返し、謝罪して降伏を請うた。
 姚興は、乾帰へ「都督隴西・嶺北・雑胡諸軍事、征西大将軍、河州牧、単于、河南王」の官位を、太子の熾磐へは「鎮西将軍、左賢王、平昌公」の官位を贈った。
 二月、乾帰は鮮卑の僕渾部三千余戸を度堅城へ移住させた。そして、子息の敕勃を秦興太守として、これを鎮守させた。
 四月、乾帰はきょうの句豈等の部衆五千余戸を塁蘭城へ移住させた。甥の阿柴を興国太守に任命し、これを鎮守させる。
 五月、子息の木奕干を武威太守に任命、康良城を鎮守させた。
 七月、乾帰は、熾磐と中軍将軍審虔(乾帰の息子)へ、南涼討伐を命じた。八月、この軍は河を渡った。南涼王辱檀は太子の虎台を派遣して嶺南で迎撃させたが、敗北。西秦軍は、牛馬十余万頭を略奪して帰った。
 八月、乾帰は、後秦の略陽太守姚龍を攻撃し、これに克った。十一月、進軍して南平太守の王憬を攻撃し、これにも克った。
 この戦勝で、後秦の民三千余戸を談郊まで連行した。そして、乞伏審虔へ二万の兵を与えて談郊へ派遣し、ここへ城を築かせた。
 十二月、西きょうの彭利髪が罕を襲撃して、これを攻略。ここへ據って、大将軍、河州牧を自称した。乾帰はこれを討伐したが、勝てなかった。
 八年、正月。乾帰は再び彭利髪を討伐した。彭利髪は部下を棄てて逃げたが、乾帰は乞伏公府へ追撃を命じてこれを捕らえ、斬った。きょうの部落一万三千戸を収める。又、審虔を河州刺史に任命し、罕を鎮守させた。
 二月、乾帰は、談郊へ遷都した。熾磐には、苑川の鎮守を命じた。
 同月、乾帰は吐谷渾の阿若干を攻撃し、降伏させた。

 

 

乞伏公府の造反。

 六月、乞伏公府が乾帰を弑逆した。彼の諸子十余人も殺し、大夏へ逃げた。
 熾磐は、弟の智達と木奕干へ三千騎を与え、討伐させた。又、弟の曇達を鎮京将軍として談郊を鎮守させ、行基将軍婁機に苑川を鎮守させた。そして、熾磐自身は文武官及び民二万戸を率いて罕へ移住した。
 後秦の臣下達は、この騒乱に乗じて西秦を滅ぼそうと姚興へ勧めたが、姚興は言った。
「喪に乗じて討つのは、礼に背く。」
 夏王の赫連勃勃は、西秦を攻撃しようと思ったが、軍師中郎将の王買徳が諫めて言った。
「熾磐は、我等の同盟国ですぞ。今、その国に騒乱が起こったというのに、これに力を貸さないどころか、却って武力を恃んで討伐しようと言われるのですか!そんな火事場泥棒のような真似は匹夫でさえ恥とします。ましてや、万乗の君ではありませんか!」
 勃勃は攻撃をやめた。
 七月、乞伏智達等は、大夏の乞伏公府を攻撃した。公府は、弟の阿柴を頼って、畳蘭城へ逃げた。智達はこれを抜き、阿柴親子五人を斬った。
 公府は康良南山へ逃げたが、智達は追撃してこれを捕らえ、彼の子供四人と共に、談郊にて処刑した。
 八月、乞伏熾磐は、「大将軍、河南王」を自称した。大赦を下し、永康と改元する。乾帰は、罕に埋葬した。諡は武元。廟号は高祖。
 十年、十月。河南王熾磐は、再び秦王と自称し、百官を置いた。